|
●「賢治の事務所」の事務室から ●お願い (各コーナーの写真をクリックすると目次に戻ることができます) |
●3月1日(金) 晴れ。 いつものように、今月の写真の拡大版を載せておきます。 早朝から地震。 日中、自宅の所用をこなす。 日没後、西空の低い場所のポン・ブルックス彗星(12P/Pons-Brooks)を双眼鏡で探すが確認できず。 6等級程度はあると思うのですが…。 吉田君の予報では4等近くにはなりそうでした。 ●3月2日(土) 晴れ。 朝まで、在宅でお仕事。 その後、冷たい風の中、梅の撮影を行いました。 観梅の観光客は多いものの、撮影はしやすい場所でした。 梅の枝は独特で、広重の浮世絵などを思い出しつつの撮影となりました。 帰りの水戸駅では、JR東日本の寝台列車「四季島」をしばらくぶりで見ることができました。 (「四季島」はこちら(JR東日本)) ●3月3日(日) 晴れ。 ジャン・ピエール・ルミネ『ゴッホが見た星月夜 天文学者が解き明かす名画に隠された謎』(日経ナショナルジオグラフィック)読了。 著者のジャン・ピエール・ルミネは、天体物理学研究所の天体物理学者で、ゴッホの書いた「星」「月」のある作品がどのように描かれたのかを考察したものです。 以下、目次より。 (ゴッホの対応作品名は別途加えました)
例えば、有名な『ローヌ川の星月夜』は、フランス南部のアルル、ローヌ河畔から遠方の風景とともに描いた北斗七星とされています。 私も何度か検証したことがありますが、ポイントは、この絵画を書いたとされる場所から同様の風景のある方角(南西)を見ても、そこには北斗七星は見えないということです。 そこで、例えば大阪市立科学館の石坂千春氏(本書では日本語版監修者)は、ペガススの四辺形〜アンドロメダ座〜ペルセウス座付近に同様の配列があるものとして、推定を行いました。 (石坂千春「『ローヌ川の星月夜』と“秋の大びしゃく”」はこちら(天文教育普及研究会「天文教育」2002年1月号)) 本書の著者は、この問題は「曇っていたので記憶で描いた」「町の上空に星が乏しかったため自分がよく知っている星座を描いた」「異なる方角の地上の風景と北斗七星を合体させた」という3つの仮設を挙げて説明しています。 ●3月4日(月) 晴れ。 何となく気まぐれで、元ピンク・フロイドのロジャー・ウオーターズの新譜(というか「狂気 The Dark Side Of The Moon」再レコーディングのアルバム)を聴いてみました。 アルバムの帯には「オリジナル・レコーディングから50年、歴史上最も著名で高く評価されるアルバムを再解釈した壮大な野心作『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』、リリース」ありました。 2度ほど通しで聴いてみましたが、あえて再レコーディングする必要あるのか?という疑問だけでした。 歌というよりは呟きも多く、サウンドとしても物足りなさがありました。 これが正直な感想です。 ●3月5日(火) 曇りのち雨。 自宅で片付け中に、古い天文誌やカメラのカタログが出てきました。 仕事も忙しい時期ですが、懐かしんで見ているだけでもお茶の時間の気分転換になります。 「PENTAX MX」の1981(昭和56)年8月、と1982(昭和57)年8月のものです。 両方ともに、カメラボディが48,000円、50mmF1.4レンズつきで77,400円という価格でした。 (当時は、カタログにも定価の記載が普通でした) 小型コンパクトは前提で、多様なシステムの拡張性がウリだったようです。 この頃は、天文関係の友人がニコンを使用していたため、Nikon F3HPがメインカメラでした。 こういった古いマニュアルカメラを使って撮影する人も(まわりには案外)多いので、ただ懐かしいだけですが、自分では不自由なスタイルには戻れません。(きっと・・・)。 寝る前の時間は、締め切りのある資料の作成など。 ●3月6日(水) 曇り時々雨。 今月発売の天文2誌を購入。 『星ナビ』4月号は、特集が「春の宵のポン・ブルックス彗星」です。 周期彗星、ポン・ブルックス彗星(12P)について、天体の物理の観点から解説。 肉眼等級になるであろう予報のもと、観測や観望の案内記事が記載されています。 綴じ込み特別付録は「天体画像処理4」(彗星編)。 『天文ガイド』4月号の特集は「SLIM月に立つ」です。 他に3月25日の半影月食、星空動画などを扱った記事があります。 渡辺和郎さんの「小惑星ガイド」のMPCのリストには、会津若松の薄さんを命名した小惑星が掲載されていました。 ((24960)Usukikenichi)です。 また中野主一さんの「彗星ガイド」には、2023 A3彗星の観測の結果から、順調に増光しているとの報告がありました。 現時点の(期待)光度は0等級でした。 ●3月7日(木) 晴れ。 花巻の宮沢賢治学会イーハトーブセンター事務局から、「イーハトーブセンターだより」第143号(2024年3月4日)が到着しました。 事務局の皆さまありがとうございます。 内容は、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞推薦のお願い、会費納入(未納・滞納の方)のお願い、イーハトーブ館図書室 図書・資料受入れ報告です。 他に、賞選考に係る推薦のお願い、「第3回賢治さんの世界を描く絵画展(2024年1月6日〜3月31日、於:宮沢賢治イーハトーブ館/展示場)」のチラシが同封されていました。 ●3月8日(金) 雪のち雨。 今日はイギリスの音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンの命日でした。 ビートルズに多大な影響を与えた音楽プロデューサーです。 1927(昭和2)年の今日、3月8日は、松田甚次郎が宮沢賢治(桜)を訪ねた日です。 甚次郎の日記には、その感動が綴られています。 「忘ルルナ今日の日ヨ、Rising sun・・・」 ●3月9日(土) 晴れ。 所用で都内の音楽ホールへ。 今日は、新潟県の津南でつなん雪まつりが開催される日です。 過去に2度ほど出かけたことがありましたが、大勢でスカイランタンを打ち上げるイベントで有名なまつりです。 (「第48回つなん雪まつり&SNOWWAVE2024」はこちら) 風の影響を受けやすいので、気象上のコンディションに左右されます。 一斉に空に飛んでゆく瞬間はなんとも言えません。 ●3月10日(日) 晴れ。 今日は自宅で作業。 今夜は新月。 (旧暦では2月のはじまり。) 夜になって星座を確かめると、冬の大三角がもうシーズンを過ぎて引退気味。 東の空からはしし座が勢いを増しながら空の高見を目指しています。 野尻抱影『星座巡礼』(研究社 1925.11)の獅子座の解説では次のとおり。
●3月11日(月) 晴れ。 仕事の関係で夜は職場近くの宿泊所へ。 今年も2011年3月11日のことを忘れぬように。 その時の3月11日から4月17日までの記憶の断片として。 以下の文章は、私が「ワルトラワラ」誌で連載していた「宮沢賢治のプラネタリウム」の記事が震災で書けなかったため、その代わりとして東日本大震災時の日々記録を「緑いろの通信」から抜き出したものです。 当時の様子を記憶に留めておくため、当時の記録をここに転載します。 (ワルトラワラ33号より) あの晩の澄んだ空に見えた月とすばる。 薄明時刻終了近くの空がなんときれいだったことか・・・。 実家への道沿い(家々)はすべて停電していました。 旧暦は2月7日、月齢6.6。 まだ忘れていません。 ●3月12日(火) 曇りのち雨。 早朝出勤の日。 野尻抱影『星三百六十五夜 春』(中公文庫)の今日3月12日は、「霊魂の門」です。
抱影の言う「蟹座の星団」とは、通称プレセペ星団と呼ばれる散開星団です。 かに座中央部にあり、双眼鏡を用いればそれが星の集団であることを確かめることができます。 ●3月13日(水) 晴れ。 夕方の月がきれい。 18時40分頃の月と木星です。 月は月齢3.0(旧暦2月4日)、木星は-2.1等星です。 シミュレーション図中の白枠は、35ミリ判カメラの135ミリレンズを使用した場合の画角です。 帰宅後、自宅で各種作業。 ●3月14日(木) 晴れ。 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はSgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band(Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band)〜She's a Waman(Single B-side)まで。 Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Bandの「Sgt.Pepper」は、「salt and pepper」の聞き違いから生まれた。 アメリカ公演でショーはもう散々。 ツアーをやめて、自分たちの分身が別のバンドとなって、コンサートの代わりがレコードというアイデアが生まれた。 She Came in Through the Bathroom Windowでは曜日の話。 曜日は色と結びついている。 レディ・マドンナも同様に曜日のイメージを用いた歌詞がある。 この歌詞は、ある女性が実際に僕の家に忍び込んだ事実から生まれていて、「父が写った写真をくすねた」けれど、その見返りに、僕は曲を手に入れることになった。 She Loves Youは、コンサート後のホテルの部屋と、僕の父の家のダイニング・ルームで完成させた。 父は「Yeah,yeah,yeah」が不満で、「Yes,yes,yes」と歌うべきと言った。 そして、ハンブルグでの演奏経験がドイツ語バージョンの「She Loves You」へとつながった。 She's a Womanは、恋人の美点を称賛したものだけれど、Girlではなくwomanということに注目してほしい。 ベースを担当することになったのは、ギターが壊れてしまったことに遡る。 ピアノを担当していたけれど、ベースのスチュアート・サトクリフが、アストリッドという女の子と恋に落ち、バンドを離れることになってしまい、自分がベースを購入した。 ●3月15日(金) 晴れ。 週末の準備など。 準備を終えて、野尻抱影・山口誓子『星戀』(中央公論社)のページをめくりながらお茶の時間。 以下は誓子の「三月」の句から。
3句目の「西天に火星燃えつつ春の霜」では、西空にかかる赤い火星と、霜のかかったぼんやりとした風景がすぐにイメージされました。 この時期の火星は、まだ西空高く、ふたご座に土星とともに並んでいました。 ●3月16日(土) 晴れ。 午前の新幹線で盛岡へ。 週末の東京駅は大変混んでいました。 新幹線の車内誌「トランヴェール」2024年3月号は、北陸新幹線の延伸で敦賀駅開業を記念してか恐竜のデザインされた表紙。 福島に入ると、残雪が白く光る吾妻の山々が見えてきました。 一切経、吾妻小富士、東吾妻、高山と確認。 仙台を過ぎれば、あっという間に盛岡駅。 昼食前に中ノ橋方面に出て、岩手銀行赤レンガ館で開催中の「KAGAYA 星空の世界展」を見学。 (「岩手銀行赤レンガ館」はこちら(岩手銀行赤レンガ館)) 主要展示スペースは1階で、2階には売店スペースがあります。 なかなかの人の入りでした。 見学を終えて、中津川沿いや肴町方面を散策。 駅に戻ってゆっくりランチ。 今回の盛岡への目的は、岩手大学からの依頼で2時間の講義をするため。 賢治の母校でジョバンニの先生のように「午后の授業」。 約2時間ほどの講義で、「天文アマチュア宮沢賢治 〜生涯と作品世界〜」というテーマ。 あまり知られていない賢治の天文エピソードや、賢治の時代の天文界、さらに作品解釈について面白そうな話題を選んで取り上げました。 受講者の皆さんには楽しんでもらえたでしょうか・・・。 講義終了後には、大学の先生方、理工学部の学生さんと食事に出て、楽しい時間を過ごしました。 皆さま本当にありがとうございました。 メモ:斎藤宗次郎がカノープスを見た日。 ●3月17日(日) 晴れ時々雪。 東京は大変な暑さだそうですが、盛岡は冷たい風が吹いていました。 雪の岩手山にお別れして盛岡駅に出てからの帰路、新花巻で途中下車しました。 新花巻駅からはタクシーで上町のマルカン食堂へ。 ちょうどランチタイムで食堂内は階段の下まで行列ができていました。 テーブルからスマホでも食事が注文できるようになっていてびっくり。 市内を歩いて、いくつか必要な写真を撮影。 上町付近、市内の空洞化がさらに進行して寂しくなりました。 空地が目立ちます。 古い料亭まん福の建物も撤去されてしまったようで、更地になっていました。 賢治の詩集『春と修羅』印刷所跡(旧照井菓子店)にも立ち寄ってみました。 看板を撮影していたら、おばさんが出てきて少々立ち話…。 団子づくりは案外力仕事で、男じゃないと無理、作ってた人も亡くなって商売をやめたこと、そして店の前の標柱はある日突然建てられていたこと、お店の看板のこと・・・。いくつものお話を聞かせてもらいました。 いつまでもお元気で日々の生活を頑張ってほしいものです。 100年前の賢治はここに通っていたわけですね。 最後は、タクシーをつかまえて宮沢賢治記念館へ。 宮沢賢治イーハトーブ館にも立ち寄りました。 童話村からタクシーで新花巻駅まで。 予定の新幹線で無事東京に帰ることができました。 ●3月18日(月) 晴れ。 ちょっと変わった賢治ニュース。 「ピリングスの2024年秋冬コレクションの出発点となったのは、詩人であり童話作家の宮沢賢治」とありましたが、素人には難しい。 撮影場所が、ライト設計の自由学園明日館で、そちら方が気になってしまいました。 (「ピリングス 2024-25年秋冬コレクション - 宮沢賢治を出発点に、創造のきっかけを」はこちら(FASHION PRESS 2024年3月18日)) 岩手の用事が終了して、次の作業へと気持ちを転換。 ●3月19日(火) 晴れ。 賢治の晩年の天文関係の活動として知られているものの一つに、童話「銀河鉄道の夜」の執筆が挙げられます。 具体的には、「銀河鉄道の夜」後期形が「1931(昭和6)年以降(亡くなるまで)」とされています。 一方、星にまつわるエピソードとしては、どのようなものがあるでしょうか。 例えば、関登久也『賢治髄聞』(角川書店1970.2)の「リンゴ」などが知られています。 『賢治髄聞』は、『【新】校本宮澤賢治全集第16巻(下)補遺・伝記資料』(筑摩書房)の「年譜」にも頻度の高い引用書として記載があるものです。 (以下引用。( )内は補足したもの)
同じ関登久也の著書として『宮澤賢治素描』(共榮書房1943.9)、『續 宮澤賢治素描』(眞日本社1947.2)もあります。 『宮澤賢治素描』の方は賢治没後10年後の発行ですが、この2冊は『賢治髄聞』の元となる書物です。 森荘已池によるあとがきでは、『宮澤賢治素描』『續 宮澤賢治素描』を元にして「…重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。 明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した」と書かれています。 次の文章は、『宮澤賢治素描』にある同じ項目を引用したものです。
比較すると、刊行時期により仮名遣いが異なる点が目立ちますが、内容では賢治と出会った晩の空の描写が、森荘已池の見直しにおいて一部割愛されていることに気づきます。 以下、刊行順にして該当箇所を掲げておきます。
割愛された「高い空には、星と星がぶつつかつては火花を散らしてゐる夜でした」は、文言どおりでは意味不明ですが、流れ星が見られた夜だったのかも知れません。
ところで、このエピソードに類似するものとして、同じ『賢治髄聞』の中の「晩年の賢治 賢治の面影」にも見つけることができます。 祭の晩に賢治と出会い、東公園でリンゴを食べ、星の話をしたという内容です。
さらに、後の刊行となる関登久也『宮澤賢治物語』(岩手日報社1957.8)にも見つけることができます。 以下に、その最新版となる『新装版 宮沢賢治物語』(学習研究社1995.12)の「宮沢賢治の生涯 病床の頃」からを引用しておきます。
上記から星にまつわるエピソード部分のみを改めて抜き出しますが、こちらの方は時期が1〜2年ほど遡り、さらに同じ東公園での様子でも、より具体的に書かれていることがわかります。 『賢治髄聞』では、森荘已池の見直しにおいて割愛された星が火花を散らすエピソードも残されています。
引用した文献おける「星にまつわるエピソード」の時期について、刊行順に以下に簡単にまとめておきます。
「1932年頃」、或いは「1930年または1931年頃」の両方が混在しています。 時期そのものが異なるため、別の年の出来事とも考えられますが、あまりにも内容が似通っていることから、やはり時期の思い違いと思われます。 他の年譜の事項を勘案すれば、1)や3)にある1932(昭和7)年の秋は、晩春の下顎にできた潰瘍のため治療を受けるなどしたこと(リンゴを食べるのは難しいのではないか)、さらに夏から秋にかけても病床の状態であったことが窺われ、秋祭の夜を遅くまで出て楽しめる時期であったとは思われません。 となると、それ以前、すなわち2)や4)にある、1930(昭和5)年または1931(昭和6)年頃となりますが、他の年譜の事項に照合した場合、当時の賢治の健康状態などからみてもこちらの方が妥当なようです。 但し、エピ―ソードそのものの内容に関して言えば、早期に執筆された1)や3)よりも、後の2)や4)の方が、かなり具体化している分、その信頼性には不安もあります。 賢治自身の伝記的事項に基づくエピソードを理解する際、こういった事情は多方面で散見されるので、その判断にはなかなか難しいものがあります。
賢治の訪れた東公園ですが、戦後、株式会社新興製作所の花巻工場が建設され私有地となっています。 その後、建物が撤去され、未整地のままの状態が長く続いており、花巻市も産業廃棄物による環境汚染の問題から、経過をウェブサイトにおいて報告している状況です。 (「旧新興製作所跡地の建屋解体等に関するお知らせ」はこちら(花巻市)) 同じ場所から撮影されたGoogleストリートビューの画像でみると、過去の新興製作所のあった時代の様子と、建物が取り壊された後となる最近の様子を比較してみることができます。 次の写真は、Googleストリートビューと同じ場所から私が撮影した旧東公園の先端部分です。 石垣に覆われていることがわかります。 まるで巨大船の船首のようにも見えます。 工場跡地は、花巻城から続く高台の東端で、再び公園として整備されれば、「宮沢賢治星見の地」となるだけでなく、東は北上川の朝日橋からイギリス海岸方面、南〜西は花巻市街地を見渡せる展望の地なのですが、こればかりはどうしようもありません。
最後に、1930(昭和5)年と1931(昭和6)年の9月19日(昔の花巻まつりは9月17〜19日開催が定例)の夜明け前、午前2時の星空を掲げておきます。 宮沢賢治と関登久也が東公園で見た星空はどのようなものだったのでしょうか。 1930(昭和5)年では、東の空に木星(-2.1等)と火星(0.8等)が並んで見えていました。 但し、地平線に近い場所に旧暦27日の月(月齢25.6)も出ており、その影響で夜空全体は比較的明るくなっていたと思われます。 1931(昭和6)年では、東の地平線から木星(-1.9等)が出ようしている時刻でした。 月は22時半前に沈んでおり、その影響はありません。 「天の川が白く流れている夜であった」と書かれていますが、その状況を勘案すれば、月明りの影響を受けないはくちょう座付近の銀河が、まだ西の空に懸っていますから、1931(昭和6)年の方が文章のイメージには合致すると思われます。 ●3月20日(水) 春分の日。 晴れのちにわか雨。 用事があって外出。 にわか雨のあとは虹が出ていました。 今日は春分の日。 太陽が春分点を通過する日です。 その時刻は12時06分。 太陽は天の赤道の北側にまわり、6月の夏至点へと黄道上を移動します。 図中では、黄道上を左下から右上に向けて移動することになります。 今年の夏至は6月21日です。 就寝前に、トライセラトップスの古いベストアルバム「The Great Skeleton's Music Guide Book」(リマスター盤)で聴きながらお茶の時間。 (少々) ギターバンドとして、優れたリフの数々に毎回感動してしまいます。 ●3月21日(木) 晴れ。 花粉に悩まされた日。 自宅の所用のため日中外出。 先日、岩手大学で賢治のお話をした際に、受講者の方から質問をいただきました。 賢治の童話「おきなぐさ」に出てくる変光星のことです。 恐らく、実際の天体(恒星)のモデルに関することと思います。 失念していたこともあり、その場でお話ができませんでしたので、本文を引用しつつここに記しておきたいと思います。
植物のオキナグサ(うずのしゅげ)を主人公とした作品です。 前半では蟻が、後半ではひばりが登場し、二本のうずのしゅげと会話をする中で物語が進行します。 最後の場面で、うずのしゅげが、二つの銀毛の房となって飛び立ち、その後に「天上へ行った二つの小さなたましいはどうなったか、私はそれは二つの小さな変光星になったと思います」と説明されます。 なぜ変光星なのか…。 それは「変光星はあるときは黒くて天文台からも見えず、あるときは蟻が言ったように赤く光って見えるからです」と書かれていますが、蟻の言葉では「…、黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります」と説明されていたものです。 変光星とはもちろん、明るさが変わる恒星を指しますが、作中での理解に基づけば、黒くて見えない時期(暗くなる時期)と、明るくなって赤く見える時期の両方があるという特徴によるものと思います。 そうであれば、モデルとなった変光星は、光度差の大きい(減光時にかなり暗くなる)変光星で、色は赤い星というのが特徴です。 変光星は昔から良く知られており、賢治の時代にも相当数が発見されていました。 変光星の種類にはいろいろありますが、この特徴に基づけば、くじら座のミラ(ο Cet)が当てはまる星と思います。 変光星として最初に発見された有名な星です。 当時のいくつかの天文書にも言及があります。
このように、変光星そのものだけでなく、童話に登場するモデルとしてのミラの存在も当時から十分に知られていたことがわかります。 具体的にどのような書物から知識を得ていたのかは不明ですが、作品の執筆時期を1923(大正12)年頃とすれば、有名な『星座の親しみ』や『肉眼に見える星の研究』の星の知識が参考とされたかも知れません。 星座図でも以下に示しておきます。 矢印で示した星がくじら座のミラです。 極大時期には見える星が、極小時期になると消えてしまいます。 なお、「おきなぐさ」の変光星については、草下英明『宮沢賢治と星』をはじめとして、賢治の研究書籍においても具体的な解説が行われています。 ●3月22日(金) 晴れ。 キースジャレット自身の監修によるザ・ケルン・コンサートの楽譜が届いていました。 こだわりの前書きを読めただけでもマニアとしては満足です。 ●3月23日(土) 晴れ。 問題案件が発生して自宅で作業。 賢治の新刊から。
「賢治の図書館」≫ 放送大学教材『宮沢賢治と宇宙』/谷口義明/大森聡一/(NHK出版)を追加しました。 多くは先行刊行物をもとにまとめられています。 ●3月24日(日) 曇りのち雨。 自宅の所用。 そして、都内の演奏会に招待をいただく。 帰宅後は、定例の原稿依頼届く。 少し前ですが、アメリカのエリック・カルメン死去のニュースがありました。 1970年代から80年代のかけて活躍したアーティストです。 聴きやすい(ある意味ビートルズ的な)楽曲が多く、親しみやすいものばかりで、10年ほど前にリマスター盤が出て買い揃えました。 新曲は期待していなかったのですが、残念なニュースです。 ●3月25日(月) 雨。 職場の卒業式(学位記授与式)。 あいにくの空模様。 今日は賢治の詩「晴天恣意」(1924(大正13)年3月25日)から100年目の日。 以下、「賢治の星の風景」(1996年9月7日更新記事に加筆訂正したもの)より。 ■『春と修羅』第二集の中に「晴天恣意」と題された詩があります。 賢治は3月23日に農学校の卒業生を送りだしたあと、翌24日より鱒沢、五輪峠、人首、水沢と歩き、人首では 林業指導を、また水沢では緯度観測所に立ち寄っています。 ■下書稿(一)には「(水沢臨時緯度観測所にて)」、下書稿(二)には「(水沢緯度観測所にて)」と傍題がつけられていた経緯があるとおり、当時賢治の最も身近にあった天体観測所として水沢緯度観測所が登場しています。
■童話「銀河鉄道の夜」を読んだあとに、この詩のほぼ最初の部分を読むと、何か気にかかる部分があるはずです。 「銀河鉄道の夜」に登場する『天気輪の柱』との共通性です。 このことは 従来から研究者により指摘されていた部分ですが、「五輪」と「天気輪」、また「白く巨きな仏頂体が立ちますと」と、柱が立ちががるような記述、そして「ひとたびそれを異の空間の高貴な塔とも愕ろきますが」と別な世界への入り口とも思える表現....。 賢治はこの時『天気輪の柱』のイメージをすでに思い描いていたかのようです。 ■「雲量計の横線を/ひるの十四の星も截り」と書かれていますが、下書稿(一)では「天頂儀の蜘蛛線を」と書かれていました。 これは、水沢緯度観測所に立ち寄った際に、天頂儀を見学し、その時の印象を詠んだ部分です。 文章の流れから星を測定するのであれば、雲量計ではなく、下書稿(一)に書かれているとおり、「天頂儀」が正しいことになります。 天頂儀とは、子午儀、子午環などと共に星の正確な位置を測定することを目的とした、主に天頂付近の恒星の位置を測定する望遠鏡です。 ■では、「雲量計」とは何か....? 草下英明著『宮澤賢治と星』の中で「『晴天恣意』への疑問」補註として、須川力(前緯度観測所長)著『星の世界 宮沢賢治とともに』を引用し、解説されています。 それによると、緯度観測所構内に「櫛形測雲計」という設備があり、実際には雲量を眼視する際の範囲や方向の目安にする器具で、雲量計ではないが、それを「雲量計」として速断したらしいとの説明があります。 ■『星の世界 宮沢賢治とともに』の中では、次の「ひるの十四の星も截り」について、当時の 観測所で一晩に観察する恒星の数は原則として24星であり、それを賢治が誤って14と思い込んでいたのではないか、と説明しています。 天頂儀による実際の観測方法は、望遠鏡の視野にある十字線(十字線は賢治が書いたとおり蜘蛛の糸でできている) を、星が横切る時間を正確に測定するという簡単なものです。 従って「アンドロメダの連星も/しづかに過ぎるとおもはれる」というのは、望遠鏡の視野の十字線の上を「アンドロメダの連星も静かに通りすぎていると思われる」という賢治の推測によるものと考えられます。 (但し、ただ単に星が通過するという立場からすると、別に天頂儀である必要性はなく、賢治のいう「雲量計」であっても なんら問題はないと須川氏も述べています。) ■下の写真は、賢治が観測所を訪問した当時の天頂儀です。1899年に眼視天頂儀室に おさめられたものです。 (写真省略) 眼視天頂儀 ドイツ・ワンシャフ社製 口径108mm 焦点距離1289mm (写真:緯度観測所75周年誌) ■「アンドロメダの連星」とは、アンドロメダ座の有名な二重星の「アルマク」(アンドロメダ座γ星)のことでしょう。 この星は吉田源治郎著「肉眼に見える星の研究」にも「アルマクは、距離十秒 を隔てた三等星の黄星と、五等星の青星から成る、周期五十年の美しい連星であります。」と紹介されています。 また、 下書稿(一)では、この星を「わたくしの夏の恋人、あの連星も」と書いているのも興味深いです。 賢治はこの星をどこ かできっと覗かせてもらっていたことでしょう。 「ふたゝび陰気な扉を排して/あのくしゃくしゃな数字の前に/かゞみ込まうとしますのです」、これも一見意味不明と思われるしぐさですが、『星の世界 宮沢賢治とともに』のなかの考証によると、
と説明がつくといいます。 これは驚きですね。 ■さて、シミュレーション画面ですが、水沢緯度観測所の位置でのアルマクの子午線通過時間を測定してみました。 画面は昼間の大気光を消して星が見えるように表示設定されています。 大きな曲線が子午線、 太陽や水星、金星などが見えています。 1924年3月25日のアルマクは、13時25分に子午線通過することがわかります。 但し、ここで実証できたわけですが、賢治が星座早見盤などを利用し、そこまで考えて創作したのか?というと、むしろ 「アンドロメダの連星」に寄せる想いが先にあり、「しづかに過ぎるとおもはれる」と単に推察していたと考える方が自然 ではないか....、と思います。 ■この詩の前半で語られる、仏教の五輪の思想に由来する賢治の説明がありますが、その 中で、スウェーデンの天文学者アレニウスの名が出てきます。 宮沢賢治語彙辞典によれば、地球外からの生命がやってきたこと、太陽系の成因を衝突説で説明するなど、さまざまな研究を行い、賢治の愛読した片山正夫著「化学本論」にもたびたび登場したと記されています。 ■なお、この水沢緯度観測所は、賢治の童話「風野又三郎」「土神と狐」などにも登場しています。 中でも初代所長は「Z項」を発見し、日本の天文学を世界に示した木村栄理学博士で、「風野又三郎」にも実名で登場しています。 余談ですが、1925年1月15日より花巻農学校にて「岩手国民高等学校」が開設され、課外講演として 木村博士が「緯度観測」を、また賢治は「農民芸術」の講師として講義を11回行っています。 賢治生誕100年の年にアップした記事となりますが、昨日のことのように覚えています。 ついでに、以下の資料を斜め読み。 池田徹郎は、水沢緯度観測所の三代目の所長となった人物で、賢治がこの詩の舞台として訪問した時期には緯度観測所技師(気象課長)をしていました。 ●3月26日(火) 雨。 ポン・ブルックス彗星(12P)のニュースが入りますが、明るさの方は、予報光度どおりに推移している模様。 彗星名の「ポン・ブルックス」は、発見者2名(発見順)の名前です。 そのうち、第2発見者の「ブルックス(William Robert Brooks)」(1844〜1921)は、他にも多くの彗星を発見しています。 その一つに、肉眼彗星にもなったブルックス彗星(C/1911 O1、仮符号1911c)があります。 彗星の発見された1911(明治44)年は、ハレー彗星が接近した年の翌年で、観望の好機は10月中旬ごろまで日没後の西空、10月下旬になると明け方の東空に見えていました。 当時、宮沢賢治は盛岡中学の3年生でした。 賢治の「文語詩篇」ノート6頁(1911年)に「発火演習 臥してありし 白き花、うめばちさう、煙、吉野」とする記載があります。 賢治の年譜記事によれば、9月30日に一本木野付近で行われた発火演習時のできごとと思われます。 次の短歌もその際の作品でしょう。 (歌稿Bから[B5-6a])
その9月30日における一本木野での彗星の見え方をシミュレーションしてみました。 発火演習時に創作されたいくつかの短歌作品の状況からすると、黎明時(夜明けどき)の演習を詠ったものと思われます。 その時間帯の彗星の位置を調べてみると、北北東の低い位置に、約2等級の明るさで見えていました。 彗星は淡い天体ですので確認が普通の恒星よりも難しいことは言うまでもありませんが、高度が低いと地形や樹木の条件にも左右されることが多くなります。 同日の宵空についてもシミュレーションしてみました。 見やすさでいえば、こちらの方の条件が格段に良いことがわかります。 ●3月27日(水) 晴れ。 週末の準備など。 お天気はまあまあながら、黄砂の影響もあり彗星観察には不適。 今年も年度末の慌ただしさに倒れそう。 ●3月28日(木) 曇り。 宮沢賢治の作品、気になるものとして詩「〔あそこにレオノレ星座が出ている〕」(『詩ノート』収録)があります。 今日はその作品日付(1927(昭和2)年3月28日です。
社会主義の国から届く黄砂の舞う「コロイダーレ」な夜空を眺めてつつ…。 以前同人誌に書きましたが、作中に出てくる「レオノレ」(しし)は、星座であると同時に「レオノーレ序曲」からの発想としても興味深いものがあります。 春の宵空のしし座は、主役として天の高見を目指します。 ●3月29日(金) 雨のち曇り。 仕事を終えて、夜から都内に移動。 明日は早起き。 ●3月30日(土) 晴れのち曇り。 夏のイベント打合せなどで長野県茅野市へ。 今年もお話の依頼がありました。 駅から車で送ってもらい、車道(国道299号線・メルヘン街道)の日向木場展望台の駐車場からは、残雪のため荷物を担いで進みます。 白駒の登山口までは1時間以上の歩きです。 自動車で移動している時は感じませんが、徒歩で歩くのは意外に大変です。 白駒の駐車場前の最後のカーブで踏跡を外し、雪のしまっていない新雪に落下し、下半身は雪の中。 落ちた瞬間に足がつって、痛さのあまりしばらく起き上がれず。 5分近く停滞して、なんとか駐車場着。 駐車場からは、雪に埋もれた森の中を1時間ほど。 バイトの皆さんとも再会。 イベント打合せも昨年の進行表をもとに意見交換。 夜は「すきやきの会」となりました。 夜になって山上は薄雲の中。 比較的強い風で雲が流れていました。 夜空の様子を気にしながら、早々に就寝。 ●3月31日(日) 晴れ。 深夜に起床し、天候を確認。 就寝前と変わらず。 夜が明けてからはいいお天気になりました。 但し、かなりの強風です。 夜が明けてからいいお天気となりました。 朝食を早く用意していただき、今朝は純粋な登山道の方を利用して麓の温泉地まで下山です。 途中、岩場の難所があるので、足元には注意しながら…。 それにしても強風がまったく止みません。 バス乗り場前の温泉宿に着いて、宿のおかみさんからバスチケットを購入。 茅野駅まではバス移動。 駅に隣接するビルのパン屋でランチ。 東京への中央線は、沿線火災の影響で20分ほどの遅れ。 打合せの資料など確認しつつ見ながら、新宿駅に到着。 帰宅後に、先日の岩手大学での講義時の写真、受講者アンケートの集計結果などをいただきました。 いろいろと参考になります。 ありがとうございました。 (そして新たなお仕事も) そして明日からは新年度。 しっかりやりませう。 |
- お願い from Office Kenji ●★▲ - |
このページは、「賢治の事務所」ページにいらしていただいた方への、不定期刊行誌です。 ご感想、ご意見などありましたらお気軽にどうぞ。
|
メインページへ |
宮沢賢治のページへ |
☆星のページへ |
△山のページへ |