「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」の創作 1925(大正14)年4月2日
   

「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」の創作
1925(大正14)年4月2日




『春と修羅』第二集の中に「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」と題された詩があります。 この詩は1925年の4月2日の日付を持つもので、同日付けの作品として他に「〔硫黄いろした天球を〕」 「発電所」「〔はつれて軋る手袋と〕」があります。

『春と修羅』第二集 五〇六 『〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕』
そのとき嫁いだ妹に云ふ       
十三もある昴の星を         
汗に眼を蝕まれ           
あるいは五つや七つと数へ      
或いは一つの雲と見る        
老いた野原の師父たちのため     
老いと病ひになげいては       
その子と孫にあざけられ       
死の床では誰ひとり         
たゞ安らかにその道を        
行けと云はれぬ嫗のために      
  ……水音とホップのかをり    
    青ぐらい峡の月光……    
おまへのいまだに頑是なく      
赤い毛糸のはっぴを着せた      
まなこつぶらな童子をば       
舞台の雪と青いあかりにしばらく貸せと
  ……ほのかにしろい並列は    
    達曾部川の鉄橋の脚……   
そこではしづかにこの国の      
古い和讃の海が鳴り         
地蔵菩薩はそのかみの、       
母の死による発心を、        
眉やはらかに物がたり        
孝子は誨へられたるやうに      
無心に両手を合すであらう      
     (菩薩威霊を仮したまへ) 
ぎざぎざの黒い崖から        
雪融の水が崩れ落ち         
種山あたり雪の蛍光         
雪か雲かの変質が          
その高原のしづかな頂部で行はれる  
  ……まなこつぶらな童子をば   
    しばらくわれに貸せといふ……
いまシグナルの暗い青燈       

この詩では、最初に有名な散開星団、M45(プレアデス星団)、和名「昴(すばる)」が登場しています。 中国では「昴宿(ぼうしゅく)」と呼ばれ親しまれてきました天体です。 日本でも平安時代の作品、枕草子で「星はすばる、ひこぼし...」と真っ先に取り上げられています。 また、国内各地でも「六連星(むつらぼし)」「羽子板星(はごいたぼし)」といった和名が残されています。


昴(すばる)
By StellaNavigator (with The Guide Star Catalog Ver1.1)
地平座標系 1925年4月2日の夕刻

「十三もある昴の星を」を詠んでいますが、「昴(すばる)」を実際に望遠鏡などで観察すると、 星の数は100数十個からなることがわかります。賢治が13個としているのは、肉眼で見える星の数について言及している ものです。普通の視力の人なら5〜6個が見え、相当良い人で10個ぐらい、まれに10数個数える人もいるそうです。ですから、 賢治は肉眼で見えるほぼ最高の数を示して、「十三もある」と詠んだのでしょう。 さらに続く「汗に眼を蝕まれ/あるいは五つや七つと数へ/或いは一つの雲と見る」という部分も、その見え方に留意しておくと わかりやすいでしょう。草下英明著「宮沢賢治と星」では、「激しい労働のため目に入る汗に眼を蝕ばまれて五個か七個ぐらいしか 数えられなくなり、また唯の光の雲としか見ることができなくなってしまったのであろう。」と説明されています。
賢治の読んだとされる吉田源治郎氏の天文書「肉眼に見える星の研究」においても、 「第五節プレイアデスの美容」の部分で、「...鋭い視力には十二乃至十四の星が寫ります。ですから、此の星團の星數を 檢別することに依つて、視力の良否を檢査することが出来ます。」と視力により見える数が異なるため、視力検査にも使える ことが紹介されています。
シミュレーションした画面は1925年4月2日の20時の西の空です。冬の星座たちの間に 月と火星が見え、昴も西空によく見えています。詩のなかほどに「青ぐらい峡の月光……」とありますから、この晩に 月が出ていたことを裏付けるものでしょう。また昂は22時には沈んでしまいますので、それより早い時間にこの詩の風景が あったと推測することができます。


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