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●1月1日(月) 元旦。晴れ。 新年あけましておめでとうござます。 夜半過ぎから雪雲も消えて、青空が見えてきました。 薄明が始まる頃には、雲もかなり消えていました。 春先の星座も相当高くなっています。 今年も初日の出を見るために、雪の高見石を途中まで登ってみました。 元旦の日の出は、高見石から見て南側にある中山(2,496m)の東側の肩、にゅう(2,352m)の岩山の横からとなります。 初日の出直後の様子を拡大してみました。 太陽のまわりに光環が見えています。 西空の高い位置には、まだ月も残っていました。 昨晩積もった雪がさらさらで、岩をおりるのが大変でしたが、なんとか下り、小屋前までたどり着きました。 (昨年より、またさらに暖かな朝となりました。) 今日は元旦なので特別メニューで朝食は、おせちとお雑煮。 昼間は小屋でゆっくり。 晴れていて気持ちが良い時間です。 今年は本当に穏やか。 夕方再び岩を登ってみました。 西に傾いた太陽の光が、雪のついた針葉樹をオレンジ色に照らしてとてもきれいです。 初日の入りは、中央アルプスの木曽駒ケ岳の方向です。 遥か彼方の山々に太陽が落ちてゆきます。 日が落ちると、下山が困難になるので、大急ぎで岩の下までゆっくりと移動。 暗くなって、山小屋は夕食の時間です。 食後の時間、昨日同様に「来年の天文現象」などのお話をしました。 今晩も、惑星食や接近する彗星、そしてハレー彗星のお話など楽しんできただきました。 宿泊された方々の反応も良く、今年も新年のお役目を無事果たすことができました。 皆さまありがとうございます。 皆さんの就寝後、外に出て少し撮影。 ●1月2日(火) 雪のち晴れ。 夜半過ぎから薄雲に覆われ、朝には降雪が始まってしまいました。 気温は-4.5度。 この時期にしては10度ぐらい高めです。 今日は山小屋の皆さんとお別れをして、昨日太陽の沈んだ方角にある中央アルプスへと移動です。 賽の河原ルートで渋の湯温泉を目指します。 途中、シャクナゲに積もった雪には、霜柱のような結晶ができていました。 雪の上に雨が降って、再結晶化されたようです。 登山口近くには、カモシカも居ました。 バスで下山して、列車を乗り継ぎ、飯田線の駒ヶ根駅まで。 ここから中央アルプス千畳敷(木曽駒ケ岳への登山口)へと向かいます。 ここまで来てしまえば、あと僅か。 バスとロープウェイを利用して、日本一高所にある千畳敷駅(標高2,612メートル)に到着。 ここは高見石よりも高いので、一段と気温が低くなります。 とはいえ、-10度程度でしたので、この地点にしては「暖かい」状況です。 千畳敷駅を出て、北側の緩い平地(千畳敷カール)側に出ると、目の前に宝剣岳(標高2,931メートル)がそびえています。 北アルプスの白馬岳とほぼ同じ標高で、標高では国内第29位の山です。 宝剣岳の裏側は、かなりの強風のようで、稜線上には雪煙が舞っていました。 宿泊はホテル千畳敷(かつての三角屋根の山小屋千畳敷山荘)です。 コーヒーを飲みながら休憩して、日没近くには、南アルプス上に「ビーナスベルト〜地球影」を見ることができます。 刻々と変化する山の色合いがきれいです。 夕食を済ませ、月の出までは、星空観察の時間です。 ロープウエイでお仕事をされている方が天体写真を撮影(主に動画がメイン)されていたので、いろいろとお話を聞きながら、退屈せずに撮影を進めることができました。 12時近くまで撮影して。 就寝。 ●1月3日(水) 晴れ。 新年も3日目。 日の出前の空は、雲に覆われていました。 それでも、南アルプスの上には少しだけ晴れ間もあって、日の出が眺められそうでした。 画面中央の富士山付近からは、雲に紛れつつも太陽が強い光を放っていました。 早朝の撮影を終えて下山。 年始の旅のスケジュールは終了しました。 ●1月4日(木) 晴れ。 自宅で作業。 抱影の『星三百六十五夜 冬』(中公文庫)の今日1月4日のテーマは「大オリオン」。 抱影のオリオン賛歌です。 都心を離れ、自宅近くの道で、夜空に見つけたオリオンの印象から。
宵空の東の空、まだ低くかかっていたオリオンが、ふと気が付くと南中近くになり、冬の星座全体を見渡せる季節が来てしまったことを気づかされます。 ●1月5日(金) 晴れ。 自宅の用事を片付けて、週末の準備など。 新年になって福島天文協会の事務局から、昨年秋に開催された「福島県天文同行者の集い報告」が届きました。 2月開催の写真展の案内など。
夜は都内へ。 ●1月6日(土) 晴れのち雪。 連休を利用して所用で北海道へ。 中途半端の時期ですが、(年末年始期と雪まつりシーズンを外したので)航空運賃が安いのです。 早朝の飛行機で羽田空港を発ち、新千歳空港へ。 北海道の「かわいい系」グッズといえば、キタキツネなどが人気でしたが、最近ではシマエナガが独占状態です。 空港の売店にはシマエナガのぬいぐるみがいっぱい。 南千歳駅から千歳線に乗り、苫小牧駅へ。 いろいろ懐かしい苫小牧。 今日は5年前(1999年)に亡くなられた斉藤征義さんの命日でもあります。 (斉藤さんは、こんな寒い日に銀河鉄道に乗ったのです) 用事を済ませて、室蘭本線で北海道を西へ移動しながら南下します。 寂しそうな海辺を眺めながら、列車は西へ。 静かに揺れる列車に乗れば、賢治の「青森挽歌」や「ノクターン(噴火湾)」も、言葉では説明できないリアリティに包まれます。 室蘭本線の長万部駅で下車。 ここで函館本線(通称山線)に乗り換え。 山線は、北海道新幹線が札幌駅まで開通されると、廃線が予定されています。 特急を下車して、反対側のホームの列車まで大急ぎで乗り換えます。 乗換時間は僅かに4分。 宮沢賢治の時代には、函館駅から札幌駅に向かうためには、必ず通過した路線です。 スキーシーズンになると、海外でも知られるゲレンデを有するニセコ駅や、倶知安駅付近など、外国人観光客に人気の場所に通じる路線なので、たった1両の車両にすごい人数が乗り合わせていました。 倶知安駅で、小樽行の各駅停車に乗り換えです。 倶知安駅では、やっと座ることができました。 ここからは、少しは落ち着いて雪景色を楽しむことができるでしょうか。 一面の雪の中を、気動車のエンジン音が響く車両がどんどん進みます。 余市駅を過ぎ、暗くなった頃に小樽駅に到着しました。 ここまで来れば、もういつもの北海道です。 小樽駅近くのスープカレーのお店で夕食。 以前来て、印象が良かったので再訪。 (「ダルオ」はこちら) 夕食を済ませて、駅前通りに出ると大雪になっていました。 (実はこの夜、小樽は60〜80センチ級の大雪の見舞われることになり、翌日は鉄道も大幅運休されることに!) 駅舎内にあるカフェで時間を調整して、小樽駅始発のエアポートライナーで札幌駅まで。 駅近くのホテルにチェックインし、今日のスケジュールはすべて終了。 ●1月7日(日) 雪時々曇り。 2日目は朝から吹雪となりました。 午前中は札幌市立図書館。 続いて、中島公園内にある北海道立文学館へ。 ここでは、特別展「佐川ちか 黒衣の明星」が開催されていました。 (「北海道立文学館」はこちら) 佐川ちか(1911〜1936)は、宮沢賢治(1896〜1933)とほぼ同時代を生きた詩人です。 (Wikipediaの「佐川ちか」の項目では次のとおり紹介があります)
文学館の展示では、その生涯に沿って、自筆稿や絵画、掲載誌などが展示されていました。 展示品リストの年表(24年の軌跡)を見ると、宮沢賢治が花巻農学校教師として北海道を訪れた頃(1924年5月)には、小樽高等女学校(現小樽桜陽高等学校)に在学していたことになります。 北海道滞在中に、川崎賢子編『佐川ちか詩集』(岩波文庫)、『対訳 佐川ちか選詩集/Selected Translations of Sagawa Chika's Poems』(思潮社)を購入してきました。 文学評論では、川村湊・島田龍責任編集『左川ちか:モダニズム詩の明星』(河出書房新社)も最近出版、今年は特に注目されているようです。 個性的で、「新しさ」を感じる作風です。 北海道文学館の時期特別展は、「100年の詩を超える−〈明治・大正期刊行本〉探訪」(会期:2024年2月3日(土)〜3月24日(日))で、賢治の『春と修羅』なども展示されるようです。 見学後、雪の中島公園にて。 田上義也設計のこども人形劇場こぐま座の建物を見つけました。 ユニークな建築です。 雪の上では、犬が喜び、飼い主を困らせていました。 地下鉄で大通公園駅下車。 買い物後に札幌駅まで地下道を移動。 札幌駅に隣接する商業施設パセオが営業終了して閉鎖されていました。 (調べたら昨年の9月までの営業でした) 北海道新幹線工事の影響ですね。 いいお店がいくつかあったので、残念です。 ●1月8日(月) 成人の日。 曇り時々雪。 札幌は朝から雪。 新札幌駅に出て、バスで北海道博物館へ。 野幌森林公園内にある道立の施設で、以前何度か訪れた北海道開拓の村(北海道版明治村)の近くです 以前はランドマークだった百年記念塔は撤去され消滅。 (「北海道博物館」はこちら) バス停を下りて、雪に足をとられながら、なんとか玄関へ。 入口近くにある、大きなマンモスやナウマンゾウの骨格標本には圧倒されます。 展示としては、アイヌ民族に関する学問的な資料が充実していました。 (研究分野的には白老のウポポイよりも…) また、黒曜石による石器なども、大型で本州のものとは迫力が違いました。 再び新札幌駅に戻ると、また雪が激しくなっていました。 小樽方面の交通は、まだ大雪でかなりひどいようです。 駅ビルでランチ。 そしてカフェ休憩。 札幌に戻り、書店をいくつかめぐり、大通公園近くのカフェで温まります。 しだいに雲が切れて明るくなってきました。 大通公園の一角では、来月に開催される「さっぽろ雪まつり」の雪像制作の準備が進められていました。 旧北海道庁赤レンガ庁舎は工事中で、外観のイラストが書かれた覆いに包まれていました。 (名古屋城の工事の時と同じですね) あっという間に新千歳空港行きの列車の時間となり、夜の飛行機で羽田空港に到着となりました。 帰宅後、深夜まで自宅の所用、旅の荷物整理。 ●1月9日(火) 晴れ。 病院にて相談など。 自宅に戻って、作業を終えて、寝る前に少し旅先で撮影した写真の整理など。 とにかく、時間がありません。 次の写真は、上の写真をトリミングしたものです。 オリジナルはきれいですが、解像度を落とすとやはり劣化してしまいます。 ●1月10日(水) 晴れ。 週末に向けたお仕事。 野尻抱影の『星三百六十五夜 冬』の今日のテーマは「冬の大曲線」でした。
いかにも抱影らしい発想です。 今日の タイトル「冬の大曲線」は、「春の大曲線」の誤りでは…、と思う方もありそうですが、偶然(その時期に)ふたご座に居合わせた木星を絡めた「ゆるいカーブ」がその正体でした。 ●1月11日(木) 晴れ。 入試シーズンです。 職場での緊張も高まります。 (受験生もこの時期はそうでしょう) 寝る前の僅かな時間で、『地図と文学の素敵な関係』(北海道立文学館)を眺めてみました。 北海道立文学館で2022年6月18日〜8月14日で開催された特別展「地図と文学の素敵な関係」の図録です。 実際に訪問して見学する機会がなかったもので、偶然文学館の売店で見つけ購入したものです。 北海道関連の文学作品を中心に、それにまつわる地図(作品書籍)により構成されています。 賢治にも関係するものがいくつかありますが、伊藤整「幽鬼の街」や、佐藤泰志「海炭市叙景」の地図が興味深いものでした。 今日は、昨年同日に亡くなった作家鏑木蓮さん(イーハトーブ探偵シリーズ)、そして高橋幸宏さんの命日です。 ●1月12日(金) 晴れ。 仕事で夜は泊まり。 遅くなりましたが、今月発売の天文2誌から。 新年になって2月号も発売。 『星ナビ』2月号は、特集が「地球の裏側チリ・リモート天文台」です。 他に、4月の北米縦断皆既日食の観測機材など。 中山満仁「みちのくのプラネ巡り 鉄道の旅 星の街道をゆく」では、旅の途中、宮沢賢治記念館に立ち寄り「宇宙」の展示について写真とともに紹介があります。 綴じ込み特別付録は「天体画像処理2」(前処理を説明したもの)。 『天文ガイド』2月号の特集は「すばる望遠鏡25年の歩み」です。 他に「2061年7月に向けて折り返しハレー彗星が遠日点を通過」「北海道でとらえた低緯度オーロラ」がありました。 今日は、宮沢賢治の有名写真が撮影された日から100年目。 (寒い時期だったので、賢治も厚着でした) ●1月13日(土) 晴れのち一時雪。 休日出勤。 仕事で夜は泊まり。 ●1月14日(日) 晴れ。 休日出勤2日目。 ハードな一日でした。 ●1月15日(月) 晴れ。 気温低め。 今日15日は、昔の「成人の日」。 先週、北海道で購入してきた醍醐龍馬編著『小樽学 港町から地域を考える』(小樽商科大学出版会)を読む。 小樽はもちろんこだわりのある街ですが、それらを地域としてみた場合、歴史的なかかわりも含め、個々の文章が面白そうなので購入しました。 目次は以下のとおり。 (章題及びコラムのみ)
石川啄木についての記載はありますが、宮沢賢治についてはありませんでした。 苫小牧の銘菓「よいとまけ」を製造販売する三星が小樽で創業したこと、小林多喜二との関係については知っていましたが、本書にはその小樽「三星小林支店」の食パン屋としての写真が掲載されていました。 天文関係では、名古屋大学人文学研究科早川尚志氏による「小樽から見たオーロラと太陽地球環境」、そしてコラムG「小樽から見えた日蝕」が掲載されていました。 前者では、「国際地球観測年(1957〜1958)に見えたオーロラ」「天狗山のオーロラスケッチの謎」「有島武郎の伝えるオーロラ」「樺太のオーロラを記録する小樽」の詳説があり、後者では明治時代(1872)の金環と、戦時中の皆既(1943)が紹介されています。 なお、コラムG「小樽から見えた日蝕」で次回の皆既日蝕について、2361年5月8日とありますが、次回は2171年10月29日、さらに2363年7月12日となります。 2361年5月8日は、皆既帯がさらに南東側を通り、小樽は外れていまい、帯広、網走などが中心線にも近く好条件となる状況です。 以下の図はNASAの提供するGlobal Eclipse Mapで、詳細はわかりにくいものですが、皆既帯の全体像はよくわかるかと思います。 さらに下の図は、北海道付近の皆既帯を拡大したものです。 3本ある赤い線のうち、上下の線の間が皆既帯、中央の線はその中心線で、中心線に近いほど皆既時間が長くなります。 2361年といえば、次回ハレー彗星接近の300年後で、そのころには大きく歴史も変わっているかも知れません。 ●1月16日(火) 晴れ。 風が強い。 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はOnly Mama Knows(Memory Almost Full)〜Penny Lane(Single)まで。 Only Mama Knowsは、どこか悲しげなイントロに続くロックンロールです。 ポールの思う歌詞のこと、そしてサウンド。 歌詞の書かれたノートには、ペン書きでコードも書かれています。 One Other Meは、アルバムPipes of Peaceの1曲。 ビートルズのように成功したグループでなければ、他の仕事を探さなければならなかかったかも…、という「もう一人の僕(One Other Me)」がテーマ。 実際には「恋人に心ない仕打ちをしてしまった男が、謝罪している歌」で、その後の反省を曲を書くことがセルフ・カウンセリングとなること。 そしてデビュー当時のバンド名のこと、バディ・ホリーがなぜお気に入りだったのか…、この辺りはビートルズとしてのこだわりも含めユニークだし、関心もあるところでしょう。 Paperback Writerは、ビートルズが1966年にシングル・リリースしたナンバー。 マリファナのこと、作家との交流で歌詞へのヴァリエーションが拡がったと言います。 その頃、エピフォン・カジノを購入して、リフが出来上がった。 コーラスはビーチ・ボーイズの影響を受けている…。 Penny Laneはリバプールの、「僕やジョンの人生にとって非常に重要な場所」を歌ったドキュメント・ドラマとして見るのが一番と書かれていました。 (確かに!) 歌詞の登場人物にもリアリティがあり、少し変わり者というアイデアを好んで書いたとのこと。 ペニーレインのプロモーション・ビデオで着用した赤いスーツの写真がありましたが、最近リリースのNow And Thenのシーンにそのプロモの場面が引用されていましたね。 ●1月17日(水) 晴れ。 音楽の話題が続きます。 ずっと時間がなくて聴けていなかった松任谷由実の新譜(コラボ)「ユーミン乾杯!」を聴いてみました。 発表済の作品を若手アーティストとのコラボレーションによる追加録音で仕上げたもの。 古いレコーディングトラックを部分的にせよ使っているので、慣れた部分と新鮮な部分が同居した違和感と、微妙な心地よさ、どこか複雑な感じでした。 むしろ、「今だから」や「クリスマスだからじゃない2023」が単純に聴きやすいと思いました。 コラボものでは、1曲目の「影になって」が良かった。 ●1月18日(木) 晴れ。 夜、上弦の月を見る。 朝から自宅の所用。 賢治の時代の科学雑誌から、今夜は「子供の科學」です。 1931(昭和6)年12月号、表紙は中川巖「オーロラ」です。 賢治の時代の科学誌「子供の科學」(1924(大正13)年10月号創刊)や「科學畫報」(1923(大正12)年4月号創刊)は、「子供向け」が意識されながらも、レベルの高い最新の科学情報を多数の写真や図版を用いて魅力的な誌面構成が行われていました。 「子供の科学」の方は、現在もなお刊行され続けています。 (子供の科学のWEBサイト「コカねっと!」」はこちら(誠文堂新光社)) 表紙は「オーロラ」の観測風景のようです。 戦前の子供向けの雑誌ながら、リアルなオーロラ、三脚に載せられたカメラ(乾板)、そして観測装置と思われる大型の機材が描かれています。 本誌中、最も注目したのは、記事そのものではなく、天体望遠鏡の広告(廣告)でした。 当時の科学誌では、出版社が科学製品の業者の仲立ちをする形で、販売にも関わっていました。 「子供の科学」誌では「子供の科學社代理部」という部局です。 望遠鏡の名称に注目です。 プルトー(Pluto)といえば、冥王星ですね。 広告の最初に、望遠鏡名の由来が書かれています。
冥王星は、1930(昭和5)年2月、アメリカの天文学者クライド・トンボーにより発見されました。 この広告の掲載誌は、「1931(昭和6)年12月号」ですので、冥王星の発見から間もなく2年になろうとするものですが、この広告にあるように、カタカナ読みのまま「プルトー」(プルート、プルートー等)が普通に通用していたことが窺えるものです。 野尻抱影が「冥王星」「幽王星」を提案したのは「科學畫報」1930(昭和5)年10月号の「新惑星の邦名に就て」でしたが、冥王星の名はまだ浸透はしていなかったようです。 このことについては、Wikipediaの「冥王星」の項に次の説明があります。
今日では当たり前となっている名称も、それなりに時間を要して浸透してきたことがわかります。 ところで、望遠鏡の性能の方ですが、「機体説明」には次の表示があります。
例えば、対物レンズ径が45ミリ、焦点距離が500ミリ(接眼部のドロチューブ長含めず)でF11の鏡筒。 これに焦点距離12.5ミリのアイピース(恐らくハイゲン)なら40倍といったところでしょうか。 この性能では、せいぜい月と明るい惑星を楽しむぐらいで、星雲や星団の観察はかなり難しいでしょう。 広告文の「諸君の思ひは百萬光年の星雲に漂泊せん」というのは、「想像の世界で」という条件つきですね。 この広告では、4機種の望遠鏡が紹介されています。
これだけ見れば、それぞれの性能が理解できるところですが、この広告で注目したのは、画面右上の写真にある一人の人物です。 非常に小さいながら、その説明が書かれていました。
ここに紹介のある「長田氏」とは、長田政二氏で、早期のいくつかの独立発見を除けば、日本人の名称がついた最初の彗星を発見した人物です。 長谷川一郎氏の「彗星 −発見を主として」(日本アマチュア天文史編纂会編『改訂版日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣、1995.6))には、次の記事があります。 (以下、部分引用)
長田彗星(Comet Nagata、符号C/1931 O1)は、現在の彗星愛好家の中でもそれなりの知名度はありますが、「当時はどうだったのか」という視点で考えてみた場合、例えば日本天文学会の「天文月報」などへの掲載(1931年9月号「雑報 長田彗星」)のほか、一般にはどのように認知されていたのかを知る手がかりとして、とても興味深い形、すなわち科学誌広告への登場には、とてもユニークなものを感じました。 ●1月19日(金) 晴れ。 賢治の時代の科学雑誌から、昨日に引き続き「子供の科學」です。 1935(昭和10)年9月号、表紙は「宇宙」です。 戦前のものではありますが、正確には賢治没後の刊行です。 この号は『宇宙・天文』號として、関係の記事が多数あります。
それぞれの記事(執筆者も含め)いろいろと思うところはありますが、この号ではなんといっても折込みの素晴らしい図版に感動しました。 「アインシユタイン塔」のイラストで、図版や解説をしたのは、子供の科學制作部主任の本間C人氏によるものです。 (次写真のとおり) この図は美しく見事なものですが、気になった理由は他にもありました。 東京天文台「見学の栞」(昭和24年3月1日発行)にある「塔望遠鏡」図(P18上段)の元図版と思われたからです。 この東京天文台「見学の栞」については、彗星会議でお会いした渡部潤一さんを経由して、国立天文台の「アーカイブ室新聞」(2009年11月12日第250号)にも掲載していただきました。 現存するなかでは一番古い「見学の栞」と思います。 (「アーカイブ室新聞」(2009年11月12日第250号)はこちら(pdfファイル)) 「アインシユタイン塔」の図版と比較すると、非常に良く似ていることがわかります。 ところで、昨日紹介した「子供の科學」1931(昭和6)年12月号は「新光社」の刊行、今日紹介の「子供の科學」1935(昭和10)年9月号では「誠文堂新光社」での刊行でした。 調べてみると「1935年(昭和10年)4月30日、誠文堂に吸収合併された(Wikipedia「誠文堂新光社」による)」とあり、5か月前に社名が変更されていたようです。 今日「月刊天文ガイド」で知られる誠文堂新光社は、1935年4月末からの社名だったのですね。 ●1月20日(土) 曇り時々雨。 今日は宮沢賢治の『春と修羅』の「序」の日付から100年目。 (刊行された日は4月30日で、同じく今年100年目となります)
前年(一九二三、一二、一〇)の日付を持つ「冬と銀河ステーション」を最後に『春と修羅』の日々の作品創作は終了し、新年の(大正十三年一月廿日)に「序」が書き込まれました。 『春と修羅 第二集』の「序」(収録の作品群とは裏腹に、どこか愚痴のようにも感じられてしまうもの)とも比較してしまいますが、格調の高い文章を再読。 自宅の所用を済ませ、昼から都内へ。 新橋にあるパナソニック汐留美術館で今月11日から始まった「[帝国ホテル二代目本館100周年]フランク・ロイド・ライト−世界を結ぶ建築展」を見学。 (「フランク・ロイド・ライト−世界を結ぶ建築展」はこちら(パナソニック汐留美術館)) ライトの設計に関していえば、もう理屈ではなくて感覚的に気に入っているという域ですね。 この美術館からは、旧新橋停車場駅舎の建物を上から眺めることができます。 内部を見学することもできます。 (「旧新橋停車場駅舎」はこちら(東日本鉄道文化財団)) 見学後、いくつかを立ち寄りしながら夕食。 早い時間ながら帰宅となりました。 ●1月21日(日) 雨のち曇り。 自宅での作業日。 午前中、時々強い雨となりました。 昨日のフランク・ロイド・ライト展を見て、東京ステーションホテルに宿泊した際に見た客室内の小さな椅子のことを思い出しました。 背もたれが六角形の珍しいデザインのものですが、それと似た雰囲気の椅子が展示室に置かれていました。 (だいぶ以前に「緑いろの通信」でも触れた記憶があります) これがその椅子です。 フランク・ロイド・ライトのデザインによる椅子の方は、愛知県にある明治村の旧帝国ホテル建物内で見ることができます。 これもライトのデザインの影響かも知れません。 以下のサイト「【取材】歴史ある「東京ステーションホテル」で過ごす上質な滞在」のレポートには、この椅子のレプリカが紹介されています。 (「【取材】歴史ある「東京ステーションホテル」で過ごす上質な滞在」(一休 STORY東京ステーションホテル)) ところで私が宿泊した307号室はシングルの狭い部屋でしたが、近くには川端康成の滞在した317号室もありました。 この部屋の窓からの眺めを利用して川端康成は小説を書いていました。(以下「東京ステーションホテル」(三幸エステート)より部分引用)
種村直樹『東京ステーションホテル物語』(集英社文庫)にその他のエピソードも含め詳しく出ています。 ●1月22日(月) 晴れ。 最近活字の細かい厚い本が多いので、気楽な本を斜め読み。 監修:多摩六都科学館(浦智史)、文:森山晋平、絵:伊藤ハムスター『せつない星座図鑑』(三才ブックス)を読みました。 全88星座のちょっとした神話などのエピソードから、面白い部分を抜き取って紹介したものです。 ●1月23日(火) 霧のち晴れ。 北海道余市出身の詩人の佐川ちか(1911〜1936)に関する評論本読了。 河村湊・島田龍『佐川ちか モダニズム詩の明星』(河出書房新社)です。 北海道文学館で展示を見て詩集などを購入した勢いで評論関係の出版物も読んでみました。
宮沢賢治奨励賞を受賞されてた暁方ミセイさんや、以前小樽文学館にいらした玉川薫さんも文章を書かれています。 佐川ちかの25年にも満たない生涯は、なんとヴァリエーションのある日々なのでしょうか。 年譜には、1911(明治44)年(ハレー彗星が接近した年!)2月の生まれで、亡くなったのは1936(昭和11)年1月とありました。 1月7日、世田谷の自宅で胃癌のため亡くなりますが、最後の言葉が「みんな仲良くしてね」「ありがとう」というのがとても印象的でした。 改めて詩集の方を再読する予定。 ●1月24日(水) 晴れ。 キース・ジャレットのケルン・コンサートの演奏から今日で49年目となります。 (1975年1月24日の演奏) 体調も悪く、ピアノの調子も悪い中で深夜に行われた演奏がジャズの名盤となってしまいました。 来年でちょうど半世紀。 来年は何か記念行事が行われるのでしょうか。 写真は、UHQCD(Ultimeate Hi Quality CD)という、音質を向上させたCDとして2023年に発売されたものです。 2016年発売のSHM-CDに続く最新技術のディスクです。 まだ20代の頃、天文の先輩にカセットに録音してもらったのを聴いたのがきっかけでした。 いい音楽との出会いは一生ものです。 今夜都内(東京ドーム)ではビリー・ジョエルのコンサートが行われ、知人数名が会場に出かけたようです。 以前に出かけた東京ドーム公演が思い出されました。 (以下、緑いろの通信2006年11月28日号より)
ライブの1曲目から「プレリュード〜怒れる若者」の激しいイントロがとても印象的でした。 今夜のツイッター(X)の速報では、1曲目はマイライフ(第九のテーマを入れた編曲)からスタートのようです。 行った皆さんはいい時間を過ごされたことでしょう。 今日は自宅関係の作業に追われました。 ●1月25日(木) 晴れ。 天沢退二郎さんの命日。 もう1年になるのですね。 早いものです。 今夜は、賢治学会の三陸方面へのセミナー(1998年3月21〜22日)、帰りバス車内で天沢さんがお話されたことについて書いてみます。 (当時編纂が進んでいた)賢治の年譜(新校本)では、資料の出典についても調べるようにしているが、生前の賢治と交流のあった人たちの記録に関して、純粋な自身の賢治との記憶だけではなく、皆さん愛好する賢治についてはめいめいが調べていて、その後文献等で知った知識と混ざってしまい、実は誤った情報として記憶されている場合もあるので、注意が必要だといった趣旨のお話でした。 このお話は、入沢康夫さんの書かれた「賢治の光太郎訪問」(『ナーサルパナマの謎−宮沢賢治研究余話』(書肆山田)所収)の手塚武氏のエピソードとも重なります。 久しぶりに天沢さんの詩集(『道道』より25冊目)をめくりながら詩「雨中謝辞」を読んで、また唸ってしまいました。 ●1月26日(金) 晴れ。 満月。 ビートルズの本、マイク・マッキナニー/ビル・ディメイン/ジリアン・G・ガー『サージェント・ペパー50年 ザ・ビートルズ不滅のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』完全ガイド』(河出書房新社)を読んでみました。 本装丁からして派手な、アルバム解説本(写真集)と思っていたのですが、読み始めてみると、単に曲の解説集として書かれたものではなく、アルバムが制作されるに至った時代背景や、一歩踏み込んだマニア的視点からのネタも多く、全く期待していなかったのに面白く読み終えました。
記事は「ザ・ビートルズ・アンソロジー」(1995・1996)やシルク・ドゥ・ソレイユの公演『ラヴ』(2004)の時期まで書かれていました。 この本は2017年の刊行ですが、ここ数年、ビートルズ本の出版がとても多いですね。 夜は遅くまで自宅の作業及び、原稿など。 ●1月27日(土) 晴れ。 東京国立博物館で始まった『建立900年 特別展「中尊寺金色堂」』展へ。 (『建立900年 特別展「中尊寺金色堂」』展はこちら(東京国立博物館)) この展覧会は開始間もない時期ということで、比較的空いている状態でゆっくり見学することができました。 スペースはそれほど広くはありませんでしたが、金色堂内に収められているいくつもの仏像を間近な位置(裏側も)で眺めることもできる(仏像愛好家)には嬉しい展示でした。 この展示を見て、そのまま常設展の仏像を眺めましたが、比較してみると、中尊寺の仏像がとても上品な表情に思われました。 会期は2024年1月23日〜4月14日まで。 宮沢賢治も盛岡中学時代に訪れた中尊寺、その有名な金色堂の仏像を間近に見るチャンスです。 次の写真は、写真週刊誌「アサヒグラフ」(1993年7月30日号)で、特集は「宮沢賢治[没後60年の光彩]」です。 今からおよそ31年前の雑誌で、「[緊急特集]北海道南西地震」(あの奥尻島が大きな被害を受けた地震)と書かれていて、時代を感じます。 賢治特集の記事は、以下のようなものでした。
小林敏也さんのイラストも楽しいし、寮さんの文章は、賢治との劇的な出会いのお話でした。 本誌記事には、白谷達也氏(「アサヒグラフ」出版写真部)撮影の賢治のセロ(チェロ)のケース写真が掲載されていました。 楽器本体も貴重ですが、このケースも非常に貴重なものと思います。 この写真の解説は次のとおり。
セロの内側に書かれた賢治のイニシャルと年号に言及がありますが、正しくは「1926.K.M.」と書かれたものです。 『【新】校本宮澤賢治全集第16巻(上)補遺・資料』補遺・資料編では、同全集第14巻に収録されるべき「〔署名〕」の補遺(本文補遺)として次の説明があります。
全集の第十四巻の刊行が1997年4月30日ですから、それ以前、すでに自筆署名の存在が具体的に知られていたことになります。 (複数の書物において言及) 古い雑誌の賢治記事には(日の目を見ない)面白いものが結構あります。 ●1月28日(日) 晴れ。 坂本龍一・福岡伸一『音楽と生命』(集英社)を読む。 昨年3月の刊行。 内容は象徴的なタイトルどおりのものです。 所々に出てくる、それらを具体化、明らかにされる思考を数々が納得できるものでした。 特に「星座を見ても宇宙のことはわからない」で言及される整理のポイントは、宮沢賢治の発想のルーツ(大正期の科学的思考)とも重なる部分でした。 ●1月29日(月) 晴れ。 出勤時、西空の中空(青空)に月。 松原隆彦『宇宙とは何か』(SB新書)読了。 高エネ研の研究者による宇宙論の入門書(啓蒙書)。 宇宙論はとても魅力的な学問ですが、宇宙論の研究を構成する個々の論にばかり目を向けるのではなく、その時々において全体像にも触れておくことはとても意味のあることと思います。 学問の普及啓蒙書として、さらっと楽しめました。 (新書版というのも良い!)
週の始めから疲労感が残ります。 ●1月30日(火) 晴れ。 『【新】校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)に添付される「月報」の記事について、「緑いろの通信」(2002年1月号)にそのリストを掲載しましたが、「[別巻]補遺・索引」の正誤表も含め、ここに従前のリストに追加し再掲しておきたいと思います。
改めて読み返してみたいものがいくつもありました。 今日、1月30日は、ビートルズのアップル社屋上での通称「ルーフトップ・コンサート」が行われた日(1969年1月30日)です。 55年の月日が流れました。 中学生の時、はじめて「Let It Be」のアルバムで聴いたライブ演奏の数々は、「(スタジオレコーディングに比べて)なんて荒っぽい演奏なのか、ちゃんとレコーディングすればいいのに」と感じましたが、今感じるのは、ライブバンドとしての上手さ、ノリの良さしかありません。 写真はGoogle地図で見た旧アップル社屋付近の様子です。 (朱塗した場所がライブ演奏の場所) 日本時間では31日の出来事となると思いますが、当時を偲んでドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ: Get Back』のゲット・バック演奏シーンのみを鑑賞。 (寒そう!) ●1月31日(水) 曇りのち晴れ。 1月も今日で終りです。 ポール・マッカートニー『THE LYRICS』の続き、今夜はPicasso's Last Wors(Drink to Me)(Band on the Run)〜Pretty Little Head(Press to Play)まで。 Picasso's Last Wors(Drink to Me)は、ジャマイカでのダスティン・ホフマンとの語らいから生まれた曲。 Times誌に書かれた「ピカソの死亡記事」を見せられ、遺言の「Drink to me」という新聞記事を見せられ、言葉を大切にしながら仕上げた。 Pipes of Peaceは、ジョンと僕のギター2本で作曲した。 お気に入りの本屋でみつけたタゴールの詩集から「キャンドルを灯す」というフレーズを見つけ、そこから(思い違いがあったのかも知れないが)戦争や環境に対する戦争の根絶に向けた活動の象徴としたもの。 「ワッツの暴動」に由来する言葉も入れた。 イギリスでチャートが1位を獲得したことは、僕をとても勇気づけてくれた。 Please Please Meは、ジョンのアイデアだった。 ジョンは「Please」のダブルミーニングが好きだった。 ジョージ・マーティンは「もっとテンポを上げられないかな」という注文を出してきた。 「いや、いや、いや」という感じだったけれど、「もし君たちが気に入らなければ、ボツにすればいいんだから」さらに「これは君たちの初めてのナンバー・ワンになるかもしれないよ」とも言われた。 結果、ナンバーワンになった。 僕自身とジョン、そしてジョージ・マーティンとのコラボレーションでラッキーなバンドになれた。 Pretty Boysは男性モデルの歌。 カメラマンの下品な態度に怒っているモデルの姿を想像して歌にした。 ビートルズはミュージシャンでモデルではなかったけれど、ビートルマニア絶頂期にはあらゆるものに僕らの名前や顔を載せたがる人がいて手に負えないこともあった。 アップル社や後のMPLのおかげで自分の運命をコントロールできるようになった。 Pretty Little Headの冒頭の Hillmen という言葉は、一度捨てたが何度も頭の中に蘇ってきた。 最後はぴったりはまるようになった。 文明と国家主義、そして人々の生活を守ること。 文明は小さい脳ミソ(Pretty Little Head)を悩ませなくて済むようにするために存在している。 曲を聴きながら読み進めていますが、Pipes of Peaceがなかなかいい曲だと気づかされました。 |
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