松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.3】 1999.8.28 メールによる回送

「平沢さんって木下さんのところの選出代議士でしょ。」と言って、『特別インタビュー 村野まさよし・拒税同盟 VS. 自民党代議士・平沢勝栄氏』と題するメールが旧知の市議会議員さんから回送されてきた。

 

特別インタビュー(平成11年4月/東京の衆議院第一議員会館にて)

村野まさよし・拒税同盟 VS. 自民党代議士・平沢勝栄氏

 平成8年の総選挙で東京17区から初出馬し、当選を果たす。まもなく松本和那氏ら首都圏選出の議員と語らって「首都圏都市政策議員連盟」を結成し、都市生活者の視点から活発な発言を行っている。現行税制の愚かしさをズバリと言い当て、役所の肥大化構造の大本を抉る、新進気鋭の代議士による歯に衣着せぬ日本改革論。

平沢 「拒税同盟」ですか。「拒税」というのはむずかしいでしょうね。税金に対してはみな不満を持っているけれど、怒りをぶつける場所がないですから。辛いことに、日本では「拒税」をするには、まあ裁判で争うしかない。いままでも裁判で、消費税分を払わないとか、いろいろなケースがあるけれども、結局は勝てないんですよ。これは法制度の問題なんです。アメリカの場合は、たとえば1978年にカリフォルニアを中心にして、役所は無駄が多いし人員も多すぎるということで、住民がその部分の税金を払わないという直接請求をさかんにおこなった。裁判で勝ったそうですよ。アメリカでは勝ったから、その部分については税金を安くするということができた。ところが、日本では、まず国税については法律で決まっている。租税制度を変えるには法律を変えるしかない。地方税についても、住民の直接請求は不可能になっている。地方自治法にそう書いている。それを変えない限りどうにもならないんですよ。税金を納めないという運動じゃなくて、運動はこっちに向かうべきだと思う。自治省は嫌がるだろうけど、たとえばこの部分については税金を払わないといったことは、地方自治法を改正してアメリカと同じようにできるようにすればいい。地方自治法の12条にこう書いてます。「日本国民たる普通地方公共団体の住民は、この法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の条例(地方税の賦課徴収並びに分担金、使用料及び手数料の徴収に関するものを除く。)の制定又は改廃を請求する権利を有する。」。つまり、こと税金に関しては直接請求の権利がない。これが日本の一番のガンなんですね。

――この規定があるから、何を言っても、結局は税金を払わざるを得ないわけですね。

平沢 そうなんです。だから裁判で勝てるわけがない。こういう規定が生まれたのは戦争直後なんです。なぜかというと、この規定が置かれる前に国民が異議申し立てをがんがんやった。この部分はおかしいからその分の税金を払わないよ、と。実際に成功をおさめたケースもあったものだから、「こりゃ、大変だ!」とあわててこの規定を作って、今日に至っているわけです。憲法ができた直後の、昭和23年ですから、すでに50年たっています。もし地方税制を直すとしたら、この規定を直すしかない。

 国会議員が変えようと思えば変えられるんだけれど、改正に一番激しく抵抗するのは自治省でしょうね。この問題だけじゃなくて、村野さんがいつも言っている地方交付税のシステムとか、要するに税金全体の配分のシステムにかかわってくる問題だからです。もしこの規定を変えようと思ったら、税金のシステム全体を変える必要があるんです。国税については、かつて「国防費に見合う分の国税を払わない」という訴訟があったけれども、裁判を起こすことは可能だけれども、勝てるはずがない。地方税についても、日本はこの規定がガンになっている。もし日本でやるなら、まずこの規定を改正しなければならない。固定資産税とか、地方税にもいろいろあるけれど、まずこれを直さなきゃどうにもならない。

――もし12条の規定がなければ、国税でいえば「交付税に回される分は払わないよ」と主張できるわけですね。

平沢 ええ。だから、いったん国が国税という形で税金を集めて、それを地方に分配するというのが今のシステムでしょう。国の年間予算は今年度で約80兆円ですが、そのうちの50兆円は国税として集められている。残り30兆円は赤字国債などですね。地方交付税交付金17兆円というのは、国税収入50兆円の約3分の1にあたるけれども、東京にはほとんど還元されないわけです。「拒税」という視点でこの事態を考えると、少なくとも「交付税に回される分の国税は払わない」、「所得税、法人税、相続税などの国税の3分の1は俺たちには全然還元されないんだから納めない」という理屈が成り立つ。 現在の交付税システムは、少なくとも東京と同じような文化レベルというか、生活レベルというか、そういうレベルを全国一律に保証してあげましょう、という基本的な考え方に立っています。こうした考え方で50年間やってきた。たしかに終戦直後は、必要だったのかもしれないけど、今はかならずしもそうではなくなった。問題は二つあると思います。ひとつは、東京をはじめとする大都市が進んでて、地方が遅れているということが言えるかどうかという問題。もう一つは、東京と同じようなモノを地方に作るのがいいのかという問題がある。大都市と地方にはそれぞれ個性があるわけだから、文化レベル、生活レベルの違いがあったっていいじゃないか、という議論だって根本にはあるはずなんです。なにも北海道も沖縄も東京と同じにする必要はないじゃないかという議論だってあると思う。こうした議論を無視して、要するにミニ東京みたいなものを全国に作ってゆこうという考えが基本にあるんですよ。

――全国総合開発(全総)ですね。いま4全総までで、21世紀からは「5全総」をやろうとしてますね。

平沢 そうそう。だから税金の全体のシステムを変えてゆかないと、この部分だけをやってもしようがないと私は思う。

――石原慎太郎東京都知事が誕生しましたが、前知事の青島さんは何もしないんで、大都市問題対策協議会、首都圏都市政策議員連盟の平沢先生たちががんばってきたわけでしょう。こんどは石原知事は横田基地のことなどいろいろ発言してますが、石原知事と先生方との連携の取り方はどうなんでしょう。

平沢 都知事候補たちはみな、鳩山(邦夫)さんも舛添(要一)さんも明石(康)さんも柿沢(弘治)さんも「東京は差別されている」と言っていたけれども、石原さんは出馬表明が遅かったこともあって選挙期間中、税金の問題についてはほとんどふれてこなかった。だから未知数ですけれども、この問題は今後の焦点になると思います。というのは、わたしたちは、平成8年の12月の総選挙で当選して、「首都圏都市政策議員連盟」というのをつくって、東京は差別されている、都会は差別されているということを盛んに言ってきた。そのおかげか、平成11年度の予算をみると、一番大きなものは建設省の予算なんですが、その地方分配分が全国平均1.4%増なのに、東京は16%増なんですよ。なぜ、こんなに東京への配分が増えたかというと、明らかに声がでかくなったからですよ。ひとことで言えば、声がでかければ予算の分配は増えるということです。東京の場合、無駄なものにそうした分配金を使うかというと必ずしもそうではない。いままでは、東京での公共事業というものは、土地の買収にお金がかかって景気対策にならないと言われていたし、そもそも東京から要望もでなかったし、陳情にも行かなかったわけです。したがって建設省の方でも「東京なんかに予算を付けるもんか」という感じがあったわけです。ところが、いまになって、東京の公共事業も景気対策になる、東京はいろんな意味で立ち後れているところもある、ということがだんだんわかってきた。だから、今回の数字をみると、建設省は発想を変えたことになる。根本的な発想の転換が見て取れるわけですよ。

――建設省のなかでどういう人が都への分配を増やそうと思ったんですか。

平沢 それは都市局とか建設局の幹部です。まさに建設省としてですよ。考えてみれば、これまでの配分の仕方が公平でないということを建設省も気づいたわけですよ。16%という、今まではベースが少ないからこの数字では足りないとわれわれは主張してるんだけれども、他府県にくらべれば10数倍も増やした。建設省は発想を変えてきた。問題は自治省なんですよ。地方交付金の問題だって、全国のほとんどの自治体がもらっていて、一部の自治体だけが恩恵にあずからない、というシステムはおかしいんじゃないか、ということも含めて、戦後50年たって交付金というものはその歴史的役目をとっくに果たし終えた、これからは新しい交付金のシステムをつくる必要があるんじゃないか、ということを一部の幹部は言っているわけです。ところが自治省は、見直しに頑強に抵抗している。繰り返しになりますが、問題は自治省なんですよ。他の役所はだんだんわかってきた。自治省がなぜ変わらないか、ということはわからないでもない。というのは、もし全国から集めた国税のなかから17兆円くらいを交付税交付金として地方に分配しますでしょ。このシステムを抜本的に見直すとなると、自治省という役所の存在意義が問われることになる。自治省は地方自治体に相当に強い権限を持っていて、自治省の役人が地方自治体のそれなりのポストに座れるというのは、まさに交付金という税によるところが大きいんですよ。

――ご存じのように自治省には450人の職員がいて、一度退職して地方に天下るというか、出向している人も500人いますね。本省に500人いて、地方に500人いるという不思議な役所ですね。

平沢 地方交付税の制度を抜本的に見直そうという動きがこれまでなかったのは、まず、東京など交付税をもらっていなかった自治体が裕福だったから声を上げなかったからです。ところが、いまはそういう自治体が貧乏になっている。これは大変だ、何とかしろ、という声が生まれてきた。今度の都知事選などはその好例です。もう一つ、ここにきて地方交付金制度の綻びがあちこちに出てきたことが皆の目にみえるようになった。

――交付税の仕組みは、単位費用とか、配分の方法がブラックボックスになっていて外からはわからないのも問題です。これも公開する必要がありますね。

平沢 公開はしてるんだけれど、配分の方法や、どこを富裕団体だと決定する方法もきわめて旧式のままで、新しい要素が加えられていない。昼間人口とか夜間人口とか都市全体の需要だとか、土地の収用問題だとか、そういうものはあまり考えていない。他の役所と同じく、自治省もあまり変わらない。地方分権がどんどん進んで、今度は東京23区も地方自治法の特別区制度が改正されて市町村と同じになるわけです。こういう流れの中で、国として必要な仕事は何だ、ということになってくると、外交とか財政とか治安とか国防とかある程度のものでいい。あとはすべて地方自治体にまかせればいいということになります。地方自治体は、自分のところで責任を持ってやるというのが、本当の地方分権ですね。地方分権を徹底的に突き詰めてゆけば、国がお金を集めてこれを地方に分配して、地方は国に頼って生きてゆくというのは地方分権ではないわけです。財政的にも独立しなければ、地方分権はありえない。これから分権が進んでいくと、自治省は何のための役所だという問いかけがきっと生まれてくる。いま自治省が言っているのは、依然として交付税制度は必要な制度だ、と。いまになって東京などが交付税をもらえないと言って騒いでいるのはおかしい、あれもバブルの時にバブルに踊って無駄遣いをした、放蕩息子が破産したから金寄こせ、といっているようなものだ、と。それはその通りなんですけどね。しかし、バブルで浮かれて破産した放蕩息子は東京だけじゃなくて、全国どこでも同じですよ。

――3300の市町村のうち、最初から破綻している自治体にはお金を配っているわけでしょう。

平沢 そうそう。いい例が、私の地元の葛飾区なんですが、財政がもう身動きとれなくなっている。予算の全体の6割が義務的経費なんです。人件費とか老人ホームとかの運営への扶助費、それに借金返済のための公債費。残りの4割で予算を組むけれど、4割ではどうにもならない。特別区財政調整制度のお金も入れての話です。財政の硬直度というのは異常に進んでいる。地方分権どころではないんです。葛飾区の場合は富裕団体と見なされていますから、何かの事業に対する補助金はあっても、交付金はない。

――東京都も23区も交付金はないですね。田無市など一部もらっている自治体はありますが、他府県なら倍の交付金をもらえるはずなのに、東京都だからという理由でひじょうに少ない。東京都の市がもらう交付税を合計しても約500億円なんです。ところが横浜市は、都会なのに1市だけで500億円もらっているんです。東京および首都圏で納めている国税は、日本中から集められる国税の3分の1から半分のシェアがあるんです。とすると、都市部に住む人間の国税を無税にすればちょうどいいんです。

平沢 国税というのは、所得税、法人所得税、酒税、消費税(一部は地方税)、相続税などいろいろありますが、自民党の国会議員の間に、相続税を思い切って軽減しようという動きがあります。これは、地方にとっては、土地も建物も資産評価が低いからあまり関係ない話です。ところが都会では、自分の住んでいる家であっても、オヤジが死んだら子どもが払うのもたいへんなくらい相続税が高い。たとえば商店や工場なんかでも経営者が死んだら息子は継げない、ということが起こってくる。だからいま、都市部選出の自民党議員のなかで、相続税を思い切って軽減しようという動きが出ているんですよ。相続税を軽減するための議員連盟を作ろうという動きも出ている。ちっぽけな家でも相続という段になったら息子は継げない。相続税は、都市住民の方にはもっとも関心の高い税のひとつなんですよ。町の小さな商店だとか、個人が住んでるある程度の家とかが相続税が高くて継げないというのはおかしいじゃないかということなんです。

――農地についてはいろいろな減税措置がありますね。

平沢 農家は恵まれてますよ。アメリカの経済学者が最近の新聞に書いてましたが、むかしの日本は農業人口が全体の6〜7割を占めていたが、そのころの農業政策の考え方を人口の3〜4%になった今でも依然として続けている。客観情勢が全然違うけれども、基本的には農業に対する政治の考え方は変わっていない。農業人口が6割、7割のむかしは、食糧というのはあくまで農業に従事している人々のための生活保障であり、雇用の確保の問題であり、ということだった。ところが、人口比3〜4%の人たちのために何をやるかというと、こんどは新しく「食糧安全保障」という考え方を持ち出してくる。農業に金を出し、手厚く面倒をみるのは、食糧は国にとっては安全保障と同じだ、という考え方です。こうして、いまでも農業に対しては手厚い手厚い保護がなされているわけですね。補助金の項目も多いし、無駄も多い。農道空港などは、無駄のいい例です。

――石原慎太郎さんも勉強したら、平沢先生たちとがっちり組まなければならないですね。

平沢 そうでしょうね。石原さんの息子の伸晃さん(代議士)が、このへんのことはよくわかってます。石原さんは急遽の出馬だったから、こういった財政の問題とか都市の税金の問題というのは、選挙期間中はあまり話をされなかったけど、そばについている伸晃さんはわれわれとまったく同じ考えですから。おそらく、この問題を取りあげるでしょう。都市住民からは拍手喝采を受けるでしょう。世界の首都の中でも東京は世界最大の田舎だ、とむかしから言われてきたんだけど、依然としてそのままなんですね。なぜかというと、住宅が密集していて、通勤には満員電車に揺られて、車の通れない狭い路地がいっぱいあって、災害が起これば大変大きな被害が想定されているし、電信柱もある。首都で電柱があるのは他にあるのかなあ。最近地中化を急いでいるんですけど、今のペースでいっても東京の電柱をすべて埋めるのに100年以上かかる。電柱の地中化というのは、東京電力も余り積極的でない。自己負担があるから。私は、電気料金のわずかな値下げをするんじゃなくて、そのかわりに地中化に力を入れた方がいいと思うけどね。

――首都圏都市政策議員連盟の会合に青島さんは顔を出したことがありますか。

平沢 自民党東京都連は東京都からの要望を聞くために、定期的に朝食会をやるんですが、その時には来ていました。来てはいたけれども、青島さんは役人が書いた原稿を棒読みして、あとはうんともすんとも発言はせず、ぼやっと座っているだけだった。あの人は関心もないし、熱意もなかったんじゃないか。ちなみに私の地盤の一つの葛飾区は、前回の都知事選挙で青島さんへの投票が一番多かった。だけれど、青島さんは4年間で一回も葛飾区には来なかった。23区の区長会が定期的に開かれるんですが、これにも一度も出席したことがないそうです。23区の現場の声を聞くためには出なければなりませんよ。

――首都圏都市政策議員連盟は何をめざしているんですか。

平沢 都市のあり方を全体的に考えていこうとしているわけで、交付税の問題はワンノブゼム。都市づくり、交通網の整備、公園などが、欧米と比べて立ち後れているので、都市のあり方を考えようとするなかで、地方交付税の問題も俎上に上げているわけです。税制全体についても当然これから考えてゆく。首都圏都市政策議員連盟でも考えましたし、都市問題対策協議会(会長:柿沢弘治氏)でも税金の問題をぜひ見直そうということで考えたのが、そのまま今度の都知事選で争点になってしまった。

――地方選出の国会議員の間では交付税の見直しなどについては、そんな余計なことを、と思ってる人が多いんじゃないですか。

平沢 少なくともいままでは、自民党のなかで問題になったこともないし、問題にするような空気もまったくなかった。けれども、地方の議員がわかってきたのは、都市部の自民党候補が選挙で負ける、というのはいずれは自分たちが選挙で負けるということです。意識がだんだん変わってきた。むかしは地方だけ勝てば、東京選出の議員なんかいなくてもいいよ、という考えだった。俺たちが勝てば、東京なんかどうでもいい。ところが、いまはこれだけ情報が発達していると、いずれは自分たちにも影響が波及すると感じている。東京が負けるのは他人事ではないという危機感が出てきた。つい数年前からの変化ですね。

――自民党だけでなく、自由党など他の党は都市問題をどう思っているんですか。

平沢 都市から出ている人はみな同じ考えです。少なくとも、自由党、民主党の議員と話をする限りにおいては、都市選出の議員はみな同じような考え方です。だから、これは超党派で連合を組める話ですね。

――地方分権の話ですが、地方の側からすれば、黙っていれば交付税がやってくるのに、わざわざ分権などに手を挙げるわけがないと指摘する声も少なくないですが。

平沢 それはそうなんです。地方分権の問題は、制度を変えるんじゃなくて、意識を変えて能力をつけさせなきゃどうしようもならないんですよ。地方からすれば、今の制度はひじょうにありがたい制度なんです。ちょっと運動すればお金が来るわけだから。森幹事長も「地方にお金を配るということは地方の雇用対策だ」とはっきり言っている。都市部は、雇用対策にならない。だから地方に配ってやればいいんだ、と。こういう考え方なんですね。むかしは出稼ぎで都会に出てきてたが、いまはそうしなくていいんだ、という考え方なんですよ。要するに、むかしは地方では農作業が終わって冬の間、季節労務者として都会に出てきて自動車工場とかで働いたわけです。それをやらなくてもお金を付けてやれば、無駄でもなんでもいいから地方で事業をやれば雇用対策になる、という考え方が強くあるわけです。

――それにしても金額も度を越していませんか。

平沢 まあ、無駄が多いですよね。だから、雇用対策は別のものとして考えるべきことなんであって、無駄な公共事業でやることではない。地方交付税のシステムを雇用対策と混同して使っている。しかし、この問題についてやっとみんな意識が高まってきたから、これから変わると思いますよ。

――無駄使いといえば、単年度主義の予算を変える必要がありませんか。

平沢 日本の予算システム、組み方には問題が二つある。ひとつは予算の単年度主義。年度内に予算を消化しなければならないということになっている。単年度主義ではなく、イギリスなどが採用している方法を学ぶべきですね。そもそも予算編成の仕方が違うんです。イギリスの場合は、まず収入ありきで、収入に応じて各省庁に予算を割り振る。今年はこれだけしか収入がないから、たとえば去年は2兆円だったけど今年は1兆円で君の省は予算を組みなさい、ということになる。日本の場合は収入がいくらあるか関係なく、前年度に倣えで予算を組む。予算を削減をする場合でも一律でシーリングを設け前年度の何%減らしなさいとなる。もうひとつ、イギリスが日本と違うのは、年度内で予算を余らせたら評価されることですね。よくやったと誉められる。ところが日本では年度末にすべて使い切らないと役所の担当者が評価されない。だから年度末になると、使い切ろうと必死で努力するというか、頭を使うわけです。たとえば出張旅費なんかその例で、年度末になると出張を北海道とか沖縄とかどこでもいいからどんどんやって、最終的には予算の残金を1万円以内に収めるというのが担当者の腕になっていた。これはどこの役所も同じと思います。

――出張に行くのが物理的に無理な場合は、カラ出張になってしまうんですか。

平沢 いやいや、そういうことじゃなくて、何とかして国家に返却する残金を1万円以内に抑えなきゃならないんです。イギリスの場合は残金が多ければ評価されるのに、日本では残すと「もう要らないんだろう」と翌年からは予算がカットされる。それをみな恐れる。単年度主義だから大きな仕事はできない。公共事業は数年単位で計画するけれど、それにしても年度内のものは年度内に消化しなければならない。繰り越しはない。予算のシステムを単年度主義の問題も含めて、抜本的に変えなければだめですよ。でも単年度主義は財政法にそう書いてある。会計年度で終わると書いてあるから、これもきちんと法律を変えなければだめですね。役人にとって、お金を使い切ることがいい仕事になる。そこが問題なんですよ。

――稼働効率のいいものを作って、ということではないのですね。

平沢 そういうことじゃなくて、もらった予算を年度内にほぼ使い切ることが、きちんといい仕事をしたという評価の基準になっている。これが一番大きな基準でしょうね。

――それじゃあ、税金の無駄は減りませんね。

平沢 だから、税金の無駄遣いをなくすためには、予算のシステムを抜本的に変えてゆかなければダメですよ。人員の問題は別だけど、そこを全部変えて行かなきゃ、何を言ってもダメですよ。イギリスみたいに予算を残したらその人間を高く評価するというシステムをつくらなきゃダメですね。

――東京都の場合も、単年度主義ですね。

平沢 ええ、国も地方も同じ単年度主義です。著書でも触れたんだけど、警察は人員も含めてもっとも無駄の少ない役所なんですが、それでもムダがある。まして行政改革をやろうとすると、予算面でも人員の面でも、みんな抵抗する。既得権になっているんですね。だから、やろうとしたら一律どの部門も何%という形でやらざるをえない。しかし、ひとつひとつの部門を見ればそれぞれ異なる。時代が変わって要らなくなった仕事もあるし、新しい時代とともに生まれる仕事もでてくる。日本の役所がなぜ肥大化するかというと、要らない仕事は減らさず、新しい仕事は増やしてゆくからです。肥大化する部分もあるけれど、要らない部門を切ってバランスをとる必要があるのに、要らない部門は抵抗してなくならない。いったんできてしまえば、それをカットすることは至難の業なんです。身内の恥をさらすようだけど、たとえば警視庁の「春の防犯運動」。これは終戦直後、春の花見の時期に空き巣など盗難事件が多かった。いまは、花見の季節に空き巣が多いなんて事実はなくなったけれど、春の防犯運動だけはそのまま残っている。その仕事を担当する人間がいるし、担当者にすれば自分の仕事がもう要らないと言われることは、自分はもう要らないと言われることになるから、抵抗する。だから思い切った行政改革をやろうと思ったら、もう一回GHQにきてもらうか、革命を起こすか、大きなことがないとダメです。

――日本人の手ではなかなかできないというわけですね。

平沢 残念ながらむずかしいですね、抵抗が強くて。いまいろいろ行政改革をやってますけど、役所にいた人間の目からすると、正直にいってこんなものはまったく中途半端です。ひとことで言えば、総理のリーダーシップでは不可能です。総理というのは、党からの支持で成り立っているわけで、党が抵抗するとあまりできないのです。だから極端にいえば戦争か革命しかないと言えます。

 役所のなかにも、無駄だらけのものがいっぱいある。たとえば、厚生省の麻薬取締官事務所なんて要らないと思っている。警察に麻薬取り締まりの担当がいる。なのにどうしてあるかというと、終戦直後のヒロポン流行を機に生まれて、50年もたってヒロポンなんて全然なくなったのにそのまま存続しているんです。麻薬の取り締まりのほぼ100%警察が担ってるけど、役所として一度できたものを廃止することは抵抗があってたいへんなことになる。これでまた国の税金が使われる。

――役所の仕事は時限的なものにするしかないんですかねえ。

平沢 時限的というか、時のアセスメントというか、役所の仕事はすべて時のアセスメントを入れて、たとえば5年10年で全部見直すという形でやってゆかないと、一度できたものは半永久的に存続すると考えた方がいい。時代の要請、ニーズがなくなっても半永久的に続く。それは、担当者もできるし、予算もつくからです。これにぶら下がる者も出てくる。この今のシステムを抜本的に変えなければダメなんです。農水省なんてそうでしょう。あの役所にむだがどれだけ多いか。食糧事務所なんて全部廃止してもなにも困ることはない。あれは終戦直後だから意味があった。

――食糧事務所には米の検査官が5000人もいるでしょう。

平沢 一時からすると、かなり減りましたがね。ほとんど意味がない。食糧事務所にしろ、何にしろ、役所をよくするための方法は二つしかない。ひとつは、できるだけ民間に任せること。民間委託。郵政省に対抗してヤマト運輸とか宅配便の会社がいろいろ出てきているけど、民間に任せることです。そうでなければ、役所同士で競争させる以外ないんですよ。むかし、外務省をよくするためには、もう一つ外務省をつくれ、と言った人がいる。加藤匡夫っていうイギリス大使。外務省というのは全然ダメだ。情報収集にしろなんにしろダメだ。なぜかというと役所には競争がないからだ。もう一つ第二外務省をつくってお互いに競争させればいいということを言っていた。競争させるか、あるいはその仕事をできるだけ民間に任せる、民営化する、このどっちかしか役所を良くする方法はないですよ。いまの役所をそのまま置いといて、行政改革をやったってむずかしい。

――電話にしろ鉄道にしろ、競争しているのに、競争原理が働いていないのは、日本では役所だけですね。そういったところには強力な権限を持った人が厳しくチェックするシステムをつくる必要がありませんか。

平沢 そういうことなんですよ。競争原理を働かせられない場合は、第三者の目を入れるとか、なんかをしなければならないし、いまの役所のなかでも競争原理を働かせることのできる分野というのはたくさんある。だけど、これがなかなか抵抗が強くてねえ。

――東京都からやっていきたいですよねえ。

平沢 石原知事の誕生は、ある意味では東京の役人からすればGHQが来たようなものだから、みな戦々恐々としているでしょうね。東京都は伏魔殿というか、役人がしたたかというか、ああいう役人をコントロールしてある程度変えていこうと思ったら、あのくらいの強力なリーダーシップがなければだれが知事になったって、第二青島、第三青島になると思いますよ。結果はどうなるか分かりませんけれども、あのくらいの強力なリーダーシップを持った人でなければ、マンモス東京都の人員削減ひとつとってもできない。都庁の職員は20万だけど、そこから2万人削るとか5万人削るとかいってたでしょう。東京都庁はものすごく抵抗しますよ。私がいま言っているのは、警視庁だって削れるということなんですよ。さっき言ったイギリスのように、おまえのところの予算はこれだけだから、その範囲でやれといえば無駄はなくなりますよ。できるところは外注にすればいい。民間から言えば、人件費はコストなんですよ。ところが、役所では人件費はコストじゃないんですよ。コスト意識がないんですよ。たとえば、私の事務所経費が月にどのくらいかかるかというときに、人件費というのは当然一番大きなウエイトを占めるでしょう。ところが役所では、人件費はコストに入ってこない。だから、人をどのようにでも無駄に使えるんですよ。

――税の使い道を問うのは、ふつうの人間にはなかなかたいへんで、エネルギーが必要です。結局、選挙の時に投票するくらいしかとる手はないのが実状ですね。

平沢 役人というのは「俺たちは国民(住民)のために仕事をしてやっている」という気がある。欧米の公務員というのはサービス業だという意識が徹底してるけれど、日本の場合はそうじゃない。まず、そうした意識を抜本的に変えていかなきゃならんわけです。そのためには競争会社を作るとか、なにかそういうことをやらないとダメですよ。たとえば東京23区に区議会議員が1000人いるわけです。わたしの選挙区の葛飾で46人の区議がいる。財政がさきほどいったように全体の予算の60%が義務的経費で、黙っていても出ていく。それだけ財政が硬直化しているのに、区議会議員が46人もいる。何をするかというと、地域のいろんな要望を集めるとか言ってるけど、区役所は区役所でまた地域に出張所を設けて、そこで地域の住民の声を聞いている。区の職員も3千数百人もいる。清掃業務がないにもかかわらずですよ。職員もそうですが、国会議員、都議会議員、区議会議員といった政治家も多すぎるんですね。

 最初にも言ったけれど、税金の問題で辛いのは、怒りを持っていく場所がないことです。税金については皆不満を持っているけれども、どうしようもないという一種の諦めがあるんですよ。これからは税制のどこに抵抗の風穴を開けてゆくか、これが大事だということですよ。


【保管ファイルNo.4】

 ISO規格 の受容について考えていた時、たまたま読んでいて目についたので引用する。

鈴木孝夫著  『日本人はなぜ英語ができないか』

(岩波新書 岩波書店 1999)より

 

 そして見逃してはならないことは、外国語に対してこのような姿勢を日本人がとることを可能にするきわめて特殊な、日本人にとってはまことに恵まれた国際環境が、これまでの日本に与えられていたという点です。

 先に日本以外では、現代(同時代)の外国語を教養として学ぶことは殆ど見られないと言いましたが、日本の場合は文明の中心からいつも広い海を隔てて、遠く離れているため、この距離が直接の悪影響(侵略や支配、そしてその結果もたらされる嫌なこと、好ましくないもの)を防止し濾過するフィルターの役目(私の言う半透膜効果)を果たし、欧米諸国の古典語教育の場合に見られた、時間による浄化作用と同じ役目を果たしたといえましょう。つまり現代(同時代)外国語のもつ生々しさが、日本人には感じられないのです。フランス人が同時代のドイツ語を教養としては学びにくいのは、両国の関係がいつも長年にわたる相互の侵略と殺し合いの繰り返しといった、つねに直接的で生々しいからだと思います。

 要するにこれまで日本人は、進んだ文化文明をもつ外国と接触したとき、その国の言語、宗教、学問、技術そして風俗習慣にいたるまで、自分たちのものより優れていると思ったものは少しもためらわずに取り入れました。その反面、外国の劣っている面や日本人の感性や好みに合わない点は無視してそれを取り入れないという、日本側の自主選択(最も顕著な例としては、ユーラシアのすべての文明に見られた宦官(かんがん)の制度が、家畜文化と密接に関係する他の多くの制度や風俗習慣とともに、ついに日本に入りませんでした)を貫くことができたのも、先の半透膜効果の例でしょう。

 日本人はこのように外国、つまり自分が進んで選んだ文化宗主国をモデルとして、自分たちの国を改革し、自分自身を相手のもつ高い水準に合致するよう改造する努力を、遺隋使・遣唐使の時代から最近まで、一貫して行ってきた民族なのです。私はこの、外国に征服支配され強制された結果として外国文化を受け入れるのではなく、自発的に自分を外国のように作り変える現象を、自己植民地化(auto-colonization)と名づけました。現実には植民地にならないのに、心情的には相手との一体化を望んで、相手国の文化的植民地になってしまうのです。

 さて外国語学習の際に見られる基本的姿勢に話をもどすと、以上簡単に述べた説明によっても、日本のこれまでの外国語教育には自己改革、自己改造の傾向がきわめて強い、という私の主張が理解していただけたと思います。

 これと比べてみると、アメリカ人の姿勢は、まさに正反対といえます。歴史的にいっても、また現在のアメリカ人も、概して自分たちのもつ考え方、生き方、文化や宗教のすべてを、普遍的でで正しい規準と考え、自分が理解できない異質の考えや生き方などに出会うと、それをただちに非難し攻撃します。そして何としても自分たちの規準を相手に押しつけ、無理にでも相手の方を変えて、自分たちに合わせようとする傾向が強いのです。

 このような姿勢が日本語を学ぶときにもはっきりと出てきます。どうして日本人はこんな曖昧な表現をするのか、なぜ漢字などという面倒で効率の悪い文字を、いつまでも捨てないのかといった具合にです。同じ西欧の人でもヨーロッパの言語学者で漢字を非難した人はあまりいません。熱心な漢字反対・廃止論者の殆どは、アメリカ人の日本語学者なのです。この違いはおそらくヨーロッパ系の学者の方が、エジプトの象形文字やアッシリアの楔形文字、そしてインドの音節文字(デウァナガーリ)、古代中国の表語文字(漢字)といったアルファベット以外の文字や古い文明に対する馴染みというか、理解があるからでしょう。

 ひるがえって日本人の歴史民族的な性格を考えてみると、それは自分たちより優れていると思う相手を物事の規準と認めて、進んで自分の方を変え、そうすることで、相手にできる限り同一化しょうと努める、典型的な他者規準の自己改造型である、と規定することができます。

 これに対しアメリカ人の方はまさに反対で、自分が物事すべての規準であって、相手のもつ異質性をば普遍からの逸脱、不公正なルール違反と見て、ただちに攻撃に出ます。そして相手を自分のように変えるまでは気持がおちつかないという、典型的な自己規準の他者干渉型、俗な表現を使えば「おせっかい」で「はた迷惑」な点の多い性格なのです。(p.32〜35)

(部分的な太字強調は木下による。)


【保管ファイルNo.5】 佼成新聞 1999.9.17 (6)より

シリーズ特集 「国際高齢者年」真の長寿社会を目指して(中)

特別養護老人ホーム「旭ヶ丘の家」施設長 グロード神父に聞く

『優しさだけでは守れない』

 

1、専門性の高い介護 家族の力では無理

在宅介護が進んでいるのに、なぜ介護者が「共倒れ」するケースが増えているのでしょうか。

 本来、介護と言うのは、一つの専門分野であり、技術的にもハイレベルな領域に達しています。ところが日本では多くの人々が<介護はだれでもできる>という錯覚をいだいています。とんでもない話です。欧米では何十年も前から「老人医学」や「介護学」という分野が確立し、家族は「介護者」ではなく、「付添人」として位置付けられています。それだけ専門性の高い介護を、家族にできるはずがありません。しかも介護者が高齢化し、少子化や核家族化などの問題によって、介護力が低下しているのですから。

とは言え、老人介護施設に自分の親を預けることには抵抗を感じる人もいるようですが…。

 それは老人介護というものを正しく認識していないからです。まず「家族が親を囲んで最期まで介護をする」という認識を根本から改めるべきでしょう。それは家長制度が強かった明治時代の発想です。

 現代は医療の技術が発達し、日本人の平均寿命は飛躍的に伸びています。80歳になっても高度な手術は受けられますし、抗生物質の力を借りれば、とにかく90歳近くまで生きていられる時代なのです。しかし完治することは困難ですから、心身に障害や合併症を抱えて生きていくことになります。ですから老人介護というのは、心理的ケアが中心になってきます。当然、家族には専門性がありませんから、痴ほう症や寝たきり、半身不随に苦しむお年寄りの心理を理解し、適切に対応することができません。結果的に残された正常な機能までも損なってしまい、症状を重度化させてしまうのです。

2、頻繁に起きている無知による“悲劇”

家族による介護は無理だということですね。

 もちろんです。それは医学的に見れば、明らかなことです。まず皆さんが言う「家族」には複数の人間が存在しません。現実に介護をしているのは、家庭の主婦たちです。しかも日本の住宅には老人介護に適した空間もなければ、必要な施設もありません。「家族」が介護で共倒れするのも当然です。だから最後は「どこの施設でもいいから親を預かってください」と家族が役所に泣きつくんです。そしてお年寄りたちは老人病院で薬付けにされ、廃人になっていく。これが「家族で」という魔法にかけられた日本の実態なのです。

家族による介護はむしろ危険なんですか。

 例えばお年寄りというのは、年を取るにつれ、睡眠時間が次第に短くなっていきます。つまり一度に8時間の睡眠を取るのではなく、それを分割して一日に8時間分寝るようになっていくわけです。そう言う生理現象を無視して、痴ほう症のお年寄りなどを介護すると、どうなるのか。「うちのおばあちゃんたら、昼と夜とが引っくり返ってしまって、家族が迷惑してるんです。先生、何とかなりませんか」「それでは薬を出しておきましょう」という具合です。お年寄りは健康なのに、医者に薬を飲まされ、体を壊してしまうのです。このお年寄りを赤ちゃんに置き換えてみてください。生まれたばかりの赤ちゃんが夜中に泣き出しても、まず医者に連れていく母親はいないでしょう。それは母乳が欲しくて泣いているからです。それを家族が迷惑だからと薬を飲ませたら、どうなるでしょうか。こういう恐ろしいことが、老人介護の現場では日常的に起こっているのです。

3、人間を能力的側面で評価するひずみ

ではなぜ日本は在宅介護に力を入れているのでしょうか。

 それは私にも理解できません。わざわざ障害老人を生み出す条件を整えているようなものです。欧米でも在宅介護を行っていますが、それは老人介護施設を充実させた上での話であり、予防措置として取り組んでいます。つまりお年寄りが心身に障害を持つことを未然に防ぎ、症状が重度化しないようにケアすることが目的なのです。日本には在宅介護が不可能な障害老人が、すでに200万人もいるんです。あと15年か20年で、その数は倍に膨れ上がるでしょう。それなのに老人介護施設などのベッド数は100万床しかありません。それを放置しておいて、在宅介護をすすめるなんて考えられないことです。

この危機的な状況を打開するためには、どうすればよいのでしょうか。

 欧米に比べると、日本は学校教育など、あらゆる分野の社会システムがうまく機能しているのに、障害老人の介護だけは本当にお粗末なんです。医者の中には老人医療の専門家がいませんし、行政の世界にも福祉の専門家がいない。本当に偽者が多いんです。現実に全国の特別養護老人ホームは、お役所の天下り先になっています。施設長の大半は福祉課や教育委員会などの退職者で65歳の年金受給を待っている人たちです。老人保健施設の施設長には、お年寄りとは最も縁の遠い外科医が配置されたり、防衛庁の長官だった人が厚生大臣に任命されるなど、欧米では新聞ざたの人事がまかり通っています。とにかく、老人問題の専門家を育てることから始めなければ……。

なぜ日本の社会では障害老人の問題が放置されてしまうのでしょうか。

 この問題に限らず、あらゆる面で日本は「スパルタ的な社会」なんです。これは日本人が口にする「スパルタ教育」という意味とは少し違います。簡単に言えば、一種の軍国主義です。社会(国)のために役立つ人間は歓迎されますが、そうでない人には「我慢しろ」という対応なんです。

 戦後日本は飛躍的な経済成長を遂げたことで、さらに人間を能力的な側面から評価する風潮が強まりました。その結果、社会のために働けなくなった人は、ますます我慢を強いられるようになったのです。

4、最後まで笑顔で生きられる社会に

つまり日本の社会は「スパルタ的」な考え方によって成り立っている、ということですか。

 そうですね。その証拠に日本では子どもたちがとても大切にされています。将来を担う人的な財産だからです。日本のお母さんたちも教育熱心ですし、行政も財政難だと言いながら、子どもたちの教育にはお金を出します。確かにいろんな課題はありますが、義務教育をはじめ法的な整備も整っています。

 ところが障害老人のような社会的弱者には、国も医者も「それなりの対応」しかしません。負の財産だと見なしている証(あかし)です。法的にお年寄りの人権を守るシステムが未熟ですから、医者が金儲けのために無駄な延命治療を施しても、家族が痴ほう老人の財産を搾取しても社会問題にすらなりません。

 国民が国のため、あるいは一つの組織(グループ)のためにあるというスパルタ的な考えが強い社会では、元気で活躍できる人間は問題ありません。障害老人のように社会復帰が困難な人たちは皆、切り捨てられてしまうのです。だから日本の老人福祉は相変わらず、「生活保護」という発想から抜け出せないのです。

グロードさんは一人の宗教者として、どんな視点から老人問題に取り組んでいるのですか。

 社会で活躍できる人も、障害を抱えている人も、皆同じ人間です。だから、どんな境遇にある人でも、人間としての尊厳が大切にされなければならない。簡単に言えば、だれもが最後の最後まで笑顔で生きられるようにしたいのです。

 戦後の日本社会は経済を最優先に考え、人間の尊厳というものを大切にしてきませんでした。人間の尊厳というのは能力的な側面から測れるものではありません。それは人間の精神性や霊的な魂というものから成り立っているからです。

 私たちはついお年寄りを見下げてしまうことがあります。しかし彼らがどんな障害を抱えようとも、彼らの霊的、精神的身分は決して変わりません。人間の精神性は永遠のものであり、この世止まりではありませんから、互いにベストな人生を尽くし、ベストな人生を尽くさせる努力が大事なんです。

5、介護施設を充実させ、生きる希望を

では障害老人が笑顔を取り戻すためには、今、日本は何をしなければならないのでしょうか。

 とにかく老人介護施設を増やし、すべての施設を個室化することです。欧米では日本のような相部屋は国が認可しません。障害老人の介護は心理的なケアが中心ですから、お年寄りにリラックスできる個室を与え、プライバシーを守ることから始まります。

 特に痴ほう老人を介護する場合、彼らの五感神経は正常ですから、感覚レベルで満足感や爽快感を与えれば、ほとんどの異常行動は無くなってしまいます。だから相部屋はダメなんです。入院経験のある人なら分かるはずです。夜中に介護を受ける人もいれば、家族が面会に来ない人もいる。年中、皆でプレッシャーを掛け合っていますから、神経が休まらないんです。せめて寝床ぐらいは個室を確保しなければ……。そして年中、楽しいイベントを催して、お年寄りを愉快な気持ちにさせるんです。そのほかにも私たちの施設では画廊を設けたり、あちこちに装飾品を飾って華やかな雰囲気をつくっています。ですから異常行動を起こす痴ほう老人はだれもいません。皆、ニコニコ顔で毎日を過ごしています。

グロードさんはお年寄りと触れ合う時、いつも何を心掛けていますか。

 本来、人間は皆、年齢にかかわらず、生きたいという願望を持っています。しかもだれ一人として精神的に老いてしまう人はいません。例えば校長先生だった人は人生の最後を迎えるまで、心は校長先生のままなんです。けれども人間は体が悪くなっていくと、心の中にパラリズム(無気力)が生まれてきます。だから気晴らしと尊敬と付き合いが必要なんです。

 気晴らしとは趣味などの文化的活動を意味します。それからお年寄りは人生の大先輩ですから、人から尊敬されたり、感謝されたりすると喜びます。その一方で彼らは人との付き合いが減り、寂しさを感じるようになります。家族はソッポを向くし、同期の桜は散っていくし……。

 お年寄りを外へ連れ出して、付き合わせるという行為も実はケアの一つなんです。昼間は時間を持て余していますから、楽しいイベントに参加させ、いろんな人と交流させるのです。すると心に張りができ、おしゃれをするようになっていきます。

 こうやってお年寄りが笑顔を取り戻していったら、家族だってうれしいはずです。にもかかわらず、国も医者も在宅介護などと言って、国民をごまかしています。本当に怒りを覚えますね。

 優しさだけではお年寄りを大切にすることはできません。とにかく老人介護のあり方を根底から見直していかなければ……。そのために日本の皆さんが立ちあがることを心から願っています。 (cf.1001)


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