青函連絡船 5

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 世界最長の海底トンネルが完成し、青函連絡船の数は、徐々に減らされていった。その青函トンネルは、長らく北海道民の夢であり、念願だった。その運行は、天候に左右されていた。1954年9月の台風15号による、いわゆる洞爺丸事故は、その思いを強くするものだったらしい。 日本では、東京と線路で繋がっている事が、地方に住む人々に一種の安心感を与えていた。それは、空気や太陽のように当たり前のことで、意識されることはなかった。 だからこそ、ローカル線の廃止は各地であれだけの反対に会ったのだ。 その頃、実質的には自動車の便利さの恩恵を充分に受け、列車よりも車の方を利用していにもかかわらず。

 青函トンネルが地質調査から40年以上かけて完成し、線路が引かれ、津軽海峡線が運行されることになり、青函連絡船が消え行くことは既定路線になっていた。

1982年3月、吹雪の中、函館どっく造船所内の桟橋に、4隻の廃船になった青函連絡船が係留されていた。それは、連絡船の墓場のようだった。 1983年3月、津軽丸の歴代の船長たちや元の乗組員たちが、函館どっく内のある桟橋に集まった。北朝鮮に売却され、出港していく津軽丸に最後の別れを惜しむためだ。
 「こいつは、一番エンジンの調子の良いやつだった。」一人の元機関士が言った。
 「これで、もうこいつに会うことができなくなるんだな.....」一人の元船長が呟いた.
国鉄と津軽丸のロゴが白ペンキで消された元女王は、北朝鮮に向け、出港していった.

 1988年津軽海峡線が開業し、同日、青函連絡船は80年の歴史を閉じた. 

 その海底トンネルは、夢だった。しかし、実現された夢のかたちは、夢見てきた人々のものとは、違っていた.たったそれだけのことなのだ。 10年後、函館も青森も街の様子が随分違って見えた。 津軽海峡の海底に穿たれた風穴ーそれは貫通の時、風が青森側から函館側へ吹き抜けていった、文字どうり風穴だったーは、一体何だったのだろう.


廃船になり、函館どっく造船所内に係留される連絡船

廃船になった松前丸に宿直する国鉄青函船舶管理局職員

廃船になり、函館どっく造船所内に係留される連絡船

北朝鮮に売却され、塗装し直された津軽丸(左)と松前丸の船尾
津軽丸に最後の別れを告げるため、訪れた元乗組員
津軽丸船内を見て回る元乗組員
津軽丸が北朝鮮に向け出港する日、船内を見て回る元乗組員

ペンキで塗りつぶされた津軽丸のマークの前で、記念写真に収まる元乗組員

 


別れつき難い津軽丸甲板上での元乗組員


北朝鮮へ向け出港したした津軽丸を一人見送る元乗組員


茂辺地沖を最後の航行をする津軽丸  1983年3月


photos taken 1981-1983

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*All copyrights are reserved.


Kimimasa Mayama
Photographer
mayama@tokyo.email.ne.jp

updated October 25, 1998