総合リハビリテーション(医学書院)・巻頭言>
(2004年4月号に掲載予定。掲載予定稿に削る前の原稿ですので、やや長くなっています。)

『リハビリマインド』を育てる時代  
      (兵庫医科大学リハビリテーション医学教室) 道免 和久     


 年間自殺者数が5年連続で3万人を超え、交通事故死者数の3倍を維持している。高度経済成長を支えた企業戦士は、尊敬されるどころか、今ごろになって成果主義の論理によって切り捨てられる。社員を大切にするよりリストラする企業の方が優良であるかのような錯覚をもたれる。会社からの評価という単一の価値観を頼りに生きて来た人間は、価値転換の間もなく死に追いやられる。

 こんな時代で数少ない光明は、「いのちの電話」というボランティア組織の活動である。24時間体制で自殺防止のための電話相談活動を実践している。電話で辛い気持ちを聞いてもらうだけで、自殺を思いとどまる人も多いという。それでもすぐに死にたい気持ちを払拭できるわけではない。価値転換に至るのはずっとあとになってからであろう。まずは、傾聴してもらうこと。それによって立ち止まることができる。限界的な状況において、自分が受け入れられている存在であることを実感することの重要性を感じる。

 翻ってリハビリの世界をみると、障害をもつ患者の心を安易に考えすぎていないか、と心配になる。「障害受容」という言葉が決裁の印鑑のように使われていないか、期待通りの治療はできていないという謙虚さを忘れ、パターナリズムに陥ってはいないか、などと自問する。リハビリ医は患者の「諦め促し業」ではなかろう。キューブラーロスの段階説で最も重要な要素は、最期まで根底に流れ続ける「希望」であることを忘れてはならない。しかし、なぜか受容の個々の「段階」だけが一人歩きする。断定的なキャッチフレーズで広められるスローガンリハビリは、大変危険だと思う。もっと患者の話に傾聴し、立ち止まり、一緒に考えるべきではないか。自分自身を受け入れられない患者を、私たちがまずありのままに受け入れることが先決ではないか。「また歩けますよ」の一言によってその後のリハビリで希望を持ち続けられることの重みを自覚すべきではないか、と思う。

 リハビリ医療は、かつてマイナーだった頃には、普遍的なものを必死で追求してきたはずであるが、今や、回復期リハビリ病棟の開設ラッシュ、リハビリ医需要の増加など、いつのまにか医療界の花形になったようだ。しかし、このままリハビリバブルを膨らませてはなるまい。時代の流れを見ながらも、地道に目の前の患者をしっかりと治療することが私たちの責務ではないか。数多くの仕事に忙殺され、「患者の傍で傾聴する医師」でなくてリハビリ医と言えるだろうか、と自戒する。
 
 では、リハビリ医療における「普遍的なもの」とは何であろうか?私たちは、機能評価、脳科学の臨床応用CI療法、運動学習、ロボットリハビリなどの多様な研究に取り組んでいるが、実はその根底にある普遍的概念は『リハビリマインド』である。リハビリマインドは、QOLを最大にするため、徹底的に臨床因子に重み付けをする。ADLは重要だが、一因子にすぎない。リハビリマインドに基づいた治療に、スローガンは要らない。大学でデス・エデュケーション(生と死を考える講義)を始めたのも、医学生にQOLの重要性を理解してもらいたいからである。学生自身が、「死を知ることによって生は一段と有意義になる」と発言するほどに、彼らはQOLを本質的に理解してくれた。QOLはリハビリマインドのコアであり、リハビリマインドを身に付けることによって、残された生のQOLを最大限にする方法を患者とともに考えることができる。

 医学生教育と同時に重要な課題は、リハビリマインドをもつ医師の育成である。私の所には次々に中途転科の医師たちが集っているが、彼らによれば、ここは「何でも受け入れてもらえる充足感」があるのだそうだ。多様な価値観を許容できる包容力をもつ組織作りをしてきた結果であろう。他科出身の医師に対して、リハビリ医療は他科との二足のわらじでは駄目だ、過去のバックグラウンド科にこだわっていてはリハビリ医は勤まらない、過去の知識よりもリハビリマインドとリハビリ医学の知識が大切だ、と教えている。彼らの経歴を否定するのではなく、過去に得た別の価値体系での経験はQOLを理解する点でプラスにはたらくという認識が、彼らの充足感にもつながっていると思う。

 何よりも患者とともにQOLを考えながら、リハビリ医自身が多様な価値観を認め、共に成長することが重要である。リハビリマインドをもつ医師をリハビリマインドによって育てることがますます大切な時代になった。



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