中国西南端のチベット自治区の東部に区都の拉薩(ラサ)があります(私は、チベットを独立した国だと考えていますが、残念ながら中国は領土の一部と宣言しています)。拉薩とは、山羊の地、神の地を意味します。現在の人口は約220万人、その96%がチベット族であり、チベット仏教、俗にいうラマ教を信仰しています。
いたるところに見られる寺院や史跡はチベット仏教独特の様式を持ち、中国建築とはまるで様子が異なります。褐色の建物が続く町、袈裟を着たチベット仏教の僧・・・エキゾチックな光景が異邦人の気分を満喫させてくれます。
標高3600mに位置するこの土地の先史時代について、多くのことはわかっていません。しかし、チベット高原の各地から、旧石器や新石器が出土して、ストーン・サークルや古墳などが見つかっています。
チベットが本格的に歴史に登場するのは、7世紀のことです。ソンツェン・ガムポが初めてチベット高原の諸部族を統一して国を建てました。これが古代チベット王国「吐蕃」です。
ソンツェン・ガムポが建てた軍事国家として完成した吐蕃は、相次ぐ大規模な寺院建設により国家財政が圧迫され、王国が傾く一因となりました。
13世紀に入るとモンゴルの脅威にさらされるようになりましたが、元朝を興したフビライ・ハンの信任を得たチベット仏教サキャ派がチベットの支配権を与えられ、初めて仏教界が政権を握るようになります。
16世紀当時、勢力を伸ばしていたゲルク派のソナム・ギャムツォは、モンゴルよりダライ・ラマの称号を与えられました。ダライ・ラマ5世の時、以後300年にわたってチベットを支配する、政教一致のダライ・ラマ政権が誕生しました。
18世紀末以降、チベットの統治をめぐって、イギリスや清朝からの攻撃が絶えませんでした。辛亥革命で清朝が倒れ、翌1913年、ダライ・ラマ13世はチベットの独立を宣言しましたが、イギリス・中国・チベットの代表者によるシムラ会議で、チベットの独立はついに認められませんでした。
第二次大戦後、中国はチベットを領土の一部と宣言し、人民解放軍を進駐させました。
チベット各地では次第に抵抗運動が激化して、1959年、遂に拉薩で大暴動が発生しました。
1966年に始まった文化大革命では、宗教否定から、チベット仏教の多くの寺院が破壊されました。
1992年の中国政府の大幅な人事移動により、自治区書記長は強硬派となりました。信仰の自由は、制限付きで認められてはいますが、経済・宗教・教育における新政策の中では、少数民族の中国化が進められています。
「世界の屋根」と呼ばれるチベット高原の特殊な自然環境の中で、独自の文化を育んできたチベット人にとって、生活実感が漢民族と違うのは当然で、現在でも独立を求める声が強くあります。