アンコール遺跡、こぼれ話:1 My Angkor TOPへもどる 2004.10.12(火)誰のための?
ああ、誰がこんな所に!!バカヤローーーーーー!!象の池へ行く途中、象の池と牛の池との分かれ道の少し手前。 無粋ではあるが、笑ってしまった。
2004.10.9(金)非公認の国境--そしてワット・プーへ
Stoeng Trengからメコンを遡ってカンボジア・ラオス国境を目指す。
Stoeng Treng:
外国人非公認の国境のイミグレは川を挟んであるが、面倒。カンボジアとベトナムのメコンのイミグレみたいに隣にあるといいのに。賄賂はどちらかで絶対取られるだろう。或いは両方(笑)
「左手に蓮華の茎を持ち、右手で与願印を示して・・・」
反対側の人物は袋を持って銭を乞う貧者?
上はアンコール遺跡ではない。インド・オリッサ州の遺跡なのだけれど、「う〜む!似てる!!」と、思うのは、あ・た・し、だけ?!
一瞬、象の池を思い出してしまった。
しかし、カエルにこの鼻は絶対、変!!
両方、直接岩に彫ってある。もしかして、知らなかったのはあたしだけだろうか?
どちらにせよ双方ともトラには見えない。同じ資料(情報)で間違ったか、真似たと考える方が、話は面白い。
グラハム・ハンコックなみのこじつけ?か(笑)
S君は、Thomの環濠からRun Tadevをくぐって出たところに広がるBen Thomが、「まさにそうだ」と。
あたしの中で視覚的に言えば、Phnom Bokが、王のいなくなった城のイメージに近いと思う。
というか、載せていない遺跡がある。
木造家屋の瓦の重なりや軒先に飾り切りされた板が付属しているというのが共通。
アンコール遺跡のあと、人はいずこに流れて行くのだろうか?
初めてのアンコール遺跡で撮ったデヴァターは5枚もないし、リンテルもほんの2〜3枚だった。2回目の訪問も最初と変わりなく、写真はあまり撮らなかった。どれも同じにしか見えず撮る気も起こらなかったのだ。
あたしがレリーフにはまって?しまったきっかけは、デヴァターである。
が、象のテラスにある2体のデヴァターは、どう考えても不思議。異質。
アンコール遺跡を幾度か訪れ、やはりアンコール・ワットという人は多いのかもしれない。
S君も第三回廊がお気に入りのよう。
ラオスのパクセの博物館にはアンコール遺跡以外と思われる「彫像」と「遺跡の写真」もいくらかあった。と言っても素人の判断なので、笑って。
おまけ:
3月初旬、帰国して間もない頃、シェムリアップからメールが届く。
英語の上手いRが、下手くそな日本語で送ってきてくれたメールは、ビジネス・メールのようなものだが、
タイピングも慣れていないだろうと思うと、それはそれで嬉しかった。返事は、もちろん「下手くそな英語」で。
因みに、旅行会社Aには、ガイドだから日本語が上手いのは当然だが、日本の女性数人とメールのやり取りを日々交換している青年Dがいる。彼のタイピングはマシンガンの如くである。あたしより速い!変換もほぼOKみたいだ。ま、漢字は殆ど読めないんだけど、とにかくすごい。
あたしの通称は「ママ」・・・
書籍と地図、絵葉書、クロマー。
カンボジアでカラー本を買うときは、注意が必要。色ずれは許せるが、何処かの「折り」の一色が違う版で刷られているときがある。色分けで説明される内容だと意味が分からなくなる。一色物でも、時間のあるときはノンブルを読む。乱丁なら許せるが、飛んでいるのは論外だ。紙質が違うので裏写りは仕方ない。
絵葉書はシェムリアップで1ドルで売っているが、プノンペンの本屋では0.6ドル。
たくさん欲しいのは、「地図」
切手は郵便局にアンコール遺跡の綺麗なのがあったが、とても高かったので、単色刷の安い物しか買えなかった。切手なら荷物にならない。
アンコール・トムの門、四面仏の瞳は「黒く塗られていた」と思った。
去年の今頃、一生懸命本を読んだ。色んな事がたくさん分かった。しかし、随分と読み漏れがあったようだ。「屋根裏」2003.4.6に書いた「足跡」も、その一つ。シェムリアップで海賊版で販売されているアンコールの遺跡・今川幸雄氏の著書(P89/8行目〜)に、書かれてあった。素人のアンコール遺跡巡りって、こんな水準なんだとしみじみ思う。が、が、推測は当たっていたのだ!嬉しいなぁ。
クーレン山のロンチェンについても見落とし。
アンコール遺跡/ジョルジュ・セデス、三宅一郎訳P221・8行目
同じ本を何度も読む。同じ遺跡に何度も通う。
先日、アジア図書館へ行って来た。うう、閲覧料500円、コピーはA3が60円もする!モノクロで、だよ!
岡崎の石工さんのビデオを観る。(8年ほど前のNHK放映)デヴァター数体が映し出されたが、「違う」と思った。当たり前なんだけど。技術的には、こんなもんかなと思ったが。
彫像を描き始めた頃、プロバイダーの使用メモリは残量が殆どなくて、大きな画像はUPしていない。つまり、小さいので描き込んでいなかった。途中から使用メモリが100MBに増え、描き込み始める。並べてみると、違いすぎる。描き直さんとあかんな〜・・・
昨日、Stone for placing votive offeringsのことを書いたのだが、プノンペン博物館の注釈カードには出土はシェムリアップと書かれていたが、Iさんのリストで遺跡名のSnuolを見るとKralanh東北東にあるSnuol村の北1kmにあるようだ。レンガ塔4つ。100年前の遺跡の地図を見ると「!!」なんと扱いがけっこう大きい。コー・ケーやベンメリアと同等に記されている。これってどういう意味があるんだろう・・・
初めて見る物で面白いと感じたものはしっかり記憶に残る。
ワット・プーおまけ:
彫刻村って、あったのかな。
公に近い機関のホムペは、何故更新がされないのか?
などと、偉そうなことを書いているが、自分のサイトもいい加減なものだ。
更新って辛い・・・
どんな風に作られたか?
バンテアイ・スレイでは、顔つきは一種だが、ジャヤヴァルマン7世の頃の門衛神は開口部に向かって左が仏陀風、右が阿修羅風だ。これはアンコール・トムの各ゲート、乳海攪拌の像と一致する。で、アンコール・ワットには門衛神がいたっけとふと思う。記憶にないのだ・・・
プノン・バケンは二重の環濠に囲まれていたという記述があり、外の大きい環濠は4kmぐらい。
ヤショダラプラの中心がプノン・バケンである。衛星写真でかなり大きな環濠跡を見ることができるが、それは南西角のみである。北側は映ってはいない。で、コンパスで距離をとると、王宮跡とその西にある池(トロペアン・ドン・マ)、ピミアナカス、勝利の門への道が北部環濠の位置に当たる。この位置は東メボンの中心線上でもある。
王宮とプノン・バケンはほぼ同じ年代とすると環濠の中にわざわざ王宮を建たのか?それとも環濠は途切れていたのか?
と、ここまでタイピングして、体は丈夫だが頭の弱いあたしは混乱し、手を止めた。
数日後も混乱中:
周辺より低い位置に遺跡があるというのは何故なのか?そうそう北側階段の北には上を歩ける1m位の低い塀のようなものがあったなぁ。土手が階段口まで伸びたような・・・
あああ!何が言いたいのか?
おまけ:
初めて行ったアンコール遺跡、アンコール・ワットとアンコール・トムしか知らなかった。バイヨンもタ・プロームも象のテラスも・・・映像的にはアンコール・ワットのみ。そんなんでも楽しかったし気持ちよかった。
今、気になっているというか、きちんと見たいのは中央尖塔である。
あたしは、そそっかしい。プノンペン国立博物館で買った古クメール語の辞書は6〜8・9世紀のものだった・・・
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