「噴火湾(ノクターン)」の創作 1923(大正12)年8月11日
「噴火湾(ノクターン)」の創作
1923(大正12)年8月11日
『春と修羅』の中に「噴火湾(ノクターン)」と題された詩があります。この詩は、
賢治が教え子の就職のために、サハリンへの鉄道旅行をした時創作された詩です。
詩『噴火湾(ノクターン)』より抜粋
稚いゑんどうの澱粉や緑金が
どこから来てこんなに照らすのか
(車室は軋みわたくしはつかれて睡つてゐる)
とし子は大きく眼をあいて
烈しい薔薇いろの火に燃されながら
(あの七月の高い熱……)
鳥が棲み空気の水のやうな林のことを考えてゐた
(かんがえてゐたのか
いまかんがへてゐるのか)
車室の軋りは二疋の栗鼠
《ことしは勤めにそとへ出でゐないひとは
みんなかはるがかる林へ行かう》
赤銅の半月刀を腰にさげて
どこかの生意気なアラビヤ酋長が言ふ
中略
もう明けがたに遠くない
崖の木や草も明らかに見え
車室の軋りもいつかかすれ
一ぴきのちひさなちひさな白い蛾が
天井のあかしのあたりを這つてゐる
(車室の軋りは天の楽音)
噴火湾のこの黎明な水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
以下略
この旅の賢治の日程は以下のとおりでした。(堀尾青史著「年譜宮沢賢治伝」による)
- 7月31日青森・北海道・樺太旅行に出発。
- 8月1日青森発深夜12時半の連絡船で5時函館着。札幌で時間を見はからい夜行で旭川へ。
詩「青森挽歌」「別稿青森挽歌三」「津軽海峡」。
- 8月2日早朝、旭川着。農事詩謙譲見学。稚内へ約8時間。これより樺太大泊行き連絡船。雨。詩「駒ヶ岳」「旭川」「宗谷晩歌」。
- 8月3日乗船8時間後、樺太大泊着。東海岸線で豊原市へ約2時間乗車。王子製紙に先輩、細越健を訪ね教え子の就職を依頼し、後に採用される。細越の社宅に一泊。
- 8月4日豊原から汽車で9つ目の駅栄浜へゆく。この砂浜でトシとの交信を求め、期待して過ごす状況は「オホーツク挽歌」に描かれる。
再び豊原へもどり高農先輩、後輩たちの歓迎宴を毎日受ける。詩「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」
- 8月5日不明。
- 8月6日不明。
- 8月7日樺太八景の一つ、鈴谷平原で植物採集を行う。鈴ヶ岳を中心に旭ヶ岳、豊原公園を含む一帯をいう。詩「鈴谷平原」。
- 8月8日不明。
- 8月9日不明。
- 8月10日不明。
- 8月11日帰途につき、疲れて眠っていた車中で目ざめたのは内浦湾(噴火湾)ぞいであった。函館から青森へ。盛岡へは6時間。詩「噴火湾(ノクターン)」
- 8月12日盛岡より徒歩で花巻へ帰る。
この日程表から明かなように、賢治が帰途に詠んだ詩です。函館へ向かう内浦湾(噴火湾)に沿った海沿いの路線で詠んだ
ものでしょう。
詩の中に、この詩の時間を想定させるヒントがあります。「もう明けがたに遠くない/
崖の木や草も明らかに見え」や「室蘭通ひの汽船には/二つの赤い灯がともり/東の天末は濁つた孔雀石の縞」という
一連の夜明け前の時間を示した部分です。この日の明け方の時間の天文暦を調べると、
薄明開始 2時49分
月の出 3時06分
日の出 4時37分
となります。賢治の「もう明けがたに遠くない/崖の木や草も明らかに見え」という言葉から、市民薄明(照明などなしで
生活できる明るさ:太陽高度-6度)になった時間として計算すると、4時8分となります。
シミュレーション画面はこの時間としてみました。
東の空には月齢27.8の月が出ています。おおまかですが、三日月を裏がえした
ような形です。地球照もよく見えていたことでしょう。
月齢27.8の月
月の部分を拡大
By StellaNavigator
地平座標系 1923年8月11日4時8分
偶然でしょうか、あるいは意図的だったのでしょうか、
詩の中に唐突に「赤銅の半月刀を腰にさげて/どこかの生意気なアラビヤ酋長が言ふ」という部分があります。
「赤銅の半月刀」とは、この朝焼けに浮かぶ月の姿にヒントを得たのでしょうか?安易に断定してしまうことは軽率ですが、
想像力豊かな賢治のことですから、車窓から見えた美しい月の姿からの発想かも知れません。
kakurai@bekkoame.or.jp