緑いろの通信 2024年3月
   

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- 緑いろの通信 2024年3月 目次 -


緑いろの通信

 「緑いろの通信」へようこそ! 2024年3月号をアップしました。 今月の写真は、福島県会津若松(飯盛山)にある会津さざえ堂です。 建物の中をぐるぐると一方通行でめぐり、お参りができるという変わった構造で、国の重要文化財にも指定されています。 いよいよ春、2月のスタートです。 今月もまたよろしくお願いします。




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 新着情報でも更新ページを知ることができますが、少し紹介を加えたりしてプラス・アルファの書き込みです。 日付を付けて書き加えますので、時々のぞいてみてください。


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3月1日(金)
 晴れ。

 いつものように、今月の写真の拡大版を載せておきます。


(今月の写真[拡大] 2024年2月11日撮影)

 早朝から地震。 日中、自宅の所用をこなす。

 日没後、西空の低い場所のポン・ブルックス彗星(12P/Pons-Brooks)を双眼鏡で探すが確認できず。 6等級程度はあると思うのですが…。 吉田君の予報では4等近くにはなりそうでした。

3月2日(土)
 晴れ。

 朝まで、在宅でお仕事。 その後、冷たい風の中、梅の撮影を行いました。


(梅 2024年3月2日撮影)


(梅 2024年3月2日撮影)


(梅 2024年3月2日撮影)

 観梅の観光客は多いものの、撮影はしやすい場所でした。 梅の枝は独特で、広重の浮世絵などを思い出しつつの撮影となりました。

 帰りの水戸駅では、JR東日本の寝台列車「四季島」をしばらくぶりで見ることができました。 (「四季島」はこちら(JR東日本))


(四季島 2024年3月2日撮影)

3月3日(日)
 晴れ。

 ジャン・ピエール・ルミネ『ゴッホが見た星月夜 天文学者が解き明かす名画に隠された謎』(日経ナショナルジオグラフィック)読了。


(『ゴッホが見た星月夜』 2024年3月3日撮影)

 著者のジャン・ピエール・ルミネは、天体物理学研究所の天体物理学者で、ゴッホの書いた「星」「月」のある作品がどのように描かれたのかを考察したものです。 以下、目次より。 (ゴッホの対応作品名は別途加えました)

1 躍動的で色鮮やかな夜
2 青い星空の片隅
  『夜のカフェテラス』
3 おおぐま座の謎
  『ローヌ川の星月夜』
  『黄色い家』
4 天の川の青白さ
  『星月夜』
  『糸杉のある麦畑』
5 複雑な計算の中で
  『月が昇る夜の風景』
  『糸杉と星の見える道』
  『夜の白い家』
6 詩のほかに手がかりはない
注記
主な参考文献
謝辞
図版クレジット

 例えば、有名な『ローヌ川の星月夜』は、フランス南部のアルル、ローヌ河畔から遠方の風景とともに描いた北斗七星とされています。


(『ローヌ川の星月夜』 2024年3月3日撮影)

 私も何度か検証したことがありますが、ポイントは、この絵画を書いたとされる場所から同様の風景のある方角(南西)を見ても、そこには北斗七星は見えないということです。 そこで、例えば大阪市立科学館の石坂千春氏(本書では日本語版監修者)は、ペガススの四辺形〜アンドロメダ座〜ペルセウス座付近に同様の配列があるものとして、推定を行いました。 (石坂千春「『ローヌ川の星月夜』と“秋の大びしゃく”」はこちら(天文教育普及研究会「天文教育」2002年1月号))

 本書の著者は、この問題は「曇っていたので記憶で描いた」「町の上空に星が乏しかったため自分がよく知っている星座を描いた」「異なる方角の地上の風景と北斗七星を合体させた」という3つの仮設を挙げて説明しています。

3月4日(月)
 晴れ。

 何となく気まぐれで、元ピンク・フロイドのロジャー・ウオーターズの新譜(というか「狂気 The Dark Side Of The Moon」再レコーディングのアルバム)を聴いてみました。 アルバムの帯には「オリジナル・レコーディングから50年、歴史上最も著名で高く評価されるアルバムを再解釈した壮大な野心作『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・リダックス』、リリース」ありました。


(「ダーク・サイド…、リダックス」 2024年3月4日撮影)

 2度ほど通しで聴いてみましたが、あえて再レコーディングする必要あるのか?という疑問だけでした。 歌というよりは呟きも多く、サウンドとしても物足りなさがありました。 これが正直な感想です。

3月5日(火)
 曇りのち雨。

 自宅で片付け中に、古い天文誌やカメラのカタログが出てきました。 仕事も忙しい時期ですが、懐かしんで見ているだけでもお茶の時間の気分転換になります。


(ペンタックスMXなど 2024年3月4日撮影)

 「PENTAX MX」の1981(昭和56)年8月、と1982(昭和57)年8月のものです。 両方ともに、カメラボディが48,000円、50mmF1.4レンズつきで77,400円という価格でした。 (当時は、カタログにも定価の記載が普通でした)

 小型コンパクトは前提で、多様なシステムの拡張性がウリだったようです。 この頃は、天文関係の友人がニコンを使用していたため、Nikon F3HPがメインカメラでした。

 こういった古いマニュアルカメラを使って撮影する人も(まわりには案外)多いので、ただ懐かしいだけですが、自分では不自由なスタイルには戻れません。(きっと・・・)。 寝る前の時間は、締め切りのある資料の作成など。

3月6日(水)
 曇り時々雨。

 今月発売の天文2誌を購入。


(天文2誌 2024年3月6日撮影)

 『星ナビ』4月号は、特集が「春の宵のポン・ブルックス彗星」です。 周期彗星、ポン・ブルックス彗星(12P)について、天体の物理の観点から解説。 肉眼等級になるであろう予報のもと、観測や観望の案内記事が記載されています。 綴じ込み特別付録は「天体画像処理4」(彗星編)。

 『天文ガイド』4月号の特集は「SLIM月に立つ」です。 他に3月25日の半影月食、星空動画などを扱った記事があります。 渡辺和郎さんの「小惑星ガイド」のMPCのリストには、会津若松の薄さんを命名した小惑星が掲載されていました。 ((24960)Usukikenichi)です。 また中野主一さんの「彗星ガイド」には、2023 A3彗星の観測の結果から、順調に増光しているとの報告がありました。 現時点の(期待)光度は0等級でした。

3月7日(木)
 晴れ。

 花巻の宮沢賢治学会イーハトーブセンター事務局から、「イーハトーブセンターだより」第143号(2024年3月4日)が到着しました。 事務局の皆さまありがとうございます。

 内容は、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞推薦のお願い、会費納入(未納・滞納の方)のお願い、イーハトーブ館図書室 図書・資料受入れ報告です。


(「イーハトーブセンターだより」ほか 2024年3月7日撮影)

 他に、賞選考に係る推薦のお願い、「第3回賢治さんの世界を描く絵画展(2024年1月6日〜3月31日、於:宮沢賢治イーハトーブ館/展示場)」のチラシが同封されていました。

3月8日(金)
 雪のち雨。

 今日はイギリスの音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンの命日でした。 ビートルズに多大な影響を与えた音楽プロデューサーです。

 1927(昭和2)年の今日、3月8日は、松田甚次郎が宮沢賢治(桜)を訪ねた日です。 甚次郎の日記には、その感動が綴られています。 「忘ルルナ今日の日ヨ、Rising sun・・・」


(甚次郎が演劇をやった土舞台(山形県新庄市))

3月9日(土)
 晴れ。

 所用で都内の音楽ホールへ。

 今日は、新潟県の津南でつなん雪まつりが開催される日です。 過去に2度ほど出かけたことがありましたが、大勢でスカイランタンを打ち上げるイベントで有名なまつりです。 (「第48回つなん雪まつり&SNOWWAVE2024」はこちら


(スカイランタンの夜 2019年3月9日撮影)

 風の影響を受けやすいので、気象上のコンディションに左右されます。 一斉に空に飛んでゆく瞬間はなんとも言えません。

3月10日(日)
 晴れ。

 今日は自宅で作業。

 今夜は新月。 (旧暦では2月のはじまり。) 夜になって星座を確かめると、冬の大三角がもうシーズンを過ぎて引退気味。 東の空からはしし座が勢いを増しながら空の高見を目指しています。


(2024年3月10日20時の東空)

 野尻抱影『星座巡礼』(研究社 1925.11)の獅子座の解説では次のとおり。

   獅 子 座(しし座・レーオ)(Leo)

 此の星座の形は別圖でも分る通り、東から昇る時は、動物の前足を挙げて駈け上らうとする姿に似ています。 獅子とは、よく名づけました。 そして、頭と胸と鬣(たてがみ)に當る右半分は、大きな西洋鎌の形に見えるので、俗にこれを「獅子座(ししざ)の大鎌(おほかま)」と呼び、これが東に見え出すと、農夫は忙しい収穫(とりいれ)の日を思ひます。 その柄の端に白く輝くα(アルファ)は即ち有名なレグルスで、獅子の心臓になつてゐます。 β(ベータ)は二等星デネボラで「尾」の意味、γ(ガンマ)は二等星アルギエバで「額」です。

3月11日(月)
 晴れ。

 仕事の関係で夜は職場近くの宿泊所へ。

 今年も2011年3月11日のことを忘れぬように。 その時の3月11日から4月17日までの記憶の断片として。

 以下の文章は、私が「ワルトラワラ」誌で連載していた「宮沢賢治のプラネタリウム」の記事が震災で書けなかったため、その代わりとして東日本大震災時の日々記録を「緑いろの通信」から抜き出したものです。 当時の様子を記憶に留めておくため、当時の記録をここに転載します。 (ワルトラワラ33号より)




3月11日(金)午後
 職場の大学、ビルの2階で面接をしていました。前半が終了し、後半を行う前の打ち合わせ中、突然揺れが始まりました。その揺れは次第に強くなる一方で、すぐに停電、逃げることを決心した時には、壁や柱につかまって殆ど歩けない状態。なんとか階段を下り、外に出てみましたが、揺れのあまり屋外でもフラフラするほど、かつて体験したこのないものでした。「東海地震か、それとも東京直下型か?」と噂していると、同じビルから避難してきた方が「震源地は仙台の方で、7メートルの大津波警報が出ている」と教えてくれました。

 結局、とんでもない大災害だったわけですが、帰宅してみると部屋の中は散々で、停電は街の中心部だったため免れたものの、水道は数日止まり、近所のお店も被災し皆閉店、食料品の調達が非常に難しい状態でした。今回の地震の特徴は、震度5クラスの余震が頻繁に発生し、ちょうど一ヶ月後、部屋の片づけを予定していた日に震度6レベルの揺れで、未だ玄関で寝袋生活が続いています。



部屋を埋め尽くす書籍

 一方、北の原発からは放射性物質がばら撒かれ、放射線量を日々チェックしながらの生活と、この日を境に、すべての予定や計画が散々なことになってしまいました。

 その後の出来ごとをホームページ「緑いろの通信」より抜粋して記しておきたいと思います。

3月14日(月)
 ツイッターや掲示板などの書き込みを見ていると、東北人の粘り強さを、賢治の「雨ニモマケズ」を例として挙げるもの、「農民芸術概論綱要」の幸福観を称賛するもの、危険な場所で作業に従事する人たちにグスコーブドリを見出す人たち・・・。宮沢賢治の作品を通じて災害を見ている方々が大勢いることを知る。

3月15日(火)
 強い余震もありますが、震度5ぐらいでも気にならなくなりました。夜、水道がやっと復活。早々に就寝。

3月18日(金)
 朝、イーハトーブ館の宮沢さんから会議の件でメール。職員常駐は19日から、開館は4月からとのこと。館からは、未だ通信ができないようです。

3月19日(土)
 大きな余震。茨城県北部では震度5弱。棚の上から本が一部崩れてきました。室内復旧はしばし見送りです。

3月23日(水)
 今日は、早朝から震度5、しかも2回、その後昼と夜にも大きく揺れました。朝の1回目と2回目の間は、地面がうねっているような感じでした。

3月24日(木)
 午前中、何の前触れもなくドカンと震度5。

3月26日(土)
 午前中は都内。午後の新幹線で名古屋へ。中腹まで雪の残る富士山がくっきりと見えました。名古屋駅近くで買い物。震災とは無関係の名古屋で、乾電池が売り切れ、携帯ラジオも売り切れ。ペットボトルの水だけは普通に購入できました。

3月28日(月)
 残業で遅くなっての帰宅。疲労の度合い高まる・・・、まだ月曜日だというのに。
 3月14日「緑いろの通信」で「イーハトーブのもつドリームランドの意味を、当時そうであったであろう現実の中で感じているような気になってきます」と記しましたが、そのことについて少々書いてみることにします。大震災以降のどことなく暗く、そして冷たい感じ、その理由はなんだろうかと考えてみました。
 度重なる激しい余震、あるいは原発の放射能による汚染でしょうか。どうも違うような気がしています。遠く離れた北国のひとたちに訪れた災い、そのどうしようもない惨状。この漠然とした現実というものが常に、いつもどこかでくすぶっているような気がしています。
 賢治の時代にも、何度か大きな自然災害がありました。津波、地震、洪水・・・、現在のようにテレビやネットもありませんでしたが、新聞を通じてその実情が伝えられたことがあったと思います。あるいは、賢治の傍にも被災者たちがやってきたこともあるでしょう。
 大災害は遠く離れていても、報道による伝達や、被災者との接点などを通じて、想像を超えた現実を目の当たりにすると、やはり同じように気持ちを暗く冷たくするような空気がにわかに湧き起こり、その時代の人々の間にも流れていたのではないだろうか・・・、と強く感じるようになったのです。
 普段は気づかないかも知れませんが、家族や親戚、近所の人たちだけでなく、遠く離れたところに暮らす人たちの幸せも実はどこかで自分を支えているのではないか、そして心に大きな安堵感を与えているのではないか、と思い直してみたのです。
 そうすると、賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉も、突然身近に感じられてくるのです。「農民芸術概論綱要」のほんの一部分に過ぎませんが、その格調高い言葉の数々の中にあって、俄かに眼前に迫ってきました。

3月29日(火)
 残業中に余震2回、大地はいまだ元気なり。今日も遅くなっての帰宅。釜石線(花巻駅〜遠野駅間)運転再開のニュースです。イーハトーブ館の宮沢明裕さんのコメントもあります。(「銀河鉄道の夜再び 釜石線17日ぶり復活」(2011年3月29日産経新聞))

4月2日(土)
 そろそろ部屋を片付けようと取りかかった瞬間、震度5・・・。それなりにミシミシと揺れました。いつになったら部屋の片づけが開始できるのか・・・。

4月6日(水)
 総理大臣と文部科学大臣が賢治作品を引用しつつ、お国のためにがんばれとコメント。(「新学期を迎える中学校,高等学校段階の生徒の皆さんへ 菅内閣総理大臣・高木文部科学大臣からのメッセージ(平成23年4月6日)」)
 引用されたのは「銀河鉄道の夜」の本文ですが、「ほんとうのさいわい」とは何かと問い、それを考えればその先に「素晴らしい新しい日本の国の姿」があるという。もちろん、賢治なら日本とは言わないですが・・・。作品の流れとは全く無関係な解釈に驚きました。しかも、引用された本文は改変されています。

4月11日(月)
 朝から余震で目覚める。今日からまたお仕事。 疲れてしまったせいか、ぼんやりして集中力に欠けた朝です。今日はいつもより早めに出勤。近所の桜も満開。
 あの地震から、今日でちょうど一ヶ月と思っていたら、夕方また大きな余震。しかもあの日の揺れ方と似ていて、震度6弱。職場のデスクから書類が散乱し、片づけていると今度は震度5弱が連発、その後も震度3〜4が何度も何度も・・・、今夜は余震が続きそうです。自宅に帰ったら、本は崩れたままで問題なかったのですが、PCの箱などが多数落ちていました。いったいいつになったら終わるのでしょうか。

4月13日(水)
 今日も午前中にやや大きな揺れ。「雨ニモマケズ」のグローバル化のニュース多数。このような拡がりを受けてか、ウィキペディア(英語版)にも「Ame ni mo Makezu」の項目が置かれていました。「スキヤキ」や「スシ」などのように「アメ・ニ・モ・マケズ」が世界中の人たちに記憶されるのでしょうか。(Ame ni mo Makezu(Wikipedia))

4月16日(土)
 いわて花巻空港行きのJAL4745便(臨時)に乗りました。普段は東北新幹線ですが、まだ全線再開通されていないことから、羽田から臨時便が出ています。私にとっても、東京からの岩手に飛行機で行くのは初めてのことです。
 賢治記念館に着く頃には、一段と雨が激しくなっていました。 山猫軒で昼食です。本来ならこの季節、それなりにお客さんが入っていると思いますが、貸切状態。日替わりランりを注文しました。ネットのニュース記事を見ていたら、茨城で震度5の揺れ、自宅いたらまた揺れに遭っていたことでしょう。

4月17日(日)
 やや早めの時間にホテルを出て、東北本線で盛岡駅に向いました。こちらも閑散としています。
 唯一、岩手山だけはどっしりと「いつもと変わらず」迎えてくれました。



盛岡駅から見た岩手山


 ●地震のこと、その後のこと 2013年3月11日(転載)



 あの晩の澄んだ空に見えた月とすばる。 薄明時刻終了近くの空がなんときれいだったことか・・・。 実家への道沿い(家々)はすべて停電していました。 旧暦は2月7日、月齢6.6。 まだ忘れていません。


(2011年3月11日19時30分の月とすばる)

3月12日(火)
 曇りのち雨。

 早朝出勤の日。

 野尻抱影『星三百六十五夜 春』(中公文庫)の今日3月12日は、「霊魂の門」です。

   霊魂の門

 雨上がりで、蟹座の星団がすぐと目に入った。 双子座を出はずれた木星からしし座のレーグルスへと引く線が黄道にあたって、星団はほぼその半ばで青白くかたまっている。 「色白く粉絮(こなわた)の如きもの」と中国の天文書で説明しているのは巧い。 英語のビー・ハイヴにも感心させられる。 正にわんわん群がっている蜜蜂である。 (以下略)


(「蟹座の星団」の位置)

 抱影の言う「蟹座の星団」とは、通称プレセペ星団と呼ばれる散開星団です。 かに座中央部にあり、双眼鏡を用いればそれが星の集団であることを確かめることができます。


(「蟹座の星団」拡大)

3月13日(水)
 晴れ。

 夕方の月がきれい。


(月と木星 2024年3月13日18時40分)

 18時40分頃の月と木星です。 月は月齢3.0(旧暦2月4日)、木星は-2.1等星です。 シミュレーション図中の白枠は、35ミリ判カメラの135ミリレンズを使用した場合の画角です。

 帰宅後、自宅で各種作業。

3月14日(木)
 晴れ。

 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はSgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band(Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band)〜She's a Waman(Single B-side)まで。

 Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Bandの「Sgt.Pepper」は、「salt and pepper」の聞き違いから生まれた。 アメリカ公演でショーはもう散々。 ツアーをやめて、自分たちの分身が別のバンドとなって、コンサートの代わりがレコードというアイデアが生まれた。 She Came in Through the Bathroom Windowでは曜日の話。 曜日は色と結びついている。 レディ・マドンナも同様に曜日のイメージを用いた歌詞がある。 この歌詞は、ある女性が実際に僕の家に忍び込んだ事実から生まれていて、「父が写った写真をくすねた」けれど、その見返りに、僕は曲を手に入れることになった。 She Loves Youは、コンサート後のホテルの部屋と、僕の父の家のダイニング・ルームで完成させた。 父は「Yeah,yeah,yeah」が不満で、「Yes,yes,yes」と歌うべきと言った。 そして、ハンブルグでの演奏経験がドイツ語バージョンの「She Loves You」へとつながった。 She's a Womanは、恋人の美点を称賛したものだけれど、Girlではなくwomanということに注目してほしい。 ベースを担当することになったのは、ギターが壊れてしまったことに遡る。 ピアノを担当していたけれど、ベースのスチュアート・サトクリフが、アストリッドという女の子と恋に落ち、バンドを離れることになってしまい、自分がベースを購入した。


(『リリックス』より 2024年3月14日撮影)

3月15日(金)
 晴れ。

 週末の準備など。 準備を終えて、野尻抱影・山口誓子『星戀』(中央公論社)のページをめくりながらお茶の時間。

 以下は誓子の「三月」の句から。

 いづこにか蟇(ひき)の鳴くこゑ碇星(いかりほし)
            昭和24 三・四 伊勢白子

 七星のうすれてかかる春の霜
 西天に火星燃えつつ春の霜
 春の霜消えざる何の星のもと
            昭和21 三・八 伊勢富田
  (以下略)

 3句目の「西天に火星燃えつつ春の霜」では、西空にかかる赤い火星と、霜のかかったぼんやりとした風景がすぐにイメージされました。 この時期の火星は、まだ西空高く、ふたご座に土星とともに並んでいました。


(1946(昭和21)年3月8日23時の西空)

3月16日(土)
 晴れ。

 午前の新幹線で盛岡へ。 週末の東京駅は大変混んでいました。

 新幹線の車内誌「トランヴェール」2024年3月号は、北陸新幹線の延伸で敦賀駅開業を記念してか恐竜のデザインされた表紙。


(「トランヴェール」2024年3月号 2024年3月16日撮影)

 福島に入ると、残雪が白く光る吾妻の山々が見えてきました。 一切経、吾妻小富士、東吾妻、高山と確認。 仙台を過ぎれば、あっという間に盛岡駅


(盛岡駅前にて 2024年3月16日撮影)

 昼食前に中ノ橋方面に出て、岩手銀行赤レンガ館で開催中の「KAGAYA 星空の世界展」を見学。 (「岩手銀行赤レンガ館」はこちら(岩手銀行赤レンガ館))


(岩手銀行赤レンガ館 2024年3月16日撮影)

 主要展示スペースは1階で、2階には売店スペースがあります。


(展示会場内にて(1) 2024年3月16日撮影)


(展示会場内にて(2) 2024年3月16日撮影)

 なかなかの人の入りでした。 見学を終えて、中津川沿いや肴町方面を散策。 駅に戻ってゆっくりランチ。


(中津川付近 2024年3月16日撮影)

 今回の盛岡への目的は、岩手大学からの依頼で2時間の講義をするため。 賢治の母校でジョバンニの先生のように「午后の授業」。


(岩手大学上田キャンパスにて 2024年3月16日撮影)

 約2時間ほどの講義で、「天文アマチュア宮沢賢治 〜生涯と作品世界〜」というテーマ。 あまり知られていない賢治の天文エピソードや、賢治の時代の天文界、さらに作品解釈について面白そうな話題を選んで取り上げました。 受講者の皆さんには楽しんでもらえたでしょうか・・・。

 講義終了後には、大学の先生方、理工学部の学生さんと食事に出て、楽しい時間を過ごしました。 皆さま本当にありがとうございました。

 メモ:斎藤宗次郎がカノープスを見た日。

3月17日(日)
 晴れ時々雪。

 東京は大変な暑さだそうですが、盛岡は冷たい風が吹いていました。 雪の岩手山にお別れして盛岡駅に出てからの帰路、新花巻で途中下車しました。


(新花巻駅にて 2024年3月17日撮影)

 新花巻駅からはタクシーで上町のマルカン食堂へ。 ちょうどランチタイムで食堂内は階段の下まで行列ができていました。 テーブルからスマホでも食事が注文できるようになっていてびっくり。


(マルカン食堂にて 2024年3月17日撮影)

 市内を歩いて、いくつか必要な写真を撮影。 上町付近、市内の空洞化がさらに進行して寂しくなりました。 空地が目立ちます。

 古い料亭まん福の建物も撤去されてしまったようで、更地になっていました。


(エセナ跡地付近から 2024年3月17日撮影)

 賢治の詩集『春と修羅』印刷所跡(旧照井菓子店)にも立ち寄ってみました。 看板を撮影していたら、おばさんが出てきて少々立ち話…。 団子づくりは案外力仕事で、男じゃないと無理、作ってた人も亡くなって商売をやめたこと、そして店の前の標柱はある日突然建てられていたこと、お店の看板のこと・・・。いくつものお話を聞かせてもらいました。 いつまでもお元気で日々の生活を頑張ってほしいものです。


(旧照井菓子店(左側) 2024年3月17日撮影)

 100年前の賢治はここに通っていたわけですね。 最後は、タクシーをつかまえて宮沢賢治記念館へ。


(宮沢賢治記念館にて 2024年3月17日撮影)


(展示室にて楽器のコーナー 2024年3月17日撮影)

 宮沢賢治イーハトーブ館にも立ち寄りました。


(宮沢賢治イーハトーブ館 2024年3月17日撮影)

 童話村からタクシーで新花巻駅まで。 予定の新幹線で無事東京に帰ることができました。

3月18日(月)
 晴れ。

 ちょっと変わった賢治ニュース。 「ピリングスの2024年秋冬コレクションの出発点となったのは、詩人であり童話作家の宮沢賢治」とありましたが、素人には難しい。 撮影場所が、ライト設計の自由学園明日館で、そちら方が気になってしまいました。 (「ピリングス 2024-25年秋冬コレクション - 宮沢賢治を出発点に、創造のきっかけを」はこちら(FASHION PRESS 2024年3月18日))

 岩手の用事が終了して、次の作業へと気持ちを転換。

3月19日(火)
 晴れ。

【賢治 晩年の星のエピソードから】

 賢治の晩年の天文関係の活動として知られているものの一つに、童話「銀河鉄道の夜」の執筆が挙げられます。 具体的には、「銀河鉄道の夜」後期形が「1931(昭和6)年以降(亡くなるまで)」とされています。 一方、星にまつわるエピソードとしては、どのようなものがあるでしょうか。

 例えば、関登久也『賢治髄聞』(角川書店1970.2)の「リンゴ」などが知られています。 『賢治髄聞』は、『【新】校本宮澤賢治全集第16巻(下)補遺・伝記資料』(筑摩書房)の「年譜」にも頻度の高い引用書として記載があるものです。 (以下引用。( )内は補足したもの)

   リ ン ゴ

 果実は好きでよく食べられましたが、味覚を楽しむというよりは、あの果実の新鮮さにがぶりつくというような食べ方をしました。
 昭和七年(→1932年)ころの秋の夜、上町通りでお逢いしたらこれから東公園へ行きましょうといって、果実店で色のよいリンゴを五つばかり買われました。 そして東公園のベンチに腰かけながら賢治は三つ、私は二つ食べました。 その夜はまことに水のしたたるような気分のする夜で、天文学にも明かるい人ですから星の話もずいぶん聴きましたが、いまはよく覚えていおりません。 ただそういうさわやかな秋の夜に、皮のまま大きなリンゴをたちまちのうちに三つも食べ終えた賢治の食欲に、少し驚きと目を見張ったことがいまだに忘れられません。 私が二つ食べたのは賢治に刺激されてのことだったと思います。

 同じ関登久也の著書として『宮澤賢治素描』(共榮書房1943.9)、『續 宮澤賢治素描』(眞日本社1947.2)もあります。 『宮澤賢治素描』の方は賢治没後10年後の発行ですが、この2冊は『賢治髄聞』の元となる書物です。

 森荘已池によるあとがきでは、『宮澤賢治素描』『續 宮澤賢治素描』を元にして「…重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。 明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した」と書かれています。

 次の文章は、『宮澤賢治素描』にある同じ項目を引用したものです。

   林檎

 果實は好きでよく食べられましたが、味覺を楽しむといふよりはあの果實の新鮮さにがぶりつくといふ様な食べ方をしました。
 昭和七年(→1932年)頃の秋の夜、上町通りでお逢ひしたらこれから東公園へ行きませうと云つて、果實店で色の良い林檎を五つばかり買はれました。 そして公園のベンチに腰かけながら賢治氏は三つ私は二つ食べました。 その夜は眞に水のしたゝるやうな氣分のする夜で、高い空には、星と星がぶつつかつては火花を散らしてゐる夜でした。 天文學にも明るい人ですから星の話も随分聴きましたが、今は良く覺えて居りません。 唯さういふさわやかな秋の夜に、皮のまゝ大きな林檎を忽ちのうちに三つも食べ終へた賢治氏の食慾に、少し驚きの眼を見張つたことが未だに忘れられません。 私が二箇食べたのは賢治氏に刺激されてのことだつたと思ひます。

 比較すると、刊行時期により仮名遣いが異なる点が目立ちますが、内容では賢治と出会った晩の空の描写が、森荘已池の見直しにおいて一部割愛されていることに気づきます。 以下、刊行順にして該当箇所を掲げておきます。

   林檎(1943年『宮澤賢治素描』より【1932(S7)年頃のこと】)

その夜は眞に水のしたゝるやうな氣分のする夜で、高い空には、星と星がぶつつかつては火花を散らしてゐる夜でした。 天文學にも明るい人ですから星の話も随分聴きましたが、今は良く覺えて居りません。

   リ ン ゴ(1970年『賢治髄聞』より【1932(S7)年頃のこと】)

その夜はまことに水のしたたるような気分のする夜で、天文学にも明かるい人ですから星の話もずいぶん聴きましたが、いまはよく覚えていおりません。

 割愛された「高い空には、星と星がぶつつかつては火花を散らしてゐる夜でした」は、文言どおりでは意味不明ですが、流れ星が見られた夜だったのかも知れません。


 ところで、このエピソードに類似するものとして、同じ『賢治髄聞』の中の「晩年の賢治 賢治の面影」にも見つけることができます。 祭の晩に賢治と出会い、東公園でリンゴを食べ、星の話をしたという内容です。

   賢治の面影

 (略)
 賢治三十四、五歳(→1930(S5)年、1931(S6)年)ごろのその秋祭り(→鳥谷ヶ崎神社の祭典)の夜、もうだいぶ夜も更けて、神輿の列は遠く町はずれにゆき、私たちの町はいたずらに電灯のみ明るくてがらんとしていた。 私は町の両側の屋台店をのぞきながら歩いていると、賢治は向こうから微笑しつつ歩いてきた。 例によって足ばやであり、いきなり私の前に止まって「お神輿さまの帰りを見に行こうではありませんか」と私を誘うのであった。 賢治と二人で歩くなどということの、そのころ少なかった私は、なにかしら好機だ、というような気になって「それではおともをします」と言うと、賢治はじき目の前の鎌田という野菜などを売る店の前へゆき、大きな紅いリンゴを五つばかり買い、それを携えた。 神輿を待つには、神社の近くの東公園がてごろである。 私たちは夜半十二時ごろから、その公園の露台に寝ころんだり、その辺の露にしめった叢を歩いたり、星の話をしたり、しばらく時を過ごした。 賢治は澄んだ声で自作の詩を朗読したり、「星めぐり」の歌をうたったりした。 天の川が白く流れている夜であった。 リンゴも食い終え、疲れて露台の上に、ねころびながらうとうとしていると、遠くの方でジャランジャランと神輿の渡御の騒音が聞こえてきた。 たしか夜明けの二時ころでもあったろう。 急に身ぶるいして立あがった私たちは、公園の草道を走りぬけ、神社の門の前に来たら、まだ暗い夜明けの空に、幾千の提灯が赤くとぼされ、その灯の波がゆれながら、笛や太鼓の音とともにこちらに向かってくる。
 (略)

 さらに、後の刊行となる関登久也『宮澤賢治物語』(岩手日報社1957.8)にも見つけることができます。 以下に、その最新版となる『新装版 宮沢賢治物語』(学習研究社1995.12)の「宮沢賢治の生涯 病床の頃」からを引用しておきます。

   病床の頃

 (略)
 賢治三十四、五歳(→1930(S5)年、1931(S6)年)の頃だったと思います。 秋祭り(→鳥谷ヶ崎神社の祭典)の夜、もうだいぶ夜も更けて、神輿の列は遠く町はずれに行き、町の中はただ電灯ばかりが明るくて、ガランとしていました。 私は、町の両側の屋台店をのぞきながら歩いていると、向こうから賢治が微笑しながら来るのでした。 例によって、足早であります。 いきなり私の前に止まって、
「お神輿さまのかえりを見に行きましょう」
と、誘うのです。 賢治と二人で歩くことの少なかった私は、何かしらいい機会だというような気がしました。
「それではお供しましょう」
と、いうことになりました。 賢治はすぐ目の前の鎌田という野菜などを売る店に行き、赤い大きなリンゴを六つばかり買い、それを袋のまま持ちました。
 神輿を待つには、神社の近くの東公園が手頃です。 私達は、夜半十二時頃から行って、その公園の野台に寝ころんだり、その辺の露にしめった叢(くさむら)を歩いたり、星の話をしたり、しばらく時を過ごしました。
 賢治は澄んだ声で自作の詩を朗読し「星めぐりの歌」を歌ったりしました。 天の川が白く流れている夜で、遠天では、ときおり星は火花を散らしました。 リンゴも食い終わり、疲れて露台(ろだい)の上に、ね寝ころびながらウトウトしていると、遠くの方でジャラン、ジャランと、神輿の堵列(とれつ)の近づく音が聞こえてきました。
 たしか夜明けの三時頃でもあったでしょうか。 急に身ぶるいして立あがった私達は、公園の草みちを走りぬけ神社の前に来たら、まだ暗い夜明けの空に、幾千の赤い提灯が揺れ、その灯の波が笛や太鼓の音と共にこちらに向かって来るのです。
 (略)

 上記から星にまつわるエピソード部分のみを改めて抜き出しますが、こちらの方は時期が1〜2年ほど遡り、さらに同じ東公園での様子でも、より具体的に書かれていることがわかります。 『賢治髄聞』では、森荘已池の見直しにおいて割愛された星が火花を散らすエピソードも残されています。

   病床の頃(1995年『新装版 宮沢賢治物語』より【1930or31(S5or6)年頃のこと】)

 神輿を待つには、神社の近くの東公園が手頃です。 私達は、夜半十二時頃から行って、その公園の野台に寝ころんだり、その辺の露にしめった叢(くさむら)を歩いたり、星の話をしたり、しばらく時を過ごしました。
 賢治は澄んだ声で自作の詩を朗読し「星めぐりの歌」を歌ったりしました。 天の川が白く流れている夜で、遠天では、ときおり星は火花を散らしました。

 引用した文献おける「星にまつわるエピソード」の時期について、刊行順に以下に簡単にまとめておきます。

1)『宮澤賢治素描』1943年刊(共榮書房)
   【1932(昭和7)年頃のこと】

2)『宮澤賢治物語』1957年刊(岩手日報社)
   【1930(昭和5)年または1931(昭和6)年頃のこと】

3)『賢治髄聞』1970年刊(角川書店)
   【1932(昭和7)年頃のこと】

4)『新装版宮沢賢治物語』1995年刊(学習研究社)
   【1930(昭和5)年または1931(昭和6)年頃のこと】

 「1932年頃」、或いは「1930年または1931年頃」の両方が混在しています。 時期そのものが異なるため、別の年の出来事とも考えられますが、あまりにも内容が似通っていることから、やはり時期の思い違いと思われます。

 他の年譜の事項を勘案すれば、1)や3)にある1932(昭和7)年の秋は、晩春の下顎にできた潰瘍のため治療を受けるなどしたこと(リンゴを食べるのは難しいのではないか)、さらに夏から秋にかけても病床の状態であったことが窺われ、秋祭の夜を遅くまで出て楽しめる時期であったとは思われません。

 となると、それ以前、すなわち2)や4)にある、1930(昭和5)年または1931(昭和6)年頃となりますが、他の年譜の事項に照合した場合、当時の賢治の健康状態などからみてもこちらの方が妥当なようです。 但し、エピ―ソードそのものの内容に関して言えば、早期に執筆された1)や3)よりも、後の2)や4)の方が、かなり具体化している分、その信頼性には不安もあります。

 賢治自身の伝記的事項に基づくエピソードを理解する際、こういった事情は多方面で散見されるので、その判断にはなかなか難しいものがあります。


 賢治の訪れた東公園ですが、戦後、株式会社新興製作所の花巻工場が建設され私有地となっています。 その後、建物が撤去され、未整地のままの状態が長く続いており、花巻市も産業廃棄物による環境汚染の問題から、経過をウェブサイトにおいて報告している状況です。 (「旧新興製作所跡地の建屋解体等に関するお知らせ」はこちら(花巻市))


(旧東公園付近 Google Earthによる)

 同じ場所から撮影されたGoogleストリートビューの画像でみると、過去の新興製作所のあった時代の様子と、建物が取り壊された後となる最近の様子を比較してみることができます。


(新興製作所付近2013.8 Googleストリートビューによる)


(新興製作所付近2015.7 Googleストリートビューによる)

 次の写真は、Googleストリートビューと同じ場所から私が撮影した旧東公園の先端部分です。 石垣に覆われていることがわかります。 まるで巨大船の船首のようにも見えます。


(旧東公園の先端部分 2021年1月23日撮影)

 工場跡地は、花巻城から続く高台の東端で、再び公園として整備されれば、「宮沢賢治星見の地」となるだけでなく、東は北上川の朝日橋からイギリス海岸方面、南〜西は花巻市街地を見渡せる展望の地なのですが、こればかりはどうしようもありません。


 最後に、1930(昭和5)年と1931(昭和6)年の9月19日(昔の花巻まつりは9月17〜19日開催が定例)の夜明け前、午前2時の星空を掲げておきます。 宮沢賢治と関登久也が東公園で見た星空はどのようなものだったのでしょうか。

 1930(昭和5)年では、東の空に木星(-2.1等)と火星(0.8等)が並んで見えていました。 但し、地平線に近い場所に旧暦27日の月(月齢25.6)も出ており、その影響で夜空全体は比較的明るくなっていたと思われます。


(1930(昭和5)年9月19日2時00分 花巻の星空)

 1931(昭和6)年では、東の地平線から木星(-1.9等)が出ようしている時刻でした。 月は22時半前に沈んでおり、その影響はありません。 「天の川が白く流れている夜であった」と書かれていますが、その状況を勘案すれば、月明りの影響を受けないはくちょう座付近の銀河が、まだ西の空に懸っていますから、1931(昭和6)年の方が文章のイメージには合致すると思われます。


(1931(昭和6)年9月19日2時00分 花巻の星空)

3月20日(水)
 春分の日。 晴れのちにわか雨。

 用事があって外出。 にわか雨のあとは虹が出ていました。

 今日は春分の日。 太陽が春分点を通過する日です。 その時刻は12時06分。


(太陽が春分点を通過)

 太陽は天の赤道の北側にまわり、6月の夏至点へと黄道上を移動します。 図中では、黄道上を左下から右上に向けて移動することになります。 今年の夏至は6月21日です。

 就寝前に、トライセラトップスの古いベストアルバム「The Great Skeleton's Music Guide Book」(リマスター盤)で聴きながらお茶の時間。 (少々)


(「The Great Skeleton's〜」2024年3月20日撮影)

 ギターバンドとして、優れたリフの数々に毎回感動してしまいます。

3月21日(木)
 晴れ。

 花粉に悩まされた日。 自宅の所用のため日中外出。

 先日、岩手大学で賢治のお話をした際に、受講者の方から質問をいただきました。 賢治の童話「おきなぐさ」に出てくる変光星のことです。 恐らく、実際の天体(恒星)のモデルに関することと思います。

 失念していたこともあり、その場でお話ができませんでしたので、本文を引用しつつここに記しておきたいと思います。

   おきなぐさ

 うずのしゅげを知っていますか。
 うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。
 そんならうずのしゅげとはなんのことかと言われても私にはわかったようなまたわからないような気がします。
 それはたとえば私どもの方で、ねこやなぎの花芽をべんべろと言いますが、そのべんべろがなんのことかわかったようなわからないような気がするのと全くおなじです。とにかくべんべろという語のひびきの中に、あの柳の花芽の銀びろうどのこころもち、なめらかな春のはじめの光のぐあいが実にはっきり出ているように、うずのしゅげというときは、あの毛こん(くさかんむりに艮)科のおきなぐさの黒朱子の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、それから六月のつやつや光る冠毛がみなはっきりと眼にうかびます。
 まっ赤なアネモネの花の従兄、きみかげそうやかたくりの花のともだち、このうずのしゅげの花をきらいなものはありません。
 ごらんなさい。 この花は黒朱子ででもこしらえた変わり型のコップのように見えますが、その黒いのは、たとえば葡萄酒が黒く見えると同じです。 この花の下を始終往ったり来たりする蟻に私はたずねます。
「おまえはうずのしゅげはすきかい、きらいかい」
 蟻は活発に答えます。
「大すきです。誰だってあの人をきらいなものはありません」
「けれどもあの花はまっ黒だよ」
「いいえ、黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります」
「はてな、お前たちの眼にはそんなぐあいに見えるのかい」
「いいえ、お日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだろうと思います」
「そうそう。もうわかったよ。お前たちはいつでも花をすかして見るのだから」
「そしてあの葉や茎だって立派でしょう。やわらかな銀の糸が植えてあるようでしょう。 私たちの仲間では誰かが病気にかかったときはあの糸をほんのすこうしもらって来てしずかにからだをさすってやります」
「そうかい。それで、結局、お前たちはうずのしゅげは大すきなんだろう」
「そうです」
「よろしい。さよなら。気をつけておいで」
 この通りです。
 また向こうの、黒いひのきの森の中のあき地に山男がいます。山男はお日さまに向いて倒れた木に腰掛けて何か鳥を引き裂いてたべようとしているらしいのですが、なぜあの黝んだ黄金の眼玉を地面にじっと向けているのでしょう。鳥をたべることさえ忘れたようです。
 あれは空地のかれ草の中に一本のうずのしゅげが花をつけ風にかすかにゆれているのを見ているからです。
 私は去年のちょうど今ごろの風のすきとおったある日のひるまを思い出します。
 それは小岩井農場の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西のはずれの西がわでした。かれ草の中に二本のうずのしゅげが、もうその黒いやわらかな花をつけていました。
 まばゆい白い雲が小さな小さなきれになって砕けてみだれて、空をいっぱい東の方へどんどんどんどん飛びました。
 お日さまは何べんも雲にかくされて銀の鏡のように白く光ったり、またかがやいて大きな宝石のように蒼ぞらの淵にかかったりしました。
 山脈の雪はまっ白に燃え、眼の前の野原は黄いろや茶の縞になってあちこち掘り起こされた畑は鳶いろの四角なきれをあてたように見えたりしました。
 おきなぐさはその変幻の光の奇術の中で夢よりもしずかに話しました。
「ねえ、雲がまたお日さんにかかるよ。そら向こうの畑がもう陰になった」
「走って来る、早いねえ、もうから松も暗くなった。もう越えた」
「来た、来た。おおくらい。急にあたりが青くしんとなった」
「うん、だけどもう雲が半分お日さんの下をくぐってしまったよ。すぐ明るくなるんだよ」
「もう出る。そら、ああ明るくなった」
「だめだい。また来るよ、そら、ね、もう向こうのポプラの木が黒くなったろう」
「うん。まるでまわり燈籠のようだねえ」
「おい、ごらん。山の雪の上でも雲のかげがすべってるよ。あすこ。そら。ここよりも動きようがおそいねえ」
「もうおりて来る。ああこんどは早い早い、まるで落ちて来るようだ。もうふもとまで来ちゃった。おや、どこへ行ったんだろう、見えなくなってしまった」
「不思議だねえ、雲なんてどこから出て来るんだろう。ねえ、西のそらは青じろくて光ってよく晴れてるだろう。そして風がどんどん空を吹いてるだろう。それだのにいつまでたっても雲がなくならないじゃないか」
「いいや、あすこから雲が湧いて来るんだよ。そら、あすこに小さな小さな雲きれが出たろう。きっと大きくなるよ」
「ああ、ほんとうにそうだね、大きくなったねえ。もう兎ぐらいある」
「どんどんかけて来る。早い早い、大きくなった、白熊のようだ」
「またお日さんへかかる。暗くなるぜ、奇麗だねえ。ああ奇麗。雲のへりがまるで虹で飾ったようだ」
 西の方の遠くの空でさっきまで一生けん命啼いていたひばりがこの時風に流されて羽を変にかしげながら二人のそばに降りて来たのでした。
「今日は、風があっていけませんね」
「おや、ひばりさん、いらっしゃい。今日なんか高いとこは風が強いでしょうね」
「ええ、ひどい風ですよ。大きく口をあくと風が僕のからだをまるで麦酒瓶のようにボウと鳴らして行くくらいですからね。わめくも歌うも容易のこっちゃありませんよ」
「そうでしょうね。だけどここから見ているとほんとうに風はおもしろそうですよ。僕たちも一ぺん飛んでみたいなあ」
「飛べるどこじゃない。もう二か月お待ちなさい。いやでも飛ばなくちゃなりません」
 それから二か月めでした。私は御明神へ行く途中もう一ぺんそこへ寄ったのでした。
 丘はすっかり緑でほたるかずらの花が子供の青い瞳のよう、小岩井の野原には牧草や燕麦がきんきん光っておりました。 風はもう南から吹いていました。
 春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛の房にかわっていました。 野原のポプラの錫いろの葉をちらちらひるがえし、ふもとの草が青い黄金のかがやきをあげますと、その二つのうずのしゅげの銀毛の房はぷるぷるふるえて今にも飛び立ちそうでした。
 そしてひばりがひくく丘の上を飛んでやって来たのでした。
「今日は。いいお天気です。どうです。もう飛ぶばかりでしょう」
「ええ、もう僕たち遠いとこへ行きますよ。どの風が僕たちを連れて行くかさっきから見ているんです」
「どうです。飛んで行くのはいやですか」
「なんともありません。僕たちの仕事はもう済んだんです」
「こわかありませんか」
「いいえ、飛んだってどこへ行ったって野はらはお日さんのひかりでいっぱいですよ。僕たちばらばらになろうたって、どこかのたまり水の上に落ちようたって、お日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ」
「そうです、そうです。なんにもこわいことはありません。僕だってもういつまでこの野原にいるかわかりません。もし来年もいるようだったら来年は僕はここへ巣をつくりますよ」
「ええ、ありがとう。ああ、僕まるで息がせいせいする。きっと今度の風だ。ひばりさん、さよなら」
「僕も、ひばりさん、さよなら」
「じゃ、さよなら、お大事においでなさい」
 奇麗なすきとおった風がやって参りました。 まず向こうのポプラをひるがえし、青の燕麦に波をたてそれから丘にのぼって来ました。
 うずのしゅげは光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。
「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました」
 そしてちょうど星が砕けて散るときのように、からだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のように北の方へ飛んで行きました。 そしてひばりは鉄砲玉のように空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんのちょっと歌ったのでした。
 私は考えます。 なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐに空の方へ飛んだか。
 それはたしかに、二つのうずのしゅげのたましいが天の方へ行ったからです。 そしてもう追いつけなくなったときひばりはあのみじかい別れの歌を贈ったのだろうと思います。 そんなら天上へ行った二つの小さなたましいはどうなったか、私はそれは二つの小さな変光星になったと思います。 なぜなら変光星はあるときは黒くて天文台からも見えず、あるときは蟻が言ったように赤く光って見えるからです。

 植物のオキナグサ(うずのしゅげ)を主人公とした作品です。 前半では蟻が、後半ではひばりが登場し、二本のうずのしゅげと会話をする中で物語が進行します。

 最後の場面で、うずのしゅげが、二つの銀毛の房となって飛び立ち、その後に「天上へ行った二つの小さなたましいはどうなったか、私はそれは二つの小さな変光星になったと思います」と説明されます。 なぜ変光星なのか…。

 それは「変光星はあるときは黒くて天文台からも見えず、あるときは蟻が言ったように赤く光って見えるからです」と書かれていますが、蟻の言葉では「…、黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります」と説明されていたものです。

 変光星とはもちろん、明るさが変わる恒星を指しますが、作中での理解に基づけば、黒くて見えない時期(暗くなる時期)と、明るくなって赤く見える時期の両方があるという特徴によるものと思います。 そうであれば、モデルとなった変光星は、光度差の大きい(減光時にかなり暗くなる)変光星で、色は赤い星というのが特徴です。 変光星は昔から良く知られており、賢治の時代にも相当数が発見されていました。

 変光星の種類にはいろいろありますが、この特徴に基づけば、くじら座のミラ(ο Cet)が当てはまる星と思います。 変光星として最初に発見された有名な星です。

 当時のいくつかの天文書にも言及があります。

  山本一清『星座の親しみ』(警醒社1921(大正10)年6月)

 牡牛の南にある鯨星座のο星は別名をミラと言ふ。 ミラとは『不思議』といふ意で、其の變光が頗る奇妙な所から命名せられたものである。 此の星の週期は前の二つ(→ペルセウス座β星アルゴル、ケフェウス座δ星)に比べると頗る長い大凡(おほよそ)三百三十日である。 そして此の日數の間に、星は三等から九等まで絶えず上り下りの變化をする。 原因にはいろいろ説があるが今尚定説はない。

  吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』(警醒社1922(大正11)年8月)

 鯨座中、特に注意を拂ふべきは、星(→δ星)の右手に見える星(→ο星)であります。 星は、變光星として發見された第一例でありました。 時は一九五六年、發見者はフアブリシウス。 何しろ、恒星は、其名の如く、位置も光度も一定不變だと信じ切つてゐた時代のことでしたから、星の變光が初めて紹介された時に、時人が、此星をミラ・セチ(鯨座の不思議星)と呼稱したことは、決して無理ではなかつたのでした。 今でも星は、長週期變光星の代表者であります。 (中略)ミラは、ベテルギウス(オリオン座ア星(→α星))に似た赤星でもあるので、殊に依れば、此星の變光原因は、星そのものゝ頽齡(→たいれい=老齢)に基づく光の不定性に因るものであらう−とも想像されてゐるさうです。

  野尻抱影『星座巡礼』(研究社1925(大正14)年12月)

 ミラ變光星 鯨座を最も有名にしてゐるのは、ο(オミクロン)星のミラ(Mira)變光星です。 今日五千から知られてゐる變光星の中、初めて發見されたのが此のミラで、それは一五九六年、發見者は獨逸の牧師ファブリシウスです。 ミラの名はこれを熱心に研究した獨逸のヘヴェリウスの命名で、「不思議の星」の意味です。 變光星には三種ありますが、ミラは長週期變光星といふ類です。 平均三百三十二日で、光の強い時は二等星、弱い時には約千分の一の九等星まで落ちて、肉眼で見えぬ事が三ヶ月も續きます。 十七世紀には四年間も見えずにゐた事がありました。 平均して三等星乃至四等星ですが、年によつて相違があつて、五等星位にしか達しない事もあります。 (以下略)

 このように、変光星そのものだけでなく、童話に登場するモデルとしてのミラの存在も当時から十分に知られていたことがわかります。 具体的にどのような書物から知識を得ていたのかは不明ですが、作品の執筆時期を1923(大正12)年頃とすれば、有名な『星座の親しみ』や『肉眼に見える星の研究』の星の知識が参考とされたかも知れません。

 星座図でも以下に示しておきます。 矢印で示した星がくじら座のミラです。 極大時期には見える星が、極小時期になると消えてしまいます。


(ミラの極大時期の様子)


(ミラの極小時期の様子)

 なお、「おきなぐさ」の変光星については、草下英明『宮沢賢治と星』をはじめとして、賢治の研究書籍においても具体的な解説が行われています。

3月22日(金)
 晴れ。

 キースジャレット自身の監修によるザ・ケルン・コンサートの楽譜が届いていました。 こだわりの前書きを読めただけでもマニアとしては満足です。


(ザ・ケルン・コンサート楽譜 2024年3月22日撮影)

3月23日(土)
 晴れ。

 問題案件が発生して自宅で作業。

 賢治の新刊から。


賢治の新刊
宮沢賢治と宇宙
放送大学教材
宮沢賢治と宇宙
谷口義明/大森聡一
NHK出版

 放送大学教養学部・自然と環境コースのテキストです。 以下、目次より(章題のみ) 1.賢治の人生/ 2.賢治の修羅と文学―詩集『春と修羅』をめぐって―/ 3.賢治の修羅と文学―農業と童話「グスコーブドリの伝記」をめぐって―/ 4.星好きとしての賢治/ 5.『銀河鉄道の夜』への基礎となる作品群/ 6.宇宙に時間がない頃/ 7.『銀河鉄道の夜』に学ぶ銀河/ 8.「青森挽歌」に学ぶ銀河/ 9.「いて座」の邪気/ 10.銀河の住処/ 11.動的ハッブル系列と宇宙の大規模構造/ 12.『銀河鉄道の夜』と『土神ときつね』に学ぶ星/ 13.賢治は太陽系に何を見たのか I/ 14.賢治は太陽系に何を見たのか II/ 15.『銀河鉄道の夜』に見る賢治の宇宙観
執筆者:1〜3章 大島丈志、4,5章 渡部潤一、6〜12,15章 谷口義明、13章 大森聡一、14章 大森聡一 谷口義明



 「賢治の図書館」  放送大学教材『宮沢賢治と宇宙』/谷口義明/大森聡一/(NHK出版)を追加しました。 多くは先行刊行物をもとにまとめられています。

3月24日(日)
 曇りのち雨。

 自宅の所用。 そして、都内の演奏会に招待をいただく。 帰宅後は、定例の原稿依頼届く。

 少し前ですが、アメリカのエリック・カルメン死去のニュースがありました。 1970年代から80年代のかけて活躍したアーティストです。 聴きやすい(ある意味ビートルズ的な)楽曲が多く、親しみやすいものばかりで、10年ほど前にリマスター盤が出て買い揃えました。 新曲は期待していなかったのですが、残念なニュースです。

3月25日(月)
 雨。

 職場の卒業式(学位記授与式)。 あいにくの空模様。

 今日は賢治の詩「晴天恣意」(1924(大正13)年3月25日)から100年目の日。 以下、「賢治の星の風景」(1996年9月7日更新記事に加筆訂正したもの)より。

「晴天恣意」の創作 1924(大正13)年3月25日

■『春と修羅』第二集の中に「晴天恣意」と題された詩があります。 賢治は3月23日に農学校の卒業生を送りだしたあと、翌24日より鱒沢、五輪峠、人首、水沢と歩き、人首では 林業指導を、また水沢では緯度観測所に立ち寄っています。

■下書稿(一)には「(水沢臨時緯度観測所にて)」、下書稿(二)には「(水沢緯度観測所にて)」と傍題がつけられていた経緯があるとおり、当時賢治の最も身近にあった天体観測所として水沢緯度観測所が登場しています。

  晴天恣意

 つめたくうららかな蒼穹のはて
 五輪峠の上のあたりに
 白く巨きな仏頂体が立ちますと
 数字につかれたわたくしの眼は
 ひとたびそれを異の空間の
 高貴な塔とも愕ろきますが
 畢竟あれば水と空気の散乱糸
 冬には稀な高くまばゆい積雲です
 とは云へそれは再考すれば
 やはり同じい大塔婆
 いたゞき八千尺にも充ちる
 光厳浄の構成です
 あの天末の青らむま下
 きらゝに氷と雪とを鎧い
 樹や石塚の数を持ち
 石灰、粘板、砂岩の層と、
 花崗斑糲、蛇紋の諸岩、
 堅く結んだ準平原は、
 まこと地輪の外ならず、
 水風輪は云はずもあれ、
 白くまばゆい光と熱、
 電、磁、その他の勢力は
 アレニウスをば俟たずして
 たれか火輪をうたがはん
 もし空輪を云ふべくは
 これら総じて真空の
 その顕現を超えませぬ
 斯くてひとたびこの構成は
 五輪の塔と称すべく
 秘奥は更に二義あって
 いまはその名もはゞかるべき
 高貴の塔でありますので、
 もしも誰かゞその樹を伐り
 あるひは塚をはたけにひらき
 乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
 かういふ青く無風の日なか
 見掛けはしづかに盛りあげられた
 あの玉髄の八雲のなかに
 夢幻に人は連れ行かれ
 見えない数個の手によって
 かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
 槍でづぶづぶ刺されたり
 頭や胸を圧し潰されて
 醒めてはげしい病気になると
 さうひとびとはいまも信じて恐れます
 さてそのことはとにかくに
 雲量計の横線を
 ひるの十四の星も截り
 アンドロメダの連星も
 しづかに過ぎるとおもはれる
 そんなにもうるほひかゞやく
 碧瑠璃の天でありますので
 いまやわたくしのまなこも冴え
 ふたゝび陰気な扉を排して
 あのくしゃくしゃの数字の前に
 かゞみ込まうとしますのです

■童話「銀河鉄道の夜」を読んだあとに、この詩のほぼ最初の部分を読むと、何か気にかかる部分があるはずです。 「銀河鉄道の夜」に登場する『天気輪の柱』との共通性です。 このことは 従来から研究者により指摘されていた部分ですが、「五輪」と「天気輪」、また「白く巨きな仏頂体が立ちますと」と、柱が立ちががるような記述、そして「ひとたびそれを異の空間の高貴な塔とも愕ろきますが」と別な世界への入り口とも思える表現....。 賢治はこの時『天気輪の柱』のイメージをすでに思い描いていたかのようです。

■「雲量計の横線を/ひるの十四の星も截り」と書かれていますが、下書稿(一)では「天頂儀の蜘蛛線を」と書かれていました。 これは、水沢緯度観測所に立ち寄った際に、天頂儀を見学し、その時の印象を詠んだ部分です。 文章の流れから星を測定するのであれば、雲量計ではなく、下書稿(一)に書かれているとおり、「天頂儀」が正しいことになります。 天頂儀とは、子午儀、子午環などと共に星の正確な位置を測定することを目的とした、主に天頂付近の恒星の位置を測定する望遠鏡です。

■では、「雲量計」とは何か....? 草下英明著『宮澤賢治と星』の中で「『晴天恣意』への疑問」補註として、須川力(前緯度観測所長)著『星の世界 宮沢賢治とともに』を引用し、解説されています。 それによると、緯度観測所構内に「櫛形測雲計」という設備があり、実際には雲量を眼視する際の範囲や方向の目安にする器具で、雲量計ではないが、それを「雲量計」として速断したらしいとの説明があります。

■『星の世界 宮沢賢治とともに』の中では、次の「ひるの十四の星も截り」について、当時の 観測所で一晩に観察する恒星の数は原則として24星であり、それを賢治が誤って14と思い込んでいたのではないか、と説明しています。 天頂儀による実際の観測方法は、望遠鏡の視野にある十字線(十字線は賢治が書いたとおり蜘蛛の糸でできている) を、星が横切る時間を正確に測定するという簡単なものです。 従って「アンドロメダの連星も/しづかに過ぎるとおもはれる」というのは、望遠鏡の視野の十字線の上を「アンドロメダの連星も静かに通りすぎていると思われる」という賢治の推測によるものと考えられます。 (但し、ただ単に星が通過するという立場からすると、別に天頂儀である必要性はなく、賢治のいう「雲量計」であっても なんら問題はないと須川氏も述べています。)

■下の写真は、賢治が観測所を訪問した当時の天頂儀です。1899年に眼視天頂儀室に おさめられたものです。

(写真省略)
眼視天頂儀
ドイツ・ワンシャフ社製 口径108mm 焦点距離1289mm
(写真:緯度観測所75周年誌)

■「アンドロメダの連星」とは、アンドロメダ座の有名な二重星の「アルマク」(アンドロメダ座γ星)のことでしょう。 この星は吉田源治郎著「肉眼に見える星の研究」にも「アルマクは、距離十秒 を隔てた三等星の黄星と、五等星の青星から成る、周期五十年の美しい連星であります。」と紹介されています。 また、 下書稿(一)では、この星を「わたくしの夏の恋人、あの連星も」と書いているのも興味深いです。 賢治はこの星をどこ かできっと覗かせてもらっていたことでしょう。 「ふたゝび陰気な扉を排して/あのくしゃくしゃな数字の前に/かゞみ込まうとしますのです」、これも一見意味不明と思われるしぐさですが、『星の世界 宮沢賢治とともに』のなかの考証によると、

 「ふたゝび陰気な扉を排して」眼視天頂儀室に入り込み、
 「あのくしゃくしゃな数字」の書かれた観測帳の置いてある、回転椅子に
 「かゞみ込まうとしますのです」

と説明がつくといいます。 これは驚きですね。

■さて、シミュレーション画面ですが、水沢緯度観測所の位置でのアルマクの子午線通過時間を測定してみました。 画面は昼間の大気光を消して星が見えるように表示設定されています。 大きな曲線が子午線、 太陽や水星、金星などが見えています。 1924年3月25日のアルマクは、13時25分に子午線通過することがわかります。 但し、ここで実証できたわけですが、賢治が星座早見盤などを利用し、そこまで考えて創作したのか?というと、むしろ 「アンドロメダの連星」に寄せる想いが先にあり、「しづかに過ぎるとおもはれる」と単に推察していたと考える方が自然 ではないか....、と思います。


(1924年3月25日13時25分 アルマクの子午線通過)

■この詩の前半で語られる、仏教の五輪の思想に由来する賢治の説明がありますが、その 中で、スウェーデンの天文学者アレニウスの名が出てきます。 宮沢賢治語彙辞典によれば、地球外からの生命がやってきたこと、太陽系の成因を衝突説で説明するなど、さまざまな研究を行い、賢治の愛読した片山正夫著「化学本論」にもたびたび登場したと記されています。

■なお、この水沢緯度観測所は、賢治の童話「風野又三郎」「土神と狐」などにも登場しています。 中でも初代所長は「Z項」を発見し、日本の天文学を世界に示した木村栄理学博士で、「風野又三郎」にも実名で登場しています。 余談ですが、1925年1月15日より花巻農学校にて「岩手国民高等学校」が開設され、課外講演として 木村博士が「緯度観測」を、また賢治は「農民芸術」の講師として講義を11回行っています。

 賢治生誕100年の年にアップした記事となりますが、昨日のことのように覚えています。 ついでに、以下の資料を斜め読み。


(緯度観測所関連書籍から 2024年3月25日撮影)

 池田徹郎は、水沢緯度観測所の三代目の所長となった人物で、賢治がこの詩の舞台として訪問した時期には緯度観測所技師(気象課長)をしていました。

3月26日(火)
 雨。

 ポン・ブルックス彗星(12P)のニュースが入りますが、明るさの方は、予報光度どおりに推移している模様。

 彗星名の「ポン・ブルックス」は、発見者2名(発見順)の名前です。 そのうち、第2発見者の「ブルックス(William Robert Brooks)」(1844〜1921)は、他にも多くの彗星を発見しています。 その一つに、肉眼彗星にもなったブルックス彗星(C/1911 O1、仮符号1911c)があります。 彗星の発見された1911(明治44)年は、ハレー彗星が接近した年の翌年で、観望の好機は10月中旬ごろまで日没後の西空、10月下旬になると明け方の東空に見えていました。

 当時、宮沢賢治は盛岡中学の3年生でした。 賢治の「文語詩篇」ノート6頁(1911年)に「発火演習 臥してありし 白き花、うめばちさう、煙、吉野」とする記載があります。 賢治の年譜記事によれば、9月30日に一本木野付近で行われた発火演習時のできごとと思われます。 次の短歌もその際の作品でしょう。 (歌稿Bから[B5-6a])

 鉄砲が
 つめたくなりて
 みなみぞら
 あまりにしげく
 星 流れたり

 その9月30日における一本木野での彗星の見え方をシミュレーションしてみました。 発火演習時に創作されたいくつかの短歌作品の状況からすると、黎明時(夜明けどき)の演習を詠ったものと思われます。
その時間帯の彗星の位置を調べてみると、北北東の低い位置に、約2等級の明るさで見えていました。 彗星は淡い天体ですので確認が普通の恒星よりも難しいことは言うまでもありませんが、高度が低いと地形や樹木の条件にも左右されることが多くなります。


(1911年9月30日04:20 黎明どきのブルックス彗星(約2等))

 同日の宵空についてもシミュレーションしてみました。 見やすさでいえば、こちらの方の条件が格段に良いことがわかります。


(1911年9月30日18:55 宵のブルックス彗星(約2等))

3月27日(水)
 晴れ。

 週末の準備など。 お天気はまあまあながら、黄砂の影響もあり彗星観察には不適。

 今年も年度末の慌ただしさに倒れそう。

3月28日(木)
 曇り。

 宮沢賢治の作品、気になるものとして詩「〔あそこにレオノレ星座が出ている〕」(『詩ノート』収録)があります。 今日はその作品日付(1927(昭和2)年3月28日です。

   〔あそこにレオノレ星座が出てる〕

 あそこにレオノレ星座が出てる
   ……そんな馬鹿なこと相手になってゐられるか……
 ぼうとした市街のコロイダーレな照明の上にです
  北は銀河の盛りあがり
   ……社会主義者が行きすぎる……

 社会主義の国から届く黄砂の舞う「コロイダーレ」な夜空を眺めてつつ…。 以前同人誌に書きましたが、作中に出てくる「レオノレ」(しし)は、星座であると同時に「レオノーレ序曲」からの発想としても興味深いものがあります。


(1927年3月28日20時の夜空)

 春の宵空のしし座は、主役として天の高見を目指します。

3月29日(金)
 雨のち曇り。

 仕事を終えて、夜から都内に移動。 明日は早起き。

3月30日(土)
 晴れのち曇り。

 夏のイベント打合せなどで長野県茅野市へ。 今年もお話の依頼がありました。

 駅から車で送ってもらい、車道(国道299号線・メルヘン街道)の日向木場展望台の駐車場からは、残雪のため荷物を担いで進みます。 白駒の登山口までは1時間以上の歩きです。 自動車で移動している時は感じませんが、徒歩で歩くのは意外に大変です。


(国道最高地点を通過 2024年3月30日撮影)

 白駒の駐車場前の最後のカーブで踏跡を外し、雪のしまっていない新雪に落下し、下半身は雪の中。 落ちた瞬間に足がつって、痛さのあまりしばらく起き上がれず。 5分近く停滞して、なんとか駐車場着。

 駐車場からは、雪に埋もれた森の中を1時間ほど。 バイトの皆さんとも再会。 イベント打合せも昨年の進行表をもとに意見交換。 夜は「すきやきの会」となりました。


(夕食準備完了 2024年3月30日撮影)

 夜になって山上は薄雲の中。 比較的強い風で雲が流れていました。


(雲の流れる夜 2024年3月30日撮影)

 夜空の様子を気にしながら、早々に就寝。

3月31日(日)
 晴れ。

 深夜に起床し、天候を確認。 就寝前と変わらず。

 夜が明けてからはいいお天気になりました。 但し、かなりの強風です。


(早朝 2024年3月31日撮影)


(山小屋にて 2024年3月31日撮影)

 夜が明けてからいいお天気となりました。 朝食を早く用意していただき、今朝は純粋な登山道の方を利用して麓の温泉地まで下山です。 途中、岩場の難所があるので、足元には注意しながら…。 それにしても強風がまったく止みません。

 バス乗り場前の温泉宿に着いて、宿のおかみさんからバスチケットを購入。

 茅野駅まではバス移動。 駅に隣接するビルのパン屋でランチ。


(山小屋にて 2024年3月31日撮影)

 東京への中央線は、沿線火災の影響で20分ほどの遅れ。 打合せの資料など確認しつつ見ながら、新宿駅に到着。

 帰宅後に、先日の岩手大学での講義時の写真、受講者アンケートの集計結果などをいただきました。 いろいろと参考になります。 ありがとうございました。 (そして新たなお仕事も)

 そして明日からは新年度。 しっかりやりませう。



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