松五郎のつぶやき。。。。。犬声人語

 我輩はドン松五郎である。ご先祖はイギリスの北方のシェットランド諸島で「シェルティ」であるが何故か日本風の古風な名前である。
一日中つながれて退屈なので2〜3日遅れではあるが古新聞ストックの新聞に目を通す毎日である。平成9年11月24日生まれの2歳9ヶ月(平成12年8月現在)であるが、人間の年齢に換算すると27歳である。立派な「成人」であるから世の中の出来事にも関心を持ち始めた。我輩のご主人のパパさんが「葛飾区再生計画案」とかを作っているので、我輩も「ワン社会再生」のために人間社会を観察しようと思う。

 我輩の人間社会観察日記である。お腹立ちの内容もありましょうが「犬の言うことだから」と笑って許して下さい。


21、(10月25日) 「介護保険制度」どこどこ行くの?

 自民党政調会長の亀井静香さん『子が親を介護する美風を大事にすべきだ。』もっともですな。でもその実態は長男のヨメさんが介護役。(ここに現金支給は吝かではないのだけど)介護をしていない兄弟姉妹どもが『姉さん(兄さん)、お金もらってるんでしょ。』と言い出すことは目に見えている。「介護保険制度」は家庭内の介護地獄を解消するために導入されたはず。それに介護は「親孝行心」だけで出来るほど甘くない。介護技術もしかり、メンタル・ケアーもしかり。(『玉手箱5』のグロード神父のインタビュー参照)福祉人材がそろうまでの過渡的方策としてならばわかるが少子高齢化社会が目前に迫っている今日、目先の選挙の票目当ての発言は国家百年の計に仇為す所業だぜ。(cf.『玉手箱7』)

 

22、(11月11日) 「家庭を基盤とした社会人」・・・この違和感は何だろう。

 プロ野球の横浜ベイスターズのローズ選手が今シーズン初めに『家族との時間を大切にするために今シーズン限りで引退』すると言った。他にも奥さんの出産や家族の冠婚葬祭にことよせて帰国する外国籍の選手を、ひとたび舞台が始まったら親の死に目にも会えない役者や、重病の父親を心で見舞いながら甲子園に立つ高校球児に拍手する国民性からはどうしても「出稼ぎ」者だから仕事に身が入らないのだと思っていた。が、何かが違うような気がしていた。

 悲劇的な飛行機事故で急死したプロゴルファー、ペイン・スチュワートの葬儀のテレビ中継を出張先のニューヨークで見たという松本照雄さんの記事(99.11.9 毎日新聞)を一部抜粋する。

「インタビューでスチュワートは話す。『ゴルフは第一ではない。家族こそ自分にとって一番大事なものだ』。ブッシュ前大統領がよく口にしていた「ファミリー・バリュー」(家庭の価値)である。スチュワートは家庭を大事にする「良き夫」、「良き父親」の具現者であり、模範的な米国のクリスチャンとして尊敬されていたのだ。
 日本には組織・会社に生きる共同体人間はいても、家庭を基盤とした社会人はいないと思う。バブル崩壊後、特に顕著になった公共心の欠如、倫理、道徳観念の希薄さはこのあたりから生まれているような気がしてならない。」

 「滅私奉公」や「不惜身命」を美意識とした国民性が変わりつつあるのは「親は子供が病気になれば何をも犠牲にするであろう。病気の子供をどこぞに預けて行くほどまでの重要な仕事があるはずがない。」という武蔵野市長・土屋正忠さんの発言等からも見て取れよう。家庭の価値の崩壊とは別のところで家庭の価値の見直しも始まっているのであろう。(cf.WFWPホームページ、1330

 

23、(11月12日) オレは「松五郎」だ!

 最近は海外でも通用する名前が「素敵」なんだと。国を挙げて英語、英語と騒いでいるうちに、『今や日本語は話すためのツール(道具)にしか過ぎない。』『漢字の魅力は外国では伝わらない』なんて言われるようになっちゃった。(文部省の責任は大きいね。中学の外国語科目の英語一辺倒を改めるべきだね。)お互いの自国語のアイデンティティの上に世界の共通語として「毒にも薬にもならない話すためのツール(道具)」とみていた英語の側からの反撃に唖然としている。
 『日本国プライミニスター・ミスター・オブチ・ジョン』となる日も近いって訳か。「ワン」って言いたくなるではないか。これもグローバル・スタンダードかい。
 我が家は、ひぃ爺ちゃんが甚太郎(じんたろう)、爺ちゃんが政助(まさすけ)、パパさんが茂樹(しげき)、飼い主どのが大輔(だいすけ)。そしてオレは「松五郎」だ!

 

24、(12月12日) 仕事=打算、あんたの価値観をおしつけんなよ。

 『介護保険というものはまだ実際にスタートしていないので、現実は分からないのだが、私はほとんどうまく行かないだろうと思っている。介護を受ける側が、できるだけ安く手厚い看護を受けたい、と望むのは自然だが、看護をする側がもしこれを仕事と思うなら、そこには必ず割に合うしごとかどうか打算が働いて、報酬分だけしか働かないから、受ける側の要求をみたさないのである。』

"時代の風"(毎日新聞 99.12.12)で作家の曽野綾子さんがのたもうたものである。

 介護をする側、される側は報酬が介在するにしても、そこには一種の信頼関係と愛情が形成されなければならないし、事実形成されるものであろう。それを仕事=打算と片付けるのは筆者の見識の狭さをさらけ出すものである。こういう族(やから)が勝手なことを吹くから、介護を受ける側が疑心暗鬼に陥るのである。あんたの価値観をおしつけんなよ。(もっとも、これは我輩の価値観だが……。)

 

25、(12月29日) 俳優・天本英世の遺言、『こんな国では死にたくない』

 NHKの『我が心の旅路』を見た。番組は俳優・天本英世(71)さんの"遺言"から始まった。『人は歳を取るにつれて自分の国が好きになるというが私は嫌になってくる。死は突然訪れるがこんな国では死にたくないと思う。……』と、19度目のスペインを旅するのである。スペイン内戦でフランコに殺された、ガルシア・ロルカの詩を朗吟しながら、生と死の間にある緊張感を求めて。

 (*ガルシア・ロルカにはちょっとした思い出がある。大学を卒業して数年たったころ習っていたスペイン語のテキストの一冊である。農民や労働者の日々の暮らしを詠んだというロルカの詩の日本語訳を試験前に一生懸命に暗記したのである。学生のように単位目当てではないのだからとは思うもののつい昔の癖が出てしまった。そのせいか、スペイン語は[も、]「勉強した」経験で終わってしまった。)

 最近「この国は何処へ行くのか」式の論調が目立つ。しかし、何処に行こうとも逃げ出すことが出来ないのが「祖国」である。知に働けば角が立ち、情に竿させば流される。あ〜あ。

 (我輩は、と言えば「ネコ犬」と皆から馬鹿にされながらも、ストーブの前で寝そべっている。ヌクヌク、ポカポカだわさ。極楽、極楽。)

 

【平成12年】

26、(2月8日) 改正地方自治法第X条第X項 「条例制定権は業者がこれを有する」

「法律を制定するのは国会、条例を制定するのは自治体の議会」と、パパさんが中学生に教えているのを聞いたことがあるが、間違っている。「法律を制定するのは官僚、条例を制定するのは業者」って教えてあげなきゃあ。

 もうひとつ、「条例のひな型の"準則"がない」「暮れは出初め式や新年会の準備で忙しい」とは山梨県秋山村の担当者の弁。服従へのあこがれ(E.フロム)か?。この国には分権社会は時期尚早なのか。 役人、議員がぶったるんでいるのか。  (cf. 朝日新聞 00.2.8 夕刊)

 

27、(2月24日) 公平・不公平考2題

@ (99.10月) 自由党・公明党が「永住外国人に地方参政権を付与する」法案を出した。この案では外国人登録原票の国籍欄に国名が記載されている者が選挙人名簿への登録を申請できるとするのである。ということは当該国籍欄に国名の記載の無い「朝鮮」籍の者は除外されてしまう。現在の永住外国人62万人の90%以上は半島出身者かその子孫である。この点に限れば戦後処理の範疇に属することである。地方参政権を国際法上の相互主義とみるのか、地方在住の外国籍人固有の権利とみるのか。時代の趨勢は後者であろう。ならば、地方参政権付与の条件は外国人登録および居住年数等の一定の要件に限るべきである。同一条件でありながら、参政権の付与に関し結論が異なるのは、新たな不平等の創設である。これこそ、不公平である。

【参考】 ローマの市民権に関しても、革新的であったカエサルとはちがってアウグストゥスは、保守的であったということになっている。……しかし、教育と医療に従事する教師と医師ならば、人種も民族の別もなくローマ市民権を与えるとしたカエサルの法を、アウグストゥスはまったく変えていない。ということは、この二職業を重視する考えに加え、知的上層階級への開国路線では、カエサルと考えを一にしていたということである。そして今、「補助兵」のローマ市民権が政策化されたのだ。属州民で兵役を選ぶ人は、知的上層階級には属さない人々であったかもしれない、だが、市民権とは、自分たちと同等になるという意味をもつ。現代で言えば国籍である。両親ともがアテネ市民でなければならないとしたアテネ人の考える市民権は、「血」の問題であった。一方、ローマ人の考える市民権は、自分たちの生き方に共鳴し、その継続に協力してくれる人と「共有する権利」なのである。
                         (塩野七生著『ローマ人の物語Y パクス・ローマーナ』新潮社、1997;p.192-193)

A (00.2.16) 石原慎太郎東京都知事の銀行業への外形標準課税構想に全銀協会長(第一勧業銀行頭取)杉田力之さんが「銀行業のみへの外形標準課税を導入することは不公平」という。ならば、バブルに踊った(金をばらまいて躍らせた罪もある)後始末を銀行業界のみが税金から補填してもらうのは不公平ではなかったのかい。

<参考> 外形標準課税⇒地方税法の事業税についての規定

第72条(事業税の納税義務者など)

 事業並びに個人の行う第一種事業、第二種事業及び第三種事業に対し、法人にあっては所得及び清算所得または収入金額、個人にあっては所得を課税標準として事務所または事務所所在の都道府県においてその法人及び個人に課する。

第72条の12(法人の事業税の課税標準)

 法人の行う事業に対する事業税の課税標準は、電気供給業、ガス供給業、生命保険業及び損害保険業にあっては各事業年度の収入金額、その他の事業にあっては各事業年度の所得及び清算所得による。

第72条の19(事業税の課税標準の特例)

 法人の行う電気供給業、ガス供給業、生命保険業及び損害保険業以外の法人または個人の行う事業に対する事業税の課税標準については、「事業の状況」に応じ第72条第1項、第72条の12、同じく第72条の16の、「所得及び清算所得」によらないで「資本金額、売上金額、家屋の床面積もしくは価格、土地の地積もしくは価格、従業員数」などを課税標準とし、または所得及び清算所得とこれらの課税標準とを併せ用いることが出来る。

 

28、(2月26日) 来年の大相撲「春場所」はどこでやるの?

 3月12日からの大相撲「春場所」の大阪府知事杯を女性府知事の太田房江さんが直接土俵上で授与することを認める認めないで対立しているという。「日本相撲協会」側は「神事」とか「伝統」とか言っているが我輩に言わせれば「因習」でしかない。仮に、その起こりが「神事」であり、所作が「伝統」にのっとっていようと、所詮は観客に見てもらってナンボのプロスポーツである。

 あくまで「神事」「伝統」を主張するのなら「日本相撲協会」は開催場所の府立体育館の使用と大阪府知事杯の返上を申し出ることだね。(我輩が府知事なら府立体育館の使用許可を取り消し、大阪府知事杯も廃止する。)

(我輩は「オス」だけど、「オスだ」「メスだ」と騒ぐ姿勢に吠えたくなるわ!)

 

29、(3月10日) 「運が悪かった」といって「運が悪かった」?

 「運が悪かった」――9年間余にわたって拉致監禁されていた女性が保護された、まさにその日に特別観察する方とされる方がつるんで酒を飲みながらマージャンをしてたことが明るみに出て、クエスチョンタイムで野党党首から追求されたときのわが国首相の答弁。

 「運が悪かった」のあとに本当は何と続ける予定だったのか。野党の諸君がガタガタ騒ぐから彼は状況を敏感に察知して結論を変えたのかしら。それとも、最初から、「運が悪かった」を否定する積もりだったのか。???。野党のバカ騒ぎに助けられたな。

 日本語は途中で結論を辺りの雰囲気に合わせられるカメレオン言語なんだから野党の諸君も日本語の構造、特質をきちんと理解して、最後まで聞いてから騒げよな。

 最近やった小学5年生の国語のテキストにこんな問題文があった。小学5年生でも、この辺りのことは分かっているんだぜ。与野党の党首レベルなら心してしゃべってくれよな。

 『みなさんの使っている日本語と、学校でならう英語とをくらべてごらんなさい。英語は文章のいちばんはじめに、なにがきますか。主語がきます。「私が」とか「あなたが」というのがきます。なにかをするその責任の所在は、まず「I」なり「You」なり、はっきり主語として、いちばんはじめにでてくるのが特徴です。

 そのつぎに、その問題に賛成なのか反対なのか、イエスかノーかというのがきます。ですから英語を聞くと、はじめのところを聞いていると、だれがどういう意志をもっているかがたいたいわかります。

 しかし、日本語はそうではありません。たいてい主語がないでしょう。そして、イエスかノーかというのはまえにきません。文章のいちばん最後にくるのです。 会議のときなど話をしているうちに、みなが反対だなということが顔色でわかると「…というような考えもあるんだが、まずいですねェ」なんて、きゅうに方向転換することができることばです。つまり、相手とちがう考えをだすことはたいへん失礼だし、おたがいの関係をまずくする。なにしろ大部屋のなかにいっしょに住んでいるのですから。

 そこで、相手と自分とがおなじような考えになるようにし、相手も傷つけない、自分との関係もひびがはいらない――そういうようにもっていく習慣や考え方が、ことばの構造の中にもはいってくるのです。賛成か反対かをいちばん最後にもっていくという世界にも珍しい日本語がこうした習慣に対応しているのです。

 中国語だって英語とおなじことばの構造で、賛成か反対かを示すことばが主語のつぎにきます。日本語は主語がはっきりしません。責任の所在をまずなくし、賛成か反対かをいちばん最後につけて、どうにでもかえられるということばの構造になっています。

 ですから、問題がおこったときどうするかというと「私は自分の責任をよくよく考えて、こういう結論に達しました」ということはしないのです。なにが正しいか、なにがいいか、それよりもみんなはどう考えるであろうかを考えるというのが多くの日本人です。そして顔色を見ながら、いつでも方向転換できるようなことばの構造をさぐりながら、最後でみんなが一致するようにもっていく。これです。ボスといわれている人間はこれをやるのです。

  <<中略>>

 このような行動をしていると、なにもないときはいいのですけれど、重大な問題がおこったとき、それにたいして、早く手をうち、事態を危険のない方向のもっていくということができないのです。

 だれが戦争をするということをきめたかわからないうちにいつの間にか中国との戦いがはじまり、ずるずる拡大し、日本はあの敗戦を経験したのではないでしょうか。そして、戦争の責任ということになると、みんなが悪かったのだといって、だれも昔のあやまちを反省しようとしないのです。したがって日本の社会のくさった部分、悪い部分、それを切り取ることもできませんでした。おなじ戦争をし、敗れたドイツは、まったくちがいます。戦争をひきおこした責任者がいたのです。ヒットラーを中心とするナチスです。したがってその責任を追及し、くさった病の部分を取りのぞく。いまもってドイツはこのナチスの協力者を裁く裁判所をもっているのです。だから新しく生まれかわることができたのです。』

                                       (伊藤光晴『君たちの生きる社会』)

 

30、(3月19日) 国民党エスタブリッシュメントの崩壊…台湾

 台湾の総統選挙で野党候補が与党候補を大差で破った。半世紀にわたった国民党エスタブリッシュメントの落日である。与党候補の応援団、銀行家のカミさんいわく。『娘の結婚して住むロンドンに逃げようか。』こういった手合いの応援する与党候補と小作人の父と紡績工場の職工の母のもとで努力に努力を重ねて今日の地位にたどり着いた野党候補とは国民の痛み、哀しみ、苦しみを知ろうとする度量が違うわさ。

台湾に栄光あれ!


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