「オホーツク挽歌」の創作 1923(大正12)年8月4日
「オホーツク挽歌」の創作
1923(大正12)年8月4日
『春と修羅』の中に「オホーツク挽歌」と題された詩があります。この詩は、
賢治が教え子の就職のために、サハリンへの鉄道旅行をした時創作された詩です。
詩『オホーツク挽歌』より抜粋
海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
緑青のとこもあれば藍銅鉱のとこもある
むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液だ
チモシイの穂がこんなにみぢかくなつて
かはるがはるかぜにふかれてゐる
中略
わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸はさされてゐる
それら二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
とゞ松やえぞ松の荒さんだ幹や枝が
ごちやごちや漂ひ置かれたその向ふで
波はなんべんも巻いてゐる
その巻くために砂が湧き
潮水はさびしく濁つてゐる
(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)
鳥は雲のこつちを上下する
ここから今朝船が滑つて行つたのだ
砂に刻まれたその船底の痕と
巨きな横の台木のくぼみ
それはひとつの曲がつた十字架だ
以下略
この旅の賢治の日程は以下のとおりでした。(堀尾青史著「年譜宮沢賢治伝」による)
- 7月31日青森・北海道・樺太旅行に出発。
- 8月1日青森発深夜12時半の連絡船で5時函館着。札幌で時間を見はからい夜行で旭川へ。
詩「青森挽歌」「別稿青森挽歌三」「津軽海峡」。
- 8月2日早朝、旭川着。農事詩謙譲見学。稚内へ約8時間。これより樺太大泊行き連絡船。雨。詩「駒ヶ岳」「旭川」「宗谷晩歌」。
- 8月3日乗船8時間後、樺太大泊着。東海岸線で豊原市へ約2時間乗車。王子製紙に先輩、細越健を訪ね教え子の就職を依頼し、後に採用される。細越の社宅に一泊。
- 8月4日豊原から汽車で9つ目の駅栄浜へゆく。この砂浜でトシとの交信を求め、期待して過ごす状況は「オホーツク挽歌」に描かれる。
再び豊原へもどり高農先輩、後輩たちの歓迎宴を毎日受ける。詩「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」
- 8月5日不明。
- 8月6日不明。
- 8月7日樺太八景の一つ、鈴谷平原で植物採集を行う。鈴ヶ岳を中心に旭ヶ岳、豊原公園を含む一帯をいう。詩「鈴谷平原」。
- 8月8日不明。
- 8月9日不明。
- 8月10日不明。
- 8月11日帰途につき、疲れて眠っていた車中で目ざめたのは内浦湾(噴火湾)ぞいであった。函館から青森へ。盛岡へは6時間。詩「噴火湾(ノクターン)」
- 8月12日盛岡より徒歩で花巻へ帰る。
この詩のシミュレーションは、場所が樺太の栄浜(現在のスタロドゥブスコエ)、日時は創作日とされた1924年8月4日
の午前11時15分(詩に時間の記載がある)です。賢治が早朝の列車に乗り、栄浜にたどりついた時間でしょうか。
昼間ですので、太陽だけが見えています。詩のなかでは、「雲の累帯構造のつぎ目から/一きれのぞく天の青」
とも書かれていますから、雲が全天を覆いつくし、ところどころ青空が見える程度だったのでしょう。
シミュレーションのなかで、同一日時の花巻での太陽の位置もあわせて表示させてみました。
栄浜と花巻の緯度差により、南中時刻や南中高度の違いがわかります。それぞれの日の出、日の入などの時刻を比較して
みました。
「栄浜」及び「花巻」における太陽の出没時刻の違い
|
栄浜(樺太) |
花巻(岩手) |
日の出 |
4時09分 |
4時35分 |
太陽南中 |
11時35分 |
11時42分 |
日の入 |
19時00分 |
18時48分 |
薄明終了 |
21時15分 |
20時32分 |
こうしてみると、全体として栄浜の方が昼間の時間が長いことに気付くでしょう。
また、日没後から薄明終了までの時間も栄浜の方が長いことも明かです。花巻だと1時間50分なのに対し、
栄浜では2時間15分あります。この時間は賢治の好むんだ薄明穹と呼ぶ空が広がる時間帯でもあります。
また、夜空の星を見上げては北極星の高度が高いことや、南に低く這う「さそり座」
などにも目を向けていたことでしょう。ちなみにこの地では、ぎょしゃ座のカペラや北斗七星は沈むことなく見ること
ができます。
kakurai@bekkoame.or.jp