緑いろの通信 2024年1月
   

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緑いろの通信
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- 緑いろの通信 2024年1月 目次 -


緑いろの通信

 「緑いろの通信」へようこそ! 2024年1月号をアップしました。 今月の写真は、大晦日に撮影した山小屋の窓からの風景です。 真っ暗な小屋から、絵画のような雪景色です。 また、新しい1年を迎えることになってしまいました。 本年もまたよろしくお願いします。




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緑いろの通信

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1月1日(月)
 元旦。晴れ。

 新年あけましておめでとうござます。 夜半過ぎから雪雲も消えて、青空が見えてきました。


(今月の写真[拡大] 2023年12月31日撮影)

 薄明が始まる頃には、雲もかなり消えていました。 春先の星座も相当高くなっています。 今年も初日の出を見るために、雪の高見石を途中まで登ってみました。


(日の出前の空 2024年1月1日撮影)

 元旦の日の出は、高見石から見て南側にある中山(2,496m)の東側の肩、にゅう(2,352m)の岩山の横からとなります。


(初日の出 2024年1月1日撮影)

 初日の出直後の様子を拡大してみました。 太陽のまわりに光環が見えています。


(太陽と光環 2024年1月1日撮影)

 西空の高い位置には、まだ月も残っていました。

 昨晩積もった雪がさらさらで、岩をおりるのが大変でしたが、なんとか下り、小屋前までたどり着きました。 (昨年より、またさらに暖かな朝となりました。) 今日は元旦なので特別メニューで朝食は、おせちとお雑煮。


(おせちメニュー 2024年1月1日撮影)

 昼間は小屋でゆっくり。 晴れていて気持ちが良い時間です。 今年は本当に穏やか。

 夕方再び岩を登ってみました。


(日没の頃 2024年1月1日撮影)

 西に傾いた太陽の光が、雪のついた針葉樹をオレンジ色に照らしてとてもきれいです。


(中央アルプスに沈む太陽 2024年1月1日撮影)

 初日の入りは、中央アルプスの木曽駒ケ岳の方向です。 遥か彼方の山々に太陽が落ちてゆきます。 日が落ちると、下山が困難になるので、大急ぎで岩の下までゆっくりと移動。

 暗くなって、山小屋は夕食の時間です。 食後の時間、昨日同様に「来年の天文現象」などのお話をしました。 今晩も、惑星食や接近する彗星、そしてハレー彗星のお話など楽しんできただきました。 宿泊された方々の反応も良く、今年も新年のお役目を無事果たすことができました。 皆さまありがとうございます。

 皆さんの就寝後、外に出て少し撮影。


(高見石小屋から冬の星座 2024年1月1日撮影)


(冬の大三角部分を拡大 2024年1月1日撮影)

1月2日(火)
 雪のち晴れ。

 夜半過ぎから薄雲に覆われ、朝には降雪が始まってしまいました。 気温は-4.5度。 この時期にしては10度ぐらい高めです。

 今日は山小屋の皆さんとお別れをして、昨日太陽の沈んだ方角にある中央アルプスへと移動です。 賽の河原ルートで渋の湯温泉を目指します。 途中、シャクナゲに積もった雪には、霜柱のような結晶ができていました。 雪の上に雨が降って、再結晶化されたようです。


(シャクナゲに積もった雪 2024年1月2日撮影)

 登山口近くには、カモシカも居ました。


(渋の湯登山口のカモシカ 2024年1月2日撮影)

 バスで下山して、列車を乗り継ぎ、飯田線の駒ヶ根駅まで。 ここから中央アルプス千畳敷(木曽駒ケ岳への登山口)へと向かいます。 ここまで来てしまえば、あと僅か。

 バスとロープウェイを利用して、日本一高所にある千畳敷駅(標高2,612メートル)に到着。 ここは高見石よりも高いので、一段と気温が低くなります。 とはいえ、-10度程度でしたので、この地点にしては「暖かい」状況です。


(宝剣岳 2024年1月2日撮影)

 千畳敷駅を出て、北側の緩い平地(千畳敷カール)側に出ると、目の前に宝剣岳(標高2,931メートル)がそびえています。 北アルプスの白馬岳とほぼ同じ標高で、標高では国内第29位の山です。 宝剣岳の裏側は、かなりの強風のようで、稜線上には雪煙が舞っていました。


(雪煙をあげる山々 2024年1月2日撮影)

 宿泊はホテル千畳敷(かつての三角屋根の山小屋千畳敷山荘)です。 コーヒーを飲みながら休憩して、日没近くには、南アルプス上に「ビーナスベルト〜地球影」を見ることができます。


(日没どきの南アルプスの山々 2024年1月2日撮影)


(南アルプスと富士山 2024年1月2日撮影)

 刻々と変化する山の色合いがきれいです。 夕食を済ませ、月の出までは、星空観察の時間です。


(宝剣岳に沈みゆくはくちょう座 2024年1月2日撮影)


(駒ヶ根の街と冬のダイヤモンド 2024年1月2日撮影)

 ロープウエイでお仕事をされている方が天体写真を撮影(主に動画がメイン)されていたので、いろいろとお話を聞きながら、退屈せずに撮影を進めることができました。

 12時近くまで撮影して。 就寝。

1月3日(水)
 晴れ。

 新年も3日目。 日の出前の空は、雲に覆われていました。 それでも、南アルプスの上には少しだけ晴れ間もあって、日の出が眺められそうでした。


(日の出前の南アルプス 2024年1月3日撮影)

 画面中央の富士山付近からは、雲に紛れつつも太陽が強い光を放っていました。


(富士山付近からの日の出 2024年1月3日撮影)

 早朝の撮影を終えて下山。 年始の旅のスケジュールは終了しました。

1月4日(木)
 晴れ。

 自宅で作業。

 抱影の『星三百六十五夜 冬』(中公文庫)の今日1月4日のテーマは「大オリオン」。 抱影のオリオン賛歌です。

 都心を離れ、自宅近くの道で、夜空に見つけたオリオンの印象から。

   大オリオン

 七草までは早じまいで、電車を下りて家までの道は、ところどころの小店だけが蛍光灯でぼうと明るく、早足の下駄の音が気がひけるほど歩道に響く。 しかし間もなく家が尽き、住宅地の並木道にかかると、東から東南へかけて開けている空から、オリオンがぱっと眼に映る。 まるで待ちぶせしていたようだ。 小っぽけな、独りぼっちの人間には、この星座はあまりに大きく、あまりにきらびやかで、圧倒されるような気持ちにさせられる。 (以下略)

 宵空の東の空、まだ低くかかっていたオリオンが、ふと気が付くと南中近くになり、冬の星座全体を見渡せる季節が来てしまったことを気づかされます。

1月5日(金)
 晴れ。

 自宅の用事を片付けて、週末の準備など。

 新年になって福島天文協会の事務局から、昨年秋に開催された「福島県天文同行者の集い報告」が届きました。


(星空の写真展案内はがき 2024年1月5日撮影)

 2月開催の写真展の案内など。

   星空の写真展2024

 日時:令和6年2月7日(水)〜13日(火)9時〜17時
    ※7日は12時から、13日は15時まで
 場所:コラッセふくしま1Fアトリウム
    福島市三河南町1ー2
 主催:福島天文同好会
 協力:浄土平天文台

 夜は都内へ。

1月6日(土)
 晴れのち雪。

 連休を利用して所用で北海道へ。 中途半端の時期ですが、(年末年始期と雪まつりシーズンを外したので)航空運賃が安いのです。 早朝の飛行機で羽田空港を発ち、新千歳空港へ。


(空港の売店にて 2024年1月6日撮影)

 北海道の「かわいい系」グッズといえば、キタキツネなどが人気でしたが、最近ではシマエナガが独占状態です。 空港の売店にはシマエナガのぬいぐるみがいっぱい。

 南千歳駅から千歳線に乗り、苫小牧駅へ。 いろいろ懐かしい苫小牧。 今日は5年前(1999年)に亡くなられた斉藤征義さんの命日でもあります。 (斉藤さんは、こんな寒い日に銀河鉄道に乗ったのです)

 用事を済ませて、室蘭本線で北海道を西へ移動しながら南下します。 寂しそうな海辺を眺めながら、列車は西へ。


(車窓から海を眺めて 2024年1月6日撮影)

 静かに揺れる列車に乗れば、賢治の「青森挽歌」や「ノクターン(噴火湾)」も、言葉では説明できないリアリティに包まれます。

 室蘭本線の長万部駅で下車。 ここで函館本線(通称山線)に乗り換え。 山線は、北海道新幹線が札幌駅まで開通されると、廃線が予定されています。

 特急を下車して、反対側のホームの列車まで大急ぎで乗り換えます。 乗換時間は僅かに4分。 宮沢賢治の時代には、函館駅から札幌駅に向かうためには、必ず通過した路線です。

 スキーシーズンになると、海外でも知られるゲレンデを有するニセコ駅や、倶知安駅付近など、外国人観光客に人気の場所に通じる路線なので、たった1両の車両にすごい人数が乗り合わせていました。

 倶知安駅で、小樽行の各駅停車に乗り換えです。


(倶知安駅にて 2024年1月6日撮影)

 倶知安駅では、やっと座ることができました。 ここからは、少しは落ち着いて雪景色を楽しむことができるでしょうか。

 一面の雪の中を、気動車のエンジン音が響く車両がどんどん進みます。 余市駅を過ぎ、暗くなった頃に小樽駅に到着しました。 ここまで来れば、もういつもの北海道です。


(小樽駅 2024年1月6日撮影)

 小樽駅近くのスープカレーのお店で夕食。 以前来て、印象が良かったので再訪。 (「ダルオ」はこちら


(スープカレー 2024年1月6日撮影)

 夕食を済ませて、駅前通りに出ると大雪になっていました。 (実はこの夜、小樽は60〜80センチ級の大雪の見舞われることになり、翌日は鉄道も大幅運休されることに!)

 駅舎内にあるカフェで時間を調整して、小樽駅始発のエアポートライナーで札幌駅まで。 駅近くのホテルにチェックインし、今日のスケジュールはすべて終了。

1月7日(日)
 雪時々曇り。

 2日目は朝から吹雪となりました。 午前中は札幌市立図書館

 続いて、中島公園内にある北海道立文学館へ。 ここでは、特別展「佐川ちか 黒衣の明星」が開催されていました。 (「北海道立文学館」はこちら


(北海道立文学館 2024年1月6日撮影)

 佐川ちか(1911〜1936)は、宮沢賢治(1896〜1933)とほぼ同時代を生きた詩人です。 (Wikipediaの「佐川ちか」の項目では次のとおり紹介があります)

左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日 - 1936年〈昭和11年〉1月7日)は、昭和時代初期の日本の詩人。
本名は川崎愛。 名の「愛」は「ちか」と読むが、「あい」とも呼ばれていた。

生涯
北海道余市郡余市町大字黒川村に生まれる。 4歳までは歩行も困難なほど虚弱であった。 父親はいなかったが、異父兄の昇が終生の支えとなる。 1923年3月に余市町立大川尋常小学校を卒業。 親族の反対を押し切るかたちで庁立小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)に入学し、4年後に同校補習科師範部に進学し、小学校の教員免許を取得する。 1928年8月から、先に上京していた兄・昇の自宅に同居を始め、兄の友人として小樽時代から知っていた伊藤整や百田宗治などの作家、詩人たちとの交流が広がる。 1931年から雑誌に発表される詩や訳詩が注目を集め新進気鋭の詩人として期待されるが、1935年4月から腹痛を訴えるようになり、10月に入院し胃ガンの末期症状と診断される。 12月に自ら希望して退院し、翌年に世田谷の自宅で死去。 享年24。

 文学館の展示では、その生涯に沿って、自筆稿や絵画、掲載誌などが展示されていました。 展示品リストの年表(24年の軌跡)を見ると、宮沢賢治が花巻農学校教師として北海道を訪れた頃(1924年5月)には、小樽高等女学校(現小樽桜陽高等学校)に在学していたことになります。


(詩集など 2024年1月6日撮影)

 北海道滞在中に、川崎賢子編『佐川ちか詩集』(岩波文庫)、『対訳 佐川ちか選詩集/Selected Translations of Sagawa Chika's Poems』(思潮社)を購入してきました。 文学評論では、川村湊・島田龍責任編集『左川ちか:モダニズム詩の明星』(河出書房新社)も最近出版、今年は特に注目されているようです。 個性的で、「新しさ」を感じる作風です。

 北海道文学館の時期特別展は、「100年の詩を超える−〈明治・大正期刊行本〉探訪」(会期:2024年2月3日(土)〜3月24日(日))で、賢治の『春と修羅』なども展示されるようです。

 見学後、雪の中島公園にて。 田上義也設計のこども人形劇場こぐま座の建物を見つけました。 ユニークな建築です。


(こども人形劇場こぐま座 2024年1月6日撮影)

 雪の上では、犬が喜び、飼い主を困らせていました。


(喜ぶ犬、困る飼い主 2024年1月6日撮影)

 地下鉄で大通公園駅下車。 買い物後に札幌駅まで地下道を移動。 札幌駅に隣接する商業施設パセオが営業終了して閉鎖されていました。 (調べたら昨年の9月までの営業でした) 北海道新幹線工事の影響ですね。 いいお店がいくつかあったので、残念です。

1月8日(月)
 成人の日。 曇り時々雪。

 札幌は朝から雪。 新札幌駅に出て、バスで北海道博物館へ。 野幌森林公園内にある道立の施設で、以前何度か訪れた北海道開拓の村(北海道版明治村)の近くです 以前はランドマークだった百年記念塔は撤去され消滅。 (「北海道博物館」はこちら


(野幌森林公園 2024年1月8日撮影)

 バス停を下りて、雪に足をとられながら、なんとか玄関へ。 入口近くにある、大きなマンモスやナウマンゾウの骨格標本には圧倒されます。


(北海道博物館 2024年1月8日撮影)

 展示としては、アイヌ民族に関する学問的な資料が充実していました。 (研究分野的には白老のウポポイよりも…) また、黒曜石による石器なども、大型で本州のものとは迫力が違いました。


(見学を終えて 2024年1月8日撮影)

 再び新札幌駅に戻ると、また雪が激しくなっていました。 小樽方面の交通は、まだ大雪でかなりひどいようです。

 駅ビルでランチ。 そしてカフェ休憩。

 札幌に戻り、書店をいくつかめぐり、大通公園近くのカフェで温まります。 しだいに雲が切れて明るくなってきました。


(パルコ前交差点 2024年1月8日撮影)

 大通公園の一角では、来月に開催される「さっぽろ雪まつり」の雪像制作の準備が進められていました。


(大通公園 2024年1月8日撮影)

 旧北海道庁赤レンガ庁舎は工事中で、外観のイラストが書かれた覆いに包まれていました。 (名古屋城の工事の時と同じですね)


(赤レンガ庁舎(工事中) 2024年1月8日撮影)

 あっという間に新千歳空港行きの列車の時間となり、夜の飛行機で羽田空港に到着となりました。 帰宅後、深夜まで自宅の所用、旅の荷物整理。

1月9日(火)
 晴れ。

 病院にて相談など。

 自宅に戻って、作業を終えて、寝る前に少し旅先で撮影した写真の整理など。 とにかく、時間がありません。


(小樽駅前 2024年1月6日撮影)

 次の写真は、上の写真をトリミングしたものです。 オリジナルはきれいですが、解像度を落とすとやはり劣化してしまいます。


(小樽駅前(トリミング1) 2024年1月6日撮影)


(小樽駅前(トリミング2) 2024年1月6日撮影)

1月10日(水)
 晴れ。

 週末に向けたお仕事。

 野尻抱影の『星三百六十五夜 冬』の今日のテーマは「冬の大曲線」でした。

   冬の大曲線

 晴れてはいても一日じゅう寒い風が吹き、部屋で眼鏡をかけ直すと、つるが耳に冷たかった。 戦後の今には珍しく大凧があがっているらしく、うす暗くなってもまだうなりが聞こえていた。

 私はすばるに羽子板(はごいた)星という名があるのに対し、オリオンを松の内だけでも、奴(やっこ)だこと呼んでみたいと思っている。 三つ星が斜めになっている間の姿は、大きな奴だこと見えないことはないからだ。 そして、羽子板にプレヤーデスの七乙女を描き、奴だこと天の猟夫オリオンを描いてみたら面白いだろうと空想したこともある。

 いかにも抱影らしい発想です。 今日の タイトル「冬の大曲線」は、「春の大曲線」の誤りでは…、と思う方もありそうですが、偶然(その時期に)ふたご座に居合わせた木星を絡めた「ゆるいカーブ」がその正体でした。

1月11日(木)
 晴れ。

 入試シーズンです。 職場での緊張も高まります。 (受験生もこの時期はそうでしょう)

 寝る前の僅かな時間で、『地図と文学の素敵な関係』(北海道立文学館)を眺めてみました。


(『地図と文学の素敵な関係』2024年1月11日撮影)

 北海道立文学館で2022年6月18日〜8月14日で開催された特別展「地図と文学の素敵な関係」の図録です。 実際に訪問して見学する機会がなかったもので、偶然文学館の売店で見つけ購入したものです。 北海道関連の文学作品を中心に、それにまつわる地図(作品書籍)により構成されています。

 賢治にも関係するものがいくつかありますが、伊藤整「幽鬼の街」や、佐藤泰志「海炭市叙景」の地図が興味深いものでした。

 今日は、昨年同日に亡くなった作家鏑木蓮さん(イーハトーブ探偵シリーズ)、そして高橋幸宏さんの命日です。

1月12日(金)
 晴れ。

 仕事で夜は泊まり。

 遅くなりましたが、今月発売の天文2誌から。 新年になって2月号も発売。


(天文2誌 2024年1月11日撮影)

 『星ナビ』2月号は、特集が「地球の裏側チリ・リモート天文台」です。 他に、4月の北米縦断皆既日食の観測機材など。 中山満仁「みちのくのプラネ巡り 鉄道の旅 星の街道をゆく」では、旅の途中、宮沢賢治記念館に立ち寄り「宇宙」の展示について写真とともに紹介があります。 綴じ込み特別付録は「天体画像処理2」(前処理を説明したもの)。

 『天文ガイド』2月号の特集は「すばる望遠鏡25年の歩み」です。 他に「2061年7月に向けて折り返しハレー彗星が遠日点を通過」「北海道でとらえた低緯度オーロラ」がありました。

 今日は、宮沢賢治の有名写真が撮影された日から100年目。 (寒い時期だったので、賢治も厚着でした)

1月13日(土)
 晴れのち一時雪。

 休日出勤。 仕事で夜は泊まり。

1月14日(日)
 晴れ。

 休日出勤2日目。 ハードな一日でした。

1月15日(月)
 晴れ。 気温低め。

 今日15日は、昔の「成人の日」。 先週、北海道で購入してきた醍醐龍馬編著『小樽学 港町から地域を考える』(小樽商科大学出版会)を読む。


(『小樽学』 2024年1月15日撮影)

 小樽はもちろんこだわりのある街ですが、それらを地域としてみた場合、歴史的なかかわりも含め、個々の文章が面白そうなので購入しました。 目次は以下のとおり。 (章題及びコラムのみ)

   小樽学 港町から地域を考える 目次

第一部 小樽学事始め
序章 小樽学とは何か 醍醐龍馬
第1章 小樽商科大学と「実学・語学・品格」 宮田賢人
コラム1…知られざる高商石鹸 沼田ゆかり
コラム2…歴史家阿部謹也と小樽商科大学 堅田智子

第二部 小樽学概論−歴史・自然−
第2章 小樽の歴史 菅原慶郎
コラム3 …江戸末期から明治前期における小樽の浄土宗寺院建立 宮本花恵
コラム4 …明治・大正期小樽の精米業 工藤正智
第3章 小樽の生物 山本亜生
コラム5 …小樽に棲むエゾサンショウウオの不思議 片山昇
第4章 小樽の地質 松田義章

第三部 小樽ゆかりの人々−各人生の中での位置付け−
第5章 榎本武揚 醍醐龍馬
コラム6 …北垣国道 醍醐龍馬
第6章 石川啄木 亀井志乃
第7章 小林多喜二 亀井志乃
第8章 伊藤整 柴田尭史

第四部 テーマ史から見た小樽の個性−芸術・文化・自然−
第9章 小樽の近代建築 駒木定正
コラム7 …小樽の美術とその夜明け 山田菜月
第10章 小樽から見たオーロラと太陽地球環境 早川尚志
コラム8…小樽から見えた日蝕 早川尚志
コラム9…蜃気楼「高島おばけ」 大鐘卓哉

第五部 観光都市小樽の形成と地方創生−政治・経済−
第11章 港湾都市小樽の高度成長期 山田健
コラム10…観光地ライフサイクル理論で見る小樽 後藤英之
第12章 小樽と地域ブランディング 多田伶
コラム11…地方創生の切り札としての「酒造」 北村亘

第六部 港町小樽のグローバル性−外交−
第13章…日露戦争後の樺太境界画定委員会議 醍醐龍馬
コラム12…小樽と海軍 橋亮一
第14章…小樽とナホトカ 藤本健太朗
第15章…小樽とソウル特別市江西区 野間俊希

あとがき 醍醐龍馬

 石川啄木についての記載はありますが、宮沢賢治についてはありませんでした。 苫小牧の銘菓「よいとまけ」を製造販売する三星が小樽で創業したこと、小林多喜二との関係については知っていましたが、本書にはその小樽「三星小林支店」の食パン屋としての写真が掲載されていました。

 天文関係では、名古屋大学人文学研究科早川尚志氏による「小樽から見たオーロラと太陽地球環境」、そしてコラムG「小樽から見えた日蝕」が掲載されていました。 前者では、「国際地球観測年(1957〜1958)に見えたオーロラ」「天狗山のオーロラスケッチの謎」「有島武郎の伝えるオーロラ」「樺太のオーロラを記録する小樽」の詳説があり、後者では明治時代(1872)の金環と、戦時中の皆既(1943)が紹介されています。

 なお、コラムG「小樽から見えた日蝕」で次回の皆既日蝕について、2361年5月8日とありますが、次回は2171年10月29日、さらに2363年7月12日となります。

 2361年5月8日は、皆既帯がさらに南東側を通り、小樽は外れていまい、帯広、網走などが中心線にも近く好条件となる状況です。 以下の図はNASAの提供するGlobal Eclipse Mapで、詳細はわかりにくいものですが、皆既帯の全体像はよくわかるかと思います。 さらに下の図は、北海道付近の皆既帯を拡大したものです。 3本ある赤い線のうち、上下の線の間が皆既帯、中央の線はその中心線で、中心線に近いほど皆既時間が長くなります。


(Global Eclipse Map:Total Solar Eclipse of 2361 March 08(NASA))


(StellaNavigatorによる皆既帯拡大図)

 2361年といえば、次回ハレー彗星接近の300年後で、そのころには大きく歴史も変わっているかも知れません。

1月16日(火)
 晴れ。 風が強い。

 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はOnly Mama Knows(Memory Almost Full)〜Penny Lane(Single)まで。

 Only Mama Knowsは、どこか悲しげなイントロに続くロックンロールです。 ポールの思う歌詞のこと、そしてサウンド。 歌詞の書かれたノートには、ペン書きでコードも書かれています。 One Other Meは、アルバムPipes of Peaceの1曲。 ビートルズのように成功したグループでなければ、他の仕事を探さなければならなかかったかも…、という「もう一人の僕(One Other Me)」がテーマ。 実際には「恋人に心ない仕打ちをしてしまった男が、謝罪している歌」で、その後の反省を曲を書くことがセルフ・カウンセリングとなること。 そしてデビュー当時のバンド名のこと、バディ・ホリーがなぜお気に入りだったのか…、この辺りはビートルズとしてのこだわりも含めユニークだし、関心もあるところでしょう。 Paperback Writerは、ビートルズが1966年にシングル・リリースしたナンバー。 マリファナのこと、作家との交流で歌詞へのヴァリエーションが拡がったと言います。 その頃、エピフォン・カジノを購入して、リフが出来上がった。 コーラスはビーチ・ボーイズの影響を受けている…。 Penny Laneはリバプールの、「僕やジョンの人生にとって非常に重要な場所」を歌ったドキュメント・ドラマとして見るのが一番と書かれていました。 (確かに!) 歌詞の登場人物にもリアリティがあり、少し変わり者というアイデアを好んで書いたとのこと。 ペニーレインのプロモーション・ビデオで着用した赤いスーツの写真がありましたが、最近リリースのNow And Thenのシーンにそのプロモの場面が引用されていましたね。


(『リリックス』より 2024年1月16日撮影)

1月17日(水)
 晴れ。

 音楽の話題が続きます。 ずっと時間がなくて聴けていなかった松任谷由実の新譜(コラボ)「ユーミン乾杯!」を聴いてみました。


(「ユーミン乾杯!」より 2024年1月17日撮影)

 発表済の作品を若手アーティストとのコラボレーションによる追加録音で仕上げたもの。 古いレコーディングトラックを部分的にせよ使っているので、慣れた部分と新鮮な部分が同居した違和感と、微妙な心地よさ、どこか複雑な感じでした。 むしろ、「今だから」や「クリスマスだからじゃない2023」が単純に聴きやすいと思いました。 コラボものでは、1曲目の「影になって」が良かった。

1月18日(木)
 晴れ。 夜、上弦の月を見る。 朝から自宅の所用。

 賢治の時代の科学雑誌から、今夜は「子供の科學」です。 1931(昭和6)年12月号、表紙は中川巖「オーロラ」です。


(「子供の科學」昭和6年12月号)

 賢治の時代の科学誌「子供の科學」(1924(大正13)年10月号創刊)や「科學畫報」(1923(大正12)年4月号創刊)は、「子供向け」が意識されながらも、レベルの高い最新の科学情報を多数の写真や図版を用いて魅力的な誌面構成が行われていました。 「子供の科学」の方は、現在もなお刊行され続けています。 (子供の科学のWEBサイト「コカねっと!」」はこちら(誠文堂新光社))

 表紙は「オーロラ」の観測風景のようです。 戦前の子供向けの雑誌ながら、リアルなオーロラ、三脚に載せられたカメラ(乾板)、そして観測装置と思われる大型の機材が描かれています。 本誌中、最も注目したのは、記事そのものではなく、天体望遠鏡の広告(廣告)でした。 当時の科学誌では、出版社が科学製品の業者の仲立ちをする形で、販売にも関わっていました。 「子供の科学」誌では「子供の科學社代理部」という部局です。


(「プルトー天體望遠鏡」広告)

 望遠鏡の名称に注目です。 プルトー(Pluto)といえば、冥王星ですね。

 広告の最初に、望遠鏡名の由来が書かれています。

Pluto Astronomical Telescope
プルトー天體望遠鏡

新遊星プルトーの發見を記念し
その名に因みて生まれたる望遠鏡


貴下はレンズ一個を求むる價をもつて、この優秀瀟洒たる望遠鏡を所持することを得べし、プルトーに依つて諸君の眼界は宇宙の果に至り、諸君の思ひは百萬光年の星雲に漂泊せん。

 冥王星は、1930(昭和5)年2月、アメリカの天文学者クライド・トンボーにより発見されました。 この広告の掲載誌は、「1931(昭和6)年12月号」ですので、冥王星の発見から間もなく2年になろうとするものですが、この広告にあるように、カタカナ読みのまま「プルトー」(プルート、プルートー等)が普通に通用していたことが窺えるものです。 野尻抱影が「冥王星」「幽王星」を提案したのは「科學畫報」1930(昭和5)年10月号の「新惑星の邦名に就て」でしたが、冥王星の名はまだ浸透はしていなかったようです。

 このことについては、Wikipediaの「冥王星」の項に次の説明があります。

アジア語圏の命名事情
日本語名の「冥王星」は、日本人の野尻抱影がPlutoの訳語として提案した名称である。 彼はこの名称を「幽王星」というもうひとつの候補とともに雑誌科学画報の1930年10月号に紹介した。 この名称は京都天文台ではすぐに採用されたが、東京天文台(現・国立天文台)では英語のままの「プルートー」が用いられた(当時、東京天文台と京都天文台は異なる用語を用いていることがしばしばあった)。 東京天文台が「冥王星」を採用したのは太平洋戦争中に外来語(カタカナ語)を禁止した1943年のことであった。 (以下略)

 今日では当たり前となっている名称も、それなりに時間を要して浸透してきたことがわかります。 ところで、望遠鏡の性能の方ですが、「機体説明」には次の表示があります。

機体説明
鏡筒全長51センチ
直径5センチ
三脚長長サ50センチ
倍率40倍

 例えば、対物レンズ径が45ミリ、焦点距離が500ミリ(接眼部のドロチューブ長含めず)でF11の鏡筒。 これに焦点距離12.5ミリのアイピース(恐らくハイゲン)なら40倍といったところでしょうか。

 この性能では、せいぜい月と明るい惑星を楽しむぐらいで、星雲や星団の観察はかなり難しいでしょう。 広告文の「諸君の思ひは百萬光年の星雲に漂泊せん」というのは、「想像の世界で」という条件つきですね。


(「天體望遠鏡オン・パレード」)

 この広告では、4機種の望遠鏡が紹介されています。

アマチュアの最高級機、微動装置完備
屈折58ミリ高級天体望遠鏡

特價提供金七十五圓
133倍 64倍 40倍

高級色消対物付申分なき性能
ヴイナス天體望遠鏡

特價提供金二十二圓
倍率 60倍

學生及初歩天文フアンに適當のもの
新普及型天體望遠鏡

特價金九圓

三吋反射天體望遠鏡
金四十五圓(フアインダー四圓半)

三脚長長サ50センチ
倍率40倍

 これだけ見れば、それぞれの性能が理解できるところですが、この広告で注目したのは、画面右上の写真にある一人の人物です。 非常に小さいながら、その説明が書かれていました。

小望遠鏡で新彗星を発見し、一躍世界に名を馳せたカリフオルニア在住の長田氏

JAPANESE GARDENER FINDS NEW COMET
[記事写真]
(ポピユラーサイエンス十月號より)

 ここに紹介のある「長田氏」とは、長田政二氏で、早期のいくつかの独立発見を除けば、日本人の名称がついた最初の彗星を発見した人物です。 長谷川一郎氏の「彗星 −発見を主として」(日本アマチュア天文史編纂会編『改訂版日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣、1995.6))には、次の記事があります。 (以下、部分引用)

我が国での発見は、まだあまり振るわなかったが、1930年代になると、アメリカに移住していた2人の日本人が続いて彗星の発見に成功した。 最初の一人はカリフォルニア州の南部で農業に従事していた茨城県絹川村出身の長田政二(当時46歳)で、1931年7月15日(太平洋岸時)すぎに8cmの屈折鏡にて偶然7〜8等級の彗星を発見し、ナガタ彗星(1931b=1931III)と呼ばれることとなった。 これは日本人名で呼ばれた最初の彗星である。 その翌年、1932年8月9日には長田の農場で働いていた佐瀬俊介(ヘンリー・T・サセ)が長田の8cm屈折鏡によってぺルティア・ホイップル彗星(1932k=1932V)を独立発見した。 この彗星は一日前にすでに発見されていて、佐瀬の名はつかなかったが、太平洋天文学会からドノホー賞が贈られた。

 長田彗星(Comet Nagata、符号C/1931 O1)は、現在の彗星愛好家の中でもそれなりの知名度はありますが、「当時はどうだったのか」という視点で考えてみた場合、例えば日本天文学会の「天文月報」などへの掲載(1931年9月号「雑報 長田彗星」)のほか、一般にはどのように認知されていたのかを知る手がかりとして、とても興味深い形、すなわち科学誌広告への登場には、とてもユニークなものを感じました。

1月19日(金)
 晴れ。

 賢治の時代の科学雑誌から、昨日に引き続き「子供の科學」です。 1935(昭和10)年9月号、表紙は「宇宙」です。 戦前のものではありますが、正確には賢治没後の刊行です。


(「子供の科學」昭和10年9月号)

 この号は『宇宙・天文』號として、関係の記事が多数あります。

天文特輯記事(目次より)
一 宇宙と恒星系
 宇宙の探檢 鏑木雅岐
 星雲と星團と宇宙塵 奥田豊三
 星の構造と進化 藤田良雄
 親子星 −連星と重星 水野良平
 恒星の距離と運動 虎尾正久
 變光星と新星 相田八之助
二 太陽系
 太陽の構造 服部忠彦
 彗星と流星 小川C彦
 惑星と衛星 窪川一雄
 東京天文臺見學

 それぞれの記事(執筆者も含め)いろいろと思うところはありますが、この号ではなんといっても折込みの素晴らしい図版に感動しました。 「アインシユタイン塔」のイラストで、図版や解説をしたのは、子供の科學制作部主任の本間C人氏によるものです。 (次写真のとおり)


(「アインシユタイン塔」図版 2024年1月19日撮影)

 この図は美しく見事なものですが、気になった理由は他にもありました。 東京天文台「見学の栞」(昭和24年3月1日発行)にある「塔望遠鏡」図(P18上段)の元図版と思われたからです。 この東京天文台「見学の栞」については、彗星会議でお会いした渡部潤一さんを経由して、国立天文台の「アーカイブ室新聞」(2009年11月12日第250号)にも掲載していただきました。 現存するなかでは一番古い「見学の栞」と思います。 (「アーカイブ室新聞」(2009年11月12日第250号)はこちら(pdfファイル))


(東京天文台「見学の栞」の「塔望遠鏡」図)

 「アインシユタイン塔」の図版と比較すると、非常に良く似ていることがわかります。

 ところで、昨日紹介した「子供の科學」1931(昭和6)年12月号は「新光社」の刊行、今日紹介の「子供の科學」1935(昭和10)年9月号では「誠文堂新光社」での刊行でした。 調べてみると「1935年(昭和10年)4月30日、誠文堂に吸収合併された(Wikipedia「誠文堂新光社」による)」とあり、5か月前に社名が変更されていたようです。 今日「月刊天文ガイド」で知られる誠文堂新光社は、1935年4月末からの社名だったのですね。

1月20日(土)
 曇り時々雨。

 今日は宮沢賢治の『春と修羅』の「序」の日付から100年目。 (刊行された日は4月30日で、同じく今年100年目となります)

   序

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
 (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです

 これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)

 けれどもこれら新生代沖積世の
 巨大に明るい時間の集積のなかで
 正しくうつされた筈のこれらのことばが
 わづかその一点にも均しい明暗のうちに
   (あるいは修羅の十億年)
 すでにはやくもその組立や質を変じ
 しかもわたくしも印刷者も
 それを変らないとして感ずることは
 傾向としてはあり得ます
 けだしわれわれがわれわれの感官や
 風景や人物をかんずるやうに
 そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
 記録や歴史 あるいは地史といふものも
 それのいろいろの論料といつしよに
 (因果の時空的制約のもとに)
 われわれがかんじてゐるのに過ぎません
 おそらくこれから二千年もたつたころは
 それ相当のちがつた地質学が流用され
 相当した証拠もまた次次過去から現出し
 みんなは二千年ぐらゐ前には
 青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
 きらびやかな氷窒素のあたりから
 すてきな化石を発掘したり
 あるいは白堊紀砂岩の層面に
 透明な人類の巨大な足跡を
 発見するかもしれません

 すべてこれらの命題は
 心象や時間それ自身の性質として
 第四次延長のなかで主張されます

      大正十三年一月廿日   宮沢賢治

 前年(一九二三、一二、一〇)の日付を持つ「冬と銀河ステーション」を最後に『春と修羅』の日々の作品創作は終了し、新年の(大正十三年一月廿日)に「序」が書き込まれました。 『春と修羅 第二集』の「序」(収録の作品群とは裏腹に、どこか愚痴のようにも感じられてしまうもの)とも比較してしまいますが、格調の高い文章を再読。

 自宅の所用を済ませ、昼から都内へ。 新橋にあるパナソニック汐留美術館で今月11日から始まった「[帝国ホテル二代目本館100周年]フランク・ロイド・ライト−世界を結ぶ建築展」を見学。 (「フランク・ロイド・ライト−世界を結ぶ建築展」はこちら(パナソニック汐留美術館))


(ライト展会場にて 2024年1月20日撮影)


(ユーソニアン住宅の原寸モデル展示 2024年1月20日撮影)

 ライトの設計に関していえば、もう理屈ではなくて感覚的に気に入っているという域ですね。


(ショップの品々 2024年1月20日撮影)

 この美術館からは、旧新橋停車場駅舎の建物を上から眺めることができます。 内部を見学することもできます。 (「旧新橋停車場駅舎」はこちら(東日本鉄道文化財団))


(旧新橋停車場駅舎 2024年1月20日撮影)

 見学後、いくつかを立ち寄りしながら夕食。 早い時間ながら帰宅となりました。

1月21日(日)
 雨のち曇り。

 自宅での作業日。 午前中、時々強い雨となりました。

 昨日のフランク・ロイド・ライト展を見て、東京ステーションホテルに宿泊した際に見た客室内の小さな椅子のことを思い出しました。 背もたれが六角形の珍しいデザインのものですが、それと似た雰囲気の椅子が展示室に置かれていました。 (だいぶ以前に「緑いろの通信」でも触れた記憶があります)


(復原工事前の東京駅 2005年12月25日撮影)


(東京ステーションホテル客室307号室 2005年12月20日撮影)

 これがその椅子です。 フランク・ロイド・ライトのデザインによる椅子の方は、愛知県にある明治村の旧帝国ホテル建物内で見ることができます。 これもライトのデザインの影響かも知れません。


(客室の椅子 2005年12月20日撮影)

 以下のサイト「【取材】歴史ある「東京ステーションホテル」で過ごす上質な滞在」のレポートには、この椅子のレプリカが紹介されています。 (「【取材】歴史ある「東京ステーションホテル」で過ごす上質な滞在」(一休 STORY東京ステーションホテル))

 ところで私が宿泊した307号室はシングルの狭い部屋でしたが、近くには川端康成の滞在した317号室もありました。 この部屋の窓からの眺めを利用して川端康成は小説を書いていました。(以下「東京ステーションホテル」(三幸エステート)より部分引用)

飾り気のない玄関から内部に足を踏み入れると、重厚な赤煉瓦の外観と対照的な極めて小ぢんまりとした印象を受ける。 しかし、駅舎と一体化した利便性と一種"隠れ家"的な魅力が、他のシティホテルにはないユニークな個性を形づくっているものも確かだ。 多くの文人・財界人らに愛され、ホテル自体も幾度か名作の舞台として採り上げられてきたことがその事実を裏付ける。
「窓の金網から、乗車口が真下にながめられる。改札口をひっきりなく人の出入りするのが、正面に見える。/思いがけぬところに、ホテルの部屋があるものだ。乗車口のドオムの裾が八角になって、それはみな三階の客室の窓である」(川端康成「女であること」)
川端康成がこのように記したのは、昭和31年(1956)。 ホテルの317号室に滞在して、この新聞連載の小説の筆を執ったものだという。 後に、原節子主演で小説が映画化されると、ロケに使用されたこの部屋には女性客の予約が殺到したそうだ。 "川端康成の部屋"と称されるようになった現在も変わらず一般客の利用に供されており、窓からは文豪が見たのと同じ情景を眼下にすることができる。


(部屋にあったフロア案内図 2005年12月20日撮影)


(部屋の窓から下を眺める 2005年12月20日撮影)

 種村直樹『東京ステーションホテル物語』(集英社文庫)にその他のエピソードも含め詳しく出ています。


(『東京ステーションホテル物語』 2024年1月21日撮影)

1月22日(月)
 晴れ。

 最近活字の細かい厚い本が多いので、気楽な本を斜め読み。 監修:多摩六都科学館(浦智史)、文:森山晋平、絵:伊藤ハムスター『せつない星座図鑑』(三才ブックス)を読みました。 全88星座のちょっとした神話などのエピソードから、面白い部分を抜き取って紹介したものです。


(『せつない星座図鑑』 2024年1月22日撮影)

1月23日(火)
 霧のち晴れ。

 北海道余市出身の詩人の佐川ちか(1911〜1936)に関する評論本読了。 河村湊・島田龍『佐川ちか モダニズム詩の明星』(河出書房新社)です。 北海道文学館で展示を見て詩集などを購入した勢いで評論関係の出版物も読んでみました。


(『佐川ちか』 2024年1月23日撮影)

【目次】
 左川ちかアルバム
 編者の言葉
 左川ちかの詩十編(川村湊・島田龍選)

T 詩人左川ちか
 対談 井坂洋子×松浦寿輝 左川ちかの詩−死と自然、謎めいた時間
 インタビュー 小野夕馥(森開社) 「青い馬」の衝撃
 小野夕馥 或る回想
[エッセイ]
 藤井貞和 毎年土をかぶらせてね!!
 堀江敏幸 すでに消え去つた時刻
 暁方ミセイ 片眼鏡のひと
 文月悠光 視る者の孤独−私の左川ちか
 瀬戸夏子 パーフェクト・スター
 大森静佳 眼鏡をかけるひとへ
 中森明夫 18歳で出逢って
 長山靖生 モダニズム期の能動的な植物群
[論考]
 水田宗子 モダニズムとフェミニズム/モダニズムとジェンダー−左川ちかの分身
 川崎賢子 ミッシングリンク再発見−プランゲ文庫のなかの左川ちか
 エリス俊子 左川ちかの「私」について−魂の声のモダニズム
 小川公代 左川ちかとヴァージニア・ウルフによるモダニズムの実践
 水無田気流 青い近代性(モダニティ)
 たかとう匡子 左川ちかのモダニズム詩
 鳥居万由実 「生命より長い夢」−左川ちかと永遠性、そして宇宙
 渡辺祐真 「見るために閉ざす目」は何を見ているのか?−左川ちかと葛原妙子
 クリハラ冉 とてつもなく美しい秘密−左川ちかはなぜ書き直しを惜しまなかったのか

U 左川ちかと北海道
 盛昭史 川崎愛から左川ちかへ−三原色としての余市
 川村湊 詩人の故郷・余市
 田野美妃 左川ちかが過ごした本別
 多賀新 本別に生まれて
 本間達洋 左川ちかと小樽高女
 玉川薫 左川ちかの通学列車と、北国の緑
 東延江 小松瑛子さんのこと
 島田龍 川崎家の男たち−表現者・編集者の系譜
 島田龍 女たちの金光教

V モダンガール左川ちか
 島田龍 編集者左川ちかと銀座
 内堀弘 左川ちかが見えた場所
 川村湊 左川ちかと三岸節子
 川村湊 新島への旅

W 翻訳と左川ちか
 菊地利奈 詩の翻訳/創作の境界を超えて
 柴田元幸 感想・夢想・妄想
 戸塚学 二つの夕暮れと左川ちか訳『室楽』
 秦邦生 「グローバル・モダニズム」と翻訳と“Sagawa Chika”
 チョン・スユン 神秘的な種子のように
 中村多文子 スペイン語圏の左川ちか
 サワコ・ナカヤス 「より良く」する−左川ちかを訳すことについて

X モダニズム詩と左川ちか
 川村湊 モダニズム女人詩抄−左川ちかをめぐる星座群
 島田龍 追憶詩の系譜

Y 資料
 新発見資料 ギグリーめぐり
 左川ちか書簡
 文献解題/左川ちかによる翻訳作品一覧
 左川ちか略年譜

 宮沢賢治奨励賞を受賞されてた暁方ミセイさんや、以前小樽文学館にいらした玉川薫さんも文章を書かれています。 佐川ちかの25年にも満たない生涯は、なんとヴァリエーションのある日々なのでしょうか。 年譜には、1911(明治44)年(ハレー彗星が接近した年!)2月の生まれで、亡くなったのは1936(昭和11)年1月とありました。 1月7日、世田谷の自宅で胃癌のため亡くなりますが、最後の言葉が「みんな仲良くしてね」「ありがとう」というのがとても印象的でした。 改めて詩集の方を再読する予定。

1月24日(水)
 晴れ。

 キース・ジャレットのケルン・コンサートの演奏から今日で49年目となります。 (1975年1月24日の演奏) 体調も悪く、ピアノの調子も悪い中で深夜に行われた演奏がジャズの名盤となってしまいました。 来年でちょうど半世紀。 来年は何か記念行事が行われるのでしょうか。


(ザ・ケルン・コンサート)

 写真は、UHQCD(Ultimeate Hi Quality CD)という、音質を向上させたCDとして2023年に発売されたものです。 2016年発売のSHM-CDに続く最新技術のディスクです。 まだ20代の頃、天文の先輩にカセットに録音してもらったのを聴いたのがきっかけでした。 いい音楽との出会いは一生ものです。

 今夜都内(東京ドーム)ではビリー・ジョエルのコンサートが行われ、知人数名が会場に出かけたようです。 以前に出かけた東京ドーム公演が思い出されました。 (以下、緑いろの通信2006年11月28日号より)

2006年11月28日(東京ドーム公演)セットリスト

プレリュード〜怒れる若者(Prelude/Angry Young Man)
マイ・ライフ(My Life)
マイアミ2017(Miami 2017 )
オネスティ(Honesty)
エンターテイナー(The Entertainer)
ザンジバル(Zanzibar)
ニューヨークの想い(New York State of Mind)
アレンタウン(Allentown)
ドント・アスク・ミー・ホワイ(Don't Ask Me Why)
ストレンジャー(The Stranger)
素顔のままで(Just The Way You Are)
ムーヴィン・アウト(Movin' Out)
イノセント・マン(An Innocent Man)
キーピング・ザ・フェイス(Keeping The Faith)
シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン(She's Always A Woman)
愛はイクストリーム(I Go To Extremes)
リヴァー・オブ・ドリームス(The River of Dreams)
地獄へのハイウェイ(Highway To Hell)(AC/DC)
ハートにファイア(We Didn't Start The Fire)
ビッグ・ショット(Big Shot)
ロックンロールが最高さ(It's Still Rock and Roll To Me)
ガラスのニューヨーク(You May Be Right)

(アンコール1)
イタリアンレストランで(Scenes From An Italian Restaurant)

(アンコール2)
さくら〜ピアノマン(Piano Man)

 ライブの1曲目から「プレリュード〜怒れる若者」の激しいイントロがとても印象的でした。


(終演後の東京ドーム 2006年11月28日撮影)

 今夜のツイッター(X)の速報では、1曲目はマイライフ(第九のテーマを入れた編曲)からスタートのようです。 行った皆さんはいい時間を過ごされたことでしょう。

 今日は自宅関係の作業に追われました。

1月25日(木)
 晴れ。

 天沢退二郎さんの命日。 もう1年になるのですね。 早いものです。


(天沢退二郎さん 2009年2月28日撮影)

 今夜は、賢治学会の三陸方面へのセミナー(1998年3月21〜22日)、帰りバス車内で天沢さんがお話されたことについて書いてみます。 (当時編纂が進んでいた)賢治の年譜(新校本)では、資料の出典についても調べるようにしているが、生前の賢治と交流のあった人たちの記録に関して、純粋な自身の賢治との記憶だけではなく、皆さん愛好する賢治についてはめいめいが調べていて、その後文献等で知った知識と混ざってしまい、実は誤った情報として記憶されている場合もあるので、注意が必要だといった趣旨のお話でした。

 このお話は、入沢康夫さんの書かれた「賢治の光太郎訪問」(『ナーサルパナマの謎−宮沢賢治研究余話』(書肆山田)所収)の手塚武氏のエピソードとも重なります。

 久しぶりに天沢さんの詩集(『道道』より25冊目)をめくりながら詩「雨中謝辞」を読んで、また唸ってしまいました。

1月26日(金)
 晴れ。 満月。

 ビートルズの本、マイク・マッキナニー/ビル・ディメイン/ジリアン・G・ガー『サージェント・ペパー50年 ザ・ビートルズ不滅のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』完全ガイド』(河出書房新社)を読んでみました。


(『サージェント・ペパー50年』表紙)

 本装丁からして派手な、アルバム解説本(写真集)と思っていたのですが、読み始めてみると、単に曲の解説集として書かれたものではなく、アルバムが制作されるに至った時代背景や、一歩踏み込んだマニア的視点からのネタも多く、全く期待していなかったのに面白く読み終えました。

CONTENTS

 序文
 はじめに

 ムード
 ルック
 サウンド
 レガシー

 参考文献
 注記
 索引
 写真クレジット
 著者紹介


(『サージェント・ペパー50年』より 2024年1月26日撮影)

 記事は「ザ・ビートルズ・アンソロジー」(1995・1996)やシルク・ドゥ・ソレイユの公演『ラヴ』(2004)の時期まで書かれていました。 この本は2017年の刊行ですが、ここ数年、ビートルズ本の出版がとても多いですね。

 夜は遅くまで自宅の作業及び、原稿など。

1月27日(土)
 晴れ。

 東京国立博物館で始まった『建立900年 特別展「中尊寺金色堂」』展へ。 (『建立900年 特別展「中尊寺金色堂」』展はこちら(東京国立博物館))


(特別展「中尊寺金色堂」展より 2024年1月27日撮影)

 この展覧会は開始間もない時期ということで、比較的空いている状態でゆっくり見学することができました。 スペースはそれほど広くはありませんでしたが、金色堂内に収められているいくつもの仏像を間近な位置(裏側も)で眺めることもできる(仏像愛好家)には嬉しい展示でした。


(「金色堂模型」 2024年1月27日撮影)

 この展示を見て、そのまま常設展の仏像を眺めましたが、比較してみると、中尊寺の仏像がとても上品な表情に思われました。 会期は2024年1月23日〜4月14日まで。 宮沢賢治も盛岡中学時代に訪れた中尊寺、その有名な金色堂の仏像を間近に見るチャンスです。

 次の写真は、写真週刊誌「アサヒグラフ」(1993年7月30日号)で、特集は「宮沢賢治[没後60年の光彩]」です。 今からおよそ31年前の雑誌で、「[緊急特集]北海道南西地震」(あの奥尻島が大きな被害を受けた地震)と書かれていて、時代を感じます。


(「アサヒグラフ」表紙)

 賢治特集の記事は、以下のようなものでした。

宮沢賢治没後60年記念企画
「笑ふ賢治」
◎わたくしは森やのはらのこひびと

★賢治追憶−教え子が語る「賢治先生」
★イーハトーブ賢治案内板(イラスト=小林敏也)
★「キラキラと笑っていた」(エセー=寮美千子)

 小林敏也さんのイラストも楽しいし、寮さんの文章は、賢治との劇的な出会いのお話でした。

 本誌記事には、白谷達也氏(「アサヒグラフ」出版写真部)撮影の賢治のセロ(チェロ)のケース写真が掲載されていました。 楽器本体も貴重ですが、このケースも非常に貴重なものと思います。


(「アサヒグラフ」より)

 この写真の解説は次のとおり。

愛用したセロには“K・M・1926”の銘がある。 大正15(1926)年末に賢治はセロを習うために上京している。 このセロ・ケースはいかにも20年代風な、直線的でしゃれたデザインだ。 木製で革が張ってある。花巻・胡四王山の宮沢賢治記念館の庭で。

 セロの内側に書かれた賢治のイニシャルと年号に言及がありますが、正しくは「1926.K.M.」と書かれたものです。 『【新】校本宮澤賢治全集第16巻(上)補遺・資料』補遺・資料編では、同全集第14巻に収録されるべき「〔署名〕」の補遺(本文補遺)として次の説明があります。

〔第十四巻の刊行後、新たに確認された自筆署名(イニシャルおよび年号)があり、これを左に掲げ、続けてこれに対する校異を示す。 本署名は、それぞれ第十四巻本文篇二九七頁の次、校異篇二五四頁の次に追加されるべきものである。〕

 全集の第十四巻の刊行が1997年4月30日ですから、それ以前、すでに自筆署名の存在が具体的に知られていたことになります。 (複数の書物において言及) 古い雑誌の賢治記事には(日の目を見ない)面白いものが結構あります。

1月28日(日)
 晴れ。

 坂本龍一・福岡伸一『音楽と生命』(集英社)を読む。


(『音楽と生命』目次 2024年1月28日撮影)

 昨年3月の刊行。 内容は象徴的なタイトルどおりのものです。 所々に出てくる、それらを具体化、明らかにされる思考を数々が納得できるものでした。 特に「星座を見ても宇宙のことはわからない」で言及される整理のポイントは、宮沢賢治の発想のルーツ(大正期の科学的思考)とも重なる部分でした。

1月29日(月)
 晴れ。

 出勤時、西空の中空(青空)に

 松原隆彦『宇宙とは何か』(SB新書)読了。


(『宇宙とは何か』 2024年1月29日撮影)

 高エネ研の研究者による宇宙論の入門書(啓蒙書)。 宇宙論はとても魅力的な学問ですが、宇宙論の研究を構成する個々の論にばかり目を向けるのではなく、その時々において全体像にも触れておくことはとても意味のあることと思います。 学問の普及啓蒙書として、さらっと楽しめました。 (新書版というのも良い!)

目次

はじめに 「宇宙論とは何か」の旅へ
第一講 宇宙像の広がり
第二講 宇宙の地平
第三講 ミクロの世界へ
第四講 マルチバース
第五講 微調整問題と人間原理
第六講 時間と空間

 週の始めから疲労感が残ります。

1月30日(火)
 晴れ。

 『【新】校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)に添付される「月報」の記事について、「緑いろの通信」(2002年1月号)にそのリストを掲載しましたが、「[別巻]補遺・索引」の正誤表も含め、ここに従前のリストに追加し再掲しておきたいと思います。

月報1(第八巻)
中野美代子「人の千年は龍の十日」
高橋世織「賢治におけるメディア意識」
やまだ紫「あめゆじゅとてちてけんじゃ」

月報2(第九巻)
西成彦「音楽と食文化」
川勝平太「賢治さんと錦司さん」
西澤潤一「東洋のこころ宮澤賢治」

月報3(第二巻)
萩尾望都「宮沢賢治のいた場所」
大塚常樹「「樺」の二面性」
金子務「鳥捕りのイメージ狩り」

月報4(第五巻)
草枕獏「心象スケッチ風に賢治のことを」
今泉文子「テクストの銀河系」
斎藤文一「二つの銀河体験とその後」

月報5(第十巻)
司修「もしかしたらもしかする」
鈴木健司「土佐だより」
小林康夫「賢治のインファンス」

月報6(第四巻)
池内了「賢治のブラックユーモア」
福田和也「宮沢賢治と農業の未来派」
福島泰樹「雫石、賢治絶叫星祭」

月報7(第十二巻)
池澤夏樹「迎えにくるのは誰」
松浦寿樹「青の奇蹟」
池上雄三「賢治の感情表現」

月報8(第十五巻)
渡辺泰「アニメーションで見る宮澤賢治」
吉田文憲「数の変換」
高橋克彦「賢治の秘密」

月報9(第十一巻)
川村湊「宮澤賢治と「満州」」
外山正「宮澤賢治の〈永久機関〉」
出久根達郎「たとえばの楽しみ」

月報10(第三巻)
長谷川善和「賢治と恐竜」
奥山文幸「関東大震災と『銀河鉄道の夜』」
赤坂憲雄「村の衰滅のなかで、賢治へ」

月報11(第一巻)
長岡輝子「私流賢治読み」
佐藤通雅「脳病の歌」
鎌田東二「宮沢賢治とケルト」

月報12(第六巻)
西谷修「生命の地質学」
畑中純「拝啓、山猫様」
須賀敦子「賢治の魔術」

月報13(第七巻)
シャスティーン・ヴィデーウス「Vintergatan(冬の路)」
力丸光雄「賢治の或る読みかた」
北村想「永久の未完成」

月報14(第十四巻)
佐伯一麦「賢治の光る碍子」
佐野史郎「鉛筆の線」
浦田敬三「宮澤賢治の啄木共鳴」

月報15(第十三巻上)
鈴木光司「心を癒す一助となれば」
野々上慶一「賢治の紙型」
西田良子「オールスターキャスト」

月報16(第十三巻下)
守中高明「自然・クリプト・死」
宮川健郎「「やまなし」の喜び」
伊藤信吉「〈賢治教育〉をされて」

月報17(第十六巻上)
佐々木幹郎「『春と修羅』と中原中也」
平田オリザ「オリザをめぐる謎」
清水眞砂子「幸福を書くということ」

月報18(第十六巻下)
吉増剛造「「宮沢賢治」ヲカク」
小川達雄「発火演習の歌」
宮沢潤子「『新校本宮澤賢治全集』御礼」

新校本宮沢賢治全集 全巻正誤表(別巻)

 改めて読み返してみたいものがいくつもありました。

 今日、1月30日は、ビートルズのアップル社屋上での通称「ルーフトップ・コンサート」が行われた日(1969年1月30日)です。 55年の月日が流れました。 中学生の時、はじめて「Let It Be」のアルバムで聴いたライブ演奏の数々は、「(スタジオレコーディングに比べて)なんて荒っぽい演奏なのか、ちゃんとレコーディングすればいいのに」と感じましたが、今感じるのは、ライブバンドとしての上手さ、ノリの良さしかありません。 写真はGoogle地図で見た旧アップル社屋付近の様子です。 (朱塗した場所がライブ演奏の場所)


(「旧アップル社屋付近」Google地図より)

 日本時間では31日の出来事となると思いますが、当時を偲んでドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ: Get Back』のゲット・バック演奏シーンのみを鑑賞。 (寒そう!)


(『Get Back』 2024年1月29日撮影)

1月31日(水)
 曇りのち晴れ。

 1月も今日で終りです。 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はPicasso's Last Wors(Drink to Me)(Band on the Run)〜Pretty Little Head(Press to Play)まで。

 Picasso's Last Wors(Drink to Me)は、ジャマイカでのダスティン・ホフマンとの語らいから生まれた曲。 Times誌に書かれた「ピカソの死亡記事」を見せられ、遺言の「Drink to me」という新聞記事を見せられ、言葉を大切にしながら仕上げた。 Pipes of Peaceは、ジョンと僕のギター2本で作曲した。 お気に入りの本屋でみつけたタゴールの詩集から「キャンドルを灯す」というフレーズを見つけ、そこから(思い違いがあったのかも知れないが)戦争や環境に対する戦争の根絶に向けた活動の象徴としたもの。 「ワッツの暴動」に由来する言葉も入れた。 イギリスでチャートが1位を獲得したことは、僕をとても勇気づけてくれた。 Please Please Meは、ジョンのアイデアだった。 ジョンは「Please」のダブルミーニングが好きだった。 ジョージ・マーティンは「もっとテンポを上げられないかな」という注文を出してきた。 「いや、いや、いや」という感じだったけれど、「もし君たちが気に入らなければ、ボツにすればいいんだから」さらに「これは君たちの初めてのナンバー・ワンになるかもしれないよ」とも言われた。 結果、ナンバーワンになった。 僕自身とジョン、そしてジョージ・マーティンとのコラボレーションでラッキーなバンドになれた。 Pretty Boysは男性モデルの歌。 カメラマンの下品な態度に怒っているモデルの姿を想像して歌にした。 ビートルズはミュージシャンでモデルではなかったけれど、ビートルマニア絶頂期にはあらゆるものに僕らの名前や顔を載せたがる人がいて手に負えないこともあった。 アップル社や後のMPLのおかげで自分の運命をコントロールできるようになった。 Pretty Little Headの冒頭の Hillmen という言葉は、一度捨てたが何度も頭の中に蘇ってきた。 最後はぴったりはまるようになった。 文明と国家主義、そして人々の生活を守ること。 文明は小さい脳ミソ(Pretty Little Head)を悩ませなくて済むようにするために存在している。


(iPad『リリックス』より 2024年1月31日撮影)

 曲を聴きながら読み進めていますが、Pipes of Peaceがなかなかいい曲だと気づかされました。



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