マイルス・デイヴィス
Miles Davis







    目次

  ■マイルスを実物大で評価しよう
  ■マイルス中心主義の病理
  ■マイルスは天才か?
  ■ラファエロ型の才能
  ■『模倣と調和』----「枯葉」の方法
  ■作品としてのマイルス・バンド
  ■黄金クインテットができるまで
  ■クリエイターというより、エディター的才能
  ■マイルス名義の作品=マイルスの作品なのか
  ■マイルスの自己評価
  ■アルバム紹介





■マイルスを実物大で評価しよう

 ウェイン・ショーターについて語ろうとするなら、マイルス・デイヴィスについて語ることを避けるわけにはいかない。
 ぼく個人はマイルスからジャズ入門したこともあり、マイルスはいまでも好きなミュージシャンの一人だ。
 しかし、ジャズ関連の本などを読むにつれ、ぼくにはジャズ評論の世界は「マイルス中心主義」とでも呼ぶべき病理が幅をきかせていると思えてきた。何でもマイルス、マイルスといっておけば事足りると思っているような者たち、無理にでもジャズの歴史の流れが全てマイルス発であることにしないと気がすまないジャズ評論家の、こじつけでしかないへ理屈の氾濫、こういったものには、個人的には正直かなり辟易とさせられている。
 マイルスを評価することはやぶさかではない。しかし、なんでもかんでもマイルス、マイルスといっていればいいと思い込み、事実を見極めようとしなければ、けっきょくマイルスの本当の姿が見えなくなってしまう。
 まずこの『マイルス中心主義』の問題点について書いてみる。



■マイルス中心主義の病理

 では、ぼくがマイルス中心主義と呼ぶものについて説明させてもらう。日本におけるこの「マイルス中心主義」の典型的な例を、ぼくは油井正一氏に見る。
 この前のことだが、何の気なしにチック・コリアの『Return to Forever』の油井正一氏によるライナーノーツ(1982年記)を読んでいてかなり驚いた。
 油井氏はここでフリー・ジャズが流行した60年代に対して、70年代にはポスト・フリーという流れの音楽があったという。それは「フリー・ジャズでの経験を生かしながら、より耳に馴染みやすい音楽に仕立てててゆこうという努力」であると定義する。
 と、ここまで読めば誰でも、これはフリー・ジャズのバンド「サークル」を解散し、『Return to Forever』へ向かったチックのことをいってるんだと思うだろう。そもそも『Return to Forever』のライナーノーツなんだし。
 しかしこの文の後に「この中心にマイルス・デイヴィスが存在する」という文が続く。油井氏によれば、ポスト・フリーの中心とはマイルスらしい。
 しかしマイルスが「フリー・ジャズでの経験を生か」すどころか、フリー・ジャズをやったことさえないことは、別にジャズ評論家ならずとも、一般のファンでも知ってることではないか。ましてマイルスが70年代に「より耳に馴染みやすい音楽」なんて目指しただろうか。70年代はマイルスの生涯のなかでも最も過激で攻撃的な音楽を目指して突っ走っていた時代ではないか。
 この程度のことをジャズ評論家が知らないわけはない。しかしマイルス中心主義の人は「ポスト・フリー」でも何でも、ジャズ界の新しい潮流を考えたとき、何がなんでもその中心にはつねにマイルスがいることにしないと気がすまないのである。そのためには平気で事実もねつ造するし、歴史も変えてしまう。
 さらに問題なのは、ここではマイルスを持ち上げる必要なんてまったくないのに、やってるということだ。
 そもそもCD、LPのライナーノーツというのは、そのアルバムやミュージシャンをホメなければならないという性格を持つ。本心ではそう思ってなくても、そのアルバムは傑作であると賞賛しないといけない。例えば、この文章の例なら、チック・コリアの『Return to Forever』を誉め讃えるために多少のこじつけをやったのなら、それはそれで理解できる。それは一種のプロ意識だろう。
 しかしここでやってる事はどうか。
 もし「ポスト・フリー」なる潮流が70年代にあったとするなら、その中心にいたのは当然チック・コリアだとするのが普通の感覚ではないか。「フリー・ジャズでの経験を生かしながら、より耳に馴染みやすい音楽に」を目指したのは、まさにチックがやったことだ。それならばここでは「ポスト・フリーの中心にはチックがいる」と普通に書けばいいはずだ。別に事実をねつ造してマイルスが70年代に耳馴染みの良い音楽を演奏していたことにする必要はない。
 しかし本来はチックを誉め、チックの業績を賞賛しなければならないはずのチックのアルバムのライナーノーツで、チックの業績を奪ってマイルスの業績にすげ替えるねつ造を行っている。これが病的だというのだ。
 必要はないのに事実をねつ造しても全てをマイルスに結びつけ、何の関係もないところでもマイルスの名を出さずにはいられないことに、この「マイルス中心主義」の病理がある。

 さて、この「マイルス中心主義」という病理は、マイルスを誉め讃えすぎるから良くないということではない。そもそも誉め讃えることにすらなっていない点が問題なのだ。
 例えば、フリージャズには手を出さなかったこと、70年代には(耳に馴染みやすい音楽でなく)過激な音楽を目指していたことは、マイルスというミュージシャンを理解するうえで重要な要素であるはずだ。もしマイルスを誉め讃えたいのなら、そのようなマイルスという人を掴んだうえで誉めなければ意味がない。
 ポスト・フリーという「フリー・ジャズでの経験を生かしながら、より耳に馴染みやすい音楽に仕立てててゆこうという努力」をした人としてマイルスを誉め讃えるということは、逆にいえば、実はそんなことをしていない本来のマイルスをケナしていることになるのではないか。
 つまり、「マイルス中心主義」とは、「マイルス」という単なる名前を信仰するあまり、本来のマイルスなんてどうでもよくなってしまっている病理でもある。
 かくて、クール・ジャズの創始者はマイルスで、ハードバップもマイルスで、新主流派もマイルスで、フュージョンもマイルスだ……という、とんでもない迷信が発生する。
 しかし、ここで扱っているとおり、新主流派はむしろショーターやコルトレーンから派生したものであり、フュージョンはクリード・テイラーや60年代のソウルジャズからチック・コリアを経て発生したものであり、クール・ジャズはギル・エヴァンスに結びつけたほうがよりピッタリするし、ハードバップについてもそうとばかりはいえない。
 マイルスというミュージシャンをとらえたいなら、そういった「マイルス中心主義」から救い出したところで、そのような潮流にはおさまらない音楽を作ってきた人としてとらえることから始めなければならない。つまりマイルスという人とその音楽をきちんと掴めなければ、マイルスをきちんと評価することはできないのではないか。
 マイルスの一番邪魔をしているのもまた「マイルス中心主義」だと思う。

 というわけで、ここではマイルス評価の過剰な部分をはぎ取り、マイルスを実物大で見直してみたいと思う。
 これはマイルスを否定しようとか、マイルスをケナそうといった主旨ではない。マイルスは過剰評価などしなくたって、充分魅力的なミュージシャンだし、先述したようにマイルスの業績を過大に見積もって賞賛することは、マイルスを賞賛するどころか、本人は賞賛しているつもりで、かえってケナしているという事態にも陥りやすいことだからだ。
 


■マイルスは天才か?

 ごく単純な事柄から始めよう。マイルスは天才だろうか?
 多くの批評がマイルスを褒めようとするあまり「天才」だと書いている。しかし、クリエイターを「天才型」と「努力型」に分けた場合、マイルスは典型的な「努力型」のタイプであることはあきらかではないだろうか。
 マイルスが天才型でないということは、マイルスを低く評価することではまったくない。たいした作品を残さなかった天才型の人もいれば、優れた作品をたくさんつくった努力型の人もいる。これはタイプの問題であって、それ以上のものではない。
 しかし、マイルスを天才などと評してしまうことは、この時点ですでにマイルスというミュージシャンの本質をとらえられていないことになる。

 ぼくが知る限り、天才型の人というのは大抵リーダーとしてグループをまとめあげていくのが下手だ。つまり、普通の人の気持ちがわからないからである。
 マイルスの若い頃のリーダー、チャーリー・パーカーなどは典型的にこの例だと思う。
 当時のレコーディングは現在と違ってスタジオでの一発録りだが、パーカーは録音当日まで曲を書かず、スタジオに向かう途中でAメロの部分だけ書いてメンバーにわたし、Bメロの部分はコード進行だけ教え、リハーサルもなしにぶっつけで本番に入ったという。
 つまりパーカーによればメロディさえおぼえればリハーサルなんてしなくたって完璧な演奏が出来るはずだし、書いていないBメロはパーカーがソロでアドリブで作ってしまう(それで普通のミュージシャンなら時間をかけても書けない見事なメロディが瞬時に生まれる)。たしかにパーカーは天才だからそれで完璧な演奏ができる。しかし、他のメンバーは困ってしまう。
 結局、マイルスはじめ当時のパーカーのバンド・メンバーはパーカーに追いつくのがやっと、追いつけない事も多い……という結果になる。
 対してマイルスは努力型であるから、同じように天才ではない大抵のミュージシャンの気持ちがわかる。レコーディングに先がけてちゃんと準備するし、リハーサルもやる。たいていのミュージシャンにとって、どっちのバンドにいたほうがやりやすく、いい演奏ができるかは説明するまでもないだろう。
 たいがいの場合、若いうちに辛酸を舐めた努力型の人のほうが、より長く成功を維持する場合が多いが、それはこのような理由が大きいと思う。
 つまり、マイルスが優秀なバンド・リーダーであり、長いあいだ帝王と呼ばれることができた理由をいうなら、それはマイルスが決して天才型のミュージシャンではなかった、努力型の人だったということが重要なファクターなのである。




■ラファエロ型の才能

 いったいマイルスとはどのようなタイプのクリエイターなんだろうか。
 例えばルネサンス期の有名画家の例をあげるとすれば、マイルスは決してレオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロのようなタイプのアーティストではなく、ラファエロ型の才能の持ち主といえるだろう。
 日本ではラファエロの名は、レオナルドやミケランジェロほどには知られてないような気もするが、欧米ではその二人に並ぶほど有名だ。ラファエロという画家は、レオナルドやミケランジェロより少し遅れて生まれた人で、独創性よりも、他人の技巧をよく吸収し(つまりレオナルドやミケランジェロの技法もよく見習い)、それらの技法を組み合わせることによって、調和のとれた、誰にでも親しみやすい、良くできた作品を作ることに秀でた画家だった。
 そのため長い間、ヨーロッパのアカデミズムではラファエロこそ絵画の手本として美術教育を行ってきた。いわば、大学など権威筋から評価されやすい人で、後にはアカデミズムの象徴ともされた人でもある。
 そんなラファエロの特性として、『模倣と調和』という言葉が使われるが、マイルスの音楽の特性・作品の作り方の特徴もまた、『模倣と調和』だといっていいだろう。
 この『模倣と調和』について、実例を上げて説明してみよう。




■『模倣と調和』----「枯葉」の方法

 多くの人がそんなもんだと思うが、ぼくも初めて聴いたジャズはマイルスの「枯葉」(キャノンボール・アダレイ『Somethin' Else』)だった。
 これで初めてジャズの魅力を知り、この演奏の実質的リーダーがマイルスであることをライナーノーツで読み、以後、マイルスを中心にジャズ入門を始めたのだ。
 ではなぜ、当時のぼくが「枯葉」を魅力的に感じたのか。マイルスがこの曲でとった方法を見ていってみよう。
 まず、当時ぼくは「枯葉」という有名なシャンソンのメロディをどこかで聴いて知っていた。当然、そのメロディが出てくるものと思って曲をかける。と、なんだか異様な音楽が流れ出す。何だこれは! 間違えてかけてしまったのか、と思っていると、マイルスのトランペットが甘美な「枯葉」のメロディを吹き始める。安心すると同時に魅き込まれてしまった瞬間だった。
 さて、ここでマイルスが行ったことが何だったのか、その方法を見てみよう。
 まずご存知のように、この「枯葉」のぼくを驚かせた前奏はアーマド・ジャマルからのパクりである。さらにはシャンソンの名曲「枯葉」をジャズで演奏するというアイデアもジャマルからのパクりである。(「パクり」という悪い言葉を使ってしまったが、マイルスの意図は別の所にあることは後述する)
 しかし、もしぼくがこのとき聴いたのがジャマルの「枯葉」だったとしたら、ぼくがそんなふうにジャズに魅き込まれたか、わからない。たぶん魅き込まれなかったろう。その後聴いたジャマルの演奏はもちろん素晴らしいものではあるが、それほど大衆性はないと思う。つまり、ジャズをまったく聴いたことがない当時のぼくのような者が聴いて、その魅力がわかるかどうか微妙だ。
 一方、「枯葉」は有名な親しみやすいメロディをもった曲であり、それを吹くマイルスの奏法は、器楽奏者でなくボーカリストの歌いかたを手本とすることで身につけたもので、誰にでも、ジャズを聴いたことがない素人にも親しみやすいものだ。しかし、このマイルスの演奏だけだといま一つつまらない。つまり分かりやすいだけでパンチがないのだ。
 そこでジャマル作の一種異様な前奏とマイルスによるメロディ演奏の組み合わせとなる。すると、ジャマルの前奏のゴツゴツした手ざわりに驚いた後、マイルスの分かりやすい演奏で引き込まれるという、絶妙な組み合わせが出来上がる。
 つまりこの演奏でマイルスは、1、「枯葉」という親しみやすいメロディをもつシャンソン。2、ジャマル作の一種異様な前奏。3、誰にでも親しみやすいトランペット演奏……の3つを組み合わせ、調和させることによって、初心者にも親しみやすいジャズ(の導入部)を生み出しているのだ。



■作品としてのマイルス・バンド

 さて、以上のように「枯葉」ではジャマルの前奏をパクったわけだが、マイルスの意図は他人の仕事をパクること自体ではない。つまりこれは『模倣と調和』のうちの、『模倣』すべき素材の収集であり、その素材を使って『調和』的な作品を作ることにマイルスの目的があるわけだ。
 さて、その素材収集は「枯葉」などの『曲』や、ジャマルによるその『前奏』といったものにはとどまらない。マイルスがいちばん得意とした素材収集の方法は、当然才能のあるミュージシャンのバンドへの加入だ。
 「枯葉」の前に、マイルスはジャマルを自分のバンドに入れようとしていた。55年にコルトレーン入りのバンドを組んだ時、マイルスは最初ピアニストにジャマルを考えていて、ジャマルに断られたためにレッド・ガーランドを入れたことは有名な話だ。
 この、自分が模倣したい対象、興味のある有能なミュージシャンをバンドに引き入れて、一緒に曲を作り演奏する……というのがマイルスがほぼ全キャリアを通じて行った、マイルスの「方法」だ。勿論それはマイルスとそのミュージシャンとの共同作業にとどまらない。そのようにしてバンドに入れたメンバー間で相互影響作用が起こり、バンドから何かが現れてくることも期待してバンドを組む、つまり、このピアニストとこのサックス奏者が一緒に演奏すればおもしろいだろう、ということまで考えてバンドを作る。これこそマイルスの『調和』の才能である。
 つまり、マイルス・バンドとは、それ自体がマイルスの作品なのである。このあたりがそれまでの、例えばチャーリー・パーカーのバンドとの違いだろう。
 つまり、パーカーにおいては、自分のバンドとは自分の演奏を支えてくれる伴奏者でしかなかった。つまり、パーカーが演奏してこそのパーカー・バンドであり、パーカー抜きのパーカー・バンドなんて誰も聴きたいとは思わないだろう。
 しかし、マイルスにおいてはマイルス・バンドこそがマイルスの作品であり、マイルス抜きのマイルス・バンドにも充分に価値がある。実際、マイルス・バンドのメンバーが、マイルス抜きのマイルス・バンドの編成で作ったリーダー・アルバムはいくつもある。
 このバンド組成がうまくいった時には、マイルスがする仕事はバンドを組むまでで、あとはバンドのほうで勝手にどんどん一人でに走っていき、マイルスはほとんど何もしなくてもいい、というような状況もあった。ショーター入りの黄金クインテット時代はその例だろう。
 つまりマイルスの作品の作り方には、あるていど他力本願な面がある。そして、優れたバンド・リーダーというのは、だれも他力本願の面があるといえる。逆にいえば自分一人で全てを作り上げてしまう人は、優れたミュージシャンではありえても、優れたバンド・リーダーにはなれない。
 良いバンド・リーダーとは、バンドの他のメンバーの能力を引き出すことによって自分の作品を良くしていこうとする人であり、そうすることによってそのリーダーの作品もメンバーの力によってより良くなるし、力を引き出されたメンバーのほうも、今度はその力を自分の作品で発揮していくことができる。
 マイルスという人はそのような意味で優れたバンド・リーダーだったといえる。




■黄金クインテットができるまで

 では、マイルスはどのようにマイルス・バンドを作っていったのだろう。例としてショーターが参加した黄金クインテットがどうやってできたのか考えてみよう。

 マイルス・バンドは63年頃にメンバーが次々とやめ、大幅なメンバーチェンジをすることになる。自伝を読めばわかるように、この時にマイルスが出会ってバンドに引き抜き、一番大事にしたのはトニー・ウィリアムスである。この点がまずおもしろい。
 たいていの人はマイルス・バンドでトニーを聴いて、その後でトニーのソロ作や他の参加作という順序で聴くので、トニーはソロだとけっこうフリー色が強いんだな……などと感想を抱くわけだが、ちゃんと順を辿っていけばフリー色が強いどころか、60年代のトニーは出自からいって完全にフリージャズの人である。マイルス・バンドに入るまではフリージャズのバンドでフリージャズをやっていたのであり、その後も当然マイルス・バンドを離れてはフリージャズを続けていた。つまりマイルスはフリージャズのドラマーを引き抜いたわけだ。しかしマイルスはフリージャズは嫌いである。さて、これはどういうことだったんだろう。
 一つにはバンドの中にアグレッシブな要素をインパクトとして入れたかったのではないかと思う。この時代の直前のマイルス・バンドといえば『Someday My Prince Will Come』(61) など、ほのぼのとした親しみやすい50年代的なジャズをやっていた。このほのぼのマイルスが好きな人も多いようだが、マイルス自身はこれではいけないと思ったのではないか。つまり、先述の「枯葉」の例でいえば、アーマド・ジャマルからイダダいた前奏のように、親しみやすいだけの演奏にインパクトを与える異物感のような要素をトニーに求めたのではないだろうか。
 そしてもっと大きく考えれば、トニーのような急進的なメンバーを入れることによって、バンド全体のサウンドを一歩進んだものにしようとしたのではないか。つまり、この63年あたりまでマイルスの作品はどれをとっても50年代のスタイルから踏み出せていない。もっとも踏み出したのが『Kind of Blue』あたりかもしれないが、これもハードバップの色が濃い。60年代に入るとコルトレーンやショーターらがジャズの新しい時代を切り開いていっていたわけだが、マイルス・バンドのサウンドは古き良き時代のものへ後退していた。いつもトップでいたいマイルスとしては焦りがあったのではないか。マイルス・バンドも新しい時代の音を出せるバンドへと変化させなければいけないと思ったのではないか。
 さて、フリージャズのトニーをバンドに入れたものの、マイルスは当然フリージャズなんてやる気はない。そこでマイルスが考えたバンドの全体像はこうだ。まずサックスには自分と同じく、より伝統的なスタイルで演奏するジョージ・コールマンを据える。(自伝を読めばわかるが、マイルスはけっこうジョージを気に入り、ジョージの演奏に満足していたのだ)
 そしてトニーと自分たちを繋ぐ緩衝剤のような役割を果たせるハービー・ハンコックをピアノに据える。ハンコックはこの頃は強烈な個性を感じさせるというよりは、ブルーノートでのハウスピアニスト的な役割で、どんなスタイルのジャズマンにも的確にバッキングをつけられる器用さを見せつけていたピアニストだった。
 そして少し前からバンドに入っていたロン・カーターも緩衝剤的な役割として据えおく……と、マイルスの心づもりではこれでバンドは完成したと思っただろう。
 しかし、トニーから不満が出る。ずっとフリージャズをやってきたトニーにしてみれば伝統的なジャズなんてやりたくない。当然ジョージは不満だし、実をいえばマイルスの演奏スタイルにだってそんなに満足はしていなかったろう。しかしボスのマイルスには逆らえない。せめてマイルスがソデに引っ込んだ後は自分の好きなようにやりたい。また、ハンコックもロンも刺激的なトニーに気が合ってしまった。そんなわけでジョージの後ろでフリーじみた演奏を繰り広げ、ジョージはこれじゃやってられないとバンドをやめてしまう。トニーにしてみれば追い出し成功といったところ。
 そして代わりにトニーが提案したのはサム・リバースやアーチー・シェップ、エリック・ドルフィーといった顔ぶれである。トニーはフリーがやりたいのだ。しかしマイルスはフリーは嫌いだ。リバースはいったんバンドに入れたがすぐにクビにし、シェップは一回一緒に演奏しただけでダメと判断し、ドルフィーははじめから却下した。
 しかしある程度トニーの希望を聞き入れないと、トニーがこんなバンドつまらん! とバンドをやめてしまう。それではモトも子もない。当時のマイルスにとってトニーはかけがえのない存在であり、あるいはハンコックやロンに代わりはいてもトニーには代わりはいないのだ(というとハンコックらをバカにしているように見えるかもしれないが、これは当人の実力・才能の問題ではなく、当時のマイルス・バンドにおける役割と考えてほしい)。マイルスの自伝を読んでいても、トニーが代わりのサックス奏者をつれてきた話は出てくるが、ハンコックやロンがサックス奏者をつれてきた話は出てこない。それは当時のマイルスにとってトニーがそのような存在、最大限に譲歩して希望を聞き入れてでもバンドにつなぎ止めておきたい存在だったことを意味している。
 さて、そこでトニーを満足させ、マイルス自身も満足させることができるミュージシャンを、当時活躍中のサックス奏者から探した場合、おそらくショーターかジョー・ヘンダーソンくらいしか選択肢はなかったと思う。もちろんコルトレーンでもいいが、コルトレーンがいまさらマイルス・バンドに戻るわけもない。
 かくして全力をかけてショーターの引き抜きにかかり、黄金クインテットの完成となったわけだ。
 さて、この間でのポイントは、トニーとジョージの方向性の相違が出てきたときに、当時のマイルスと音楽の方向性の合っていたジョージがやめても、必ずしも方向性の合っていないトニーをあくまで温存した点にある。
 こんなことを言うと現在の時点では奇異に思えるかもしれないが、もしマイルス・バンドをマイルスのバックバンドと考えるならば、トニーを切ってジョージを残すほうが自然である。当時のマイルスと音楽的に気のあう伴奏者であったのはジョージのほうのはずで、トニーはバンド内の異分子的な存在だった。
 もしここでトニーをクビにして、かわりにハードバップ系のドラマーを入れた場合を考えてみよう。それでも完成度の高いバンドにはなったはずである。ハンコックとロンは伝統的なスタイルであってもキッチリ合わせただろうし、マイルス、ジョージともしっくりいっただろう。しかし、それでは出てくるサウンドは『Someday My Prince Will Come』あたりからほとんど踏み出していないものになっていただろう。
 しかしマイルスはここでトニーを切らずに、ジョージのかわりにトニーも満足するサックス奏者を探した。つまりマイルスはここでバンドを意識的にマイルス=トニー双頭バンドにすることによって、マイルス・バンドにマイルス自身をも超えた可能性を求めたのである。この、マイルス・バンドを単なる自分のバック・バンドと考えない姿勢にこそマイルスの真骨頂がある。
 そしてショーターの参加によってこのバンドが真に完成し、トニー=ショーター双頭バンドのように勝手に進んでいく気配を見せてくると、マイルスはいったんは引いて彼らバンドが自分たちで進んでいくに任せるようになった。
 マイルスというと、オレがオレが……のタイプの人だったように語る人がいるが、あまりにもマイルスという人を理解していない意見だろう。確かに人間関係上はマイルスは仕切り屋タイプだったかもしれないが、音楽の創作上はかなり控えめな面を持つ人だったといえる。つまりかならずしも全てを自分流にしようとはせず、バンドのメンバーの個性や創造力を大切にする、他人を立てることによって自分も立とうとするタイプだったといえる。だからこそ多くの新人がマイルス・バンドで(個性を殺されずに)成長し、一流のミュージシャンとして巣立っていくことができたのだ。




■クリエイターというより、エディター的才能

 マイルスの方法とは、多くの場合、マイルス自身が独創的な音楽を作るというよりは、独創的な音楽をやっている若手ミュージシャンをバンドに入れ、組み合わせることによって音楽を作っていくというものだ。
 したがってマイルス・バンドの音楽とは、マイルスが自分のやりたい音楽を追求するというよりは、その時代のミュージック・シーンの最先端の部分(マイルスが最先端だと判断した部分)を反映したものとなる。
 つまりマイルスはクリエイターというより、エディター、編集者的な才能に突出したミュージシャンだったと言える。
 もちろんそればかりではなく、マイルスは自分発のアイデアで新しいサウンドを追求したこともあった。だが、その場合でも、編集長な立場でものを作るほうが性に合ってるかんじがある。
 つまり、自分でアイデアを出しても、実際それを形にする作業は別の誰かにやらせ、出来上がってきたものに何度もダメ出ししながら、自分が思うもの近づけていくという方法だ。
 マイルス自身の手で新しいサウンドを創ろうとした『キリマンジャロの娘』が上手くいってなく、実作業はある程度ザヴィヌルに任せた『Bitches Brew』が成功しているというのは、つまり、そういうことだろう。

 しかし、編集者的な立場でものを作る場合、作りはじめる前に、まず編集権を手に入れなければ、つまり、しかるべき地位についていなければ、力を揮いようがない。マイルスがバンド・リーダーという立場にこだわったのは、このためだ。
 そして、バンドのメンバーに対してマイルスは、何度も原稿の書き直しを命じる鬼編集長のように、つねにプレッシャーを与えて最良の部分を引き出そうとする。
 マイルスの音楽を聴く楽しみは、マイルス自身の演奏と同時に、その時々の新鮮な新人ミュージシャンの優れた演奏が聴けるという点にある。例えるなら、「マイルス・バンド」という雑誌を定期購読すると、鬼編集長マイルスによって厳選された、その時々のトップ・ライターが書いた記事を読める……といった感じだ。




■マイルス名義の作品=マイルスの作品なのか

 さて、マイルス・バンド、マイルスの作品は名編集長による雑誌のような面があることは述べた。
 では、その雑誌は編集長の著作物ということはできるのだろうか。
 いくらなんでもそれは無理だろう。いくらその過程で編集長が重要な役割をしたとしても、作品とはそれを作った人が作者と呼ばれるのが当然だ。
 マイルスのアルバムが集団製作である以上、マイルス名義のアルバムは、実際はマイルスとその周辺にいたミュージシャン、マイルスが引用したミュージシャンの総計で出来ている。もちろんマイルスも優秀なクリエイターであり、マイルスが中心になり、その周辺のミュージシャン(バンドのメンバー等)が力を貸したというかたちでできたアルバムが多い。ジャズでいえば、とうぜんそれはマイルスの作品といっていいかもしれない。
 しかし中にはマイルス以上に他のミュージシャンの存在が大きいアルバムも中にはある。もちろん、それを含めてマイルスの意図だということはできるだろう。しかし、そのような時代の作品は、編集者としてのマイルスの作品ではあっても、クリエイターとしてのマイルスの作品ではないということができる。しかし、一般に著作物を見たとき、作者とはクリエイターのことであって編集者のことではない。したがってこのような時代の作品は、本来はマイルスの作品ではないと見るのが正しいだろう。
 したがってマイルスという人を実物大で見るためには、マイルスのリーダー名義でリリースされているアルバムからある程度引き算をする必要がある。
 例えばギル・エヴァンスとのコラボレーションによる『Miles Ahead』(57)『Porgy and Bess』(58)『Sketches of Spain』(59-60) 等のアルバムである。これらのアルバムはマイルスのリーダー名義でリリースされているが、本当にそうなんだろうか。
 こう考えてみればわかる。もし、マイルスがこれらのアルバムに参加しなかったらどうか。ギル・エヴァンスは別のソロ奏者を立ててこれらのアルバムを完成させていただろう。なにしろバック・トラックの部分は全てギル・エヴァンスが作っているわけだし、代わりのソロ奏者の実力が充分であれば、同等の作品が仕上がっていたはずである。
 しかし、ギルがこれらのアルバムに参加しなかったらどうか。それはそもそも作品自体が成立しなかったろう。
 と考えれば、当然これらのアルバムは実質的にはギルのリーダー作であり、マイルスのサイドマンとしての参加作となる。しかし当時のネーム・バリューの差を考えれば、これらのアルバムがマイルス名義でリリースされたのも、それはそれで(商業的に)正しい判断だったとは思うが。
 全盛期のマイルスがサイドマンとしての参加作がないというのは、実はこのようにサイドマンとしての役割しかしていないアルバムでも、ネームバリューがあるためにマイルスのリーダー名義でリリースされたという理由がある。
 さて、このような事を考えれば、当然『Birth of The Cool(クールの誕生)』(49-50) も怪しいと思うのが当然だろう。いったいこのナインテットの真の首謀者はマイルスのほうだったのか、ギルのほうだったのか。
 いえることは、もしマイルスがこの時本気でクールジャズをやろうとしていたのなら、このナインテットが商業的な理由で存続できなかったとしても、他のかたちでクールジャズを続けていても良さそうなものだということだ。例えばリー・コニッツやジェリー・マリガンのように。
 しかしマイルスはすぐにクールジャズをやめてしまう。『Birth of The Cool』以前にギルがクロード・ソーンヒル楽団で録音したアルバムが『The Reai Birth of The Cool』(46-47) というタイトルでリリースされているが、やはりギルが本当の首謀者であり、マイルスはギルのアイデアを実現化するために一肌脱いだというのが実状ではないか。
 マイルス側から見るならば、むしろ『Birth of The Cool』でギルから学んだことを自分の内で消化し、パーカーのもとでやってきたことと組み合わせて、編曲性を重視したマイルドな口あたりのハード・バップを生み出していったことにマイルスの真骨頂がある気がする。

 その他『Kind of Blue』(59) はビル・エヴァンスの色が強すぎるんじゃないかと気にかかる。この路線がマイルスは本作しかなく、事実上ビル・エヴァンスによって継続されているので、余計そう感じるのかも知れない。
 また、黄金クインテットの全盛時代も、マイルスはアート・ブレイキーのように人間関係上のみのバンド・リーダーに引いて、ショーターやトニー、ハンコックらに好きなようにやらせていた時代だろう。これはマイルス自身自伝のなかでそう語っている。
 『In a Silent Way』(69) もその後の作品を見れば、マイルスよりジョー・ザヴィヌルの色が強い作品だろう。
 そして85年以後はマイルスは自分でサウンドを作り出すのをやめてしまい、他のミュージシャンに全てを任せて、マイルスはその出来上がった音楽に合わせてトランペットを吹くだけ……といった、ギル・エヴァンスとのコラボレーションと同じようなかたちで作品を作っていくようになる。これらはすべて実質的にはマーカス・ミラー、ミシェル・ルグラン、イージー・モー・ビ−等のリーダー作であって、マイルスはサイドマンとしての参加と見なしたほうがいいのではないか。
 ただし、ライヴ盤は最後までバンド・リーダーであるマイルスの作品といっていいと思う。(もちろんクインシー・ジョーンズとのコラボレーションは除く)

 繰り返しておくが、これらのことは何もマイルスを低く見積もろうとして言っているわけではない。マイルスという人の音楽そのものの実像に迫るためには、余計は迷信をはぎとり、どこからどこまでが真のマイルスの作品かを見極める必要があるから書いているのだ。従来のジャズ評論は何でもかんでもマイルスに結びつけ、マイルスに余計なレッテルを貼り付けすぎて、ほんとうのマイルスがわからなくなるようなことばかりやってきた気がする。そんなことをしていては何も見えてはこない、むしろ見えなくなってしまうのではないか。
 マイルスをほんとうに賞賛したいなら、まずマイルスの音楽そのものをしっかりと見定めなくてはいけない。マイルスがやってもいないことをマイルスの功績として賞賛することは、かえってマイルスをケナしていることに繋がるのだ。
 例えば何を勘違いしたか『Sorcerer』に感動した人が「このアルバムでのマイルスのドラミングは凄い。『Kind of Blue』の頃よりずっと上達している」などと評価するようなことをしてても仕方がないのではないか。いくらマイルス名義のアルバムの中での演奏であっても、それは別の人がやったこと……ということは当然しっかりと線を引いていかなければならないのではないか。




■マイルスの自己評価

 『マイルス・デイビス自叙伝』の最後のほうで、マイルスはこれまでの自分の音楽人生を振り返って、オレの人生には何度かものすごく創造的な時期があったと言っている。いくつかに分けて、要約して書き出してみる。

1、まず、1945年から49年。

2、それからヤクを絶った後の54年から60年は実りの多い時期だった。

3、64年から68年までも悪くなかったが、トニーやウェインやハービーの音楽的アイデアを送り出しているだけの感じだった。

4、『ビッチェズ・ブリュー』と『ライブ・イビル』の頃も同様で、ザヴィヌルやポール・バックマスターといった人々とのコンビネーションであり、オレのしたことと言えば全員を集めて少し何かを書いただけだ。

5、そして、一番創造的なのは絵を描き、作曲をし、すべてを活用して演奏している現在だ。


 という内容だ。かなり興味深い自己評価だと思う。
 まず、多くのマイルス・ファンが無視する45〜49年の時期を、最初の創造的な期間だとしている点がおもしろい。このへんに、ファンが勝手に思い描いた妄想のマイルス像と、本来のマイルス像との差が現れる。
 54〜60年にかけては、誰も異論はないだろう。
 64〜68年にかけて、ぼくは当然その通りだろうと思うし、マイルスもこの自伝の随所でそう語っている。つまりこの時期、つまり黄金クインテット時代はショーター、トニー、ハンコックらがバンドの中心であり、マイルスはまとめ役兼サイドマンに引いていた時代だ。しかし、この時代もすべてマイルスがやったように書いているマイルス中心主義の評論家が多くて困る。マイルス自身の言葉さえ信じず、マイルスを過大評価するのだ。
 といっても別にマイルスが何もしていなかったという気もない。つづく『ビッチェズ・ブリュー』と『ライブ・イビル』の頃に関しマイルスは「オレのしたことと言えば全員を集めて少し何かを書いただけだ」といい、黄金クインテット時代に関しては全員を集めただけで少しも書かなかったというべきだろうが、それだけでも他人に出来ることではないだろう。
 つまり、マイルスは誰でもいいからメンバーを集めたわけではなく、才能ある若いミュージシャンを厳選して、この組み合わせでバンドをつくったらおもしろい……ということまで考えて「全員を集め」たわけで、このようなエディター的才能は一流のものであって、凡百のミュージシャンに真似のできるところではない。
 そして、『ビッチェズ・ブリュー』時代には出来上がってきたものをダメ出ししながら、自分が望む方向に向かわせるために「少し何かを書いた」のであり、いわば他の才能による仕事をまとめ上げていく役割をしていたわけだ。この編集能力も、凡百のミュージシャンに真似のできるところではない。
 現在が一番創造的な時期だ……と語ったこともなかなか興味深い。この『マイルス・デイビス自叙伝』が出版されたのが89年。その少し前に行われたクインシー・トループによる長いインタビューが元となっているのだが、はたしてこの時点での「現在」とはいつからのことなんだろう。
 どう考えても89年あたりのマイルスが生涯のうちで最も創造的だとは思えない人は多いだろう。これは主に絵を描くことについていってるんだろうか。あるいはチャップリンのように「あなたの最高傑作は?」と聞かれると、必ず「次の作品だ」と答えるタイプの人だったんだろうか。これはありそうだ。あるいは、80年代の復帰後の期間をまとめて「現在」といっているんだろうか。

 上を総合すると、マイルスの音楽人生について、このように整理すると理解しやすいのではないか。
 まず、45年〜49年、そしてヤク中のどん底期間を挟んだ54〜60年が、マイルスが自分の力で音楽を創造し、自己のスタイルを築いた時期。
 64〜68年、そして『ビッチェズ・ブリュー』や『ライブ・イビル』の時期は、バンドリーダーとして、自分の力でというよりは、若いミュージシャンの才能を引き出し、利用するかたちで、いわば他力本願で音楽を創造していった、産婆術的な創造の時期。
 80年代復帰後は、これまでやってきたことの総合……。
 と、こんなふうだ。
 この自己評価に照らし合わせると、マイルス中心主義の評論家が勝手に思い描いた妄想としてのマイルス像と、本来のマイルス像との差が見えてくるはずだ。
 つまり、45〜49年のマイルスの活動を無視し、64年〜70年代あたりの仕事を過剰に、それもマイルスの仕事として高く評価しているようなマイルス論というのは、かなりあやしげなものだから、あまり信用しないほうがいい。

 しかし、この『マイルス・デイビス自叙伝』を読むと、マイルスという人が思うより誠実な人だということにうたれる。マイルスのような自己顕示欲旺盛なタイプの人はとかく何でも自分の手柄話のように話し、自己を過大評価しそうなものだが、上記のとおり、マイルスの自己への評価は冷静かつ誠実だ。
 マイルスを過大評価しているのは、マイルス本人ではなくマイルス中心主義の評論家である。


03.11.3



『ウェイン・ショーターの部屋』

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■アルバム紹介

 マイルス・デイヴィスのアルバムを紹介する。
 本稿はマイルスの紹介が主目的ではなく、ウェイン・ショーターとの関連性を見るだけなので、ショーターがデビューした1959年以後を中心に、主要アルバムのみに限定させてもらう。


                                                                   
Miles Davis "The Musing of Miles" 1955 (Prestige)
Miles Davis "Kind of Blue" 1959 (Columbia)
Miles Davis "Someday My Prince Will Come" 1961 (Columbia)
Miles Davis "At the Blackhawk Complete" 1961 (Columbia)
Miles Davis "Seven Steps to Heaven" 1963 (Columbia)
Miles Davis "Miles Davis in Europe" 1963 (Columbia)
Miles Davis "My Funny Valentine" 1964 (Columbia)
Miles Davis "Four and More" 1964 (Columbia)
Miles Davis "Miles in Tokyo" 1964 (Columbia)
Miles Davis "Miles in Berlin" 1964 (Columbia) モ★
Miles Davis "E.S.P." 1965 (Columbia) モ★
Miles Davis "Complete Live at Plugged Nickel" 1965 (Columbia) モ★
Miles Davis "Miles Smiles" 1966 (Columbia) モ★
Miles Davis "Sorcerer" 1967 (Columbia) モ★
Miles Davis "Nefertiti" 1967 (Columbia) モ★
Miles Davis "Water Babies" 1967/ 68 (Columbia)モ★
Miles Davis "Circle in the Round" 1955-1970 (Columbia)モ★
Miles Davis "Directions" 1960-70 (Columbia)モ★
Miles Davis "Miles in the Sky" 1968 (Columbia) モ★
Miles Davis "Filles De Kilimanjaro" 1968 (Columbia) モ★
Miles Davis "In a Silent Way" 1969 (Columbia) モ★
Miles Davis "1969 Miles" 1969 (Sony)モ★
Miles Davis "Bitches Brew" 1969 (Columbia) モ★
Miles Davis "Double Image" 1969  (Ninety-One)モ★
Miles Davis "Gemini" 1969  (Ninety-One)モ★
Miles Davis "Paraphernalia" 1969  (JMY)モ★
Miles Davis "Live Evil" 1970 (SME)モ★
Miles Davis "A Tribute to Jack Jphnson" 1970 (Columbia)
Miles Davis "Live at The Fillmore" 1970 (Columbia)
Miles Davis "Live Directions Switzerland 22.10.71" 1971 (Zipperman)
Miles Davis "On the Corner" 1972 (Columbia)
Miles Davis "Get Up With It" 1970-4 (Columbia)
Miles Davis "Dark Magus" 1974 (Columbia)
Miles Davis "Agharta" 1975 (Columbia)
Miles Davis "Pangaea" 1975 (Columbia)
Miles Davis "The Man with the Horn" 1980-81 (Columbia)
Miles Davis "Star People" 1982-3 (Columbia)
Miles Davis "Decoy" 1983 (Columbia)
Miles Davis "You're Under Arrest" 1984-85 (Columbia)
Miles Davis "Aura" 1985 (Columbia)
Miles Davis "Tutu" 1986 (Warner Bros.)
Miles Davis "Siesta" 1987 (Warner Bros.)
Miles Davis "Amandla" 1988-89 (Warner Bros.)
Miles Davis "Live Around the World" 1988-91 (Warner Bros.)
Miles Davis "Doo-Bop" 1991 (Warner Bros.)











  ■Miles Davis『The Musing of Miles』      (Prestige)

    Miles Davis (tp) Red Garland (p)
    Oscar Pettiford (b) Philly Joe Jones (ds) 1955.6.7

 そういう人は多いのではないかと思うが、ぼくはマイルスからジャズ入門した。しかし、聴き始めの頃は困った事があった。あまりに数多くのアルバムが出てるんで、どこから聴いたらいいのかわからない。本などを見て名盤とされているものから聴こうと思っても、あれも名盤、これも名盤と書いてあって、けっきょくどれから聴いたらいいのかわからない。純ジャズをやってた50年代に絞っても、どれから聴いたらいいのかわからない状態だった。けっきょくカンで手を出して、失敗だったと思ったこともあった。
 もしいま、あの頃のぼくに教えてあげることができるなら、こうアドバイスしたい。
 50年代のマイルスを聴くなら、まず55年にコルトレーン入りのバンドを組んだ以後のものから聴くとよい(もっと具体的にいうと、ドラムがケニー・クラークからフィリー・ジョーに変わって以後だ)。マイルスがジャズ界のトップ・グループに入ったのはこのクインテットを組んで以後だ。
 もちろんそれ以前のアルバムには傑作がないという気はない。でも、それは50年代後半のマイルスを聴いて好きになったら後から聴けばいいものであって、最初から聴く必要はない。とりあえず後回しにしておいて問題はない。
 では55年以後の、どのアルバムを聴けばいいかだ。バンドとしての完成度でいうなら、バンドを組んでからある程度たってから録音された『Cookin'』(56) 『Relaxin'』(56) あるいは『'Round About Midnight』(55-56) あたりがいいかもしれない。あるいはもっと後の、「枯葉」で有名なキャノンボール・アダレイの『Somithin' Else』(58) から入るという手もある。
 しかし、バンドの完成度を問題にせず、たんにマイルスのトランペットがよく歌っているかどうかで選ぶとすると、もう少し前のこの『The Musing of Miles』や、いわゆる小川のマイルス(『Miles』(55) )あたりのほうがよく歌っている気がするのだが、どうだろう。マイルスのトランペッター=インプロヴァイザーとしての絶頂期は50年代なで、そのトランペッターとしてのマイルスのピークの部分を聴くには、この辺のアルバムがよいのではないかと思う。


04.12.14



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  ■Miles Davis『Kind of Blue』     (Columbia)

   Miles Davis (tp) Cannonball Adderley (as) John Coltrane (ts)
   Bill Evans, Wynton Kelly (p) Paul Chambers (b) Jimmy Cobb (ds) 1959.3.2 /4.6

 たいていの人はジャズを聴きはじめた時に真っ先に手にして、繰り返し聴いたアルバムだと思う。名盤だとやたらに紹介されているからで、ぼくもまたジャズとは何だかわからない時期に繰り返し本作を聴いて、ジャズの名演とはこういうものなのかと思ったものだ。そういう聴かれかたをしたアルバムは客観的な評価以前に各自の個人的思い入れと分かちがたく結びついてしまい、これは名盤であり、名盤とはこういうものだと決めつけられてしまうものだ。しかし、冷静に考えてみると、はたしてこのアルバムはそんなに名盤なんだろうかと、個人的には思っている。
 たしかに他のマイルスのアルバム同様、それなりに優れた作品だとは思う。しかし他と比べてズバ抜けた傑作だとはいえないのではないか。マイルス自身は自伝で本作を失敗作だと断じているが、やはりこのマイルス自身の評価が正しいのではないかという気持ちがどんどん強くなっている。
 このアルバムの歴史的評価はマイルスがモードジャズを初めてとりいれたという点にあるわけだが、はたしてそうか。モードジャズの手法はマイルスがギル・エヴァンスから教えてもらい、この一作前の『Milestones』(58) で既にとりいれられている。初めて全面的に展開したのは本作かもしれない。が、本作でのモードジャズなんてまだまだハードバップから半歩踏み出した程度のものであり、60年代に入って新主流派やコルトレーンが切り開いていったモードジャズと比べれば、赤ん坊のよちよち歩き程度の段階である。そんなものに歴史的価値なんて言い出すほうがおかしい。
 むしろ本作のメリットは、全体がミディアムからバラードのナンバーばかりで構成されていて、リラックスして聴ける点にあるのではないか。つまり、疲れて仕事から帰ってきて、コーヒーやワインを飲みながらBGMがわりに聴くジャズとしては、本作やコルトレーンの『バラード』が、やはり最適なのである。
 だいたい、ぼくも含めて現在ジャズを聴いている人は、ジャズを聴きはじめる前にロックやポップスをさんざん聴いてきた人が多いのではないか。そういう人はノッて踊れる音楽、激しい音楽、親しみやすい音楽、下品に泣ける音楽……といったものは既に知りつくしている。彼らがこれから聴きはじめるジャズに求めるものは、これまでに親しんでこなかった要素、つまり、大人の雰囲気、上品で知的、静かで落ちつける音楽ではないか。そのようなBGMが聴きたいならたしかに『バラード』や『Kind of Blue』が最適である。なんとなく大人で、なんとなく知的な感じがする。とつぜん騒さく鳴り出して、リラックス感を壊されることもない。親しみやすいのだが、親しみやす過ぎはしない。
 しかしこの2枚のうち、いまとなっては『バラード』が好きというのは、ちょっと恥ずかしい。なぜなら『バラード』はレコード会社の要請で作られた企画モノのアルバムであることが既に知れわたってしまっているからである。つまり『バラード』が好きだということは、レコード会社が「一般大衆にはコルトレーンの高尚なジャズなんてわかりっこないから、この程度のものを作っておけば売れるんだよ……」と考えた、その「この程度のもの」と自分の身の丈が合っているということを白状しているのと同じである。
 そこへいくと本作はマイルスが一応まじめに作ったアルバムなようなので、本作を好きだといっても恥ずかしくない……というのが本作が賞賛され続ける理由ではないか。
 しかし、冷静に見れば本作の美点はやはりコルトレーンの『バラード』と同じ点にあり、つまり静かにリラックスして聴ける親しみやすいジャズという点にあり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないと思う。この程度のものをジャズの最高峰などと言うのは、やはりジャズの本当の魅力を知らない人の意見とは言えないだろうか。
 いつまでも本作をジャズ史上の名盤などと言い続けるのは、いくらなんでもジャーナリズムに洗脳され過ぎではないか。マイルス本人だって本作は失敗作だときちんと認めているのに。

 ところで『マイルスを聴け!』という本は随所で「マイルスはいつも正しい」などとおだて上げているわりに、なぜ本作に対するマイルス自身の失敗作であるという評価を平気で踏みにじって、本作をジャズの最高峰などと持ち上げるのだろうか。
 ぼくはマイルスの批評眼を信用しているので、平気でマイルスの自己批評を踏みにじる類の批評は、どうも信用することはできない。


04.9.30



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  ■Miles Davis『Someday My Prince Will Come』   (Columbia)

   Miles Davis (tp) Hank Mobley, John Coltrane (ts)
   Wynton Kelly (p) Paul Chambers (b) Jimmy Cobb (ds) 1961.3.20 /21

 世の中には平気でまかり通る嘘というのがある。50年代から少なくとも70年代のはじめまで、マイルスが常にジャズの最先端の部分を引っ張っていたという嘘もその一つだ。
 60年代の前半はあきらかにマイルスはジャズの最先端からはだいぶ引き離された、遅れた音楽をやっていたのが事実だ。本作にはコルトレーンがゲスト参加しているが、この61年にはコルトレーンは自分のバンドではもう例のヴィレッジ・バンガードでのライヴをやっていたのである。ショーターはといえばメッセンジャーズで『The Freedom Rider』『Roots & Herbs』『The Witch Dictor』という革新的なアルバムを作っていたのである(全部オクラ入りされたが)。風雲急を告げていた頃なのである。
 しかしマイルスはまだこんな50年代まるだしの、ほのぼのとしたハードバップをやっていたのである。
 しかし、間違ってもらっちゃ困るが、ぼくはマイルスをケナしているわけじゃない。これはこれでいいのだ。マイルスはこういう人である。
 おそらくマイルスのファンには本作が好きだ、よく聴くという人がかなり多いんじゃないかと思う。確かにそうだろうと思う。ここには自然体のマイルスがいる。無理せずに演奏を楽しんでいるマイルスがいる。ある意味、これがマイルスなのだ。
 しかし、無理をしてでも前進し続けるマイルスのほうがよりマイルスらしいと思う人もいるだろう。確かに、そう言われればそのような気もするが。

 とにかく、この地点からマイルスが前進するためには何としてもトニーが必要だったのだ。そして、さらに前進するためには何としてもショーターが必要だったのだ。このアルバムを聴いていると、それがよくわかる。

04.9.30



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  ■Miles Davis『At the Blackhawk Complete』    (Columbia)

    Miles Davis (tp) Hank Mobley (ts) Wynton Kelly (p)
    Paul Chambers (b) Jimmy Cobb (ds)     1961.4.21-22

 61年のブラックホークでのライヴは、まずLP2枚が別売りで出て、残りテイクがコンピレーションものやブートレグなど様々なかたちで世に出ていたが、2003年になってコンプリート版が出た。CD4枚組だが、場所をとらないコンパクトなパッケージで、なかなか良い。一カ所でのライヴのボックスは『プラグド・ニッケル』以来だろうが、このライヴはあっちのように7枚も8枚もいらない。4枚ぐらいが妥当だ。
 それにしてもこの演奏と4年後の『プラグド・ニッケル』を聴き比べてみると、ショーター、ハンコック、ロン、トニーの4人の凄さがわかる。演奏している曲はだいたい同じだし、編曲もマイルスの演奏もそう差があるわけではない。しかし全体の演奏はまるで違う。『プラグド・ニッケル』でのマイルス・バンドが夜空に飛び立つ巨大爆撃機だとしたら、こちらは田舎をトロトロ走るローカル列車のようである。
 しかしローカル列車にはローカル列車にしかない味わいがある。というか、狭義のジャズ・ファンというのは、こういう50年代風の演奏を好むもののようだ。そういうことで本作にはやはり価値がある。
 さて、テナーのハンク・モブレーはマイルス・バンドに入ってかえって名を下げた人の代表だ。たしかにモブレーとマイルスは水と油のところがある。マイルスはメンバーにプレッシャーを与えて緊張感のある名演を引き出そうとするのに対し、モブレーはプレッシャーに弱い人で、気のあったメンバーに引き立てられてマイペースで演奏できた時にいい演奏をする人だ。というわけでモブレーのマイルス・バンド参加は失敗だったという世評は正しいのだが、ライヴでの演奏となると、マイルスがさっさとソデに引っ込んでくれるせいか、スタジオよりもマイペースのモブレーが聴ける。
 モブレーの側から他のメンバーを見ると、ケリー、チェンバースは最高の伴奏者だが、コブと相性がわるい。というわけでベストとはいえないが、考えてみればモブレーのライヴでの演奏がこんなにタップリと聴けるアルバムは他にないわけで、これは数少ないモブレーがマイルス・バンドに入ったメリットとして聴こう。
 モブレーは淡々としていて個性が弱いのでジャズ初心者には「いてもいなくてもいい人」という印象しかないだろう。マイルスのように雰囲気でせめていって最後にあらかじめ決めてあるフレーズで盛り上げる……というスタイルのほうが印象に残ると思う。しかしモブレーはすごく語り口のうまいインプロヴァイザーで、雰囲気だけで流したり、派手なフレーズで強引に決めたりせずに、無駄のないアドリブを展開する人だ。ジャズがわかってる人ほど、モブレーの演奏に耳をそばだてるのではないか。

04.9.30



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  ■Miles Davis『Four & More』   (Columbia)

    Miles Davis (tp) George Coleman (ts)
    Herbie Hancock (p) Ron Carter (b)
    Tony Williams (ds)    1964.2.12

 60年代のはじめ、マイルスは50年代風のほのぼのハードバップからなかなか抜け出せずに、モードの手法で先鋭的なジャズを繰り広げていた同時期のコルトレーン、ショーターにだいぶ差をつけられていた、しかし63年の5月の『Seven Steps to Heaven』の録音中についにハンコック〜ロン〜トニーのリズム・セクションが揃い、追撃体制が整う。そしてそのアルバムの半分の曲を録音するものの、続くスタジオ盤の録音はなく、『In Europe』(63) 『My Funny Valentine』(64) 『Four & More』(64) 『Live in Tokyo』(64) とライヴ盤ばかりをリリースしていく。
 なぜスタジオ録音に踏み切らなかったんだろう……と考えると、やはりマイルスはこのグループには何かが足りないと考えていたからではないかと想像できる。そしてこの時期、ジャズ・メッセンジャーズからショーターをあの手この手で引き抜きにかかり、そしてついに引き抜きに成功したとたんにスタジオ録音を開始したことを考えれば、この時マイルスがこのバンドに足りないと考えていたのは、ショーターではなかったかと推理できる。
 さて、この63年から64年にかけての一連のライヴ盤のなかで何を聴くべきかといえば、少なくともジョージ・コールマンが在籍した最初の3枚のなかでは、この『Four & More』を第一にあげるべきだろう。トニー・ウィリアムスのドラムに乗ってバンド全員が疾走する快演であり、それ以前のマイルス・バンドのライヴ盤と聴き比べれば、ハンコック〜ロン〜トニーのリズム・セクションがどんなに斬新だったかがわかる。トニーの名演として知られるアルバムだ。


04.12.15



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  ■Miles Davis『Live in Tokyo』   (Columbia)

    Miles Davis (tp) Sam Rivers (ts)
    Herbie Hancock (p) Ron Carter (b)
    Tony Williams (ds)    1964.7.14

 サム・リバースもまたマイルス・バンドに参加することで名を下げてしまった人の一人ではないか。
 トニーが中心になってジョージ・コールマンを追い出しにかかり、ついにコールマンが去った後、かわりのサックスとしてトニーの強いプッシュを受けて加入したものの、マイルスと音楽的方向性が合わず、ショーターの都合がついたものですぐにバンドを離れることになった。そのため、リバースというと「あ、マイルス・バンドをすぐにクビになった人か……」という印象になってしまうのだ。
 しかし、そんな予備知識で先入観をもって聴かなければ、本作でのリバースは案外魅力的だと思う人も多いのではないか。
 マイルスはともかく、他の3人との相性はけっこういいのだ。トニーと息が合うのは当然だが、ハンコックも合わせてきている。ロンもオーケーだ。これでもう少しこのメンバーで続いたら、この4人はこれはこれで良いグループになっていたかも知れない。たしかにマイルスと音楽的方向性は合ってないが、それを言えばショーターだってマイルスとそう完全に音楽的方向性が合っていたわけではなく、結局マイルスがそれを受け入れられるかどうかという点しかない。
 しかし、グループのリーダーはマイルスなわけだから、マイルスが受け入れないといったら、それまでなのだが。


04.12.15



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  ■Miles Davis『At Fillmore』     (Columbia)

    Miles Davis (tp) Steve Grossman (ss) Chick Corea (elp) Keith Jarrett (org)
    Dave Holland (b) Jack DeJonette (ds) Airto Moreira (per)    1970.6.17-20

 70年3月のショーター入り『Live at The Fillmore East,70』と間違えやすいタイトルだが、これはキース・ジャレットとチック・コリアのツイン・キーボードが入った『At Fillmore』、リアルタイムでリリースされたものだ。録音は同じ70年だが、6月の17、18、19、20日で、LP盤では2枚組の各面に1日ごとのライヴが入っていた。
 ライヴといってもそのままではなく、『In a Silent Way』以後のスタジオ録音盤で録音した演奏を編集して曲を作っていったように、今度はメドレーで演奏されたライヴ音源を編集して、一夜のライヴ全曲が一つの長い曲のようにしていくという方法で、マイルスは70年代を通して『アガルタ』『パンゲア』までこの方法を行っていく。
 さて、『Live at The Fillmore East,70』のわずか3ヶ月後の録音で、メンバー的にはショーターが抜けてスティーヴ・グロスマンが入り、先述のとおりキース・ジャレットが加わった他は変わりない。ということでそれほど変化がないかと思いきや、聴き比べてみるとけっこう変化しているものだ。
 『Bitches Brew』以来の混沌・過激路線には変化はない、しかし、いまにも何かがおきそうな得体の知れないおどろおどろしさがきれいに消え去って、妙にスッキリとして、軽快で健康的なスピード感が出てきた。マイルス・バンドがいちばんロック的になったのは、ショーターが抜けた後から71年までのこの時期ではないだろうか。
 内容的には予想どおりキース、チックのツイン・キーボードの織りなすリズム部分が、やはりおもしろい。デジョネットも叩き方を変えているようで、躍動感というより、ちょっとある種のテクノに通じるようなカクカクした感じを受ける。
 マイルスはこの時期の他のライヴ盤と比べても堂々と、長くソロをとってるようにみえるが、編集のせいだろうか。グロスマンはマイク・バランスのせいもあるのか、音が目立たず、勢いに任せて吹いているようで、ここでの演奏はあまりよいとは思えない。
 さて、71年までのライヴ盤を順に聴いてみるとわかるが、この時期のマイルス・バンドのサウンドは時期を追うごとにだんだんと軽快になりすぎて、パワーがなくなり、フツーのサウンドになってきてしまう。そのためマイルスは72年に大幅なメンバー・チェンジを行うわけだが、この71年までのマイルス・バンドを聴くなら、このあたりが聴きどきではないかと思う。


04.12.15



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  ■Miles Davis『Live Directions Switzerland 22.10.71』  (Zipperman)

    Miles Davis (tp) Gary Bartz (ss) Keith Jarrett (org,elp)
    Michael Henderson (elb) Leon Chancler (ds) Don Alias, Mtume (per)

 これはブートレグで、71年10月22日のスイスでのライヴ。現在では70年のマイルス・バンドのライヴはオフィシャルだけで4種類(全部CD2枚組)もあるが、翌71年のライヴはオフィシャルでは1枚もない。そこで中古盤屋で見つけた時おもわず買ってきたもの。
 さて、『Live Evil』のライヴ部分から10ヶ月後の録音となるが、メンバー的にはマクラフリンがいなく、ドラムが変わり、パーカッションにエムトゥーメが加わって打楽器3人編成になっている。
 聴いてみると、『Bitches Brew』以来の基本路線には変化はないのだが、録音のせいもあるかもしれないが、ずいぶんサウンドが薄くなったように感じる。マイケル・ヘンダーソンは好演しているが、打楽器が3人もいるわりには迫力はなく、むしろ薄くなったように感じる。デジョネットが抜けた穴というべきか。サウンドは普通のジャズに近い感覚で、普通という言い方に問題があるとしたら、モーガンの『The Sidewinder』のようなジャズ・ロック路線を押し進めたようなサウンドだ。この時期のマイルスのバンド・サウンド指向が出ているとはいえない。
 結果、ソロ奏者が目立ってくる。その点ではエレピやオルガンを弾くキース・ジャレットは聴けるし、ゲイリー・バーツも好演しているので、それはそれで魅力はあるわけだが、しかし当時のマイルスのコンセプトからすればこれではいけないと思ったはずだ。マイルス・バンドはこの後、キースの退団に合わせて大幅なメンバーチェンジを行うが、本作を聴くとその理由も納得できる。そしてそれが現在までこの時期のライヴ盤がオフィシャルで出ていない理由だろうか。
 しかし、単純に各メンバーのソロ演奏が聴きたいのであれば。これはこれでいい。


04.12.15



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  ■Miles Davis『Dark Magus』      (Columbia)

    Miles Davis (tp) Dave Liebman (ts,ss,fl) Azar Lawrence (ts)
    Reggie Lucas, Pete Cosey, Dominique Gaumont (elg)
    Michael Henderson (elb) Al Foster (ds) Mtume (per)  1974.3.30

 さて、この辺から本作『Agharta』『Pangaea』とマイルスの最高到達点というべき作品が続く。3作ともライヴ録音である。
 マイルス・バンドは72年に大幅にメンバー・チェンジし、その後テコ入れを続けてこの時期のサウンドまで到達した。これらをメンバー・チェンジ前の時期のアルバムから並べて順に聴いていくと、当時マイルスが何をしようとしていたかが良くわかる。
 つまりは強力無比なリズム・セクション、厚みのあるバンド・サウンドを作り出そうとしていたのだ。
 ショーターが抜けた後のライヴ盤の軽快なサウンドと比べると、この時期のものはずっと重厚であり、特に本作は臨時メンバーを2人プラスした9人編成で、重厚さを増している。これがマイルスが求めていたものだったのだろう。
 しかし逆に各奏者のソロ演奏はぐっと比重が小さくなっている。
 エフェクターをかけたマイルスの演奏は、もうソロというより効果音のようだし、そもそもソロらしいソロ奏者がいないままリズムだけで長くもたせる部分が多い。最も音楽的なソロをとっているのはデイヴ・リーブマンだと思うが、彼のソロの登場を待って聴いているとなかなか出てこないんでイライラするばかりだろう。
 つまりはソロよりもバンド・サウンドこそが、当時のマイルスが追求していたものだったのだろう。その意味ではこの時期のマイルスは方法論としてロック的だといえる。
 さて、本作『Agharta』『Pangaea』にはいくつか特徴がある。それはCD一枚まるごと、あるいはLP片面が1曲という大曲ばかりとなる点だ。実はこれ、メドレーで演奏された音源を、各曲のテーマ部分をカットするなど編集し、一続きの大曲のようにみせたものである。例えば本作の冒頭の "Moja" と、『Pangaea』の前半の "Zimbabwe" の始まりは同じである。これは両方のメドレーの1曲めが同じ曲だったということだ。
 そんなわけで長い曲であっても、一つの大作として構築されているわけではなく、コンセプト等があるわけでもなく、たんなるメドレーで長いだけなので、見かけのインパクトに比べて底は浅い。
 また、不思議なのはアルバムのタイトルだ。
 マイルスのタイトルのセンスは、コルトレーン入りのクインテットの1作めが『Miles』、続いて『Cookin'』『Relaxin'』などの "ing" シリーズや、『Milestones』や『Miles Smiles』のような語呂合わせ言葉遊び等、シンプルで散文的なのが特徴だ。ショーター時代は『Nefertiti』『E.S.P』『Sorcerer』などショーター的タイトルだが、ショーターが抜けてからは『At Fillmore』、『Live Evil』のような語呂合わせや『On the Corner』『Get Up With It』と、マイルス的なタイトルにもどっている。81年復帰後も『The Man with the Horn』に『We Want Miles』である。
 つまり『Dark Magus』『Agharta』『Pangaea』というタイトルは、あきらかにマイルスのセンスっぽくなく、ショーター時代のようなタイトル・センスである。このようなタイトルで大曲が入っているので、ひょっとしてコンセプト性をもった構築性のある内容なのかと誤解してしまうのだ。(ぼくだけか?)
 まあ、本作はリアルタイムでリリースされたものではないので、『Dark Magus』は別人が考えたタイトルなんだろう。しかし『Agharta』『Pangaea』はどうしてこういうタイトルになったのか、わからない。マイルス本人の決めたんだろうか。違うような気がしてしまうのだが。


04.12.14



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  ■Miles Davis『Agharta』『Pangaea』     (Columbia)

    Miles Davis (tp) Sonny Fortune (ss,as,fl)
    Pete Cosey (elg,syn,per) Reggie Lucas (elg)
    Michael Henderson (elb) Al Foster (ds) Mtume (per)  1975.2.1

 リリース順でいくとこの『Agharta』『Pangaea』のほうが『Dark Magus』(74) より先であり、リアルタイムでリリースされている。つまりマイルスはこの2枚組のライヴ・アルバムを2組遺して長期引退に入ったことになる。『Dark Magus』と比べると、サウンドが整理されてスッキリとし、ソロ演奏が前面に出てきている。行き過ぎたバンド・サウンド指向が多少修正されているのかもしれない。これが引退前にマイルスが遺そうとした最後のサウンドだといえる。
 LP計4枚という量からいっても、内容からいっても、この『Agharta』『Pangaea』はマイルスがこれまでやってきたことの総決算的な意味あいを感じるし、おそらくマイルス自身もそのつもりだったのではないかと思う。マイルスの長期引退の直接の原因は健康状態の悪化だそうだが、おそらくこの時期に自分の音楽は行きつくところまで行ってしまい、もう前進が出来ないという気持ちがあったのではないだろうか。事実81年に復帰して以後のマイルスの作品は、この『Agharta』『Pangaea』のその先……という内容ではなくなる。
 さて、この75年という時期は72年のチックの『Return to Forever』あたりを境にしてジャズ=フュージョンの最先端の部分の空気がガラッと変わってしまい、前衛的・過激・混沌・大作主義といった60年代末的な作品が時代遅れとなり、気持ちよく心地よい・美しい・ノリがいい……などの要素がもてはやされる時代になっていた。
 しかしマイルスは『Get Up With It』(70-74) や『Dark Magus』(74)、そしてこの『Agharta』『Pangaea』と、もはや時代遅れになった過激で混沌とした大作主義を続けていく。つまりはマイルスもまた、70年代のフュージョンの時代に対応できなかったミュージシャンの一人だといえる。70年代を通じてマイルスが属していたのは『Return to Forever』以前の時代だったのだ。
 この『Agharta』『Pangaea』を聴くとそれが良くわかる。つまりこのアルバムはリリースされる前から時代遅れになっていたのだ。おそらくこのアルバムがリリースされたとき当時の聴衆は、絶滅しそこなった恐竜が森から現れたかのように見えたことだろう。かくて、70年代の中古レコード屋にはマイルスの2枚組が山になっていたという。
 もちろん、現在では時代と切り離して、もっと素直にこの『Agharta』『Pangaea』を聴くことが出来るだろう。

 ぼくは思うのだが……、晩年のコルトレーンは実はいま自分がやっている音楽より50年代にやっていたことのほうが好きだとマイルスにもらしたそうだが、マイルスもまた70年代のスタイルを自分ではそれほど好きではなかったのではないか。
 どうも晩年のコルトレーンと引退直前のマイルスには、似たような雰囲気を感じるのだ。
 それは自分が築きあげ進んできた道をさらに前進しなければならないという使命感に燃え上がって、自分を極限まで追い込み、もはや道が袋小路であることに半ば気づきながらも無理をして前進を続ける悲壮なまでの姿である。その無理がたたって方や病死、かたや引退を余儀なくされたのではないだろうか。
 さて、マイルスもコルトレーンもなぜそうまでして前進を続けなければならなかったのだろうか。
 凄いものを作ろうとして進んでいくと、果てしなくなってしまうものだ。どんなに凄いものを作っても、次はもっと凄いものを……と考えてしまうからだ。そして、もっと、もっと……と続けていくうちに、ついには力尽きて倒れてしまう。
 コルトレーンの晩年にも、マイルスの70年代半ばにもそれがあったと思う。つまり自分のこれまで進んできた方法論の先にあるものが『Agharta』『Pangaea』であるとすれば、自分がそれを演奏していて楽しくなくても、あるいは『Agharta』『Pangaea』のようなサウンドが70年代半ばにはもう時代遅れになっていたとしても、その方法論の先へと突き進んで行かなければならない。
 結果的に見ればマイルスの可能性の部分はもうショーターやザヴィヌルがいた頃の『Bitches Brew』(69) あたりで出尽くしていて、その後の70年代のマイルスはひたすらその方法論によって突き進んでいった時代だったのだといえる。ウェザーリポートのように新たな方法論を探って新たな可能性を切り開いていくのではなく、ただただ一本の線路の上をばく進していった。そのため時代の変化にも対応できなかったし、おそらくしようとも思わなかった。ただただ先へ先へ、もっと凄いサウンドを、もっと凄いサウンドをと単純に突き進み、その結果に至ったものが『Agharta』『Pangaea』だったといえる。
 81年復帰後のマイルスはもはや前進することをやめて、演奏も50年代のようなメロディアスなソロをとるようになり、かわりに『いつも前進する男、マイルス』という虚像を自分で演じる……というスタンスをとる。それはマイルスという人間がミュージシャンとして生き残っていくために必然的な選択だったような気がする。
 とにかくこの『Agharta』『Pangaea』にはマイルスという人が、時代遅れになろうが、身体が壊れかけてこようが、なんとしてでもこれだけやっておかなければ死んでも死にきれん……と偏執狂的な執念でもってつきつめていったものがある。それを肯定するにしろ否定するにしろ、これこそがマイルスであり、これこそがマイルスの最高到達点であると言わなければならない作品だと思う。


04.12.14



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  ■Miles Davis『The Man with the Horn』   (Columbia)

     Miles Davis (tp) Bill Evans (ss) Brry Finney, Mike Stern (g)
     Robetrt Irving (elp) Marcus Miller (b) Al Foster (ds) /他 1980-81

 マイルスは約5年におよぶ長期引退を経て、81年に復帰、その後約10年にわたって活動する。
 復帰後のマイルスでは結局この1枚めが一番良かったような気がする。冒頭の "Fat Time" のミディアム・テンポのゾクゾクするリズムの中からゆっくりマイルスがあらわれる所なんか、帝王の帰還にふさわしい。
 それに何より、実はマイルスが復帰後に行ったことは、実はこのアルバムで全て出つくしているのだ。
 このアルバムに収録された全6曲は、二種類のスタイルに分かれている。つまり4曲はマーカス・ミラーやマイク・スターンを含むセッションで、このスタイルを続けていったのがこの後の『Star People』(82-3) 『Decoy』(83) であり、いわば3部作を形成する。残りの2曲はロバート・アーヴィングを含むポップなセッションで、『You're Under Arrest』(84-5) がこのスタイルの続編となる。マイルスが復帰後、自分で作り上げたオリジナル・アルバム(スタジオ盤)は以上4枚で終わりで、後は他人に丸投げしてアルバム作りするようになる。しあたがって、復帰後、マイルスが作り上げた音楽を見るなら、実はこれ一枚で充分なのだ。

 では80年代のマイルスの音楽とはどのようなものだったのか。それは、『Agharta』や『Pangaea』の先にあるものではない。マイルスの音楽は『Agharta』『Pangaea』で一度終わっており、あくまでマイルスの到達点は『Agharta』『Pangaea』にある。
 80年代のマイルスの音楽は、マイルスがこれまでやってきた音楽の要素を集めて組み立て直したようなものだといえる。具体的にいえば『Bitches Brew』(69) 以後のリズムや楽器編成を踏襲しながら、精神的にはむしろ50年代にやっていたようなメロディアスで曲先行のスタイルだ。いわば、おとなしくて親しみやすいエレクトリック・マイルスというのがこの時期の作品だ。
 つまりはマイルスがこれまでやってきたことの繰り返しともいえ、悪くいえば自己模倣である。音楽的必然性があるのかといえば疑問にもなるし、そんなマイルスの在り方を、もちろん批判することもできる。トランペットの音色の衰えを指摘することもできる。だが、ここは素直にマイルスのアルバムが1枚でも多く聴けることをよろこぶべきではないかと思う。
 けっきょくのところ、80年代のマイルスとは、それまでマイルスの音楽を聴いてきた人へのオマケであり、マイルスのファン・サービスだったんだと思う。形はちがうが、V.S.O.P.の在り方とも似ているわけで、V.S.O.P.を楽しむようにこの時期のマイルスも楽しむことはできると思う。
 とくにこの時期、83年あたりまでのアルバムは、余計なことは考えずに、もう少しマイルスの音楽を楽しみたいという気持ちを満足させてくれるアルバムだと思う。


04.12.14



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  ■Miles Davis『We Want Miles』      (Columbia)

     Miles Davis (tp) Bill Evans (ss) Mike Stern (g)
     Marcus Miller (b) Al Foster (ds) Mino Cinelu (per)  1981.6.27/ 7.5/ 10.4

 マイルス復帰直後のライヴ盤だ。
 復帰後のマイルスが何をやったかといえば、一言でいうなら、ファン・サービスだったと思う。もっとマイルスの音楽が聴きたい、マイルスが見たいというファンの期待に応えて、かつて存在したマイルスというミュージシャンをマイルス自身が精一杯演じてみせたのがマイルスの最後の10年だったと思う。
 音楽的に何か新しいことを切り開いたとは思えない。というより、後半はもう音楽作りは他人に全部まかせて、出来上がった音楽に合わせてトランペットを吹くだけというのがマイルスの作品づくりだった。そしてトランペッターとしては、ついに一度も往年のような音の輝きを取り戻すことはなく、演奏者として新境地を開くこともなかった。健康状態の悪化を思わせる痛々しい音を響かせることも多かった。音楽の内容は変化させたが、もはやマイルスが音楽の新しいスタイルを創り出しているわけではなく、その時代の流行している新しい音楽にマイルスのほうが合わせただけである。そしてそれは『つねに前進する男、マイルス』というマイルス像をマイルス自身が演じている姿だった。本作のタイトルにはそのマイルスの意志がストレートにあらわれている。
 正直いうと、もし復帰しなかったとしたら、あるいは『Decoy』あたりで引退していたら、マイルスはいま以上の尊敬を受けていたような気がする。マイルスの晩年の作品はかなり苦しいものがあった。
 しかしバンド・リーダーとしては、やはりマイルスは復帰後も自己の能力を発揮して、いくつかの優れたバンドを作り、新人ミュージシャンの登竜門的な役割も果たしたと思う。
 では、その復帰後の歴代マイルス・バンドでどの時期が一番良かったかというと、この復帰直後のレギュラー・バンドはかなりベストに近い位置にいるのではないだろうか。このライヴ盤ではビル・エヴァンスのソロはほとんど、マイク・スターンのはかなりカットされてしまっているのは残念だが、マーカス・ミラーを擁したこの時期のマイルス・バンドはなかなかの迫力だったと思う。

04.12.14



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  ■Miles Davis『Decoy』    (Columbia)

     Miles Davis (tp,syn) Bill Evans, Branford Marsalis (ss) John Scofirld (g)
     Robetrt Irving (syn) Darryl Jones (b) Al Foster (ds) Mino Cinelu (per) /他  1983.6-9

 別項にも書いたが、マイルスの復帰後の作品のうち、『The Man with the Horn』(80-81) のうちの4曲の部分の続編というべきが『Star People』(82-83) と『Decoy』(83) であり、いわば3部作と見ることができる。この『Decoy』はその3部作の最後のアルバムであると同時に、ひょっとしたらマイルスのジャズマンとしての最後のアルバムといってもいいのかもしれない。この後のマイルスのアルバムからはジャズ的な緊張感がなくなってしまうからだ。
 また、復帰後のマイルスのトランペット演奏はついに往年の輝きを取り戻すことはなかったと思うが、その中でもっとも力強い音が聴けるのは本作の頃ではないかと思う。そういった意味も含めて、いわばマイルスの最後の輝きを構成するアルバムの一つだと思うのだが、そのわりには妙なやる気のなさも感じるアルバムだ。
 つまり、バンドのメンバーも一定せず、内容もライヴ音源を使用した熱い部分と、おそらくそうでない部分とで妙にムラがあり、なんだかへんな完成度の低さを感じるのだ。まあ、悪いわけでもないのだが、最後ぐらいは「これ!」というメンバーを揃えて、ビシッと決めてほしかった感が残るアルバムである。


04.12.14



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  ■Miles Davis『You're Under Arrest』     (Columbia)

     Miles Davis (tp,syn) Bob Berg (ss,ts) John Scofirld, John McLaughlin (g)
     Robetrt Irving (syn) Darryl Jones (b) Al Foster, Vince Wilburn (ds) /他  1984.12-85.1

 本作は復帰作である『The Man with the Horn』(80-81) にあった2曲の部分の続編といえる。つまり、『The Man with the Horn』の "Fat Time", "Back Seat Betty", "Aida", "Ursula" の路線を展開したのが『Star People』(82-3) と『Decoy』(83) だとすれば、残りの "Shout", "The Man with the Horn" というポップな路線を展開したのが本作である。とうわけでこの4枚で復帰時にマイルスが構想していた絵は描き終わったわけだ。
 80年代も半ばに入ると、マイルスはだんだん、今度こそ本当に終わっていく。
 まず『Decoy』(83)を最後にマイルスはジャズであることをやめてしまう。つまりこの『You're Under Arrest』では演奏から即興演奏の緊張感・スリリングさが失われ、歌のないポップスのような出来になる。
 そしてこの『You're Under Arrest』でマイルスは、サウンド・クリエイターであることをやめてしまう。つまり、長年続けてきたマイルス自らが能力のあるメンバーを選んできてバンドを作り、サウンドを構成していくという作業をやめてしまう。
 そして次作からは音楽作りはすべて他人に丸投げし、マイルスはただ出来上がったバックトラックに合わせてトランペットを吹くだけ、という方法でアルバムを作るようになる。
 そういった意味で、本作はマイルスのラスト・アルバムだといえる。
 しかし、見事に有終の美を飾ったかというと、かなり疑問が残る。正直、このような緊張感のないポップなサウンドがマイルスが最後に作り出したサウンドかと思うと、ちょっと残念な気を感じずにはいられない。
 また、マイルスは本作の "Human Nature"(マイケル・ジャクソン)、"Time After Time"(シンディ・ローパー)さらに『Tutu』(86) では "Perfect Way"(スクリティ・ポリティ)と、当時の流行歌をナンバーに採り入れはじめる。
 これをマイルスが最後まで(過去形ではなく)現在進行形で音楽を作っていたことの証明と見る向きもあるようだが、考えてみればマイルスは50年代にはまさにこのようなこと(同時代の流行歌をジャズ・ナンバーにすること)をしていたわけであり、方法論からも自分が最も自然体で演奏していた50年代に戻っていったとみるべきではないかと思う。

04.12.14



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  ■Miles Davis『Tutu』      (Warner Bros.)

     Miles Davis (tp) Marcus Miller (All Insturuments) 
     George Duke (All Insturuments)  /他 1986.2-3

 マイルスという人は一年に一枚くらいのペースでアルバムを作ることにこだわった人だと思う。
 50年代のジャズマンは人気があれば一年に4、5枚か、それ以上のアルバムを作ることもめずらしくはなかった。気のあったメンバーを集めてスタンダードでも演奏すれば一枚アルバムができてしまうのだから、それも、それほど難しいことではないわけだ。  マイルスもプレスティッジにいた頃はそのくらいのペースでアルバムをリリースしていたが(おそらくプレスティッジ側の方針だと思うが)、コロンビアに移ってからは一年に一枚くらいのペースを守るようになり、それがマイルスはアルバムを一枚々々ていねいに作るという評判につながっていったものと思う。
 しかし、80年代、いや91年に亡くなるまで一年に一枚くらいのペースで(引退時期を除けば)作り続ける。
 この頃になるとポピュラー音楽のアルバム作り自体が変わってきていて、いつものメンバーでスタンダードでも演奏すれば……という時代ではなくなってきている。実際、70年代以後は一年一作を守っているミュージシャン(あるいはグループ)は、むしろ多作というべきだろう。とくにベテランであればなおさらだ。
 ショーターやハンコックのディスコグラフィーを見ていると、4、5年くらいオリジナル・アルバムをリリースする間隔が開くことがあるが、たぶん一作のアルバムを構想し創り上げていくのにそれくらい時間がかかることもあるのだと思う。しかしマイルスは一年一作を続ける。つまり、後半生のマイルスは一枚々々ていねいに作るミュージシャンから、多作なミュージシャンに変わったのだといえる。
 復帰後のマイルスの場合、先述した通りまず『The Man with the Horn』(80-81) を作り、ここに見えていた2種類のスタイルのそれぞれの続編というかたちで計4枚のアルバムを作る。ここまでは『The Man with the Horn』でのスタイルをただ続けているのだから、いわば4部作というかたちで、さほど労することもなく年一枚ペースでいけただろう。しかし、このままではさすがにマンネリになっていく。
 この辺でまた時間をかけて、新しいスタイルのサウンドを立ち上げ、さらなる前進を見せてほしかったところだが、結果的にマイルスはそうしなかった。では、どうしたのか。
 自分で時間をかけて音楽を作り上げるのではなく、他人が作り上げた音楽に乗ることにしたのだ。
 もともとマイルスはプロジェクト・リーダー的才能において突出したミュージシャンであり、必ずしも音楽的創造力の部分ではそれほど優れていたわけではない。これまでも音楽的創造の中心をショーターに、あるいはザヴィヌルに任せたこともあった。もっと極端にはギル・エヴァンスが創り上げた作品に単なる一トランペッターとして参加し、それをマイルスのリーダー名義でリリースしたこともある。そして、80年代半ば以後は完全にこの、かつてのギル・エヴァンスとのアルバム作りの方式をとっていく。
 これならば、音楽は全部他人が作るのだから、一年一作のペースを守るのもラクである。
 しかし、ぼくは思うのだが、そんなにまでして一年一作のペースを守ることにそんなに意味があるのだろうか? たしかにミュージシャンは一年に一作くらいリリースしたほうが、商業的な意味において有利とはいえるだろう。あんまり間隔が開くと忘れられる可能性もあるので、プロモーションもやりやすいと思う。ファンにとしてもそれくらいの間隔で新作は聴きたいだろう。
 しかし、別人が作った音楽をマイルス名義でリリースするより、時間はかかってもマイルス自身が作った音楽を聴きたかったという気持ちは残る。

 ということで、『You're Under Arrest』以後のマイルス名義のオリジナル・アルバムは、『Aura』(85) がパレ・ミッケルホルグという人の作、『Tutu』(86)、『Siesta』(87)、『Amandla』(88-89) の3枚がマーカス・ミラーの作、『Dingo』(90) がミシェル・ルグランの作、最後の『Doo-Bop』(91) がイージー・モー・ビーの作となる。全部他人が作り上げた音楽に、マイルスのトランペット・ソロが加わっただけの、実質的サイドマンとしての作品である。
 このうちどれが優れているかといわれれば、マーカス・ミラーが作ったものがいいということになる。理由は言うまでもないだろう。作者であるマーカス・ミラーの仕事ぶりが優れているからだ。
 そんなわけで本作以後のマイルスの作品は、マイルス側から見れば、マイルスの純粋にトランペッターとしての作品となる。
 しかしマイルスのトランペッター=インプロヴァイザーとしてのピークは50年代であり、この時期のマイルスはトランペットの音色もアドリブの冴えも全盛期に比べて大きく衰えている。
 しかも、トランペッターとしてのピークであった50年代においてさえも、マイルスは一演奏者=インプロヴァイザーである限りはパーカーやパウエル、クリフォード・ブラウンのような天才的なプレイヤー=インプロヴァイザーには歯が立たないという自己の限界を理解したことから、サウンド・クリエイター的方法に活路を見出し、偉大な成果を得てきた人のはずである。
 そんなマイルスが衰えた時点で再びトランペッター=インプロヴァイザーとしてやっていこうとしても、そのこと自体にそれほどの成果が上がるわけがない。
 結局本作が以前のマイルス作品に比べても独自の魅力があるとしたら、それはほとんどマーカス・ミラーの作業に由来する部分だと思う。と、真の作者であるマーカス・ミラーの名誉のためにいっておこう。



04.12.13



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  ■Miles Davis『Amandla』     (Warner Bros.)

     Miles Davis (tp) Marcus Miller (b,key,ds,g,bcl,ss) 
     George Duke (key,syn)  Kenny Garrett (as,ss) /他 1988.12-89

 マーカス・ミラーとマイルスのコラボレーション作の最終作で、マイルス最後の傑作という人も多いアルバムだ。
 内容は基本的に『Tutu』と同じくすべてをマーカス・ミラーが仕上げ、それに合わせてマイルスがトランペットを吹くという内容だ。しかし、本作では当時のマイルス・バンドのサイドメンたちも参加してソロをとっている。一聴バンド・サウンドのようにも聴こえるが、これはすべてマーカス・ミラーのスタジオ・ワークの上に築かれた疑似バンドのサウンドで、いわばマーカス・ミラーの掌の上にマイルス・バンドが乗って演奏しているというイメージだ。
 個人的には『Tutu』よりも本作のほうが好きだ。それはこの時期マイルスのトランペットは衰えが目立ち、共演者がいたほうがいいと思えるからだ。アップ・テンポの曲など、マイルスが元気がなくても、サイドメンたちの演奏で盛り上げることもできる。

 正直に認めてしまうと、マイルスは80年代も半ば以後になると演奏にも創造力にも衰えが目立ってくる。仕事も選ばなくなってしょーもない駄盤にも参加するようになってくる。あれほど仕事を選び、自分のリーダーシップを発揮できない他人のセッションに参加することを拒んだ人が、金めあてとしか思えない理由で、つまらないセッションに次々とゲスト参加するようになってくる。
 もちろんそれでも、まったく聴きどころはないのかといえば、それなりに聴きどころはあるし、『Tutu』や本作あたりはマーカスの実力によって、マイルスの名を辱めないアルバムに仕上がっているとは思う。
 しかし、もしマイルスが『Decoy』(83)の後あたりでスッパリと音楽業界から引退していたら、マイルスの名声はむしろいま以上に高まっていたのではないかと信じているのは、おそらくぼくだけではあるまい。
 思い入れがある人の、衰えきった姿を見るのは、けっこうつらいものがある。
 けっきょく、マイルスは最後まで「過程を見せる人」だったということなのかもしれない。未だ下手な段階でデビューし、上達する過程を見せていったマイルスは、晩年には自分が衰えていく過程も見せていったのかも。


04.12.13



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  ■Miles Davis『Live Around the World』      (Warner Bros.)

     Miles Davis (tp) Kenny Garrett (as,fl) Forley (Lead-b) 
     Adam Holtsman, Kei Akagi (key)  Benny Rietveld (b)
     Rcky Wellman (ds)/他    1988.8-91.8


 1988年から死の直前までのライヴ録音のなかから11曲を編集、当時マイルスがライヴで演奏していたような曲順に並べたアルバムである。
 マイルス・バンドは87年の暮れあたりに大幅なメンバー・チェンジを行い、これから後、ケニー・ギャレット (as)、フォーリー (g)、リッキー・ウェルマン (ds) らを中心としたバンドで、マイルスの死の直前まで活動していた。しかし、このバンドはワーキング・バンドとして活動したのみで、スタジオ録音アルバムはない。(『Amandla』(88-89)には以上のメンバーがみんな参加してはいるが、あくまでマーカス・ミラーのスタジオ・ワークを中心とした疑似バンド・サウンドである)
 本作はその最後のマイルス・バンドのライヴの模様を再現したアルバムであり、この最後のマイルス・バンドの演奏を記録した、いまのところオフィシャルでは唯一のアルバムといえる。

 本作は中山氏の『マイルスを聴け!』ではボロボロにケナされているアルバムだが、ぼくは好きだ。
 理由はいくつかある。まず第一に晩年のマイルスの姿がきちんと見れること。
 マイルスが最後にどんな音楽を作ったのかは聴きたいところだが、晩年(85年以後)のマイルスのスタジオ録音のアルバムは、どれも実質的にはマイルスのリーダー作ではない。マイルス名義でリリースされていても、実際は別人がすべてを作り、マイルスは既にできているカラオケに合わせてトランペットを吹くだけという作り方がされている。こういうものを聴いても、晩年のマイルスをきちんと聴いた気になれない。
 しかし、ライヴ・アルバムは違う。たとえ演奏する曲がすべて他人の作だったとしても、マイルス・バンドこそは、卓越したバンド・リーダーだったマイルスの「作品」だからだ。したがって、晩年のマイルスの「作品」を聴くなら、むしろライヴ・アルバムを聴くべきではないかと思う。つまり、このバンドでの演奏こそ晩年にはアルバムを自作しなかったマイルスの最期の「作品」ではないかと思う。これが第一の点だ。
 そして第二に、しかし、だからといって相当なマニアでもないかぎり、晩年のヨロヨロのマイルスのライヴ・アルバムをそう何枚も何枚も集めたくはない。だいたい同じようなメンバーのバンドの期間において、それぞれの曲についてベスト・トラックと思われる演奏をピックアップして編集した、本作のようなアルバムこそ重宝で、普通のファンであればこれだけで充分だろう、ということだ。

 さて、本作で聴かれるマイルスの晩年の姿とはどんなものだろうか。個人的感想でいわせてもらえれば、マイルスの衰え方は痛々しいばかりである。晩年とはいってもそれほど高齢ではないことを考えると、マイルスという人は早く衰える人だったようだ。麻薬等の影響もあるのかもしれない。
 しかし、マイルス最後のバンドにあたるこのバンドは、コンパクトにまとまったなかなか良いバンドだと思う。たしかに大物がゴロゴロいた過去の栄光のマイルス・バンドと比べてしまっては可哀想なところはある。しかし、それなりにバランスのとれた良いバンドであり、衰えたマイルスをよくフォローしているし "Human Nature" の後半でのケニー・ギャレットの爆走など、聴かせどころもある。
 正直いってミディアム〜アップ・テンポのナンバーはマイルス以外のメンバーの演奏でもっているように感じる。マイルスはようやくついていっているという感じで、引退を考えていたというのも頷ける。しかし、それでもバラード・ナンバーではまだまだマイルスもなかなかいい演奏を聴かせる。
 おそらくこの頃はもう、マイルスはバラードだけを吹いて、アップ・テンポの曲は他のメンバーに全て任せて、立ってるだけで良かったんじゃないかと思う。マイルスが立っている姿を見るだけでも客は満足したと思う。晩年のジャイアント馬場と同じだ。


04.12.13


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『ウェイン・ショーターの部屋』


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