緑いろの通信 2024年2月
   

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- 緑いろの通信 2024年2月 目次 -


緑いろの通信

 「緑いろの通信」へようこそ! 2024年2月号をアップしました。 今月の写真は、北海道小樽で撮影した運河に通じる駅前からの通りの風景です。 大雪直前の街の様子でしたが、積雪は少なめに感じられました。 早くも2月のスタートです。 今月もまたよろしくお願いします。




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 新着情報でも更新ページを知ることができますが、少し紹介を加えたりしてプラス・アルファの書き込みです。 日付を付けて書き加えますので、時々のぞいてみてください。


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2月1日(木)
 晴れ。

 このところ所用が多く、なかなか疲れが取れません。 いつものように、今月の写真の拡大版を載せておきます。


(今月の写真[拡大] 2024年1月6日撮影)

 賢治の新刊から。


賢治の新刊
鉄道文学傑作選
鉄道文学傑作選
関川夏央編
中公文庫

 関川夏央編の鉄道文学アンソロジーです。 紹介の帯文では「名作は鉄路に乗って− 明治から戦後まで17人の作家、小説、随筆、詩歌、日記と多彩な作品から、文学に表れた「鉄道風景」を読み解く。(文庫オリジナル)」とあります。 宮沢賢治は『春と修羅』より「オホーツク挽歌」の詩群が引用。 編者解説として「死者と再会する旅−宮沢賢治「オホーツク挽歌」ほか、が収録。
 以下は目次より。 夏目漱石「三四郎(抄)」 石川啄木「一握の砂」より 志賀直哉「網走まで」 森田草平「煤煙(抄)」 芥川龍之介「舞踏会」 宮沢賢治「オホーツク挽歌」ほかより 萩原朔太郎「旅上」ほか 中野重治「機関車」ほか 横光利一「旅愁(抄)」 山田風太郎「応召記(抄)」 永井荷風「断腸亭日乗 昭和二十年八月」より 上林曉「鄙の長路」 内田百閨u区間阿房列車(抄)」 宮脇俊三「循環急行と只見線全通の日」 吉村昭「電車、列車のこと」 藤沢周平「陸羽東線」 荒川洋治「鉄の幸福」



 「賢治の図書館」  『鉄道文学傑作選』/関川夏央編/宮沢賢治「オホーツク挽歌」ほかより/(中公文庫)を追加しました。

2月2日(金)
 曇り。

 『レコード・コレクターズ増刊 ポール・マッカートニー&ウイングスの時代』(ミュージック・マガジン)を読む。


(『ポール・…の時代』 2024年2月2日撮影)

 ビートルズ解散後のヒットアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」のリリース50周年を記念しての刊行。 ウイングス時代のアルバム・シングル(メンバーの作品も含む)、映像作品などを網羅的の紹介したもの。 大村亨「日本のメディアが報じたウイングス」では、1976年のチューリップとの会見ほか、来日に関する報道など。

2月3日(土)
 晴れ。

 週の初めは降雪の予報。


(つくばエクスプレス線高架橋 2024年2月3日撮影)

 外出して買い物など。 夜は到着していた Band On The Run [50th Anniversary Edition]を聴きながら原稿の準備、画像処理、資料作成。 加えて自宅の所用。


(Band On The Run 50th 2024年2月3日撮影)

 CDは2枚組で、オリジナルのミックスに加えて、「Underdubbed Mixes」というオーバー・ダビングの作業を施す以前のベーシックなトラックのみのラフ・ミックス盤が追加されています。 作業をしたのはビートルズ時代のレコーディング・エンジニアのジェフ・エメリックによるもの。 スカスカにも感じられるものや、意外なエンディング(1985)もあって面白い。

2月4日(日)
 晴れ。

 自宅の作業。 (あれこれとためてしまいました)

 就寝前に、草下英明『美しき月ものがたり』(三笠書房、1970.2)再読。 (私の所有しているものは、草下英明さんが、天文関係の穂積善太郎氏へのサイン本としたものです)


(『美しき月ものがたり』 2024年2月4日撮影)

 刊行時期は1970年2月で、月への有人月面着陸計画(アポロ11号と12号)が行われた時期のものです。 とは言え、宇宙科学ばかりではなく、人文学的視点で書かれた文章が多く、草下さんらしさを感じます。

 「月と文学」の章では、以下のような作品(国内)が取り上げられていました。

『竹取物語』 『源氏物語』 『堤中納言物語』 『平家物語』 『栄花物語』 『雨月物語』 『胆大小心録』 『閑田次筆』 『奥の細道』 『七部集』 『金色夜叉』 『月に吠える』 「烏の北斗七星」 「月天子」 『少年愛の美学』 『星を売る店』 『天体嗜好症』 『一千一秒物語』 『黄漠異聞』

 こういうことを網羅的にやっている方、あまりいなくなりました。

2月5日(月)
 曇りのち雪。

 賢治の新刊から。


賢治の新刊
ベートーヴェンと大衆文化
ベートーヴェンと
大衆文化
受容のプリズム
編者 沼口隆、安川智子、
齋藤桂、白井史人
春秋社

 帯文には「20世紀のメディアの中でベートーヴェンの姿はどのように表現されてきたのか」とあります。 宮沢賢治関係では、編者表記にはありませんが、第7章「《田園交響楽》と『セロ弾きのゴーシュ』ベートーヴェン、宮沢賢治、高畑勲」土田英三郎、コラム3に木村直弘「宮沢賢治のベートーヴェン百年祭」があります。



 「賢治の図書館」  『ベートーヴェンと大衆文化 受容のプリズム』/編者 沼口隆、安川智子、齋藤桂、白井史人/第7章「《田園交響楽》と『セロ弾きのゴーシュ』ベートーヴェン、宮沢賢治、高畑勲」土田英三郎/コラム3 木村直弘「宮沢賢治のベートーヴェン百年祭」/(春秋社)を追加しました。

 賢治の時代から現代までの、日本におけるベートーヴェンを「大衆文化」という切り口でわりと網羅的にとらえたものではないでしょうか。 木村直弘「宮沢賢治のベートーヴェン百年祭」はもちろんですが、齋藤桂「『大菩薩峠』とヴェートーヴェン」なども賢治的には面白いものです。 (以下は、目次より)

はじめに
■第1章 一〇〇年前のベートーヴェンー研究史に見る潮流の変化(沼口隆)
■第2章 映画とベートーヴェンー1920〜30年代の断片化と神話化(白井史人)
■第3章 ロマン・ロランのベートーヴェン神話ーフランスから日本へ(安川智子)
●コラム1 『ロマン・ロラン全集』の中のベートーヴェン(ジル・サンンタロマン/安川智子訳)
■第4章 子どもとベートーヴェンー近代日本の教育現場における逸話「月光の曲」(山本耕平)
■第5章 『大菩薩峠』とベートーヴェンー大衆・民衆の芸術とは何か(齋藤桂)
■第6章 小沢昭一の「ベートーヴェン人生劇場〈残侠篇〉」−『題名のない音楽会』における日本の伝統音楽・伝統芸能の役割(鈴木聖子)
●コラム2 テレビ番組「題名のない音楽会」の現場から(大石泰)
■第7章  《田園交響曲》と『セロ弾きのゴーシュ』−ベートーヴェン、宮沢賢治、高畑勲(土田英三郎)
●コラム3 宮沢賢治のベートーヴェン百年祭(木村直弘)
おわりに
参考文献
関連年表

 木村直弘さんが本書のコラムで「宮沢賢治のベートーヴェン百年祭」について書かれています。 賢治の行った「ベートーヴェン百年祭」は、賢治全集の年譜「1926(大正15)年」においては、次のとおり言及のあえるものです。 (3月4日、3月19日、3月24日のみ抜粋)

三月四日(木) 午後三時半、斎藤宗次郎が農学校を訪ね、賢治の応接をうけてレコードを鑑賞した。 ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」(ピアノ久野久子)、および交響曲第六番「田園」、ワーグナーの「タンホイザー」から「巡礼の歌」など。 またベートーヴェン一〇〇年祭を催すについて斎藤の出席を望む。 他の教師が帰った後の談話の中で、退職して新活動に入る決意を告げ、出版を予想した「農民芸術概論」の「序言」を朗読し斎藤の批評を求めた。

三月一九日(金) 農学校に「延着の東日新聞を配達」に来た斎藤宗次郎に「ベートーヴェン百年債記念レコードコンサートの招待状」を渡す。

三月二四日(水) 花巻農学校第五回生卒業式。 農学校にて、六時半よりベートーヴェン一〇〇年祭レコードコンサート開催。 賢治は開会の辞を述べる。 九時半過ぎ閉会。
(※脚注より:「二荊自叙伝」によれば、「クロイチェルソナタより始め順次第四より第八シンフォニーに及び其間二三枚の曲を挟んだ、」斎藤は「暫時休憩の後」賢治の乞いに従ってベートーヴェンについて語った。
 堀籠文之進、平来作の談話によれば、「校長室と職員室のしきりをとり、赤々と炭火が燃える大火鉢をかこんだ生徒にコレクションのレコードを聞かせた。」のだという。)

 交流にあった斎藤宗次郎との関係では、上記の先立つものとして1923(大正12)年9月12日(水)農学校で実習を終えた賢治は宗次郎に「ベートーヴェンの第四」を聴かせています。 翌1924(大正13)年8月27日(水)には農学校におけるベートーヴェンの鑑賞、同年12月24日(水)には「ベートーヴェンのシンフォニーのこと」を語りあったという記録があります。 (それぞれ「二荊自叙伝」より)

 ベートーヴェンにすっかり夢中になった賢治が、レコードコンサートを開催しようと考えるのはごく簡単なこととも取れますが、ベートーヴェンが1827年3月に亡くなってから没後100年とした場合には、1927年が100周年であり、賢治の企画したレコードコンサートの翌年こととなります。 ではなぜ、前年に開催したのでしょうか。 これは以前に「緑いろの通信」で推理したときには、農学校在職中が関係者を招いてのイベントとして開催する最後の機会だったという位置付けて理解していたのですが、木村直弘さんの「宮沢賢治のベートーヴェン百年祭」では、

 (略)古着屋・質屋を営む裕福な環境に育った賢治がこれまで安定した生活を捨てて農民生活に入ろうと人生の一大決心をした際、ベートーヴェンにちなむ画期を必要としたわけだが、それはロマン・ロオラン『ベェトオフフェン並にミレエ』(加藤一夫訳、洛陽堂、一九一五)以降流布していたベートーヴェン像が、「苦悩を通しての歓喜 Durch Leiden Freude」という言葉で象徴されるその「人生」あるいは「人格」と不可分に語られていたこと(=神話)と無縁ではなかった。

とありました。 ベートーヴェンの伝記(神話)との関わりとして論じられていました。


(ベートーヴェン関係少々 2024年2月5日撮影)

2月6日(火)
 雨のち曇り。

 今月発売の天文2誌を購入。


(天文2誌 2024年2月6日撮影)

 『星ナビ』3月号は、特集が「スターリンクの舞」です。 遠方のスターリンク衛星が、太陽光で照らされることで、短時間に見える現象を開設するものです。 早朝の状況を例にあげれば、秋口では深夜1時過ぎから北東の地平線近くに、冬になると3時過ぎに東の空へと移動します。 ほかに、Ricohの全天カメラ、シータによるインターバル撮影の方法など。 渡部潤一さんの「三鷹の森(279)」では、昨年12月に行われた「ハレー彗星遠日点通過記念祝賀会−藤井旭さんに感謝し、阿部昭さんを励ます−」の記事です。この日渡部潤一さんにはNHK出版の猪狩暢子さん、岡田好之さんには作家の江森葉子さん(前原寅吉のひ孫にあたる方)を紹介いただきました。 他にも大勢の方々との交流が思い出されます。 綴じ込み特別付録は「天体画像処理3」(仕上げ編)。

 『天文ガイド』3月号の特集は「大口径望遠鏡でディープスカイ観望会」です。 他に沼澤茂美さんのニコンのミラーレスカメラZfのテスト記事、「小惑星ガイド」の新たな小惑星命名では、登録番号(24960)Usukikenichi 薄謙一や、(19315)Aizunissinkan 会津日新館のリスト命名リストが掲載されていました。

2月7日(水)
 晴れ。

 第1回宮沢賢治イーハトーブ賞受賞者の柚木紗弥郎さんが1月31日に亡くなられました。 画集『宮沢賢治遠景』を含む画業が評価されたもので、1991年9月の受賞でした。 (「柚木沙弥郎 YUNOKI SAMIRO 公式サイト」はこちら

 柚木紗弥郎さんは、1922(大正11)年10月17日の生まれで、宮沢賢治もまだ元気で活躍していた時期(26歳のとき)の生まれです。 (以下に賢治の年譜と併せて確認)

   1922(大正11)年

 9月17日 詩「銅線」「滝沢野」
 9月18日 詩「東岩手火山」
 9月27日 詩「犬」

10月10日 詩「マサニエロ」
10月15日 詩「栗鼠と色鉛筆」
10月17日 柚木紗弥郎さん誕生

11月17日 アインシュタイン来日(汽船「北野丸」で神戸入港)
11月19日 病気の妹トシを桜の別宅から自宅に連れ戻す
11月23日 農学校で学芸会
11月27日 妹トシ死去
11月28日 妹トシの通夜
11月29日 妹トシの葬儀が安浄寺で行われる

 賢治が『春と修羅』に収録される作品の創作時期、そして妹トシが亡くなる頃の生まれでした。 の最近何度か柚木紗弥郎さんの作品を見る機会がありましたが、残念です。 昨年1月の日本民藝館(東京都目黒区)での展示が印象的でした。

 今年の秋には、賢治の地元、岩手県立博物館で巡回展(2024年10月19日〜12月22日)が予定されています。


(日本民藝館 2023年1月22日撮影)

2月8日(木)
 晴れ。

 古い書籍を整理していたら、高校生の頃やっていた合唱や、当時の楽譜などがいくつも出てきました。 ロックギターの奏法や、古いビートルズ本、様々です。 合唱曲に「花のまわりで」がありました。 NHK「みんなのうた」にも採用された曲で、作曲者は大津三郎です。 (「みんなのうた(1960年代)」はこちら(NHK)) 大津三郎といえば、先ず思い出されるのは賢治にチェロを教えた人物です。


(歌曲集「花のまわりで」 2024年2月8日撮影)

 とは言え、現代、明治〜戦前期(?)の演奏家の作品が用いられることがあるのでしょうか。 例えば、滝廉太郎のような一部の大御所は別として…。

 そこで少々調べて見ることにしました。 宮沢賢治上京時にチェロを教えた大津三郎の生年・没年は1892〜1960、そして「花のまわりで」の作曲者の大津三郎は1907年の生まれでした。 また、NHK「みんなのうた」初回放送月は1964年05月、歌曲集の発行は1969年5月ですから、それぞれ音楽に携わりながらも、同姓同名の別人であったようです。

 ところで、宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞(2021年)となった仙台の佐々木孝夫さんが案内人となって賢治の音楽イベント「宮沢賢治と音楽・センダードムジカ vol.1 ポランの広場」が開催されます。 「杜の都で賢治を聴く会」の主催で、2024年3月24日(日)、仙台での開催です。 (「宮沢賢治と音楽・センダードムジカ vol.1 開催」はこちら(destupargo’s blog))


(宮沢賢治と音楽・センダードムジカ チラシ)

2月9日(金)
 晴れ。

 午後から自宅の所用など。 移動中の車の中から、太陽の幻日を見ることができました。


(暈と幻日 2024年2月9日撮影)

 寝る前に週末の準備をしながらお茶の時間。 この1月の能登半島の地震で、石川県にある深田久弥山の文化館のことが思い出され、深田志げ子『私の小谷温泉 −深田久弥とともに』(山と渓谷社)を少しだけ斜め読み。 いろいろな関わりと因果…。

2月10日(土)
 晴れ。

 福島県の会津地方へ。 昨年の9月の式典以来です。


(古城の堀 2024年2月10日撮影)

 日本天文遺産の最初の認定「会津日新館天文台跡」や、その後の小惑星名としての命名、尽力した薄君のことなど、何かと気になる場所です。 記録用の写真が何枚か必要でしたので、無事任務を終えることができました。


(会津日新館天文台跡 2024年2月10日撮影)

 この古い天文台跡に最初に出かけたのは、2003年8月(21年も前)のことでした。 当時の「緑いろの通信」(2003年8月10日号)から。


(「緑いろの通信」(2003年8月10日号)より)

2月11日(日)
 晴れ時々雪。建国記念の日

 翌朝は、古い建築物の撮影。


(蔵と木造建築物 2024年2月11日撮影)


(木造建築物屋内構造 2024年2月11日撮影)

2月12日(火)
 晴れ時々雪。

 ビートルズのレストランへ。 (2度目の訪問)


(ペニーレインにて 2024年2月12日撮影)


(個性的な建築物 2024年2月12日撮影)

 自宅所用で多忙につきダイジェスト版です。

2月13日(水)
 晴れ。

 「宇宙もの」の作品が多い松本零士さん命日です。 あれからもう1年。 「銀河鉄道の夜」をリスペクトした「銀河鉄道999」などが有名ですね。

 この時期は「雪」にまつわるイベントが数多く開催されます。 北海道札幌のさっぽろ雪まつりや、秋田県湯沢の犬っこまつりなど、その種類も多様です。 例年どおりであれば北海道の道東では流氷の季節ですね。


(犬っこまつり会場にて 2017年2月11日撮影)


(犬っこまつり会場にて 2017年2月11日撮影)

 今年は雪不足で、各地でイベントの規模を縮小して実施したというニュースがありました。 地球温暖化が進行すると、雪まつりもなくなってしまいます。

2月14日(水)
 晴れ。

 写真は、先日見学してきたフランク・ロイド・ライト展の図録『フランク・ロイド・ライト−世界を結ぶ建築』です。


(フランク・ロイド・ライト展図録 2024年2月14日撮影)

 先日のパナソニック汐留美術館で行われた展覧会が良かったので、別途図録も購入してみました。 ライトの建築家としての始まりから、晩年までの代表作品、その時々の建築家としての思想が紹介されています。


(自由学園明日館記事 2024年2月14日撮影)

 かつての帝国ホテル(2代目)は、日本における代表作品(明治村に玄関部分が移築)ですが、それだけではなく、の作品まで網羅的な紹介があります。帝国ホテルは2036年の竣工を目指して田根剛氏によるデザインをもとに建て直し(新本館の建築)が行われることが決まっています。 (「帝国ホテル新本館を手がける、建築家・田根剛の挑戦」はこちら(TOKYO UPDATE 2022.8.10))


(明治村に移築されたライト館 2021年4月3日撮影)


(田根氏による新本館記事 2024年2月14日撮影)

2月15日(木)
 晴れ。

 賢治の新刊から。


賢治の新刊
宮沢賢治論集2
宮沢賢治論集2
イーハトーブの山々
中谷俊雄
百年書房

 中谷俊雄氏の『宮沢賢治論集2』です。 『宮沢賢治論集1/ポラーノの広場はどこに』に続くもので、帯文には「20世紀のメディアの中でベートーヴェンの姿はどのように表現されてきたのか」とあります。 第1章から第3章まで、それぞれ宮沢賢治研究会の「賢治研究」掲載記事を収録したものです。



 「賢治の図書館」  『宮沢賢治論集2 イーハトーブの山々』/中谷俊雄/(百年書房)を追加しました。

2月16日(金)
 晴れ。

 今日も賢治の新刊から。


賢治の新刊
西域・宮沢賢治と多田等観
西域・宮沢賢治と多田等観
橋信雄
小学館スクウェア

 花巻市博物館に勤務する著者が、龍谷大学で開催された「チベットの仏教世界 もうひとつの大谷探検隊」展における記念講演会がもととなった書籍となります。 以下、目次より。 (章題のみ) 第一章西域とシルクロード/ 第二章宮沢賢治の西域異聞三部作/ 第三章チベット(西蔵)と北上山地/ 第四章西天取経と多田等観/ 第五章縁成/ 第六章憧れのシルクロード見聞記



 「賢治の図書館」  『西域・宮沢賢治と多田等観』/橋信雄/(小学館スクウェア)を追加しました。 西本願寺の大谷探検隊として出かけながら、島地大等(盛岡 願教寺の住職)の支援を受け、ダライ・ラマ十三世のもとで修業し、帰国時に多数の経典等を持ち帰るまで、またその後の出来事に関しても非常に興味深いものがありました。

2月17日(土)
 晴れ。

 自宅の所用で病院へ。

 再読中だった正津勉『風を踏む 小説『日本アルプス縦断記』』(アーツアンドクラフツ)読了。 (著者の正津勉さんは(賢治関係で言えば)『小説尾形亀之助 窮死詩人伝』(河出書房新社)の著者でもあります。)


(『風を踏む』 2024年2月17日撮影)

 以前購入後に『風を踏む』について簡単に紹介したことがありましたが、一戸直蔵、河東碧梧桐、長谷川如是閑による小説『日本アルプス縦断記』(大鎧閣1917)をもとにした評伝的旅行記です。 一戸直蔵(天文学者)、河東碧梧桐(俳人)、長谷川如是閑(新聞記者)という異なる背景を持つ3人のユニークな登山記録です。 1915(大正4)年7月の記録で、篠ノ井線の明科駅から信濃大町を経て北アルプスに入り、途中針ノ木峠、槍ヶ岳を縦走し上高地へと下るルートです。

 そのうち、「十六 真に蛟龍の玉を蔵くすかの −硫黄沢乗越まで」は、7月20日(7日目)蓮華岳、双六岳などを越えて、硫黄沢乗越(硫黄乗越)泊までの記録となっています。 硫黄沢乗越は、槍ヶ岳に続く西鎌尾根の始まるところで、野営地となりました。

 ここでの夕食後、霧に包まれ、突然の雷鳴に驚かされますが、しばらくるすと星空に圧倒されます。 「一戸直蔵博士、特別星座講座。」が次のとおり記されています。

 一戸直蔵博士、特別星座講座。 でこのときばかりと懇願してさずかった、それがほんとうに素晴らしかったのである。 それぞれが寒さしのぎに羽織れるだけ羽織りまるで蓑虫みたいに頸をめぐらす。

 北側の鷲羽岳の頂上。 真上に輝く北極星。 その右にカシオペア座、でシンメトリカルに、その左が大熊座。 南側は穂高の稜線と、槍ヶ岳の大三角錐の上空。 十五、六個の星が形づくるSの字、それが蠍座。 そのちょうど心臓のあたりで赤く輝くのは一等星のアンタレス。 博士が、ストックでその方向を指しておっしゃる。 (略)

 それでわれらの頭の上をぐるりぐるっと一巻きしているのが天の川。 一六〇九年、ガリレオ・ガリレイが手作りの望遠鏡で無数の星の集まりだと発見するまで、天の川は不思議な天の流れだった。 エジプトでは天のナイル、インドでは天のガンジス、中国では天河。 でそれが日本に来ると天の清流になると。 (以下略)

 2〜3千メートル級の山々が連なる場所ですから、かなりの星が眺められたことでしょう。 その晩の野営場所で見えた星空をシミュレーション検証してみました。


(硫黄乗越の星空(北) 1915年7月20日19時)

 「北側の鷲羽岳の頂上。 真上に輝く北極星。」とあるのは、「北側の鷲羽岳の頂上。 やや東寄りに輝く北極星。」となります。


(硫黄乗越の星空(南) 1915年7月20日19時)

 南空においては、さそり座の西側にアンタレスよりも明るい火星(-0.6等)が出ていたので、一戸直蔵であればきっと触れていたのとでしょう。

 宮沢賢治が盛岡高等農林学校に入学した年の夏の出来事となります。

2月18日(日)
 晴れ。

 抱影の『星三百六十五夜 冬』(中公文庫)の今日のテーマは「天狼を射る」です。

 シリウスが夜ごとに南中すると、大犬の尾の直角三角形−和名のクラカケボシ(鞍掛け星)も南中する。 中国の星図には、この三角と、あたりの星々を結んで大弓に矢をつがえた形と見、弧矢(こし)八星と名づけて、矢じりはシリウスの天狼に向いている。 古代バビロンのカツカブ・バン(弓の星)もほぼ弧矢に当っていることは、私の興味を誘った。 そして、いずれも天狼の殺気をふくんだ光をきらう心理から生まれた意匠だろうと思っている。
(以下略)

 この前置きのあと、関連するいくつかの漢詩を引用しています。

 次の画像は、この時期の20時30分頃の南空です。 おおいぬ座のシリウスが南中しています。


(シリウスが南中する頃)

 シリウスのギラギラ感は、この時期(南中時期)が一番です。 西に傾くと、急にひ弱にも感じられるのが不思議です。

2月19日(月)
 曇りのち夜風雨。

 尾山篤二郎『処女歌集』(紅玉堂)を読んでみました。


(尾山篤二郎『処女歌集』 2024年2月19日撮影)

 尾山篤二郎(1889〜1963)は歌人で、関登久也(本名:岩田徳弥 1899〜1957)からの依頼で、賢治の『春と修羅』の背文字を書いたことでも知られています。 (以下、『賢治随聞』(角川選書1970.2)「春と修羅」より)

   春と修羅
 『春と修羅』は、花巻停車場通りの印刷業者吉田忠太郎氏が印刷しました。 賢治は毎日印刷所へ出向いて校正したり、さまざまの手伝いをしてかなりの日数がたってでき上がりました。 校正刷を持って、私の店へ立ち寄り毎日毎日見せてくださいました。 表紙は青黒いザラザラした手ざわりのものがほしいと申しておりましたが、なかなかそんなのが見あたらず、ちょうどそのころ私が商用で大阪にまいりましたとき、尾山篤二郎氏のお世話で私の友人富谷三郎君にあの布地を見つけてもらいました。 賢治の希望に合うのはただザラザラの手ざわりのところだけで、色などは全然ちがいます。 それでも広川松五郎氏に図案を書いていただき、せめても青い色地を出そうとしましたが、布地がザラつくので色はちっとも地にのらず、これも失敗しました。 背中の文字は尾山氏がマッチの軸で書いてくれましたが、いちばん上のところの、心象スケッチと書くべきものが、詩集となっているので、後で賢治は金粉を塗って消されたりしました。 どうもでき上がりが賢治の期待に反するのですが、賢治は少しも悪い顔をせず「ありがとう」「ありがとう」とばかりおっしゃるので、私もそのたびごとに「申しわけない」「申しわけない」と思いました。

 『春と修羅』を書籍として完成させる上で、一定の役割を担っていたことがわかります。 整理すると次の2点でしょうか。

 ・表紙の布地探しの世話をした
 ・背文字(詩集春と修羅)をマッチの軸で書いた

 皮肉なことに、それぞれが賢治の希望に沿ったものではなかったようです。 本文献では明示されていませんが、次の事項も尾山篤二郎を通じての依頼によるものとされています。 (『【新】校本宮澤賢治全集第16巻(下)補遺・資料』年譜篇より『春と修羅』刊行日にかかる脚注より)

 ・表紙のアザミの図案を画家の広川松五郎(1889〜1952)に依頼
 ・東京での販売を関根喜太郎(関根書店)に依頼


(尾山篤二郎『處女歌集』 2024年2月19日撮影)

 ところで、尾山篤二郎の『處女歌集』は、その「序」によれば、「私が二十二歳の春より三十歳の夏までの勞作」とあり、1922年の関東大震災をきっかけとして、それまでに発表した歌集から選りすぐった作品(自薦)作品が収録されているものです。 なお、序文の中で歌集『明る妙』(四方堂1915.3)においては、賢治の『春と修羅』のアザミの図案を描いた「廣川松五郎氏が極めて美麗なる装幀をやつてくれてゐる」とあります。 一方、水野葉舟との交流もあったようで、興味深く読み終えました。

 この歌集の後付を見ると、

  大正十三年四月二十日印刷
  大正十三年五月一日發行

とあります。 印刷は、1924(大正13)年4月20日です。 これは『春と修羅』発行日と同日で、本書の出版が、賢治の『春と修羅』とほぼ同時期に進行していたことがわかります。

 最後に、歌集末尾の月の歌を引用しておきます。

   畫 の 月
     戸山ヶ原にて

 夕月の冴えの寒けくわが通る路のかたへ
 の水ひかり居り

2月20日(火)
 曇りのち晴れ。

 新刊の文庫本、定方晟『須弥山と極楽』(ちくま学芸文庫)読了。


(定方晟『須弥山と極楽』 2024年2月20日撮影)

 本書の副題が「仏教の宇宙観」ですが、まさにその解説本です。 結局のところ、空間や時間のお話になるわけですが、ギリシャ哲学との関連、そして現代物理学にも通じるような世界観は、古風かつ新鮮です。 なんと1970年の刊行が、2024年…、半世紀を経ての再刊!

 「須弥山」「須弥」は、賢治の作品にも時々出てきますね。

2月21日(水)
 曇りのち晴れ。

   1931(昭和6)年の今日、賢治の詩「冬と銀河ステーシヨン」が「銅鑼」10号に発表されました。 『春と修羅』からの転載となりますが、若干の変更点もあります。

   冬と銀河ステーシヨン

 空にはちりのやうに小鳥がとび
 かげろふや青いギリシア文字は
 せはしく野はらの雪に燃えます
 パツセン大街道のひのきからは
 凍つたしづくが燦々と降り
 銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
 けさは真赤に澱んでゐます
 川はどんどん氷を流してゐるのに
 みんなは生ゴムの長靴をはき
 狐や犬の毛皮を着て
 陶器の露店をひやかしたり
 ぶらさがつた章魚を品さだめしたりする
 あのにぎやかな土沢の冬の市日です
 (ハンの木とまばゆい雲のアルゴホル
  あすこにやどりぎの黄金のゴールが
  さめざめとしてひかつていい)
 あゝ Josef Pasternack の指揮する
 この冬の銀河軽便鉄道は
 幾重のあえかな氷をくぐり
 (でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
 にせものの金のメタルをぶらさげて
 茶いろの瞳をりんと張り
 つめたく青らむ天椀の下
 うららかな雪の台地を急ぐもの
 (窓のガラスの氷の羊歯は
  だんだん白い湯気にかはる)
 パツセン大街道のひのきから
 しづくは燃えていちめんに降り
 はねあがる青い枝や
 紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
 もうまるで市場のやうな盛んな取引です

2月22日(木)
 雨。

 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はPut It There(Flowers in the Dirt)〜Say Say Say(Single)まで。

 Put It Thereは、父親の口癖という“まずは握手といこうしゃないか”という言葉。 そして、父親の思い出。 また、ビートルズとのかかわり。 Rocky Raccoonは、ギターを弾くだけで「フォーキー」になることが多い、ディランもそうしていたように…。 バイク事故の思い出と、手術、口ひげ…。 「この曲は多くの人がリクエストしてくれるので、ずっとコンサートでやろうと思っていたんだ。きっと近いうちに披露すると思うよ。 Sun Ferry Anneは、フランス語の「それが何か?」をもじったダジャレ。 ミッシェルがそうであるように、フランス語の歌を書こうとした。 Say Say Sayは、マイケルからの提案で書いた曲。 僕にとって曲を書くことは、ある道をたどりながら、さらに分岐して新たな道を切り開くことだ。 (略)運に恵まれさえすれば、世界の再定義に役立つ可能性を秘めたものなんだ。」


(『リリックス』より 2024年1月16日撮影)

2月23日(金)
 天皇誕生日。 曇りのち雨。

 所用で都内。 神保町(すずらん通り)の文房堂の写真。

 賢治の「注文の多い料理店」風の店舗となっています。


(文房堂にて(1) 2024年2月23日撮影)

 さらに隣のガラス面には「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません。」と書かれています。


(文房堂にて(2) 2024年2月23日撮影)

 そして、先日(2月13日)の営業までで全館休館となった山の上ホテル前を通りかかりました。 建物の老朽化ということですが、また営業を再開してほしいものです。 (「山の上ホテル HILLTOP HOTEL 御茶ノ水・神保町【公式】」はこちら


(山の上ホテル 2024年2月23日撮影)

2月24日(土)
 晴れ。

 自宅で作業。 仕事の準備で外泊。 薄雲で滲んだ満月を見ました。

 しし座の1等星レグルスの近く。


(2024年2月24日19時の月)

 見かけの大きさ(視直径)が今年最小となる満月(29.8′)でした。

2月25日(日)
 曇りのち時々雨。

 早起きして休日出勤。 緊張感のある一日でした。

 帰宅して、お茶の時間。 寝る前の僅かな間、ビリージョエルのライブ・ベストのアルバムを聴く。 (邦題:ビリー・ザ・ベスト・ライヴ!) その後就寝。


(ビリー・ザ・ベスト・ライヴ! 2024年2月25日撮影)

2月26日(月)
 晴れ。

 天沢退二郎さんのエッセイ集『雪から花へ 風俗から作品へ』を再読。 本書は天沢退二郎さん、入沢康夫さんによる賢治全集(旧校本)編纂時の花巻訪問の出来事が書かれているものです。 (「草稿の中から」「草稿の森を出て」に登場する花巻駅近くの施設等については「緑いろの通信」(2012年1月12日号)で解説済)


(『雪から花へ 風俗から作品へ』 2024年2月26日撮影)

 初めて読んだ当時とは知識の量が違っているので、ある意味で倍の面白さ…。 特に「草稿の森の中から」で、宮沢清六さんから「全集をやり直してほしい」(校本全集のこと)とお話があり、その後すぐさま膨大な作業と向かい合うところ、そしてボロボロだった原稿との格闘。 再読してあたらめてリアルに感じられました。 天沢さん、入沢さん、お二人のお仕事の重要さを改めて痛感。


(入沢さん、天沢さん 2013年8月3日撮影)

 10年ほど前は、お二人ともお元気で花巻でお話をされていました。

2月27日(火)
 晴れ。

 『北海道への旅』(北海道新聞社)読了。


(『北海道への旅』 2024年2月27日撮影)

 本書はJR北海道の車内誌「JR Hokkaido」の記事をもとにした単行本です。 道内で特急列車に乗車すると、座席前のポケットに入っていて、時々読みますが、賢治の特集号もありました。 (本誌にはありません)

 良かった記事は「命をつないだ熱いコーヒー −宗谷サムライ物語」(2008年6月号掲載)。 1808年(江戸時代)、北方警備のため樺太、宗谷、利尻に派遣された会津藩のお話です。

2月28日(水)
 晴れ。

 自宅の所用、画像データの整理など。 なつかしき最初の就職場所の写真です。


(東京学芸大学)

 例年であれば、2月は今日でおしまい。 今年はうるう年で、明日29日まで。

2月29日(木)
 雨。

 賢治の時代のうるう年の一覧です。 1896年は生まれる前ですので、存命中では8回の2月29日があったことになります。 (2度目ですが改めて作成)

 西暦    和暦    賢治年齢
 1896年 明治29年  0歳
 1904年 明治37年  8歳
 1908年 明治41年 12歳
 1912年 大正 元年 16歳
 1916年 大正 5年 20歳
 1920年 大正 9年 24歳
 1924年 大正13年 28歳
 1928年 昭和 3年 32歳
 1932年 昭和 7年 36歳
 (※1900年は平年です)



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