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●12月1日(金) 晴れ。 今月の写真の烏帽子岩を大きくしたものです。 実にぼんやりとした姿です。
それぞれ、烏帽子岩に関する解説ですが、その所以が異なっていました。 岩手公園を訪れる人の多くは、まったく気づかずに通過しているようです。 ●12月2日(土) 晴れ。 自宅での作業。 苫小牧市の岩倉市長、先月韓国訪問中に倒れ、意識不明とのニュースがありましたが、その後回復され帰国、手術を終えて2月までに公務復帰の見通しというニュースがありました。 苫小牧で行われた宮沢賢治関係のイベントにも顔を出されていましたね。 早期の復帰をお祈りしたいと思います。 (「苫小牧市長、手術は無事終了 2月までに公務復帰の見通し」はこちら(北海道新聞2023年12月2日) ●12月3日(日) 晴れ。 午後から都内。 帰宅時にオリオンを見つける。 ベテルギウス、リゲル、縦に並ぶ三つ星を見つけては、その傍に連なる小三つ星を探す。 淡く揺れる視界に浮かぶ一瞬を楽しみ。 この写真は、草下英明『宮沢賢治と星』、甲文社(自費出版)の表紙に描かれたオリオンです。 三ツ星と小三つ星が描かれています。 なぜか上下が逆さまなのです。 図としては、恒星を結ぶ線の引き方から、中国の星宿の図であることは察しがつくのですが…。 ●12月4日(月) 晴れ。 谷川俊太郎の詩集に『二十億光年の孤独』があります。 「緑いろの通信」で何度か書いたとおり、私自身が初めて購入した詩集『谷川俊太郎詩集』(角川文庫)に、「二十億光年の孤独」が収録されていました。
書店でページをめくって「二十億光年」という天文学的な響きを見つけて、それが購入の動機でした。 では、なぜ「二十億光年」なのか、これは当時はあまり意識していませんでしたが、後になってあれこれと考えてみるようになりました。 谷川俊太郎ご自身の証言の中に、「二十億光年」とした理由があります。 これは、幾つかの文献により若干の表現に違いはありますが、次のようなものでした。
作品が書かれた時の「宇宙の直径」は、「二十億光年」だったというものです。 では作品が創作された時期はいつだったのでしょうか。 その時期を知った(意識した)のは、上記引用の「緑いろの通信」を書いたきっかけ、すなわち2018年に新宿オペラシティ・アートギャラリーで開催された「谷川俊太郎展」の会場でした。 展示されていた詩集『二十億光年の孤独』(創元社 1952.6.20発行)の自筆原稿(詩作ノート)の片隅には、「1950.5.1」と日付がはっきりと記されていたのです。 その時期であれば、作中に登場する火星も、同年3月には小接近しており、宵空には赤く輝く姿をたやすく見つけることができたはずです。 さて、その頃、宇宙の大きさというのはどのように認識されていたのでしょうか。 1950年、和暦で言えば昭和25年、戦後から数年といった時期です。 例えば、時間的には創作の日付より若干遡るものですが、その頃に刊行された野尻抱影『少年天文学』(縄書房 1950.6.15発行)の「10 星雲」の項には次のような記述があります。 (以下、部分引用)
ここには、宇宙の大きさそのものではなく、完成したばかりのパロマー天文台が「一〇億光年も遠い星雲をさつえいするのに成功しました」という記事があります。 また、草下英明『星日記 私の昭和天文史』(草思社 1984.12.1)の「1949年(昭和24年)」の1月26日には、同じパロマー天文台を取り上げた次のような記事もありました。 内容としては重複しますが引用いたします。 (一部に注記をつけました)
以上の記事からは、パロマー天文台の撮影した天体までの距離として「10億光年」という数字が導かれます。 それは作品の「二十億光年」ではありませんが、当時の考え方では銀河系を中心として半径10億光年先に天体があるという認識から、直径では少なくとも20億光年の空間があると考えることもできます。 このような理解が、20億光年を孤独のフィールドとさせたのではないでしょうか…。 ところで、『星日記 私の昭和天文史』では、続く「1952年(昭和27年)」の末尾には、次のような記事も掲げられていました。
1949年の時点では、半径10億光年(直径に見積もれば少なくとも20億光年)です。 この天文学的状況に基づき、1950年5月1日に「二十億光年の孤独」が書かれたと考えてみました。 それから創作から2年後の1952年時点においては、最遠の天体までが20億光年となり、直径では40億光年の規模にまで拡大してしまいました。 1950年代でさえこの状況ですから、宮沢賢治の時代においては、銀河系こそが宇宙のすべてといった理解がまだまだ大勢を占めていたとしても仕方ありません。 そして、今日は中村哲さんの命日。 ●12月5日(火) 曇り。 最近読了した本など。 谷口義明さんの新刊『岩波科学ライブラリー 暗い夜空のパラドックスから宇宙を見る』(岩波書店)。 谷口義明さんの天文啓蒙書のアプローチは実に多様です。 有名なオルバースのパラドックスについての本ですが、(専門的すぎる論はさておき、)宇宙論を考える場合に心得ておくべきことのいくつかがコンパクトな冊子にまとめられています。 また、天文教育普及研究会からは、『第37回天文教育普及研究会集録』(天文教育普及研究会)、『天文教育』023年11月号(天文教育普及研究会)も到着していました。 会報の方は、陶山徹也ほか「諏訪の市民科学と天文」など興味深い記事がありました。 ●12月6日(水) 小雨のち晴れ。 今月発売の天文2誌から。 前倒しで来年1月号となります。 『星ナビ』1月号は、特集が「星のゆく年くる年」です。 2023年中の天文トピック、2024年の天文現象を紹介しています。 来年は4月の北アメリカ皆既日食と、10月の紫金山・アトラス彗星の接近でしょうか。 付録に「星空ハンドブック2024」がついています。 『天文ガイド』1月号の特集は「2024年の天文現象」です。 天体画像処理の記事では、Gradient X Terminatorの活用方法(天の川銀河の処理)がありました。 付録に「2024 Astro Calender」がついています。 元ウイングスのデニー・レイン死去のニュース。 ウイングスUSAライブの GO NOW(ムーディー・ブルース時代の曲)、そしてポール・マッカートニーとの共作では「夢の旅人」など、ウイングスに非常に貢献したオリジナル・メンバーです。 ソロアルバムも好きで何枚か買って聴いていました。 とても残念です。 以下は、自宅にあったアルバムのリストです。 (古いものばかりですが)
デニー・レインの居たウイングスを見ることができず残念でした。 ●12月7日(木) 晴れ。 ハレー彗星は、1986年に接近以降、ひたすら遠ざかっていましたが、あさって12月9日以降、海王星の彼方でUターンして、太陽に近づいてきます。 太陽から軌道が最も離れた場所を遠日点といいますが、その場所を通過するのです。 距離にしておよそ35.1天文単位(AU)です。 2061年7月下旬に最接近した時の観測条件は良く、多くの方々が彗星を楽しむことになるでしょう。 宮沢賢治の時代の接近は1910(明治43)年、私たちの時代の接近は、1986(昭和61)年、次回の接近は2061(令和43)年となります。 38年後は、未来すぎて実感はありません。 次の写真は、1986年5月4日23時30分に、福島県の磐梯吾妻スカイライン兎平駐車場にて撮影した「ハレー彗星とからす座」です。 近日点を過ぎ、遠ざかりつつある彗星です。 ●12月8日(金) 晴れ。 ジョン・レノンの命日。 1980(昭和55)年から43年。 ジョン・レノンの生きた時間の2倍以上を経た今、突然ビートルズの新曲がリリース。 チャートの上位にランクされ、赤盤・青盤まで再リリース。 あの日を実体験として知る者にとって、きっと誰もが予測できない出来事と思います。 天文の新刊から。 津川廣行『低い月、高い月 月の文学、物理の月』(藤原書店)です。 著者は、物理系の学部を出て、文学系(フランス文学)で博士学位を取得された意外な経歴の方です。 主に文学作品に出てくる月の南中高度などについて考察したものですが、自己発見的にそれらを解決するプロセスがにユニークです。 (天文学者的でない視点!)で、俳人、歌人の作品を読み解きます。 天文関係では渡部潤一さんの著書からの引用があります。 ●12月9日(土) 晴れ。 紅葉がまだ残る場所を散歩。 夜は自宅の作業。 ●12月10日(日) 晴れ。 夕方から都内のホテルで「ハレー彗星遠日点通過記念 藤井旭さんに感謝し阿部昭さんを励ます星の集い」が開催されました。 少し早めに会場に到着して受付。 名札を受け取り、チロのクリアーファイルに入った、ハレー彗星の写真(藤井旭さん撮影)、チロステッカーなど)を受け取って、会場内へ。 先日にここに書いたとおり、12月9日のハレー彗星の遠日点通過記念と、昨年末に亡くなられた藤井旭さんの生前の活動に感謝、また出版活動(雑誌「星の手帖」など)を通じて国内の天文普及に尽力された阿部昭さんを励まず集いとして開催されました。 参加者は約200名ほど。 最初は渡部潤一さんのご挨拶から。 藤井旭さんと親しかった方々のお話や、阿部編集長の挨拶まで約2時間。 天文関係各界の皆さんが久しぶりに集う貴重な場でした。 ざっと40名ぐらいの懐かしい方々とお話。 10年〜20年以上もお会いすることができなかった方々ばかりで、一度お話を始めればついつい多方面のことに…。 白河天体観測所のメンバーだった岡田さん、品川さんたちとの再会は本当にしばらくぶりでした。 岡田さんには、本来であれば藤井旭さんに届けたかった宮沢賢治の原稿をやっとお渡しすることができました。 また、顔をお見掛けしただけで、一度もお話できなかった方も多数。 時間が短すぎました。 帰りには受付で、『藤井旭の天文年鑑2024』(誠文堂新光社)、藤井旭『星の旅』(河出文庫)、日めくりカレンダー、ハレー彗星のお茶をいただきました。 あっという間の楽しい時間でした。 余談ながら、来年の彗星会議2024は、東京で開催予定との話題もありました。 今日、12月10日は、宮沢賢治の詩「冬と銀河ステーシヨン」(1923.12.10)から100年です。 作品を引用しておきます。 『春と修羅』の最後を飾る作品です。 初版本目次においては、「冬と銀河鉄道」というタイトルとなっていました。
参加した天文イベントで配られたアンケートでは、100年前のこの作品のことが引用されていました。 ●12月11日(月) 曇り。 野尻抱影の『星三百六十五夜 冬』(中公文庫)今日のテーマは「冬空の梁(うつばり)」です。 以下に、冒頭のみを引用します。
星好きであれば、抱影の示した「星を結ぶ直線」がすぐに思い浮かべられると思います。 この図では、だいたい赤い棒で示した並びに相当します。 実際には、若干の曲線部分も含まれるのですが、そこはおおまかに解釈します。 抱影はこれを天空の大屋根の「梁」とみていました。 梁とは「建物の水平短径方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材のことであり、主に曲げ応力を担う」(Wikipedia「梁」の項より)ものとされています。 歌人の加藤楸邨の「アンドロメダへ冬梁の軋むかな」という句を知ってからは、「いっそうこの感じが強められた」とし、楸邨氏から聞いた戦時中の緊迫した状況にも思いを馳せています。 この時期の星々の並びでは、個人的に言えば、むしろ「プレアデスの両手(両腕)」と呼ばれる連なりの方が印象的です。 まあ、人それぞれということで。 ●12月12日(火) 雨のち曇り。 昨日に引き続いて抱影の『星三百六十五夜 冬』(中公文庫)より「参商相見ず」です。 以下に、冒頭のみを引用します。
抱影の説明にもあるとおり「旧知の相見る機会の稀なこと」を意味しますが、その例えとされたものが、中国の星宿(星座)から「参」「商」の位置関係に由来するものでした。 (商については、星宿名としては心宿とする方が一般的です) 説明は不要かも知れませんが、「参」はオリオン座の三つ星、「商」はさそり座αのアンタレスとその両脇の星です。 それぞれ、オリオン座とさそり座の位置関係ですから、中国や日本では、同一の夜空の見ることはできません。 その特徴が使われたものです。 ところで、(以前にもちょっと触れたことがありますが)宮沢賢治も、詩「東岩手火山」の中で、同様の趣旨で星空解説を行っています。
おおいぬ座のシリウス(恒星)と、夏の蝎(星座)が、天球面では反対側に位置していることを意味しています。 杜甫は星宿の「参」「商」、賢治は「シリウス」「蝎」の関係を用いて説明しています。 微妙に異なる点に興味深さがあります。 夜遅くなって帰宅。 ●12月13日(水) 晴れ。 少し前ですが、宮沢賢治学会イーハトーブセンター事務局より、2023年の『宮沢賢治研究Annual Vol.33』が到着していました。 編集委員、事務局の皆様ありがとうございます。 掲載の[論文]、加藤理「宮沢賢治、石川善助、鈴木碧のつながりの実相 −新発見封書と未発表葉書を中心に−」が良かった。 「賢治の図書館」≫ 『宮沢賢治研究Annual Vol.33』/(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)を追加しました。 さらに賢治の新刊から。
「賢治の図書館」≫ 『宮沢賢治の仏教思想 信仰・理想・家族』/牧野静/(法藏館)を追加しました。 ●12月14日(木) 晴れ。 暑い一日。 自宅の作業に追われる。 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はOh Woman,Oh Why(Single)〜Once Upon a Long Ago(Single)まで。 Oh Woman,Oh Whyは、名曲Another Day(シングル)のB面、つまりソロとして初のシングルとして発売された曲のカップリングナンバーです。 その評価は分かれるところと思いますが、ポールは「僕が好きなブルースのサブジャンル・・・」として、趣味志向上の可能性を追求したものとして説明しています。 ブルース好きが良くわかります。 Old Siam Sirは、リフから発展した曲のよう。 「この曲はある意味、仮歌の歌詞のまま世に出されたと言ってもいいかもしれない。」と刺激的な言葉も。 そしてさらに気になるコメントも。 「僕が詩先で書いた曲は「All My Loving」だけなんだ」 …そうでしたか。 On My Way To Workは、2013年リリースのNEWに収録。 母親が亡くなって、リバプールの波止場でトラック運転の仕事に就いた。 10代の頃はどんな仕事び就けばいいのか?という悩みがあった。 曲のタイトルが「仕事に向かう途中」というのも、運転手の頃のディテール。 Once Upon a Long Agoにおいて「意味を持たなくてもかまわない」という考え方は、自身を開放する力になった。 出てくる多くのイメージは、僕が子供の頃に住んでいた団地の近くの野原で見たもの。 歌詞に「客席に誰もいないステージでギターを弾く」というのは、いつも自分たちに問題があるものとして考えている。 …結局、この本でも、ステージ場でも、相手に興味を持ってもらうためには何が必要なのかを常に考えているということ。 ●12月15日(金) 曇り。 昨晩から、自宅のトラブル対応の一日となりました。 ●12月16日(土) 晴れ午後時々にわか雨あり。 12月とは思えない暑さ。 村松健の新譜「LOST ANGEL −迷子の天使−」が届いていました。 1996年リリースの『雪催』以来のウインターアルバムです。 全12曲。 古い曲のアレンジ違いも収録されています。 以下、収録曲です。 ( )内はオリジナル収録のアルバム名とリリース年
古い曲は、演奏が違っても、それぞれ懐かしい響きを保ちます。 ●12月17日(日) 晴れ。 年末に向けた作業など各種。 今年は例年以上に過密、かつ不確定な事情多め。 日没後、旧暦11月6日の月(月齢4.4)が夜空に懸かっていました。 なんとなく望遠レンズをつけて手持ちで数枚撮影。 空気が冷たくなる季節には、夜空(背景)と月のコントラストが高まります。 ●12月18日(月) 晴れ。 年賀状の準備や、賢治の資料、天文古書の整理など。 もちろん、自宅の所用も盛りだくさん。 ちょっと確認したいことがあって入沢康夫さんの『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』(筑摩書房)を取り出してみたら、吸い込まれるように再読。 入沢さんに教えていただいたいくつかの断片が未着手で、春と、銀河、夜、河川…。 いくつかは、もう時間との戦いのような気分。 ●12月19日(火) 晴れ。 アメリカのカントリー歌手、ドリー・パートンのロック名曲カバーアルバム Rockstarを聴く。 このカバーが特殊なのは、その多くの曲において、原曲のアーティストがレコーディングに関わっているところです。 例えば、ビートルズのカバー曲 Let It Beでは、ポール・マッカートニーのピアノと、リンゴ・スターがドラムスで参加しています。 他にに以下のナンバーも良かった。 (アルバム全体として1980年代的) 普段あまり聴かないカバーアルバムもいいですね。
●12月20日(水) 晴れ。 新月を過ぎて早くも上弦となりました。 コードが簡単だったので、ビートルズのNow and Thenの譜面など少し作成してみる。 時々見ていますが、NASAのサイト「Astronomy Picture of the Day」の「Ice Halos over Bavaria」(Image Credit & Copyright: Bastian Werner)はなかなかのものでした。 冬の夜の大気光学現象を捉えたものです。 (「Astronomy Picture of the Day:Ice Halos over Bavaria」はこちら(NASA) リンク先の写真の上にカーソルを移動させると、個々のハロの名称が表示されます。 100年前の今日、1923年12月20日は、宮沢賢治『注文の多い料理店』の「序」の作品日付となります。
翌1924年4月刊行の『春と修羅』がまだ完成もしていない時期、その年末に出版される2冊目の著作『注文の多い料理店』の方の「序」のイメージが早々に完成していたということになります。 刊行に向けた作業では先となる『春と修羅』の「序」の日付は、ちょうど1か月後の1924年1月20日となります。 (童話集『注文の多い料理店』の刊行に係る経緯については、すでに知られているところですが)賢治の中では、実現とは別に、企画の方は同時並行的に具体的に進められていたと考えることもできます。 これは、改めて考えると、なかなか「すごいこと」だと思うのです。 いかに、1924年という年が特別な、(大げさな言い方をすれば)賢治の創作活動において神がかった年であったのか、改めて検証してみることが必要と思われてなりません。 ●12月21日(木) 晴れ。 自宅の緊急対応で全日所用。 慌ただしく一日が終わる。 ●12月22日(金) 晴れ。 田原田鶴子さんから来年のカレンダーをいただきました。 2024年は「大正盛岡与の字橋夜景」です。 盛岡を流れる中津川にかかる「与の字橋」と付近の建物が描かれています。 大正時代ということで、今日とは付近の佇まいが異なりますが、現代でも紺屋町番屋が保存され、当時と現代を繋ぐ景観のタイムマシンのような役割を果たしています。 カレンダーの絵画は、この写真よりももうひと回り広い範囲が描かれています。 岩山の右手には丸い月も懸っていて、ムーン・ライトなモリオカで気に入りました。 ありがとうございました。 遅くまで年末年始期の準備など。 ●12月23日(土) 晴れ。 来年の天文関係年鑑類が出揃いました。 来年はいくつもの惑星食や、(期待される)彗星の接近など、例年よりも「いろいろ」あります。 観測・観察できることを期待したいと思います。
それぞれ彗星がデザインされた表紙です。 『ASTROGUIDE』が紫金山・アトラス彗星(イメージ画)、『天文年鑑』が西村彗星(写真)、『藤井旭の』がハレー彗星(写真)です。 そろそろ、人々の記憶に残る大彗星の出現が期待されているということの現れでしょうか。 ●12月24日(日) 晴れ。 このところ、毎晩木星が目立ちます。 おととい、22日には、上弦を過ぎた月が近くで輝いていました。 すでに月は東へ東へと移動してしまい、木星は「くじら」「おひつじ」「うお」と、秋の星座の星寂しい一帯の中で孤独に輝いています。 1925(大正14)年刊の野尻抱影『星座巡禮』(研究社)の中で、木星は次のように解説されていました。
9月5日に「留」となった木星は、順行から逆行に転じ、元旦に再び「留」となります。 ちょうど今は逆行中、太陽系内の惑星の動きで言えば、内側をまわる地球が木星を追い越すイメージです。 ●12月25日(月) 晴れ。 クリスマスということで、抱影の『星三百六十五夜 冬』のテーマは「ベツレヘムの星」でした。
キリスト教の聖書では有名な「ベツレヘムの星」のお話ですが、以下にWikipediaからの解説を掲げておきます。
抱影は、1572年11月に出現し、白昼でも見えたという「ティコの星(チコ新星)」を、ケプラーがベツレヘムの星と推論したことに言及しています。 ●12月26日(火) 晴れ。 1918(大正7)年の今日12月26日は、宮沢賢治が母イチとともに上京した日と推定されています。 妹トシが、東京の日本女子大に在学中に入院したという知らせを受けての訪問でした。 明日、27日が今年最後の満月です。 ●12月27日(水) 晴れ。 天沢退二郎さんの絵本論があったので、再読。 『月刊絵本』1977年7月号の特集「宮沢賢治の世界を描く」にあるものです。 賢治作品の初期的な絵本の挿画を引用しながら解説されています。 先日東京で見てきた棟方志功による「グスコーブドリの伝記」の挿画も引用がありました。
全体をとおして辛口の論となっていて、ワクワク(?)しながら読みました。 特集記事の全体構成は以下のとおり。
●12月28日(木) 晴れ。 今から、101年前の今日1922年12月28日、来日中の科学者アインシュタインは、日本各地をまわり、最後の訪問地、九州の門司に滞在しています。 翌12月29日の船で帰路につきます。 (以下アルバート・アインシュタイン『アインシュタインの旅行日記』(草思社)より両日の日記を引用)
アインシュタインは広島を経て12月24日九州・福岡に入って以来、相当疲れが出ていたようで、25日の日記には「私は死んでいた。遺体は門司に戻され、子供たちのクリスマス会場に運ばれ、子供たちのためにヴァイオリンを奏かなければならなかった…」とあります。 その後、29日の日記には、「(仙台、詩人)」とある土井晩翠からの詩と手紙に喜ぶ様子も書かれていました。 11月17日の神戸上陸以降、長く続いた日本の旅、九州を発ち、次の寄港地上海へと向かう旅の途中(12月30日付)、土井晩翠への礼状が書かれています。 翻訳された晩翠の詩への感激と、アインシュタインの思う文明の考え方が長々と述べられていました。 ●12月29日(金) 晴れ。 午前0時を過ぎて、12月29日となりました。 今日を入れて、あと3日で今年もおしまいです。 さて、ことしも「賢治の年賀状」のこと、恒例の「再掲」です。 賢治の年賀状の挨拶は「明けまして…、謹賀…、賀正」などいろいろとありますが、どうだったのでしょうか。 その辺りをまとめたものです。 資料をアップデートしたい箇所もあるのですが・・・、以下緑いろの通信(2007年1月1日号)より。
次の写真は、今年2023年1月1日早朝、ご来光を写した1枚です。 山の端からのご来光です。 例年のように濃紺の青空と鮮やかな雲の光を眺めることができました。 今年の雪山はどのような景色をせてくれるでしょうか。 皆さまも良き新年をお迎えください。 「この1年お世話になりました」 ●12月30日(土) 晴れ。 都内は空気が乾燥して冷え込んでいます。 新宿駅発の特急で上諏訪駅へ。 晴れて、だんだん明るくなってきました。 明日の天気は下り坂の予報。 上諏訪駅に到着後、地元の方のお迎えで、駅併設のカフェで休憩。 こちらはちょっと暑いくらい。 お決まりの諏訪湖畔の温泉宿の予約が取れず、今年は駅前のビジネスホテル。 どうせ夜寝るだけなので、経済的な宿も良し。 お決まりの蕎麦屋(小坂)へ。 開店30分前に並んで、第1回目の入店に加わることができました。 今年の天ぷらもお蕎麦も良し。 食後は、上諏訪にある曾良(河合曾良:松尾芭蕉と「奥の細道」を歩いた人物)の生誕の地や、墓所を訪ねてみました。 曾良生誕の地は、旧甲州街道沿いの麗人酒造駐車場付近、墓所も近くの正願寺というお寺となります。 正願寺には、新田次郎(藤原寛人)のお墓もあるそうですが、見つけられませんでした。 地元では有名なリビルディング・センター(古道具・古材)のカフェでお茶の時間。 (「リビルディング・センター」はこちら) 古い町並みのウインドウに、懐かしいものを発見。 上諏訪の変光星観測者として知られる五味一明さんの床屋跡地も撮影しておきます。 五味新星の発見者として有名ですが、野尻抱影さんのエッセイにも登場・・・。 夕食後、宿に戻り明日からの登山の準備。 山の気温は高めで、冬季閉鎖中の道路を歩いて行く方向で検討中。 但し、積雪状況によっては、車での移動も? ●12月31日(日) 晴れ。 大晦日。 今年の最終日。 山での年越し6年目となります。 今年は時間を繰り上げて6時に駅前のホテルを出発。 地元の方の自動車で、登山口まで移動することができました。 (例年、お世話になってばかりです) 山小屋のスタッフと高見石山小屋を目指します。 この麦草峠の標高は2,120mで、日本の国道で2番目に高い場所です。 少し吹雪いています。 白駒池駐車場側の登山口から森林地帯に入り、約1時間ほどで山小屋に到着。 アイゼンを外し、ストックや登山靴に着いた雪を落として、薪ストーブで暖まった小屋内に入ります。 昨年に引き続き、コロナの影響で宿泊人数の制限をしているので、ゆったり。 雪は小降りの状態が続いています。 山小屋で年越しをする例年のなじみのメンバーや、新たに参加する新メンバーなど、今年は20代〜30代の若手の方々が多いと思いました。 夕方には年越しの会の料理(前菜)や、お酒の準備が進みます。 小屋前で、今年最後の夕陽を眺めました。 樹々に間から太陽の光が差し込みます。 夕食後の時間。 外は雪が降り始めました。 木村さんが液晶プロジェクタを投影しながら星のお話。 今年も木村さんから依頼をいただき、「来年の天文現象」などのお話をしました。 年越しということで、普段より消灯時刻を繰り下げています。 深夜、就寝の時刻となりました。 ではまた来年! |
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