葛飾区再生計画案行政編


FATA REGUNT ORBEM ! CERTA STANT OMNIA LEGE

(不確かなことは運命の支配する領域。確かなことは法という人間の技の領域)

―― ローマの格言 ――

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第13章(教育)関連資料

<資料11>

(00.8.29 産経新聞『正論』)

参考記事 「社会主義教育行政」を改めよ〜公的教育、学力の崩壊を防ぐために

榊原 英資(慶應義塾大学教授)

文部省路線に異議あり

 京都大学の西村和雄教授、精神科医の和田秀樹氏等によって、2002年からの新指導要領の中止を求める国民会議が組織され、署名運動が展開されている。筆者もこの運動を全面的に支持し、多くの読者にこれに参加することを要請したい。

 というのは、この運動は従来から文部省が中央教育審議会等を使って展開してきた教育「改革」の中止と逆転を求めるもので、日本の教育界にとって歴史的意味をもつものと考えられるからだ。今年の三月未から、新たな教育改革国民会議が開催されているが、あい変わらず事務局は文部省で、メンバーにはかつての中教審委員が多く含まれている。活発な議論が行われているようだか、要は、国民会議が既存の文部省路線を逆転できるかどうかで、何度かガス抜きをされた上で、「改革」を部分修正して容認するようならば、教育改悪のトレンドに再びイエスの解答を示すにすぎないことになってしまうだろう。

 問題は、この十数年、いや、戦後50年を通じて、文部省が推進してきた教育行政が基本的にまちがったものであるということである。別に、筆者はイデオロギー的に判断を下しているのではない。結果として、文部省が最も力を入れてきた初等中等段階の公的教育の質が傾向として大きく低下してきたのは事実であり、まさに、和田氏が「学力崩壊」と呼ぶような現象が急速に進展してきたことは誰しもが認めざるをえなくなってきている。

平等主義と競争の否定

 筆者は、これは、文部省が悪しき平等主義を原則に、「社会主義的」教育行政を進めてきた結果だと考えている。文部省の寺脇研政策課長は、「競争の時代は終わった」と次のようにのべている。「競争を勝ち抜くことを目標とした20世紀的考え方は終わり、21世紀は共生の時代へと変わっていくのです。…勉強のできる子だけがすばらしいのではありません。学校の試験であまり点数がとれなくても他の面ですばらしいところがあり、その力を地球のために、それぞれ発揮していくという時代になっていきます。」(寺脇 研、「21世紀 教育は変わる」)

 寺脇氏と文部省はこの平等主義哲学と競争の否定の理念にもとづき、業者テストを廃止、偏差値を学校から追放し、カリキュラム削減を行ってきたのだ。寺脇氏らはこうした「改革」によって、「共生のための差別廃止」が一歩進んだと考えているようなのだが、競争を廃し、能力を客観的に評価する基準を追放することによって、内申書や進路指導を通じての教師達の恣意的権力を圧倒的に増加させ、教師と生徒の関係を典型的権力関係にかえてしまったのだ。多くの良心的教師は決して生徒に対して権力者になろうとは思っていないだろう。しかし、多くの子供たちが権力者としての教師を嫌うようになってきたとしても不思議ではない。登校拒否の理由で最も多いのは「いじめ」のような同級生とのトラブルではなく「先生嫌い」だそうである(高嶋哲夫、小篠弘志「塾を学校に」)。権力者や官僚としての教師ではなく、教えるプロとしての教師の育成に、文部省や教育委員会はもっとエネルギーを使うべきであろう。

巨大過ぎる文部省権限

 平等主義の建前を前面にだしつつ、恣意的権力を増大させ、あげくのはてに、権力にいためつけられたものからの反乱に遭って、システムが崩壊する…。どこかできいたようたストーリーである。そう、共産主義体制の1989年以来の瓦解と、日本の公立学校のそれはかなりの類似点をもつ。当然である。戦後日本の教育行政は、建前のうえでの自由と平等を、厳しい中央からの規制と怒意的権力の行使によって実現しようとした社会主義行政だったのだから。しかも、それは、日教組が社会主義イデオロギーを奉じていたということだけから生じたものではない。一見対立しているかに見える日教組と文部省の二人三脚でもたらされた社会主義教育行政が日本の公的教育と、子供達の学力を崩壊させつつあるのだ。

 事実、日本ほど教育に関する規制が厳しい国は世界に余りない。ちなみに、学校教育法第2条は「学校は国、地方公共団体及び私立学校法第3条に規定する学校法人のみがこれを設置できる」としている。そして、私立学校法において、所轄庁(つまり文部省)が私立学校の設置廃止、大学の学部、学科、大学院と大学院の研究科の設置廃止等の広範な権限をもつことが規定されている(同法第5条)。つまり、我が教育体系にあつては、文部省の許可なしにおよそ学校というものは設立できないことになっそいるのである。

 学校設立についてある種のルールなり基準が必要だと論じることは出来るかもしれないが、これだけ巨大な設置・廃止についての権限を文部省に与える必要があるのだろうか。これこそ日本の教育をめぐる、まず最初に論じられなくてはならない点であろう。我々は、悪平等主義にもとづく文部省の社会主義教育行政を改革して、はじめて日本の教育をまともなものに戻せるのではないだろうか。(さかきばら えいすけ)

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正論「ゆとり教育批判の榊原論文」に大島文相が回答   00.10.11産経新聞

     学校の役割は知識の取得だけではない

       「学力の実質化」を狙う新学習指導要領

         「ゆとり」という言葉は誤解されている

 前大蔵省財務官で慶応大学教授の榊原英資氏が今夏、毎日新聞と産経新聞で、文部省の「ゆとり教育」路線と教科内容を約3割減らす平成14年度からの新学習指導要領を批判する論文を書いた。これに対し、大島理森文相は本紙に次のような回答を寄せた。

 (教育の目的)

 教育は、@基礎的な学力(読み・書き・計算、世界の中で生きるための外国語や情報活用能力)の向上、A社会性や倫理観、正義感などの共同体のルールの体得、H歴史、文化の伝承、C知的、人的リーダーの発見と育成――などの役割を担っており、これにより個人に、社会で生きていくための「術(すべ)と価値観」を組織的に身に付けさせると同時に、社会や国家など共同体を維持していくという社会システムとしての機能を持つものである。

 教育は、家庭や地域社会においても担うことは当然であるが、これまで学校が大きな役割を果たしてきたのであり、これからも引き続き学校が主要な役割を担う必要があると考える。学校教育において、学力の向上を図ることは当然のことであるが、共同体のルールを教え、子供たちに社会性を身に付けさせることも学校の重要な役割なのであり、知識の取得だけに役割を限定することは適切ではない。

 (戦後教育の評価)

 わが国の戦後教育は、高校・入学への進学率の上昇など、教育の普及を通して、平均的国民の教育水準を高め、経済社会発展の原動力となった。また、私自身の記憶として、個人の価値、自由の尊重ということをよく教えられ、それが印象に残っているが、こうした教育が民主主義の定着に大きな役割を果たしたと思う。

しかし、一方で欠けたものもある。一つは、平等主義の行き過ぎによる画一化、知識の詰め込み重視。二つ目は、青少年に「孤」の世界が広がり、青少年非行や校内暴力、いじめなどの問題が広がったこと。

第三に、個人の尊重の行き過ぎで「公」の軽視という傾向が表れたこと。それによって地域社会と国家の秩序への維持に共同で責任を負い、より良い社会を主体的に作り上げていくという意識(公民としての意識)が不足したこと。文化の持続性を学ぶ歴史教育も十分でなかったこと。

 また、近年の問題点として、何のために勉強するのかという意義が不明確になり、子供たちの学習への興味や意欲が薄らいでいること、さらには、自らの問題としてとらえ、イニシアチブをとることが不足していることなどが挙げられる。

 こうした反省を踏まえ、現在、カリキュラムの改革を中心とした諸改革を進めている。

 (新学習指導要領のねらいおよびこれを実現するための手だて)

 新学習指導要領で目指しているのは、習得した知識に基づき自ら考え、問題を解決する能力の育成である。すなわち、学習する意欲の醸成を視野に入れながら、基礎・基本は確実に習得した上で、それをさまざまな場面で実際に生かしていく力の育成、いわば「学力の実質化」をねらっている。

 こうした考え方の下に、子供の能力や個性は多様であるという前提に立って、平均値に合わせた一律一斉指導からの転換を図っている。

 具体的には、全員が一律に学ぶべき内容は削減するが、基礎・基本について、全員が確実に習得できるよう繰り返し徹底した指導を行う。この削減が批判の対象となっているが、いくらたくさんの内容を教え込んでもそれを十分に理解できないまま終わっていく子供も多い現状と比べ、確実に基礎・基本の力をつけることができる。

 同時に、学習指導要領は、最低基準であり、理解の速い子には、より高度な内容を教えることも可能であることを明確にする。これまでもそうした建前ではあったが、現実には、全員一律の対応になっていた。このため、今回は、この趣旨を現場に徹底する。同時に、選択教科の拡大やいわゆる習熟度別学習指導など多様な指導方法を通じて子供の個性や能力に応じた指導を進めていく。

 さらに、「わかる」喜びや「本物」に触れる感動を味わわせることによって学習意欲を醸成するため、「総合的な学習の時間」を設定するなど体験学習や課題学習を重視し、その充実を図っているところである。また、教科によっては20人程度のグループ指導が可能となるような教員配置を行うなど、条件整備も併せて行いたい。

 「ゆとり教育」という言葉に対しては誤解がある。すたわち、「ゆとり」は、心のゆとりが大切なのであり、勉強にはきちんと取り組み、確かな基礎学力を身に付けてほしい。同時に、スポーツ、文化活動、ボランティア活動などさまざまな体験を通じて子供たちが人間性豊かに成長してほしいと願っているのである。

 (教えるプロとしての教師の育成)

 専門性に裏打ちされた教えるプロとしての教師の育成が重要という点は、私も同感である。

 このため、例えば、専修免許状(修士課程修了レベル)の取得のための大学院修学休業制度、民間企業等での社会体験研修など、あらめる方法によって教員の資質の向上に努めている。さらに、優れた知識や能力を有する社会人を教員として迎えるため、特別免許状制度や特別非常勤講師制度を設けているが、その活用を図っていきたい。

 同時に、教員についてきちんとした評価を行い、それに基づいて適切な措置をとるため、教員評価システムの改善充実を図りたい。

 (おわりに)

 最後に、文部省は、教育行政の成果について客観的な分析を行い、これに基づき説明責任を果たしていくという姿勢が十分ではない面があったことは事実である。このため、こうした反省も踏まえ、全国的な学力の調査などの取り組みも始めている。

 また、教育をよくするためには、学校、家庭、地域社会が手を携えて努力していかなければならない。学校教育の充実とともに、家庭、地域社会の教育力の向上が不可欠である。

 文部省では、こうした認識に基づいて、国民の皆さまの意見を謙虚に受け止め、よりよい教育に向けて改革を進めていきたいと考えているので、今後とも叱咤(しった)激励をいただきたい。

文部大臣 大島理森

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大島理森文相の「回答」に反論する          (00.10.13 産経新聞『正論』)

 文部省の既定路線で本当にいいのか

慶応義塾大学教授 榊原英資

学校は知識取得の場所

 私の「ゆとり教育批判」についての大島理森文部大臣のコメント(産経新聞10月11日朝刊)は筆者のいくつかの指摘に関してご理解をいただいた面もあり、その点では感謝している。しかし、にもかかわらず、文部省の既定路線は基本的には正しかったと論じ、9月15日の教育課程審議会の中間報告等では既定路線をさらに強化する方向を示している。

 以下、大臣の論点にそって反論を試みることにする。

 まず、筆者が、公的教育の目的が主として知識の取得に限定されるべきだとしたことに対し、共同体のルールの体得、歴史、文化の伝承、知的、人的リーダーの育成等も教育の重要な機能であると指摘されている。この指摘に異議はない。しかし、こうした機能も知識を取得する場所としての学校ということを軸に果たされるべきである。例えば、共同体のルールの体得にしても、授業での私語・遅刻、あるいは暴力等で授業を妨害し、混乱させることに対し、厳粛なルールを明示し、これを実行することによってなされるべきだろう。

 今、アメリカではゼロトレランス(寛容さなしの指導)といって、ルールを犯した生徒に対して生徒側の事情を聞くことなく一律に罰則を規則どおりにただちに適用して責任をとらせるという方法がはやっていると聞くが、今までの日本の公的教育では明らかにトレランスのレベルが高すぎたのではないか。実は筆者が40年弱前にアメリカの公立高校へ留学した時、授業開始と同時に教室の鍵をしめ、遅刻を一切認めなかったことに驚いたことがあった。ゼロトレランスのポリシーは過去においてもかなり実行されていたようである。

秩序ある学舎の復活を

 歴史、文化の伝承も、歴史や地理あるいは古典をカリキュラムのなかにより広く組み込み、基礎的な学力の充実をさらにはかることによってなされるべきなのではないだろうか。しかし今までのカリキュラム構成では一度も日本の歴史や地理を本格的に学ばずに教育課程を終えることができる。

 かつて、日本では四書五経を読ませることによって徳育教育を行ってきた。地理、歴史そして古典の軽視は、今後の指導要領改定にあたって、まず正されるべきことの一つではないだろうか。それによって、つまりそうした知識の取得によって、はじめて、歴史や文化の伝承が可能になる。

 知的、人的リーダーの発見といわれるが、特に優秀な人間に対するエリート教育が今までどれ程行われてきたのか。能力別学級編成等を強化して、リーダーを育成するということとは全く別の方向で教育改革は進んできたように思われるのだが。

 いずれにせよ、教育の様々の機能を充実させるために基本的に大切なことは学校を、知識の取得ということを軸に、秩序ある学舎として復活させることではないのだろうか。

 大臣は、平等主義の行き過ぎによる画一化を問題点として認めておられる。しかし、それに続いて、知識の詰め込み重視の問題点を指摘し、画一化が受験勉強等の激しい競争によってもたらされた面があることも示唆されている。受験競争、そのための詰め込み教育によって画一化がもたらされたという認識はかなり前から一般的になっているが本当にそうだろうか。

競争否定の基本的理念

 少なくとも、資本主義経済社会においては、競争は、企業家精神・創造的破壊・多様性・個性化をもたらす基本的要因だとされている。競争のもつ様々な問題点については、対応しなければならないにしても、競争そのものを否定して、個性化とか多様化というのは論理的に矛盾した立論ではないだろうか。

 画一化は、悪平等主義、あるいは論理的に定義のできない生きる力等という概念を使って競争を否定することによってもたらされると考えるのが筆者にはごく自然に思われる。そして、今回の教育課程審議会中間報告書では、この競争の否定の論理をさらに進め、相対評価から絶対評価へ、また、知識だけではなく、意欲や判断力も測り、生命尊重や公徳心も行動評価の対象とするという。聞こえはいいが、一体、誰が意欲や生命尊重、公徳心をどう客観的に評価できるのか。

 結局のところ、こうした必ずしも客観的に定義のできない評価基準の導入は、先生の評判のいい、仲間うちで評判のいい、いわゆる表面的ないい子をつくるだけで画一化はますます進むことになってくるのだろう。

 私が文部省行政を社会主義教育行政と呼んだのは、文部省のいわめる教育改革の基本的理念が競争の否定であり、平等と協調の名のもとに、画一化され、表面的には権威に従順な羊のような子供達を作ることにあるのではないかと感じるからである。

 秩序を守らせ、共同体のルールを教えることは重要である。しかし、それを守ったうえで、腕白でもいい、個性的でタフな(つまり、生きる力をもった)子供達を育てるためには、勉強でもスポーツでもまず競争を促進し、その上で、協調性を身につけさせることこそが必要なのではないか。勉強をさせすぎる、スポ−ツに熱中させすぎたら「ゆとり」がなくなる等ということは決してないのだから。 (さかきばら えいすけ)


<資料12> 00.10.14 産経新聞『正論』

 暗記型から思考型の勉強に変えよ

   優れた教師は子供の心に火を点ける

 元東北大学総長・岩手県立大学学長   西澤 潤一

 良き教育者たれの教え

 大学で研究していればよかった時代でも、「八木アンテナ」で知られる八木秀次先生の「研究をやるものは自ら良き教育者たれ」という教えに従って、学生に講義をした。ただ、当時でも学生の変質に驚いて、「高校の先生に意見を言ったらどうでしょうか」と言ったことがある。すると、当時の所長に「試験をして入れたのだからこちらの責任。他人に意見を言うのは越権行為」と言われた。そうした大学のセクショナリズムに腹を立てたのは大分昔の話である。

 共通一次試験が開始されて「なかなかいい問題じゃないですか」と言ったら、このときも「似たのばかりで面白いのがいなくなった」といわれた。要するに、輪切り現象のはじまりであった。どういうわけか、北大応用物理学科の北村正直先生がわざわざ訪ねてこられて、マルチプルチョイス問題がよくない。同じマルチプルチョイスでも問題をうまく構成すれば思考能力テストがちゃんと出来るようになると教えていただいたこともあった。

 しかし、その後も入試問題はちっともよい方向に向かなかったようで、学校間の偏差値序列に競争が集中した感があったが、一期校二期校時代には、東北大学には余り影響はないと思っていたが、今卒業生を見ると、不思議に序列が出来ていたように思う。

 前期後期分離で学校間偏差値序列がはっきりしてこの競争は一応終結した感があって、入学志願者は必死になって偏差値を上げるために汲々として暗記に集中する今日の姿になった。

 物を考えない学生たち

 そして、高校入学、中学入学、小学校入学から幼稚園入園にまで拡大して子供達の成育まで曲げられてしまった。大体物を考えない癖をつける。一所懸命に考えるのを抑制して、より多く暗記しようとしている。だから東海村で起きたジエー・シー・オー(JCO)の臨界事故などの事故が予想出来ない。

 事故が起こってもどうしてよいか分からない。物を考えないから新しいことを考えつかない。覚えていることと違うことが出てきても、どうしてよいか分からないからデータを無視する。発見からの逃避である。考える習慣を回復させなければならない。

 勉強する意欲が急速に減少して来た。親に言われて一部上場企業に入ろうとする。そのためには高偏差値校を出ればよいのだから、実力などつけなくても出られればよいので、遊ぶための金稼ぎにアルバイト(本来の意味と違って金稼ぎと書くべきだが)に精を出す。企業は高給で引っ張るから大学に残るのは昔のように最優秀の卒業生などというわけにはいかなくなる。そのうちに残ったのを採用するなどというひどいことになる。

 「種子籾は残しておけ」というのは飢餓の時なのだが、大学の飢餓時代だというのに種子籾は品質が低下する一方である。なのに、昔から企業人も一部の人を除いて、たいていの人はやがて入社して来る社員の質が下がるなどとはほとんど考えていなかったようである。学生は何のために勉強するのかが分からなくなった。だから放っておくと研究しようとしない。

 昔は日本の科学技術を背負ったつもりでいたから、自分でやることを見つけて研究した。それどころではない。やることが多すぎて何時でも夢中になっていた。この点は特に高校・大学卒業生に強く、入社当初は遥かに会社の役に立った高専校出身者を追い抜いた。

 競争心だけは旺盛に

 今は同僚と競争して勝つことしか考えていない。隣の会社がどうなろうと余り気にしないし、他の国が進んでいれば教えてもらおうと考えても競争はしない。そのくせ競争心だけは旺盛で、油断も隙もあったものではない。恩讐を超えて、すべてを利用して自分の勝利をはかる。

 さて、以上のような状況でどこに解決を求めるか。家庭では躾がなくなって、利己主義・金権尊重になってしまったので、ここでは解決できない。感性は専ら幼児期に定まると思われるから、家庭で他人に迷惑をかけることは社会人の絶対になすべきことではないと教えて欲しいが、既に親がおかしくなっているから、これも無理である。

 学校の先生も然り。「凡庸な教師はただしゃべり、ちょっとましな教師は理解させようと努め、更にましな教師は自らやって見せる。最も優れた教師は子供達の心に火を点ける」という。今の教師は理解させようとすると高偏差値校に入る子供が減って失職する恐れもあるから、ただしゃべる教師となる。

 結局私が到達したのは、自己体験から自己の人生を考えることの出来た旧制高校のような教育を何らかのかたちで、いろいろな教育辣程のうちの一ルートとして復活することである。時期は思春期、おそらく17歳、迷いの時であるが、今は受験用丸暗記の苦行の真っただ中にいる。中高一貫を五年にして飛び級を認めて何とかなる。この遊びの期間は三年として、容易な入学試験で必ずどこかの大学に入れて専門教育を実施し、ここからは厳しくかつ自主的な勉強をさせるべきだろう。

 生徒の意欲は、世界の人々が「日本っていい国だね」と言ってくれるようにしたいという、いわば愛国心を持たせる過程でこそ出るものだと考えている。

(にしざわ じゅんいち)


<資料13>

ノーベル賞。日本人の受賞者

@湯川秀樹(1907-1981)1949年、物理学賞。原子核の内部に働く力(核力)に「場の理論」を取り入れ、未知の素粒子(中間子)の存在を予言した。

A朝永振一郎(1906-1979)1965年、物理学賞。くりこみ理論を提唱し、素粒子物理学に大きな影響を持つ量子電磁力学を発展させた業績で、米国の2人とともに受賞。

B川端康成(1899-1972)1968年、文学賞。初期の叙情的作品「伊豆の踊子」を経て「雪国」で日本の美の世界を構築。数多くの作品が海外で翻訳、出版された。

C江崎玲於奈(1925-)1973年、物理学賞。トンネル効果を利用して、電圧を増すと電流が減る負性抵抗特性を持つエサキ・ダイオードを発明。現在、芝浦工業大学学長。

D佐藤栄作(1901-1975)1974年、平和賞。首相在任中の非核三原則や、核拡散防止など国際平和運動を推進し太平洋地域の平和確立に貢献した業績が認められた。

E福井謙一(1918-1998)1981年、化学賞。化学反応を起こすとき、分子中のどの電子が重要性を持つかを「フロンティア電子理論」によって解明した。

F利根川進(1939-)1987年、医学生理学賞。生体を病原体から守る多様な免疫抗体が作られる過程を遺伝子レベルで解明した。現在、米マサチユーセッツ工科大教授。

G大江健三郎(1935-)1994年、文学賞。個人的なものを深く掘り下げ、普遍的なものを表現することに成功、と評価された。冷戦など常に政治的状況を反映した作品を発表した。

H白川英樹(1936-)2000年、化学賞。東京生まれ。(業績は下掲)父親は陸軍軍医で、台湾や旧満州などで少年時代を過ごす。44年、戦禍を避けるために母親の実家のある岐阜県高山市に転居。高山市立第二中学校(現・松倉中)、県立高山高校を経て61年、東京工業大学理工学部卒業。66年、東京工業大学大学院理工学研究科博士課程を修了し、同同大学資源化学研究所助手に。76年から3年間、米ペンシルベニア大学博士研究員を務めた。79年、筑波大学物質工学系助教授に着任。72年から今年3月まで筑波大学教授。現在名誉教授。専攻は高分子化学。83年に「ポリアセチレンに関する研究」で高分子学会賞を受賞。息子2人。現在は横浜市で妻、知預子(ちよこ)さんと2人暮らし。

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なぜプラスチックに電気が伝わるか

電子を奪うヨウ素添加→“空席”埋めるように移動

 電気は、電気の運び役である「電子」が移動することで流れる。電気が流れる性質のことを「導電性」という。導電性物質の代表である金属は金属原子の間を電子が自由に動き回っているため、電気が流れる。

 炭素原子が鎖のように連なった構造を持つプラスチック(高分子=ポリマー)は炭素が電子をしっかりつかまえて放さないため、電子は動くことかできず、電気は流れない。このため絶縁材料として広く使われている。

 白川名誉教授らは、プラスチックに、ある種の不純物を添加することで、電気が流れるプラスチック(導電性ポリマー)を世界で初めて開発した。

 実験に使ったプラスチックは「ポリアセチレン」。ここに電子を奪う性質があるヨウ素を加えると、炭素原子に結びついていた電子が、ヨウ素に一つ引き抜かれ、もともと電子があった場所に穴のような“空席”ができる。

 空席ができると、これを埋めるように、すぐ隣にある炭素の電子が移動。すると新たな空席ができ、その隣の電子がまた移動するといった現象が繰り返され、電子が連続的にに移動して電気が流れる仕組み=イラスト。

 電子はマイナスの電荷を持っているため、電子が抜けた後の空席は、反対のプラスの電荷を帯びる。磁石がS極とN極で互いに引きつけ合うように、電気ももプラスとマイナスがくっつき合う性質がある。電子が隣の空席に移動するのは、このためだ。ポリアセチレンには、電子が動きやすい二重結合があることも関係している。開発に成功した導電性ポリマーは、普通のプラスチックと比べて1000億倍以上も電気が流れやすく、金属に近い導電性を持つ。金属と比べて軽い利点もあり、軽量化が求められる電子機器の部品材料として、応用研究が一気に加速した。

 導電性ポリマーの実用化が最も進んでいるのは、携帯電話に内蔵されている小型の蓄電池だ。直径5_ほどの大きさで、時刻などのメモリーを記憶するためのバックアップ用電池としてカネボウが平成元年に商品化。重金属に替わる電極材料として使われ、環境にやさしいという特徴もあり、携帯電話の25%に使用されているという。

 白川名誉教授らが開発したポリアセチレンは、酸化しやすく不安定なことが欠点だった。しかし、その後、分子構造を改良した安定的な導電性ポリマーの開発が各方面で進み、その応用範囲はコンデンサーやカーオーディオの表示画面などに広がっている。(00.10.18 産経新聞)


<資料14>                                             (cf.1310)

福島県三春町教育長選考基準

                            平成12年9月

                            三春町教育長選考委員会

 1 教育長の職務権限と資質

  ※一般的な資質としての、教育哲学と人間関係能力(人柄と信頼感)

  ※三春町の教育長職に専念できる一身上の条件と熱意

 (1)行政の専門職として

  @ 行政と行政法の基礎知識(現代社会への理解力を含む)

  A 教育行政の独自性の認識、教育委員会制度の趣旨の理解

  B 教育行政の経営的要素の認識及び三春町の行政課題との連携(ビジョン構想力、財政認識含む)

 (2)教育専門職として

  @ 学校、地域への指導的立場と配慮

  A 子どもや教師、親などの直接当事者への配慮

  B 学校の自立性・自律性と学校経営の支援者としての行政、特に三春町の学校改革の理念、個性化、教育、オープンスペース、教科センター方式等への理解

 (3)町行政との連携と協力

  @ 行財政上の経営感覚

  A 地方分権化時代の行政改革の課題意識

  B まちづくりと地域住民参加の意義の理解、特に三春町に対する理解

 2 論文審査についての評価基準

  ※上記1に関して考慮するが、主には、次の事項への言及があるのが望ましい。

 (1)地方教育行政改革のビジョンと自己の教育哲学

 (2)学校と地域社会が抱えている課題への認識と改革の展望(生涯学習社会)

 (3)教育(学校)が果たす社会機能、子どもの人権・福祉への理解と共感


<資料15>

教育改革国民会議 中間報告

はじめに

 教育改革国民会議は、内閣総理大臣のもと、平成12年3月に発足し、このたび中間報告を取りまとめた。私たちは、今後この中間報告をもとに公聴会などを通じ、国民の皆さんの意見を伺い、さらに議論を進め最終報告を取りまとめることとしている。まだ中間報告の段階ではあるが、私たちは以下の17の提案について、速やかにその実施のための取り組みがなされることを強く希望する。

1、いまなぜ教育改革か

 人間が人間である最大の特徴は、広い意味での教育を通じて成長することである。教育を通じ、先人が築いてきた知恵や文化を身に付けるとともに新しい考え方や行動を編み出していく。また、教育によって、それぞれの才能を開花させ一人の人間として自立するとともに、他の人を尊重し、家族や社会の一員として、誇りと責任を持つことを学ぶものである。教育の問題は、教育を受ける人がよりよき存在となるために重要であるにとどまらず、社会や国の将来を左右するものであり、教育こそ人間社会の存立基盤である。

 ひるがえってみるに、日本の教育は、今、大きな岐路に立っており、このままでは立ちゆかなくなる危機にひんしている。

 いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊など教育の現状は深刻である。日本人は、長期の平和と物質的豊かさを享受することができるようになった一方で、自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている。また、人間社会に希望を持ちつつ、社会や人間には良い面と悪い面が同居するという事実を踏まえて、それぞれが状況を判断し適切に行動するというバランス感覚を失っている。

 21世紀は、IT(情報技術)や生命科学など、科学技術がかつてない速度で進化し、世界中が直接つながり、情報が瞬時に共有され、経済のグローバル化が進展する時代である。良くも悪くも世界規模で社会の構成と様相が大きく変化しようとしており、既存の組織や秩序体制では対応できない複雑さが出現している。人間の持つ可能性が増大するとともに弱点もまた増幅されようとしている。従来の教育システムは、このような時代の流れにとり残されつつある。

 言うまでもなく、教育は社会の営みと無関係に行われる活動ではなく、今日の教育荒廃の原因は究極的には日本の社会自体にあると言える。しかし、社会全体が悪い、国民の意識を変えろ、というだけでは、責任の所在があいまいになり、結局、だれも何もしないという無責任状態になってしまう。

 戦後の日本の教育は、「他人と違うこと」「突出すること」をよしとしなかった。しかし、「だれでも同じに」では、結局、一人ひとりの個性の発揮を停滞させ、ひいては社会をけん引するリーダーが生まれなくなってしまう。また、違いを認めないということは、平等を重んずるのではなく、むしろ、教育に携わる者の責任感と勇気の欠如を示すものではないだろうか。学校や教職員、教育行政機関とその構成員は、相当の責任を負わなければならない。戦前の中央集権的な教育行政の伝統が関係者の意識の中で払しょくされない面がある。納税者の負託に結果としてこたえられなければ、職責を果たしているとは言えない。その在り方を厳しく問うことが必要である。

 教育は社会サービスであり経済活動とはおのずと異なる面を持っている。しかし、教育行政や教育機関の情報を開示し、適切な評価を行うことで健全な競い合いを促進することが、教育システムの変革にとって不可欠である。学校は学ぶための場であり、その本来の機能を果たすようにしなければならない。教育機関はぬるま湯につかっていてはならない。親は子どもの学校が安心して通わせられる良い学校であってほしいと願っている。学校に刺激を与え、それぞれの学校が不断に良くなる努力をし、成果が上がっているものは相応に評価されるようにしなければならない。

 子どもの行動や意識の形成に最も大きな責任を負うのは親である。また、成長に応じて子ども自身の責任も大きくなる。それが教育の基本である。しかし、子どもや親が孤立していたのでは教育は十分に効力を発揮し得ないし、親の教育こそが問題であるという場合も少なくない。家庭と教育機関と地域社会がそれぞれの使命、役割を認識し、より効果的な教育のために十分な連携を行うことが重要である。

 日本人や日本社会は、これまで、その時代の中でそれなりに教育の営みを大切にし、教育の充実に力を注いできた。明治政府発足時、第二次世界大戦の終戦時など、幾度かの大きな教育改革が行われてきた。これまで、日本の教育は、経済発展の原動力となるなど、その時代の要請にこたえるそれなりの成果はとげてきた。しかし、21世紀の入り口に立つ私たちの現実を見るなら、現在の教育は危機的な状況にあることは間違いない。私たちは、今後の教育システムを改革し改善するために、だれが何をすべきかを具体的に示した改革案を提示する。

2、人間性豊かな日本人を育成する

▽教育の原点は家庭であることを自覚する

 教育という川の流れの、最初の水源の清冽(せいれつ)な一滴となり得るのは、家庭教育である。子どものしっけは親の責任と楽しみであり、小学校入学までの幼児期に、必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である。家庭は厳しいしつけの場であり、同時に、会話と笑いのある「心の庭」である。親が人生最初の教師であることを自覚すべきである。

■――― 提言 ―――■

(1)親が信念を持って家庭ごとに、例えば「しつけ三原則」と呼べるものをつくる。親は、できるだけ子どもと一緒に過ごす時間を増やす。親は、PTAや学校、地域の教育活動に積極的に参加する。

(2)地域の教育力を高めるため、公民館活動など自主的社会教育への支援を行う。

(3)企業は、年次有給休暇とは別に、教育休暇制度を導入する。

(4)国および地方公共団体は、家庭教育を支えるため、親への教育やカウンセリングの機会を積極的に設ける。家庭が多様化している現状を踏まえ、教育だけでなく、福祉などの視点もあわせた支援策を講じる。

▽学校は道徳を教えることをためらわない

 学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視し、自由と規律のバランスの回復を図ることが重要である。また、善悪をわきまえる感覚が、常に学問に優先して存在することを忘れてはならない。

■――― 提言 ―――■

(1)小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」などの教科を設け、専門の教師や人生経験豊かな社会人が教えられるようにする。そこでは、死とは何か、生とは何かを含め、人間として生きていく上での基本の型を教え、自らの人生を切り開く高い精神と志を持たせる。

(2)人間性をより豊かにするために、読み、書き、話すなど言葉の教育を大切にする。伝統や文化を尊重するとともに、古典、哲学、歴史などの学習を重視する。また、芸術・文化活動、体育活動を教育の大きな柱に位置付ける。

(3)子どもの自然体験、職場体験、芸術・文化体験などの体験学習を充実する。また、「通学合宿」などの異年齢交流や地域の社会教育活動への参加を促進する。

▽奉仕活動を全員が行うようにする

 今までの教育は要求することに主力を置いたものであった。しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で温かい潮流を作ることが望まれる。個人の自立と発見は、自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。

■――― 提言 ―――■

(1)小・中学校では2週間、高等学校では1ヵ月間、共同生活などによる奉仕活動を行う。

(2)将来的には、一定の試験期間をおいて、満18歳の国民すベてに1年間程度、農作業や森林の整備、高齢者介護などの奉仕活動を義務付けることを検討する。

(3)奉仕活動の指導には、各業種の熟練者、青年海外協力隊の経験者、青少年活動指導者などの参加を求める。奉仕活動の具体的内容は、子どもの成長段階などに応じたものとする。

▽問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない

 一人の子どものために、他の子どもたちの多くが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりすることのないようにする。不登校や引きこもりなどの子どもに配慮することはもちろん、問題を起こす子どもへの対応をあいまいにしない。その一方で、問題児とされている子どもの中には、特別な才能や繊細な感受性を持った子どもがいる可能性があることにも十分配慮する。

■――― 提言 ―――■

(1)問題を起こす子ども以外の子どもたちの教育環境を守る。

(2)問題を起こす子どもに対する教育の方策を講じる。

(3)これら困難な問題に立ち向かうため、教師の資質の向上、とりわけ人格的権威の確立は不可欠である。

▽有害情報等から子どもを守る

IT社会の進展に伴って、子どもたちが大量の情報にさらされるようになった。そのことは、学習の機会を提供するとともに、弊害ももたらす。「言論の自由」と同時に「子どもを健やかにはぐくむこと」の大切さは、あらゆる情報産業関係者に自覚されるべきであり、ポルノや暴力、いやがらせや犯罪行為を意図的に助長する情報などから子どもたちを守る仕組みが必要である。

■――― 提言 ―――■

(1)複数のNPO(民間非営利団体)や研究グループなどの民間団体が、自主的に有害情報等をチェックする。その方針を公開して情報のフィルタリングを実施する。国はそのようなシステムの開発や運用を促進し支援する。

(2)保護者団体などが、有害情報を含む番組などのスポンサーとなっている企業へ働きかける。こうした取り組みを実施するための支援策の形成と法整備を進める。

3、一人ひとりの才能を伸ばし創造性に富む日本人を育成する

▽一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する

 一人ひとりの資質や才能を生かすためには、これまでの一律的な教育を改める必要がある。基礎的な知識を確実に身に付けさせるとともに、それぞれが持って生まれた才能を伸ばし、考える力を養う学習を可能にすべきである。なお、5歳から7歳までの幅の中で、親と学校の判断によって、小学校に入学できるように義務教育開始年齢を弾力化するという議論も出されたが、この点については今後、さらに検討する必要がある。

■――― 提言 ―――■

(1)小人数教育を推進する。

学年の枠を超えて特定の教科を学ぶことができる習熟度別学習システムを導入する。

(2)大学入学年齢制限を撤廃する。

(3)過度の受験競争を減らし、子どもたちの学習環境の選択の幅を広げるため、公立学校の半分程度を中高一環教育校とする。

(4)高校での学力向上を目的として、学習達成度試験を実施する。

▽記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する

 小学生は生き生きしているにもかかわらず、中学校、高校、大学と進むにつれて日本の子どもはくすんでくるという指摘がある。その背景には、中学時代から大学受験を意識しすぎて、偏った勉強しかしないことがあろう。その意味でも、大学入試は、記憶力のみを測る一面的なものであってはならない。

■――― 提言 ―――■

(1)高校での学習達成度試験の活用、面接、小論文、推薦、アドミッション・オフィス入試などを採用し、大学人試を多様化する。

(2)国際化を促進し、高校卒業後の学生に社会体験などの時間を与える観点から、大学の9月入学を積極的に推進する。

(3)一定の割合の受験生を暫定的に入学させ、一年間の成果によって改めて合否を判定する「暫定入学制度」を実施できるようにする。

▽プロフェッショナル・スクールの設置を進める

 わが国には、政治、経済、環境、科学技術、その他新しい分野で世界をリードしていく識見を持ったリーダーが必要である。また、博士号や修士号などを有する専門家が活躍する諸外国と伍(ご)していくためには、今以上に高い専門性と教養を持った人間の育成が求められている。そのため、大学・大学院の構成と役割を改革すべきである。

■――― 提言 ―――■

(1)大学の学部では、教養教育と専門基礎を中心に行う。大学院へは学部の3年修了から進学することを一般的なものとする。また、大学院の入試は、他大学出身者、社会人等に対しても完全に聞かれたものにする。

(2)大学院については、社会で必要とされる実践的な専門能力を身に付けるためのプロフェッショナル・スクール(高度専門職業人教育型大学院)と、研究者養成のための大学院(研究者養成型大学院)を設ける。

(3)プロフェッショナル・スクールでは、高度な技術的能力を有するエンジニアの育成や、ビジネス・スクールやロー・スクールなどによって経営管理、法律実務、金融、教育、公共政策などの分野の専門家の養成を行う。

(4)国家公務員や教師については、原則として修士号取得を要件とする。

(5)リサーチ・アシスタント制度やポストドクトラル制度など、優秀な若手研究者の養成策をさらに充実する。研究支援者の育成・確保策を充実する。

(6)大学・大学院を通じて奨学金制度を充実する。

▽大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する

 大学へ入学したにもかかわらず学習に取り組む姿勢がない者が見られる。大学も勉強をしていない学生を安易に卒業させているという批判が以前からなされているが、全く改善されていない。学生にしっかりと勉強させるような取り組みが必要である。

■――― 提言 ―――■

(1)小人数教育の実施と、ティーチング・アシスタント制度を充実する。

(2)ダブルメジャー(複数の分野を専攻する)制度を導入する。

(3)成績評価の厳格化を図るための成績評価制度を導入し、水準に達しない学生を落第、退学させるなどの方策を講じる。

(4)大学の教育力向上のための大学、大学教員の評価システムの構築と、大学教員任期制の導入促進により流動性を向上させる。

(5)企業には、就職活動によって大学の教育が妨げられぬよう、採用活動時期を遅らせたり、成績表の提出を求めるなど大学での成績を踏まえた採用を行うよう強く求める。

▽職業観、勤労観をはぐくむ教育を推進する

 定職に就かない者や就職してもすぐに辞めてしまう者が増加しているが、これは人材の流動化の現れともみられる一方で、若年層における職業観、勤労観の希薄化とも考えられる。また近年、仕事に対する職業人としての責任感、使命感の欠如も指摘されており、職業観、勤労観をはぐくむ教育を推進する必要がある。

■――― 提言 ―――■

(1)ものづくり教育、職業教育や起業家精神の涵養(かんよう)のため、小学校から大学までの教育内容を充実するとともに、職業体験、職場見学、インターンシップ(就労体験)などの体験学習を積極的に推進する。また、進路指導の専門家の活用を促進する。

(2)実践的な技術者の養成機関である高等専門学校の職業教育を一層充実する。

(3)教育機関が養成する人材と企業の求める人材とのミスマッチ(不整合)を解消するため、企業、団体、官公庁、教育機関間の連携を図る。

4、新しい時代に新しい学校づくりを

▽教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる

 学校教育で最も重要なのは一人ひとりの教師である。個々の教師の努力や意欲を認め、良い点を伸ばし、効果が上がるように評価と結果のフィードバックを行う。

■――― 提言 ―――■

(1)努力を積み重ね、顕著な効果を上げている教師には、「特別手当」などの金銭的処遇、準管理職扱いなどの人事上の措置、表彰などによって、努力に報いる。

(2)専門知識を獲得する研修や企業などでの長期社会体験研修の機会を充実させる。

(3)効果的な授業や学級運営ができないという評価が繰り返しあっても改善されないと判断された教師については、他職種への配置換えを命ずることを可能にする道を広げ、最終的には免職などの措置を講じる。

(4)非常勤、有期教員、社会人教員など雇用形態を多様化する。教師の採用方法については入り口は多様にし、採用後のプロセスを評価する。免許更新制の可能性を検討する。

▽地域の信頼にこたえる学校づくりを進める

 間題解決や改革に取り組んでいる学校はあるが、全体として、現在の学校は国民の期待にこたえているとは言えない。特に公立学校は、努力しなくてもそのままになりがちで、内からの改革がしにくい。地域で育つ、地域を育てる学校づくりを進める。

■――― 提言 ―――■

(1)目標、活動状況、成果など、学校の情報を積極的に親や地域に公開し、学校は、親からの日常的な意見にすばやくこたえ、その結果を伝える。

(2)おのおのの学校の特徴を出すという観点から、外部評価を含む学校の評価制度を導入し、評価結果は親や地域に公開する。通学区域の一層の弾力化を含め、学校選択の幅を広げる。

(3)学校評議員制度などによる学校運営への親や地域の参加を進める。

(4)親が学校の活動や子育ての時間を取れるようにするなど、企業も協力する。

▽学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる

 学校運営を改善するためには、現行体制のまま校長の権限を強くしても大きな効果は期待できない。学校に組織マネジメントの発想を導入し、校長が独自性とリーダーシップを発揮できるようにする。また、地域の教育に責任を負う教育委員会は刷新が必要である。

■――― 提言 ―――■

(1)予算使途、人事、学級編成などについての校長の裁量権を拡大し、校長を補佐するための教頭複数制を含む運営スタッフ体制を導入する。校長や運営スタッフの養成プログラムを創設する。若手校長を積極的に任命し、校長の任期を長期化する。

(2)質の高いスクールカウンセラーの配置を含めて、専門家に相談できる体制をとる。開かれた専門家のネットワークを用意し、必要に応じていろいろな専門家に相談できるようにする。

(3)教育長や教育委員には、高い識見と経営感覚、意欲と気概を持った適任者を登用する。教育委員の構成を定める制度上の措置をとり、親の参加や、年齢・性別などの多様性を担保する。教育委員会の会議は原則公開とし、情報開示を制度化する。

▽授業を子どもの立場に立った、分かりやすく効果的なものにする

 教育を提供する立場ではなく、教育を受ける側の立場に立った、学級編成、授業方法、地域との連携を促進することが重要である。

■――― 提言 ―――■

(1)教科や学年の特性に応じた学級編成の弾力化を校長の判断でできるようにする。生活集団と学習集団を区別し教科によっては小人数や習熱度別学級編成を行う。

(2)学校は、社会人がその職業経験や人生経験を生かし、学校教育に参加する機会を積極的につくる。

(3)優れた授業方法の情報を広く共有する。

(4)IT教育と英語教育は「本物・実物」に触れさせながら促進する。英語を母語とする外国語指導助手(ALT)や専門的知識や経験を持ったスタッフを学校外から積極的に登用する。

▽新しいタイプの学校(“コミュニティー・スクール”等)の設置を促進する

 新しいタイプの学校の設置を可能とし、多様な教育機会を提供する。新しい試みを促進し、起業家精神を持った人を学校教育に引き込むことにより、日本の教育界を活性化する必要がある。

■――― 提言 ―――■

(1)私立学校を設置しやすいように、設置基準を明確化し、施設・設備の取得条件を緩和する。親の教育費負担の軽減に加えて新しいタイプの教育を実現するための私学助成を充実させる。

(2)研究開発学校を地域指定できるように拡充し、地域との連携を図りながらブロックごとに新しい試みを実施する。

(3)地域独自のニーズに基づき、地域が運営に参画する新しいタイプの公立学校(“コミュニティー・スクール”)を市町村が設置することの可能性を検討する。これは、市町村が校長を募集するとともに、有志による提案を市町村が審査して学校を設置するものである。校長はマネジメント・チームを任命し、教員採用権を持って学校経営を行う。学校経営とその成果のチェックは市町村が学校ごとに設置する地域学校協議会が定期的に行う。

5、教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を

 教育改革を着実に実行するには、目指すべき教育の全体像を示し、教育振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図る必要がある。このため、科学技術基本計画や男女共同参画基本計画のように、教育振興基本計画を策定する必要がある。基本計画では、教職員の配置、施設整備、IT教育の推進、留学生の受け入れ、子どもの体験活動のための環境整備など、具体的な改善策や実施方策について計画を策定する。

 教育への投資を惜しんでは、改革は実行できない。教育改革を実行するための財政支出の充実が必要であり、目標となる指標の設定も考えるべきである。この場合、重要なことは、旧態依然とした組織や効果の上がっていない施策をそのまま放置して、貴重な税金をつぎ込むべきではないということである。計画の作成段階および実施後に厳格な評価を実施し、評価に基づき削るべきは削り、改革に積極的なところへより多くの財政支援が行われるようにする。また、IT教育や、留学生・海外子女教育等の国際交流など、情報化しグローバル化する社会への積極的な対応が必要な分野についても、重点的な財政支援を行う必要がある。さらに、納税者に対して、教育改革のために税金がどのように使われ、どのように成果が上がっているのかについて積極的に情報を公開することが求められる。

6、教育基本法の見直しについて国民的議論を

 教育基本法は、教育の理念や日本が目指すべき教育の基本像・全体像を示す、いわば道しるべとなるべき性格の法律である。教育改革国民会議では、一方で、はじめに教育基本法の改正ありきの姿勢に立つことなく、他方で、教育基本法には一切触れないと「タブー視」する必要はないという立場から、わが国の教育の在り方に関する検討の一環として教育基本法に関する議論を行った。もちろん、教育基本法を改正すれば、直ちにいじめが減少するとか、青少年の凶悪犯罪が発生しなくなるというものではない。また、教育改革を実効あるものにするためには、教育内容、教育行財政制度の改善など、具体的な改革方策の提示こそが重要である。

 その一方で、教育改革国民会議においては、昭和22年に制定された当時とは著しく異なる社会状況の中で教育基本法に求められる理念や内容が変化しているはずである、教育基本法は必要に応じて改正されてしかるべきである、という意見が大勢を占めた。しかしながら、具体的にどのように直すべきかについては意見の集約はみられていない。これからの時代の教育の基本像にかかわる教育基本法の在り方については、教育改革国民会議にとどまらず、幅広い視点からの国民的な議論が必要であり、「中間報告」を機に各方面でさまざまな議論が行われることを希望する。

おわりに

 教育改革国民会議は、26人の委員で構成され、教育の基本にさかのぼって幅広く今後の教育の在り方について検討してきた。3月27日の第1回会議以来、4回の全体会議を開催し、教育の現状や戦後の教育改革などについて議論を行った。その後、第1分科会=人間性、第2分科会=学校教育、第3分科会=創造性、の三つの分科会を設け、それぞれの課題の検討を進めた。

 第1分科会は6回、第2分科会は7回、窮3分科会は7回の審議を行い、その審議の結果を7月26日に「分科会の審議の報告」として公表した。8月28日に全体会議を再開し、各分科会の審議の報告をもとに5回の審議を行い、中間報告を取りまとめた。審議に当たっては、各界の有識者の方々や多数の国民の皆さんからいただいた貴重なご意見を参考とさせていただいた。

 私たちは審議に当たり、何らの制約を設けず、委員各自が自由闊達(かったつ)で濃密な議論を行うこととした。幼児・小中高から大学・大学院を通しての教育全般を議論の対象とした一方で、教育のあらゆる分野の課題を扱うというよりは、焦点を絞って議論した。とくに、教育を供給する側の論理ではなく、教育を受ける子どもや学生、その親の側の立場に立って教育システムを議論することを心がけた。

 中間報告をまとめるに当たっては、骨太でわかりやすいものを目指し、理念や抽象論を展開するより、具体的で建設的な提案を行うこととした。このため、委員から出された数多くの提言をすべて盛り込むことはしていない。また、盛り込まれた提言のすべてが意見の一致を見たものではない。私たちの議論の背景を理解していただくためにも、「分科会の審議の報告」や議事録にもお目通しいただくよう希望する。

 子どもはそれぞれの家庭にとってだけでなく、社会全体、人類共通の宝であり希望である。教育は本来、親、当人、社会全体が共同して行うものであり、教育の問題を家庭や学校のみに任せるのではなく、国民一人ひとりが真剣に考えて取り組むことが必要である。このため、教育改革の推進に際しては、教育の存り力について国民の幅広い意見を聴き、マスコミなどの協力も得ながら、国民的運動を推進すべきである。

 今後は、中間報告および教育全般に対する国民の皆さんの幅広い意見を伺った上で、最終報告をまとめていく予定である。私たちの提言を実現するために、省庁の枠を超えた政府全体の取組みを強く希望するとともに、皆さんのご理解とご協力を心からお願いしたい。


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