「青森挽歌」の創作 1923(大正12)年8月1日
   

「青森挽歌」の創作
1923(大正12)年8月1日




『春と修羅』に「青森挽歌」という詩が収められています。 賢治が教え子の就職のために、サハリンへの鉄道旅行をした時に車内で創作された詩ですが、 このなかにも月や夜明けを示す描写が含まれています。

詩「青森挽歌」より抜粋

前部略

おもては軟玉のモナド         
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ     
巻積雲のはらわたまで         
のあかりはしみわたり        
それはあやしい蛍光板になつて     
いよいよあやしい苹果の匂を発散し   
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく      
大ていがこんなやうな暁ちかく    
巻積雲にはいるとき……        

中略

まだいつてゐるのか          
もうぢきよるはあけるのに       

以下略

大変長い作品ですが、その中に賢治がしるした日付、1923(大正12)年8月1日の 早朝にシミュレートしてみました。場所は青森です。「暁ちかく」や「もうぢきよるはあけるのに」という言葉に 注目して、薄明開始時間からいくつかシミュレートして検討しました。
この日の青森における薄明に関する時間は、

薄明開始  2時40分   
日の出   4時31分   

となっています。ある程度恒星が消え、月が残り東の空が明るくなる時間ということで、日の出1時間前の 午前3時31分としました。
歌のなかでは、月は「半月」とされていますが、このときの月齢は18.1でやや 大きめといえます。(半月になるためには8月5日まで待たなければなりません)この違いを賢治がおおまかに詠んだと するか、あるいは空想と判断するかは非常に微妙なところです。
宮沢賢治13号/洋々社に掲載されたますむらひろし氏の「時刻表に耳をあてて 『青森挽歌』の響きを聞く」には、当時の時刻表や賢治に関するいくつかの資料をもとにどの列車や連絡船を利用 したか推理されています。


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