ウェイン・ショーター、アルバム紹介 1968-69年


   『』この色で表記されたタイトルは、ショーター不参加の曲です。





   Miles Davis "Miles in the Sky"       (Columbia)
   マイルス・デイヴィス『マイルス・イン・ザ・スカイ』


01、Stuff
02、Paraphernalia
03、Black Comedy
04、Country Son

    Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ts)
    Herbie Hancock (p,el-p) Ron Carter (b)
    Tony Williams (ds) George Benson (g)  1968,1/5


 黄金クインテットは鉄壁の完成度を誇るバンドだった。しかし、ある事実があきらかになった。売れなかったのだ。
 そこで基本的に「ウケたい、売れたい」ミュージシャンであるマイルスは、バンドの主導権をショーターから奪い返し、テコ入れを図った。それが本作である。
 本作ではテコ入れ策として、一曲にエレクトリック・ピアノ導入。別の一曲にエレキ・ギターを導入している。

 そもそもマイルスは何をしようとしたのか。それには60年代の白人の音楽に対する嗜好の変化を見る必要がある。マイルスは白人にも売れる黒人音楽を追求した人だから、マイルスの音楽は白人大衆の好みの変化に対応して変化する。50年代までは、白人に好まれる音楽とは優美なオーケストラを使用した甘い音楽であり、マイルスは「白っぽい」ジャズをやっていた。
 しかし60年代、ビートルズとモータウンの成功以後はもっとノリがよくて黒っぽい音楽が白人に好まれるようになっていく。と、マイルスはそれまでの白っぽいジャズを捨てて、より黒っぽい路線へと方向転換した。つまり、いわゆるソウル・ジャズへの「転向」である。
 本作でマイルスがバンドに導入した楽器はエレキ・ギターとエレクトリック・ピアノ。ギターとオルガンの使用は60年代初期からルー・ドナルドソン等によってジャズに導入されたものであり、エレクトリック・ピアノはキャノンボール・アダレイのバンドにいたジョー・ザヴィヌルによって使用されていた。
 つまりここでマイルスが行ったことは特に斬新なことではなく、ソウル・ジャズをやっていたルーやキャノンボールの模倣である。もちろん黄金クインテットにそれらの楽器を導入するのだから、ルーやキャノンボールとは違う音楽にはなるのだが、少なくともこの時点では、マイルスは先行していたソウル・ジャズ路線の見習っていたにすぎない。
 ここで問題なのは、旧来の日本の凡庸なジャズ評論は、60年代のルー・ドナルドソンやキャノンボール・アダレイ等、黒っぽいソウル・ジャズのミュージシャンを軽蔑し、罵倒していたということ。しかし、マイルスがその真似をすると、それを野心的な試みとして絶賛してしまうことだ。つまり、ぼくが辟易するマイルス中心の凡庸なジャズ評論とはこのようなものだ。

 さて、このマイルスのテコ入れ、結果はどうだったのか。本作を聴くかぎり、失敗だった。はっきりいってショーター中心だった従来のアルバムのほうが断然上だ。マイルスが中心になることで、あきらかにレベル・ダウンした。
 しかし、ショーター中心では売れない事は結果が出ている。結局マイルスはこのままテコ入れを続け、やがてそれがいい結果ももたらしてくれるのだが、それは先の話。
 本作を聴くかぎりでは、本作がそれでもそれなりに魅力のあるアルバムだと思えるのは、前作までの黄金クインテットの残照がまだあるからだろう。

 まず一曲め、"Stuff"。エレピを使用した曲で、たしかにハンコックによる序奏には新味がある。ハンコック的な8ビートナンバーだがマイルス作。冒頭、同じテーマをえんえんと何回も繰り返すあたりでゲンナリとさせられる。"Nefertiti"が同じテーマの繰り返しでもあれだけ緊張感をはらみつつ盛り上がったのは、やはりテーマ自体の素晴らしさだったんだと思う。こちらは退屈なだけ。
 各人のソロに入れば悪いはずないのだが、そこまでが長い長い。この後のマイルス・バンドの曲には、このように意味もなく長くした大曲が増えてくる。なぜか、についての考察は『キリマンジャロの娘』の項に書く。
 次にショーター作の"Paraphernalia"。エレキ・ギターを導入した曲だが、リズムに斬新な試みがあり、そのリズムにミス・マッチなテーマ・メロディ展開も面白い。本作の中では最も野心的な最高作だろう。
 後半はリズム的も4ビートの『Nefertiti』の延長線的な曲となる。"Black Comedy"はそのまま『Nefertiti』にも入れられそう。ラストの"Country Son"はリハーサル・テイクがそのまま入ってしまったような曲で、いきなりマイルスのソロの途中から入り、すぐに終わってテーマ部もなくショーターのソロへ、さらに再びマイルスのソロへ進む。冒頭の中途半端なマイルスのソロをカットしてしまえば、ずっと完成度が高く見えるはずなんだが、どうしてこんなことをしたんだろう。マイルスが、自分のソロから曲が始まるんじゃなければ気が済まなかったんだろうか。


03.3.2


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Miles Davis "Filles de Kilimanjaro"    (Columbia)
   マイルス・デイヴィス『キリマンジャロの娘』


01、Frelon Brun
02、Tout de Suite
03、Petits Machins
04、Filles de Kilimanjaro
05、Mademoiselle Mobry

    「01」,「05」
    Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ts)
    Chick Corea (p,el-p)
    Dave Holland (b) Tony Williams (ds)   1968.9.24

    「02」〜「04」
    Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ts)
    Herbie Hancock (el-p)
    Ron Carter (b) Tony Williams (ds)    1968.6.19-21


 『Miles in the Sky』(68)、本作、『In a Silent Way』(69)を『Bitches Brew』(69)に至る過渡的な作品だと言ってしまう粗雑な批評に対して、それぞれが独自の世界をもっている作品であって、たんなる途中過程ではないとする意見があるが、個人的には確かに『Miles in the Sky』や『In a Silent Way』は過渡的と切ってしまえないものがあるが、本作は過渡的な作品だと言ってしまっていい気がする。
 つまり、『Bitches Brew』のようなサウンドを作ろうとして、そこまで至らなかったのが本作だと見える。
 では、なぜ『Bitches Brew』には至らなかったんだろうか。それはジョー・ザヴィヌルの不在が大きい気がする。マイルス本人が自伝で『Bitches Brew』時代の作品に対して、ザヴィヌルらとのコラボレーション作業であって、「オレのしたことと言えば全員を集めて少し何かを書いただけ」と語っているが、確かに『Bitches Brew』はマイルスの独力では作れなかった作品なんだと思う。ザヴィヌルを総指揮官に据えて、バンドにもっと多様なメンバーを集めて、マイルスは編集長的な立場で、こんな作品を作りたいという構想と指示をし、実際に音楽を作るのはザヴィヌルら他のミュージシャン……という体制が出来上がって初めて『Bitches Brew』が出来上がったのではないか。
 とはいえ、『Miles in the Sky』とちがって本作になるとマイルスが新しい何かに向かって進もうとしているのが見てとれ、マイルスが何をしようとしているのかが、途中過程ではあるけれども、よく見えるアルバムではある。
 そもそもマイルスは何かを完成させてから世間に出すというよりは、中途半端なかたちのままで世に出す人である。本作など、メンバー編成的にも新旧2つのバンドが入り乱れていて、それなら新しいバンドが固まってから新バンドでニュー・アルバムを作ればいいじゃないかと思うのだが、そういうことではないらしい。マイルスのアルバムにはこのような過渡的なメンバー編成の作品がこの他にもいくつもあり、おそらくそうすることに何らかの考えがあったのだろう。
 ショーター・サイドからいうと、前作『Miles in the Sky』まではマイルス・バンドでのショーターの影響力はまだ強かったが、本作あたりでマイルスの方向性が完全に前に出てきたことにより、本作以後のマイルス・バンドでのショーターの演奏は、サイドマンとしての演奏という位置づけになる。

 では、マイルスが本作でやろうとしたことは、どんなことだったのか。
 『Nefertiti』までのアルバムが澄み切った鋭さ、簡潔さ、美しさを指向しているとすれば、本作は濁った音、弛緩した構成、延々とした繰り返し、混沌といったものを意識的に指向している。音の輪郭は曖昧になり、16分以上もさほど劇的な展開もなく延々と演奏している曲などもある。
 これは(本人は認めないだろうが)コルトレーンがやり残したことを引き継ごうとしていたのかも知れない。フリー時代のコルトレーンと、『Bitches Brew』以後のマイルスは、非音楽的な絶叫演奏という点で共通する点があるし、マイルスがショーターからリーダーシップを取り戻して再びクリエイティヴになるのは、コルトレーンが亡くなった67年を起点としているのだ。
 マイルスはコルトレーンに「何でそんなにえんえんと演奏するんだ」と訊いたことがあるそうだが、このあたりからはマイルスのほうが「えんえんと演奏する」ようになっていく。
 とにかく本作を一聴して感じるのは、曖昧模糊とした、輪郭のハッキリしない、退屈な印象だ。とくにチック・コリアの入った新バンドでの演奏において曖昧模糊さが増す。
 また、本作ではマイルスが全曲作曲しているが、素直にいいと思える曲がない。なんだか古臭い印象の曲ばかりだ。あまりにも知的で先鋭的になりすぎていたバンドを、マイルスが古臭い曲を演奏させることにより、後ろへ引き戻そうとしているようにも見える。
 いっぽうリズム面では曲ごとにさまざまな試みをしている。

 "Frelon Brun"。チック、ホランドの入った新バンドでの演奏だ。オープニングは妙にいい加減で、ブートレグでも聴いているような気分になる。つづくマイルスのソロもなんだか冴えてない。しかし続いてショーターが怒ったような口調で異様な世界を描きはじめ、急に生気を帯びてくる。トニーは不必要なくらいに最初から最後までノリにノってる。ホランドのベースが気に入ったのかもしれない。チックはまだ始動してないかんじ。
 2曲めの"Tout de Suite"はハンコック入り旧メンバーの曲で、すると急に演奏に透明感が出てきて、オープニングは黄金クインテット時代に近い印象になる。途中からリズムが変化して、マイルスが登場。マイルスは一曲めよりずっといい。ショーターも好調。それとやはり、鋭くフロントと対話してくるトニーがいい。
 "Petits Machins"もまた新しいリズムの試みであり、フロント陣はこのリズムにどう乗りながらソロを展開するか試みているようでもある。
 表題曲"Filles de Kilimanjaro"はうってかわってスッキリした、どことなく古めかしい曲。テーマ部が退屈なうえ、長い。リズムは風変わりなものだが、定型を繰り返すだけで対話性がないので、トニーが退屈そうだ。各人のソロも妙に盛り上がらない。
 ラストの"Mademoiselle Mobry"で、再びチックら新メンバーが登場。
 こちらはどことなく知性をただよわせるバラード・ナンバーで、本作の収録曲のなかではテーマはいちばん好きだが、なぜかマイルスのソロがしょぼくれている。音も悪いし、ひらめきが感じられず、だらだらと音を出してるだけ。この日は調子がわるかったんだろうか。つづくショーターは安定しているんで、とりあえず安心させられる。チックも長いソロを弾くが、エレピを使い慣れてなくて、まだ何かを掴んでない印象。

 あらためて聴き直してみると、曲ごとに様々なリズムの叩き方を試みているトニーがいちばんイキイキとしているように見えるアルバムだ。


03.7.16


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   McCoy Tyner "Expansions"       (Blue Note)
   マッコイ・タイナー『エキスパンションズ』


01、Vision
02、Song of Happiness
03、Smitty's Place
04、Peresina
05、I Thought I'd Let You Know (C.Massey)

    Woody Shaw (tp) Gary Bartz (as,wooden flute-2)
    Wayne Shorter (ts,clarinet-2) Ron Carter (cello)
    McCoy Tyner (p)
    Herbie Lewis (b) Freddie Wats (ds)  1968,8,23


 マッコイ・タイナーのアルバムでは、ショーターは本作と『Extensions』(70) の2作に参加している。似たタイトルでちょっとややこしい。
 タイナーという人、コルトレーン・カルテットにいた頃はむしろ穏やかな個性が魅力で、カルテットを離れたリーダー作でも伝統的なスタイルのピアノ・トリオの作品を作っていた。
 それがコルトレーン・カルテットをやめた頃から少しづつ変わり始め、70年代に入ると、猪突猛進型のガンガン行くスタイルの作品を発表していく。個人的には、この70年代のタイナーがあまり好きではない。単なる好みで作品を評価する気はないが、あまり聴かないのでよく把握できてない部分は多い。
 ということで本作だが、冒頭の "Vision" にはもう70年代の猪突猛進型サウンドの色が見られる。そのため個人的にはこの1曲めで挫けてしまって、最初の頃はあまり聴かないアルバムだったのだが、2曲めから聴くとけっこう良いことを発見した。

 さて、本作は計7人の大編成もので、他の共演者としてはウディ・ショウとゲイリー・バーツが目をひく。特に不運な天才ウディ・ショウとの共演は、アルバムとしてリリースされている限り、唯一ではないか。
 ゲイリー・バーツはメッセンジャーズでもマイルス・バンドでもショーターの何代か後の後任になったアルト吹き。大成はしなかった感が強い人だが、演奏者としはいいジャズマンだと思う。
 また、興味が引かれるのは、ショーターが初めて手にした楽器であるクラリネットを演奏している事なのだが、それは "Song of Happiness" の1曲のみ、しかもテーマ部だけなんで、吹いているな……という程度で、期待度のわりにどうってこともない。
 それよりショーターめあてで聴くなら4曲めの "Peresina" がいい。素晴らしいソロをたっぷりと聴かせてくれる。
 その他の曲でも見せ場はいろいろあり、複数のフロントが同時にソロをとるなどおもしろい場面もある。
 最後の "I Thought I'd Let You Know" だけタイナーのオリジナルでなく、トランペッターのカル・マッセイの曲。ほぼ全編がタイナーのソロで、静かで美しい曲をしっとりと聴かせてくれる。この演奏を聴くと、タイナーはこのままのほうが良かったような気もするのだが……。ま、80年代以後戻ってくるようだけど。


04.1.9


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Miles Davis "In a Silent Way"        (Columbia)
   マイルス・デイヴィス『イン・ア・サイレント・ウェイ』


01、Shhh / Peaceful
02、In a Silent Way / It's About That Time

     Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ss) 
     Chick Corea (elp) Herbie Hancock (elp)
     Joe Zawinul (elp,org) John McLaughlin (g)
     Dave Holland (b) Tony Williams (ds)    1969.2.18/20


 本作からジョー・ザヴィヌルがマイルス・バンドの新しいブレーンとして加わり、以後数年間のマイルス・バンドのスタジオ録音はマイルスとザヴィヌルのコラボレーション作品となる。
 なかで本作は『キリマンジャロの娘』(68)から『Bitches Brew』(69)へ続く路線から外れた作品である。それらが混沌・濁り・躍動感を指向しているのに対して、本作は美しく澄み切って、静寂感に満ちている。しかし、ショーター中心だった黄金クインテット時代の神秘的な雰囲気、張りつめた緊張感はなく、大自然の中にいるようにみずみずしさがある。なにか、音で描いた風景画のような世界である。
 マイルスばかり聴いていた頃は本作が何でこの時期に作られたのかわからなかったのだが、ザヴィヌルのソロ・アルバム『Zawinul』(70) を聴いてその謎が解けた。本作はザヴィヌルの作品世界が展開されたアルバムだったのだ。
 本作のような音楽を何と呼べばいいのか。ザヴィヌルはソロ作『Zawinul』で「トーン・ポエム」という言葉を使っているし、マイルスも自伝のなかでこの言葉を使っているので、この言葉を使うことにする。
 本作はマイルスのアルバムの中で孤立した作品だという評があるようだが、マイルスのアルバムだと思うから孤立して見えるのだ。本作に連なるトーン・ポエム作品を聴きたければ、ザヴィヌルの『Zawinul』(70)、あるいはウェザーリポートの1stの"Orange Lady"などのザヴィヌルの作品を聴いていけばいい。
 おそらくマイルスはザヴィヌルという才能を見つけたとき、まずザヴィヌルが自由に作りたいようにやらせてみて(それが本作)、その後から自分が作りたいサウンドをザヴィヌルとの共作で作り上げていったのだと思う(それが『Bitches Brew』)。
 本作の理解を妨げているのも、ジャズ評論家の救いがたいマイルス中心主義。マイルス・バンドの作品はすべてマイルスが創造したものだとする固定観念だ。
 事実はマイルス・バンドの作品は、それぞれの時代にマイルス・バンドに在籍したミュージシャンたちの共同制作である。もちろんマイルスの色が強く出た作品もあるが、マイルスがサイドマンもしくは職業的プロデューサー的立場まで引いて、他のメンバーの色が強く出た作品もいくつもある。

 さて、それはそうと、本作は革新的な内容をもったアルバムであり、このセッションでは2つの新しい試みがなされている。
 一つは本作のセッションあたりからマイルス・バンドは、これまでのように曲を完成させてから演奏・録音するのではなく、スタジオで演奏された音をリハーサルを含めて全て録音し、その録音からいい部分だけをとり、並べ変えたり、同じ所を二度使ったりするなどして、編集作業によって曲を完成させるという方法とりはじめたということだ。
 なお、この編集作業はプロデューサーのテオ・マセロによって行われていた。そのため、本作からのマイルスのアルバムはテオ・マセロとのコラボレーション作品だということもできる。
 そしてもう一つはサウンド指向とでもいう点だ。つまりこれまでのジャズではリズム・セクションはドラム、ベースにピアノの3人というのが基本で、ときにはピアノ抜きで2人という例もあった。しかし本作ではドラム、ベースにキーボード3台にさらにギターと6人がかりでリズム・セクションを形作っている。多人数でこれまでにない多彩で広がりのあるサウンドを作り出していこうという試みであり、そのサウンド作りを担当していたのがザヴィヌルであると見ていい。
 さて、なぜこれまでのジャズが2、3人のリズム・セクションでやってきたのかというと、たしかに人件費が安くつくという理由もあるだろうが、もっと大きな音楽的理由として、人数が増えすぎると演奏中に他のメンバーがどんな演奏をしているのかが聴きとりにくくなるという点がある。つまりインプロヴィゼーションの対話性を重視するなら、リズム・セクションの人数を増やすことはかえってマイナスになる。
 しかしマイルスがあえてここで6人でリズムを演奏させたという事は、インプロヴィゼーションの対話性よりサウンドの厚み、多様性を重視したこということだ。
 そして、このようなサウンド重視の手法で『キリマンジャロの娘』のような音楽を鳴らしたのが次の『Bitches Brew』だと見ていいだろう。

 さて本作の内容だが、上記のとおりここでの主役はソロ奏者よりもむしろバックのリズム・セクションであり、トニーの刻むシャリシャリと氷を踏むようなリズムや、遊び戯れるように奏でられる3台のキーボード、それにからむマクラフリンのギターと、雪の溶け残った北欧の草原を妖精が飛び交っているようなサウンドを楽しむのが本筋だろう。
 そこに登場する牧神の笛のようなショーターのソプラノも、出番はそれほど多くないものの情景に似合っている気がする。この後ショーターとザヴィヌルがバンドを組むことになるのも理由のないことではない。
 むしろマイルスのトランペットが、、トランペッターなら誰でもいいという程度の活躍しかしてないような気がする。『In a Silent Way Box』を聴くと、本作収録の両曲で、マイルスのソロはいずれも同じソロが1曲のうちで二回使われ、編集で無理からに長く吹いているように見せかけられているのだが……。
 やはりこの頃マイルスが目指していたのは、次の『Bitches Brew』だったのであり、本作の世界はマイルスから見れば借り物、ザヴィヌルの音楽世界をベースにやってみましたという程度のものだったと思われる。
 マイルスどアップのジャケットと対照的に、本作はマイルス色がかなり薄く、ほんとうは出番も少ない作品といえる。本作は純粋に、マイルスの胸を借りることで実現したザヴィヌルの世界を楽しめばいいのではないか。

 ところで本作はショーターのソプラノの初録音にあたるわけだが、すでに見事なまでに自分のものにしている。もちろん最初からうまかったわけではなく、自分のものにするまでは、中途半端なかたちで世に出そうとはしなかったのだろう。ショーターの性格がうかがえる。


03.3.26


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Miles Davis "1969 Miles"         (SME)
   マイルス・デイヴィス『1969 マイルス』


01、Directions
02、Miles Runs the Voodoo Down
03、Milestones
04、Footprints
05、'Round About Midnight
06、It's About That Time
07、Sanctuary / The Theme

     Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ss,ts)
     Chick Corea (elp) Dave Holland (b)
     Jack DeJohnette (ds)   1969.7.25


 『Bitches Brew』前後のこの時期、マイルスはスタジオではザヴィヌルを指揮官に据えて、多数の流動的なメンバーを使って実験色も濃い編成をいろいろ試しながら録音していたが、ライヴでは従来通りクインテットで活動していた。その編成は黄金クインテットからショーターだけを残して3人のリズム・セクションが入れ替わった本作の編成だ。
 このクインテットではスタジオ録音はなく、リアルタイムでリリースされたライヴ盤もなく、以前は「幻のクインテット」と呼ばれていたらしい。自伝ではマイルスはこのクインテットの素晴らしさを賞賛し、ライブ盤を出さなかったのはコロンビアの失態だといっている。
 しかしその後、この時期の録音は発掘・リリースされて、現在では数種類のオフィシャル盤で聴けるし、ブートレグもけっこう出ている。ショーター目的でマイルスを聴くなら、『Bitches Brew』よりもこれらライヴ盤を聴いたほうがショーターのソロも長く聴けるし、ベニー・モーピンのバスクラも聴かなくてすむ。
 その中で、ためしにどれか一枚聴いてみたいと思うなら、最初は本作でいいと思う。理由は録音がいいからで、発掘ものとは思えないほどのオフィシャル並みのクオリティだ。演奏自体も充分に及第点。

 さて、『Miles in the Sky』やとくに『キリマンジャロの娘』以後のマイルス・バンドではマイルスがショーターから主導権を奪いかえし、ショーターはサイドマンにすぎない役割になっていったと言われている。
 バンドの方向性においてはその通りだったと思う。
 しかし、演奏においては、特にライヴでの演奏においてはショーターはマイルス・バンドを離れる直前までバンド・サウンド全体に影響をおよぼしていたと見るほうが正しいようだ。
 どこをとってそういっているのかというと、サウンド全体に漲る陰鬱でダークな緊張感である。つまりショーターが抜けると同時にマイルス・バンドのサウンドは軽快で明るいものに変化していくのだ。
 本作などもショーターの影響力によって全体にダークな霧が立ちこめていて、そのぶんショーター・ファンでない人には親しみにくい点もあるかもしれない。

 また、この頃の特にライヴ盤からマイルスの演奏スタイルが変わってくる。音楽を奏でるというよりは、音そのものを叩きつけていく、パーカッションのような奏法になっていく。つまり力強くて迫力があるのだが、冷静に聴くとたいしたフレーズを吹いているわけではない。音をぶつけてるだけだ。
 といっても従来とおり、あらかじめ考えてあるキメのフレーズは吹くので、まったく音楽的でなくなるわけでもないのだが、基本的にはメロディ楽器のソロというより、ドラム・ソロの感じに近づいていく。非音楽的な絶叫スタイルといっていい。
 このマイルスの気迫によって、この時期のマイルス・バンドのライブはいやがおうにも盛り上がっていく。もしぼくもこの頃のマイルス・バンドのライブを実際に見ることが出来ていたら、マイルスの迫力に圧倒されていただろう。
 しかし、正直いってCDでそんなに繰り返し聴きたいものでもない。ドラム・ソロをCDではそんなに聴きたいと思わないのと同じだ。迫力があるだけで、じっくりと聴いていても何かがえられる気がしない。あくまで音楽的な非絶叫スタイルをとるショーターが、やはり好きだ。

 1曲めはザヴィヌルの"Directions"。イントロから新参加のデジョネットが叩きまくり暴れまくる。煽られたようにマイルスもショーターもブロウ、という展開。マイルス・バンドの熱血時代の始まりだ。そのままメドレーで"Miles Runs the Voodoo Down"へ。『Bitches Brew』より熱い演奏が続く。マイルスの音はエフェクターをかけたのか、太い音に変化している。
 つづく"Milestones"は以前どおりのクールな演奏。以前のマイルス・バンドを期待するファンへのサービスか。しかしマイルスは熱くなりたくてしかたなく、ショーターが横目で「この曲でそんな熱くなっても仕方ないだろ」といってるような雰囲気。
 つづく"Footprints"、"'Round About Midnight"は新バンド用に熱く作り直されてるかんじ。そして再び"It's About That Time"で最高潮に達して、"Sanctuary / The Theme"でクール・ダウンという流れだ。
 
 ず太い音で鈍牛のようにずんずん突っ込んでいくマイルスに対し、ショーターはテナーで怒涛のように対抗したり、ソプラノでひらひらっと軽やかかわしたり、いろいろな奏法を試みている。ショーターはソロ作では知的でクールなスタイルを身上としているので、このような熱いブロウをすることは多くなく、その意味ではこの頃のマイルス・バンドの録音は貴重だといえる。
 しかし、このような、とにかく熱くなってガンガンやってればいいタイプの音楽はもともとショーターの体質には合わないはずで、ショーターとしては『Super Nova』等への展開をもう考えていたのだろう。


03.7.18


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Miles Davis "Bitches Brew"      (Columbia)
   マイルス・デイヴィス『ビッチェズ・ブリュー』


Disc-1
01、Pharaoh's Dance
02、Bitches Brew

Disc-2
03、Spanish Key    
04、John McLaughlin   
05、Miles Runs the Voodoo Down
06、Sanctuary

     Miles Davis (tp-omit 4) Wayne Shorter (ss,ts-omit 4)
     Bennie Maupin (bcl-omit 6) John McLaughlin (elg)
     Chick Corea, Joe Zawinul (elp) Larry Young (elp-1,3)
     Dave Holland (b) Harvey Brooks (elb-omit 4)
     Jack DeJohnette (ds) Lenny White (ds-omit 5)
     Don Alias (ds,cga) Jim Riley (per)     69.8.19-21


 いわずと知れた大作。
 ものを作る作業は何でも最初の立ち上げの時が一番大変で、一度立ち上がってしまえば、あとはルーティン・ワークでもそこそこ行くことが出来る。
 本作でマイルス=ザヴィヌル・バンドは、今後のマイルス・バンドの基本というべきスタイルを立ち上げた。その後、マイルスは『On the Corner』でさらに新しい路線への変換を図るが、長続きせず、本作で敷かれたレールへと戻っている。80年代に復活した後も、この70年代のスタイルが基本となっているように思える。つまり、この後のマイルス・バンドのスタイルはここで立ち上がったと見るべきで、やはり重要な作品に違いない。
 本作で作り上げられたサウンドを一言で表現するなら、ジャングル・サウンドといったところか。混沌として、濁った、それでいて熱いリズムを持つ音楽である。
 このようなサウンドをおそらくマイルスは『キリマンジャロの娘』でも創ろうとしていたんだと感じられる。しかし、『キリマンジャロの娘』が中途半端な成果しか得られず、本作でサウンドの完成を見た理由は、おそらくマイルスが独力で創り上げようとはせず、ザヴィヌルらに任せた点が大きいだろう。
 この時期のマイルス・バンドの作品を、マイルスは自伝で「ザヴィヌルやポール・バックマスターといった人々とのコンビネーションであり、オレのしたことと言えば全員を集めて少し何かを書いただけだ」と語っている。というと、マイルスはほとんど何もしていないのかとも思えるが、ぼくはこの「全員を集めて少し何かを書いた」ことがけっこう重要なのだと思う。
 マイルスはクリエイターというより、編集者的なセンスに恵まれている面の大きいミュージシャンで、マイルス・バンドが上手くいくのはマイルスがバンドの編集長的な立場に立っていた時期が多いように思える。
 つまり雑誌に例えるなら、マイルスが自分で原稿を書いて本にするのではなく、マイルスはテーマを企画し、その企画に合ったライターを集めてくる。そして原稿を書く実作業はだいたい彼らに任せ、マイルスは出来上がってきた原稿に目を通し、ダメ出しを繰り返しながら、全体をマイルスが企画したイメージに近づけていく……というような作業によって音楽を創っていく方法だ。
 ということで、本作でマイルスに新しい指揮官として選ばれたのはザヴィヌルで、 ザヴィヌルの力によって、マイルスが『キリマンジャロの娘』の頃からやりたかったサウンドが完成を見たわけだ。具体的にいうとメンバーが一気に11〜13人ほどにまで増え、構成的にサウンドを作っていくところや、ファンキーなリズム等、音楽の全体像作りの部分がザヴィヌルの仕事といえる。

 さて、本作を聴いてみよう。
 結局本作でいちばん印象に残るのは、4人のドラムス/パーカッション、2人のベース、曲によって最大3人まで増えるエレピ、リズムギターらが繰り出すゴチャゴチャしたリズムであって、ホーン奏者で一番目立つのは、グネグネ、ドロドロと気味の悪い音を出すベニー・モーピンのバスクラかもしれない。もっともそれは効果音として目立つだけで、モーピンのソロが目立つわけではない。同様にマイルスのソロだって、これまでのものと比べて特に良くなっているわけでもない。つまり、各奏者のソロというより、音楽全体のコンセプトを楽しむべきアルバムだろう。
 ということでショーターも、出番が少ないこともあり、漠然と聴いていて印象に残ったという人は、おそらく少ないだろう。しかし意識して聴けばけっこうおもしろい演奏をしてることに気づく。全体的に見て、一定した奏法のマイルスに比べて、むしろショーターのほうが(出番自体は少ないが)いろんな吹き方を実験的に試みている気がする。ソプラノ・サックスを使いはじめてまだ間もないこともあり、いろいろな奏法を試していたのかもしれない。
 まず、前半の"Pharaoh's Dance"と"Bitches Brew"。ソロはごく短いが、鬱蒼とした密林で妖精に出会ったような清涼とした気分になる。マイルスのトランペットは密林に谺する猿の鳴き声といったところか。モーピンはぶくぶく泡の浮かぶ沼のようだ。
 つづく"Spanish Key"が本作中ショーターがもっとも活躍する曲で、そのまま本作最大のクライマックスだと、個人的には思う。
 "John McLaughlin"は"Bitches Brew"をマクラフリンのソロ中心に再編集したもの。
 そして続く"Miles Runs the Voodoo Down"はもう一つのクライマックスだと思う。いままでの熱狂が嘘のような不気味な静けさのなか、ここでも本作中ではわりとしっかりとショーターのソロが聴ける。
 そしてラストの"Sanctuary"だ。あるいはこの作曲は本作に対するショーターの一番の貢献というべきなのかもしれない。が、ぼくはこの演奏は好きではない。
 どうもマイルスという人は、ミュージシャンの中ではあまりリズム感が良くない人だと思う。リズム感の良し悪しがハッキリと出るのは、ゆっくりしたテンポの演奏だ。リズム感の悪い人があまり遅いテンポで演奏すると、リズムがスカスカになってしまう。例えばチャーリー・パーカーのバンドのバラード演奏で、ソロがパーカーからマイルスに変わった途端、リズムがだらっと間延びしたように感じる。ショーターの『Super Nova』の"Swee-Pea"などでの演奏が、もっとゆっくりしたテンポでも、リズムがびっしりと詰まっているのと対照的だ。
 この"Sanctuary"の演奏は。マイルスにはテンポが遅すぎる。

 最後に、正直な感想を書かせてもらうと、現在では個人的には本作をそんなに名作だとも思えない。なんだか安っぽい効果をねらい過ぎの、ワザとらしい部分が鼻についてきてしまってるからである。


03.7.16


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Wayne Shorter "Super Nova"      (Blue Note)
   ウェイン・ショーター『スーパー・ノヴァ』


01、Super Nova
02、Swee-pea
03、Dindi
04、Water Babies
05、Capricorn
06、More Than Human

    Wayne Shorter (ss) Sonny Sharrock (g) 
    John McLaughlin (g-2.4.5) Walter Booker (acg-3)
    Miroslav Vitous (b) Jack DeJohnette (d) Chick Corea (d, vib)
    Airto Moreira (per-3.6) Maria Booker (vo-3)    1969.8.29 / 9.2


 本作は『Bitches Brew』と並んでジャズに革命を起こした作品だといわれている。浅薄な理解だと思う。本作は『Bitches Brew』とは骨の髄から違う……とうより、骨の髄が特に違う作品だ。実は表面もけっこう違うが。
 でも、そのような事が言われる理由もわからないではない。リアルタイムで知っている世代にとっては、『Bitches Brew』と本作の2作がほぼ同時期に、従来のジャズの枠を破る衝撃的な作品として、並んで出てきたように見えたようだ。しかしこの両作に共通する要素は、楽器編成やサウンドが従来のジャズの枠を破っているという一点だけであって、それ以外はパッと見の印象以上に根本から違っているまったく別のものだ。
 また、『Super Nova』が『Bitches Brew』から影響を受けていると言うことは間違いだろう。『Bitches Brew』のセッションが行われたのが69年の8月19、20、21日の3日間。『Super Nova』の録音は同年の8月29日と9月2日の2日間と、10日ほどしか離れていない。ショーターが時間をかけて作編曲を行うタイプであることを考えれば、『Bitches Brew』が録音された頃にはもう『Super Nova』の構想は出来上がっていたはずである。ショーターが『Bitches Brew』へ至るセッションからインスパイアされた事は考えられるが、この2作はほぼ同時に、並行して出来上がっていったと考えるほうが妥当だ。

 さて、では『Super Nova』と『Bitches Brew』はどこが違うのだろうか。
 たとえば『Bitches Brew』を聴いて、凄い、過激、カッコいいと思うのは正しい反応だといえる。なぜなら、いままでにない斬新で強力なサウンドを作り出そうということが、マイルスのねらいだからだ。
 が、本作を聴いて、凄い、過激、と感じるのは正しくない反応だ。本作を聴いたときは、心地良い、この世界に浸っていたい……と思わなければ、本作を味わったことにはならない。なぜなら本作は斬新で強力なサウンドが目的で作られた作品ではなく、色彩豊かに表現力を増したサウンドで、ショーターの好む世界を描き出すことを目指して作られた作品だからだ。つまりマイルスの目的はインパクトのあるサウンドそのものであるのに対し、ショーターの目的は色彩豊かな美しいサウンドで自分の世界を描き出すことにあり、そのサウンドに衝撃を感じるかどうかは聴き手の勝手な印象であって、作品の目的ではない。
 この違いは大きく、重要だと思う。それはクリエイターの創作の目的そのもの違いだからだ。
 例えばオーネット・コールマンの『フリージャズ』は「心地良い」と感じるのが正しい反応だが、『フリージャズ』の影響を受けた多くの作品は「凄い」と思わせようと作られている。多くのミュージシャンたちは『フリージャズ』にこれまでにない斬新な音楽のスタイルを見て、その過激さを自分も見習おうと思ったからだ。しかしオーネット・コールマン自身はべつに斬新で過激な音楽を作ろうとして『フリージャズ』を作ったわけではない。『フリージャズ』を構成する様々な要素はそれまでにオーネット自身がいろいろなかたちでやってきたことであり、『フリージャズ』はそれらを統合しただけである。そして『Dancing in Your Heads』以後の比較的わかりやすいといわれる時代の作品でも、『フリージャズ』の各要素は簡単に見出せる。『フリージャズ』はオーネットの作品の流れのなかに無理なく位置づけられる作品であって、格別変わったことをした作品でもない。
 表面的な類似のわりに、『フリージャズ』とその影響を受けた作品が本質的にはあまり似ていないように、『Bitches Brew』と『Super Nova』も実はあまり似ていない。
 「本作は60年代末の過激な時代の空気の中でこそ傑作とされていた」という人もいるのだが、別の意味では真実じゃないかと思っている。つまり、当時のリスナーは本作の真価など理解せず、たんに衝撃的で過激だったから聴いていただけではないか。
 生意気にもそんなことを思うのは、本作が『Bitches Brew』と比べても凄すぎるからだ。大衆演芸的な通俗的な香りもぷんぷんする『Bitches Brew』と比べ、本作はまさに凍るような夜空に輝く孤高の星である。本作の真価を理解できていたら、とても本作を『Bitches Brew』と並べてなんか語れまい。

 本作の内容にうつろう。
 本作はショーターが従来のジャズの枠組みを壊し、新しい楽器編成で、新しいサウンドを目指した三部作のうちの第一作である。
 『Schizophrenia』の後アルバムがなく、いきなり本作になるので、聴いている方としては一体どうしてこうなったんだと思い、過剰にマイルスの影響では……と思ってしまう者もいるのだが、この後もショーターは作風を変化させるとき、途中過程的な作品はいっさい出さず、従来とまったく違った作風の作品世界をいきなり完成されたかたちで提示してくる……という方法を続けていく。(詳しくは別項で扱う)
 途中過程を見せず、いきなり完成された形で……というのは、19歳の時にプロ・デビューの話を蹴った頃からの、ショーターのやり方のようだ。(しかし、いきなり、あまりにも完成されたかたちで変化するので、ショーターの考えの変化が捉えにくく、ついていけないファンも多く出てくるのだが)

 さて、では『Bitches Brew』とは違う流れで完成された、本作のサウンドとはどういうものなのか、特徴を見ていってみよう。
 まず、本作で使用している楽器だ。エレクトリック楽器を多量に使用したことに意味があった『Bitches Brew』に対し、ショーターがこのアルバムで新しく使用したのは、実はジャズのジャンル内でも以前から使われていた楽器ばかりだ。『スーパー・ノヴァ(超新星)』が衝撃的だったのは、とうに使い古された楽器の組合せで、まったく新鮮なサウンドを創出したことにある。
 また、『ビッチェズ・ブリュー』のおもな霊感源がファンク、ロックなど当時流行で勢いのある(白人に売れる)音楽であるのに対して、『スーパー・ノヴァ』が霊感源にしているのは、フリー・ジャズとブラジル音楽だろう。
 とくにブラジル音楽の要素はこの後、ウェザーリポートも含めて、70年代いっぱいショーターの音楽の重要な側面となる。しかし、このアルバムではブラジル色といっても、快楽的で楽しげな雰囲気は微塵もない。強烈な光線と深い影、濃密な暑さと、通りぬける風を感じさせる。
 特筆したいのはリズムだ。ドラム、パーカッションが乱れ打ちされるブラジル的リズムはこのアルバムあたりからはじまり、ウェザーリポート時代にファンキーなベース・ラインと合体して、グループのトレードマークのようになっていく。

 曲を見ていこう。
 アルバムはいきなり、冒頭の"Super Nova"の風雲急を告げるといった勢いで始まる。落ちつきのない、せかされているような感じ、過激に不安感を煽りたてていく色調がこのアルバムの基調だろう。
 ここにも本作が近づきがたくなる理由がある。はじめからいきなりテンションが高すぎるのだ。もっとおだやかに始まってだんだんテンションを上げていくのならリスナーもついていきやすいのだが、気持ちの準備もできていない所に、いきなり凄いテンションだ。ここでリスナーは多くふるい落とされてしまう。
 しかし、ついていけさえすれば、ころほどカッコいいオープニングもない。まるで、人間の情も魂も通用しない異様な空間に、いきなり突っ込んでいくようだ。
 次の"Swee-Pea"。手に汗を握る緊張感から一転して、怖ろしいほどの凪の状態。無重力空間にぼんやりと浮かんでいるような異様な世界で、いわゆるバラードというのとはまったく別のものになっている。
 一般的にミュージシャンのリズム感の良さは、バラードの演奏を聴くと一発でわかるといわれている。リズム感の悪いミュージシャンは、テンポを落とすと、リズムかスカスカになってしまうのだ。
 この"Swee-Pea"の演奏を聴くと、ここまでテンポを落としながらもリズムがギッシリと詰まっていて、ここでもショーターの優れた資質がうかがえる。『Bitches Brew』の"Sanctuary"でのリズムがスカスカなマイルスの演奏と聴き比べてみてほしい。(トランペットとサックスという楽器の違いではないかと思う人は、リズム感の良いトランペッターであるサド・ジョーンズの、例えば有名な『The Magnificent Thad Jones』(56)のCDにボーナス・トラックとして入っている"Something to Remember You by"と聴き比べてみてほしい。ギター一本を伴奏としたバラードでも、リズムがギッシリと詰まっている)
 タイトルのスウィー・ピーはビリー・ストレイホーンのニックネームだが、『Water Babies』のヴァージョンではスウィート・ピーとなっている。間違いだとうか、題名を変更したんだろうか?
 続く"Dindi"はブラジル色を強く出したナンバー。最初のリズミックな部分が"Swee-Pea"の後だけに不気味な雰囲気を出していて、ボーカルがギター一本で美しく入り、また、リズミックなパートへと展開していく。ショーターは最後のパートで活躍。
 この曲でボーカルをとる Maria Booker はブラジル系の歌手だが、ブラジル音楽では同じ黒人音楽でもアメリカの黒人音楽とは「うまい歌い方」の基準が違うのではないかと思う。あきらかにアメリカのソウル、ブルース系の歌手とは違う声の出し方、違う歌いまわしをしている。この後もショーターは『Native Dancer』でのミルトン・ナシメント、『Atlantis』での子供っぽいコーラスなど、アメリカのうまい歌手とは違ったタイプのボーカリストを起用している。ショーターは絶唱型の演奏スタイルに対してクールな演奏スタイルを確立したレスター・ヤングから大きな影響を受けたサックス・プレイヤーだが、歌手に関しても声を張り上げるタイプより、こういったタイプのボーカルが好きなようだ。
 そして多分このショーターの好みがチック・コリアの『Return to Forever』のフローラ・プリンの参加へと影響を与えているのではないか。フローラ・プリンは『Return to Forever』後の最初のソロ・アルバム『Butterfly Dreams』(73) でこの "Dindi" を歌っているのが象徴的だ。
 "Water Babies"ミディアム・テンポのワルツ。ソプラノ・サックスを使用している他はこれまでのショーターのジャズ・ナンバーに近い、オーソドックスな曲だ。本作のなかでは最も親しみやすい曲だろう。それにしても、典雅で優美にして繊細なメロディだ。こんな曲を書けるショーターは凄いと再認識する。
 "Capricorn"から再び異様な世界に突入する。岩のようなゴツゴツしたリズムにショーターのソプラノの細い音がからんでいく……。『Alegria』(03)のライナーノーツによると、この曲はショーターが18歳か19歳のとき見たオペラから霊感を得たもので、『Water Babies』(67)収録版が初録音、本作、『Alegria』収録の"Capricorn 2"を経て、最終的には30分ほどのオペラとして完成する予定なんだという。
 ラストはシオドア・スタージョンのSF小説のタイトルをそのままとった"More Than Human"(『人間以上』)となる。これまた本作を締めくくるのに相応しい、フリー的で、リズムもショーターも暴れ回る異様な世界。
 ところで、天才黒人SF作家、サミュエル・R・ディレイニィの傑作『ノヴァ』が発表されたのが68年。『Super Nova』というタイトルはそこからとっているんだろうか。少なくとも、本作がショーターのSF趣味を初めて全面的に展開させたコンセプト・アルバムであることは間違いない。

 いま、本作を聴きながら本稿を書いているが、いやはや、何度聴いても身が震える。人間の想像力の限りをつくしたような傑作だ。


03.6.17


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Miles Davis "Double Image"       (Ninety-One)
   マイルス・デイヴィス『ダブル・イメージ』


01、Medley : Free Improvisation
      / 'Round About Midnight
      / Masuqualero

     Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ss,ts) 
     Chick Corea (elp) Dave Holland (b)
     Jack DeJohnette (ds)     1969.10.27

   Miles Davis "Gemini"           (Ninety-One)
   マイルス・デイヴィス『ジェミニ』


01、Medley : Bitches Brew
      / Miles Runs the Voodoo Down
      / Footprints
      / Sanctuary

     Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ss,ts) 
     Chick Corea (elp) Dave Holland (b)
     Jack DeJohnette (ds)     1969.10.27


 もともとは『Double Image』 (Moon) というタイトルでブートレグとして出ていたもの。後に2枚に分けられ、『Gemini』と『Double Image』というタイトルでオフィシャル化され、日本盤も出たので、このオフィシャル版のほうのタイトルで書いておく。
 これはいわゆる「幻のクインテット」ものとしては最初期に出た音源のようで、しかも演奏も良く、音質もこの手の発掘モノとしては充分な及第点ということで、かなり評価が高かったようだ。
 しかし現在ではこのバンドでのライヴ盤はオフィシャルでもブートレグでも多数リリースされ、『1969 マイルス』等もっと良い音質で聴ける。では本作の価値は相対的にぐっと下がったのかというと、それでも2つの点で大きな価値があると思う。
 まず一つは、録音バランスの良さだ。この「幻のクインテット」のライヴ盤は、『Paraphernalia』(70) や『Fillmore East』(70) 等、なぜか録音バランスが悪くて、ショーターの音がオフ気味で、マイルスより遠くで吹いているように聴こえるものが多い。しかし、本作ではショーターのサックス音の輪郭もクッキリしていて、音量的にもマイルスと並んで吹いているように聴こえる。
 二つめは、この時期、マイルスは非音楽的な、音そのものを叩きつけるような、パーカッション的な奏法に変化していってるのだが、本作でのマイルスは、わりと音楽的なソロをとっている。めずらしくクリエイティヴなのだ。
 そのため、マイルスのソロをカットしようとか、そんなことを考えずに、そのまま聴きたくなる。へんなストレスを感じずに聴けるのだ。
 そういうわけで、やはり本作はこの時期のマイルス・バンドのライヴ盤のなかでは、かなりいいほうの一枚とはいえそうな気がする。


03.5.9


『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Miles Davis "Spanish Key"       (Lfye)
   マイルス・デイヴィス『スパニッシュ・キイ』


01、Miles Runs the Voodoo Down
02、No Blues
03、I Fall in Love Too Easily / Sanctuary / The Theme
04、Directions   
05、Bitches Brew   
06、It's About That Time   
07、Sanctuary   
08、Spanish Key   
09、Miles Runs the Voodoo Down / The Theme

    「1」〜「3」
     Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ss,ts) 
     Chick Corea (elp) Dave Holland (b)
     Jack DeJohnette (ds)      1969.11.2


 これはブートレグ。
 冒頭3曲がショーター在籍時の69年のライヴ、残りはキース・ジャレットとチック・コリアの2人が揃ってた70年のライヴの、2つの音源を一枚に入れたCD。
 曲数からいうと冒頭3曲はほんの付け足しのようだが、演奏時間からすると冒頭3曲の合計が36分半、残り6曲の合計が42分ぐらいと、けっこう半分近くはショーター入りバンドの演奏が聴ける。
 だからといって、本作を勧める気はない。
 まず音が悪いし、同じメンバーでのライヴは現在では数種類出ていて、もっといい音質で聴けるので、マニア、コレクターでないかぎり手を出す必要はないと思う。ま、演奏自体がわるいということではないが。
 別項、『Paraphernalia』の前日のライヴだ。





『ウェイン・ショーターの部屋』

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   Miles Davis "Paraphernalia"         (JMY)
   マイルス・デイヴィス『パラフェルナリア』


01、Directions
02、Bitches Brew
03、Paraphernalia
04、Riot
05、I Fall in Love Too Easily / Sanctuary
06、Miles Runs the Voodoo Down / The Theme

     Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ss,ts) 
     Chick Corea (elp) Dave Holland (b)
     Jack DeJohnerre (ds)    1969.11.3


 クレジットによればパリでのライヴを収録したブートレグ。録音バランスが悪く、ショーターのソロがオフ気味。マイルスより遠くで吹いているように聴こえ、悲しくなる。そのためショーター中心に聴くにはやはりマイルスのソロをカットしてから聴いたほうがいい。
 しかし、興味深いライヴだ。というのも、本作でのショーター、マイルスの音楽に完全に飽きちゃっているのだ。とにかくソロが遊びっぱなし。いつも通り熱血ど根性路線で突き進むマイルスに対して、ショーターはヒラヒラッとクールに薄笑いのようなソロで応える。あれよあれよとハズしまくり、駆け巡る。「こんな演奏、つまんないから、もっと面白いことしようよ!」という声が聞こえてきそうだ。
 これはデヴュー直後のウィントン・ケリーやメッセンジャーズのアルバムで、50年代的な古いスタイルの曲をやる時にやっていたのと同じ、興味がもてない曲を演奏しなければならないんで、ソロの部分でハズしまくって、別の世界を作ってしまう吹き方だ。マイルス・バンドでも加入直後の『ベルリン』の「枯葉」などはこんなやり方だった。鈍牛のようなマイルスの突進ぶりにも魅力は感じるが、やはりショーターの演奏はさらにおもしろい。
 実際もう『Super Nova』も録音してしまったショーターにとっては、いまさらマイルス・バンドでもないというのが本音だったんだろう。リズムにのせて各奏者が順番にモノローグ型のソロをとっていくだけ……といった形式にもあきあきしてしまっていたのだ。対話から生まれるスリリングな音楽をやりたいと思っていたのだ。
 しかし、マイルスには逆立ちしたって対話型ソロの演奏は無理だ。モノローグ型のソロしか演奏できない人である。ということは、もうショーターにとってはマイルス・バンドの音楽は魅力的ではなくなっていたことを意味し、ショーターのマイルス・バンド時代がいよいよ終わりに近づいてきたことを意味する。

 とくに凄いのが19分に及ぶ "Miles Runs the Voodoo Down" での演奏。以前ならマイルスにつきあってハードにブロウしたりもしていた曲だが、ここではめちゃくちゃ。宇宙人が発射する光線銃のような奇っ怪なフレーズで飛びまくる。デジョネットもホランドも付いて行けずに黙りこみ、かろうじてチック・コリアだけが応えている様子。はっきりいってマイルスのソロより何十倍もおもしろい。
 マイルスのソロをカットすることにより、この宇宙人的サウンドがくっきりとする。


03.4.26


『ウェイン・ショーターの部屋』

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