葛飾区再生計画案行政編


FATA REGUNT ORBEM ! CERTA STANT OMNIA LEGE

(不確かなことは運命の支配する領域。確かなことは法という人間の技の領域)

―― ローマの格言 ――

 

【12、文化】

 偉大な芸術を持たない文化はなく、偉大な文化を持たない国家はない。葛飾区は住民の全てが文化を発信できるように、たとえ自分自身は発信しなくとも、文化を育み、守り、地域に根づかせるパトロンの役割を担う住民であることを目指し支援する。文化とはその時代その地域で生きる大衆が日々の生活の中で(無意識のうちにも)産み出すものである。葛飾に住まうこと、葛飾に来ることが文化的価値(文化的付加価値)があるようにする。 ここでいう文化とは辞書的な意味での文化ではない。葛飾区という地域つまり都市に人間が住まうことによって醸成される"空気"そういうものを前提にして文化と呼ぶのである。おそらく同様の前提なり視座から山崎正和氏は『世紀末からの出発』(文藝春秋、1995)で次のようにいう。

[柔らかい人間関係の場]

 いったい、都市とは現代の人間にとって何であり、都市的な文化とは何であるのか。ひとつの都市が崩壊し、五千余の人命が失われた今日ほど、この問題を考えるのに適切な時期はあるまい。都市という言葉がかつての甘い響きを失ったいま、問題は切実な裸のかたちで立ちはだかっている。その昔のリスボン大地震を見た啓蒙主義者のように、また関東大震災を見た日本の道徳家のように、われわれもそのまえにたじろぐべきなのだろうか。

 まず最初に確認しておくべきことは、現代の都市は人がただ住むための空間ではなく、住むことがそのまま価値の生産に繋がるひとつの装置だ、ということである。生産されるのは知識や技術や、美的な趣味であり、広く情報と呼ばれている価値である。古代ギリシアやルネサンスの西洋を見ても、科学と藝術が劇的に興隆したとき、その揺籃となったのはいつも都市であった。近代工業時代の二百年余、都市は一時的に労働力が住むための空間に化したが、この例外的な時代が過ぎたいま、ふたたびその本来の役割に帰ることが求められている。

 都市が精神的な創造の場になりうるのは、第一にここでは、個人の自由と安定が両立するからである。古いムラには、人の暮らしに安定はあっても自由はなかった。自由を求めれば外に流離するほかはなく、そこにはもとより安定はなかった。だが、精神の溌剌さには自由が不可欠であり、持続的な活動には安定を欠くことはできない。縛られた思考は固定観念を脱することができず、孤独な想像力は独善に陥りやすい。その双方を避けて真の創造性を保つためには、都市の匿名性と、同時に豊富な社交の機会が必要なのである。

 第二に、都市ではいわば無構造な情報が生まれ、発信者と受信者の区別のない、いわば非線形の対話を形成する。噂や流行や盛り場の空気といった、目次も句読点もない情報が縊れ、誰から誰にともなく署名なしに伝えられる。これは一面では、大衆社会の軽佻浮薄と表裏をなすが、創造的な才能にとっては、飛躍のために不可欠の刺激となるものである。

 さらに、都市の人口集積は思想や趣味の多様化を許し、少数者の精神活動を物質的に支えることができる。かりに、オぺラの愛好者が全国民の1パーセントあるとして、その維持に十万人の潜在観客が必要だとすれば、この藝術は一千万人の大都市がなければ生存できない。ところで、文化がたんなる流行を超え、伝統と未来をつなぐためには、そのときどきの時代の少数者の存続が絶対条件なのである。

 過去二百年、都市は消費の場所であり、せいぜい労働力の再生産の場所と見なされていた。だが、都市学者のジェイン・ジェイコブスも言うように、都市は昔からその消費によって価値を創造し、工業生産の目的と技術を生みだしていた。近代の実用的な大技術は、ほとんどが都市の贅沢、無用の遊びのなかに起源を持っていたという。いわんや今日、転換期の日本にとって、こうした機能を持つ都市は、まさに死命を制する生産の場所となった。基礎技術とデサインを西洋から輸入し、ものを作って輸出していた従来の日本は、アジアがものを作り、西洋が知恵を売り渋る時代に、このままでは生きる途がないからである。

 いうまでもなく、ここでいう都市とは具体的な人口集積地のことでもあるが、同時に社会のあり方の名前でもある。それは、堅い一元的な「組織」の反対概念であり、内部に複数の秩序を含みうるような、柔らかい人間関係の場所を意味している。古いムラでは、個人は唯一の集団に全身で帰属し、職業、教育から文化、福祉まですべての点で一元的に依存していた。都市では、個人は目的ごとに違った集団に属し、その規制力を相対化することによって、集団そのものを穏やかな紐帯に変えることができる。そこでは、人間は集団的なファナティズムからも解放されて、かつて吉田兼好が都市民の特色とした、ものごとを「よそながらに見る」、心の余裕を持つことができるはずなのである。

[理念掲げ未来モデルに]

 要するに都市は文明の生産施設なのであるが、しかし、そういう施設に住む住民はどう生きればよいのか。都市に住民は要らないと、かつて梅棹忠夫氏はやや逆説の響きをこめて主張されたことがあった。都市は現代の神託を発する神殿なのであって、神殿に人間が住む必要はない。そこには事務所ビルと文化施設を置き、宿泊と社交のための設備を設けて、人間は随時そこを訪れて情報を交換すればよい。本来、日常生活と知的生産は異質の営みなのであるから、都市に住みやすさの要求などを持ち込むのは、おかど違いだというわけである。

 この逆説は面白いが、しかし都市にはやはり住民が必要であろう。たしかに都市の本質は神殿であるが、だとすれば、神殿にはそれに仕える「氏子」が要るからである。氏子は神域に住むことに誇りを覚え、緊張を抱いて奉仕と犠牲の姿勢で日常を生きる。都市にはそういう意味での住民が必要であり、その気概と緊張感が都市の知的な生産力を支えるのである。

 もちろん、都市にも一定の安全と住みやすさは不可欠だが、それが都市の存在理由ではない。野にも山にも別の危険があるが、なんといっても、人口稠密という都市の危険は絶対に避けがたい。災害には弱いし、テロや犯罪も多い。刺激が強く道徳観も多様であるから、人は不安や孤立を感じやすい。だが、そうした恐怖は、すべて都市生活の楽しさの裏面であり、先に述べた、知的創造の三つの条件の代償にほかならない。都市に生きるとはそれを覚悟することであり、あたかも冬山登山のような、誇らしい冒険だと理解するべきなのである。

 このことは都市の設計、とくに今回の阪神地域復興についても、まず胆に銘じるべき理念であろう。「防災都市建設」の呼び声は高いが、防災は都市にとって手段であってけっして目的ではない。目的はあくまでも、知的、情緒的な生産力の向上であり、いいかえれば、高度な文化の醸成にほかならないのである。

 しかも文化は、都市の産物であるとともに、その成立の条件ですらある。都市が「組織」ではない以上、そこで人間を結ぶものは堅い秩序ではありえない。政治も宗教も社会を団結させるが、それらの持つ厳格な規律は都市の自由とあい容れない。そこへ行くと、街の景観といい、盛り場の流行といい、藝術や社交の営みといい、文化は人を柔らかい絆で結束させる。劇場や音楽会に集まる人が、宗教も思想も異にしながら、共通の趣味によっていっとき同じ感動に結ばれるのは、示唆的な事実であろう。

 かねて阪神地域は文化的な生産力が高く、そのことを自治体行政が強く自覚している地域でもあった。1993年、神戸市は博覧会を催して、「アーバン・リゾート都市」という理念を掲げたが、これは人びとの定住と流動の両立をめざし、街づくりの核に文化を置くという宣言であった。兵庫県は早くから自治体の「文化行政」という理念を謳い、「藝術文化課」という全国唯一の部署を設けた県であった。文化ホールの建設を計画しても、まず中身になる演劇制作を先行させ、「ひょうご舞台藝術」の企画を打ち出した県であった。

 阪神地域の復興は、まさにこうした理念を持つ地域の復興でなければなるまい。目標はたんに一地方の再建ではなく、日本の未来のモデルとなる、ポスト工業化の拠点づくりでなければなるまい。民生の復元そのものすら困難ないま、辛い努力を要する目標だが、それを掲げてこそ、この地域は全国に向けて特別の支援を求める権利を有するのである。

 震災後、五箇月たった六月の末、「ひょうご舞台藝術」の第九回公演には、意味深長な暗合だが、J・ソボル作の『ゲットー』という作品が上演された。ナチスの支配下、六万人のユダヤ人が六百人になるまで虐殺されたビルナの町で、最後まで劇場を守った人びとの物語であった。「墓場に劇場は必要か」と自問しながら、この町では二万人にまで減った人びとが、新作の芝居の切符を七万枚買ったという。死を目前にした市民が、ひとり三回以上も劇場に通ったのであるが、文化を守る気概とはどんなものかを、痛切に暗示する物語ではないだろうか。(山崎正和著『世紀末からの出発』、文藝春秋、1995、P.120〜125)』

 舞台芝居の演出家という山崎氏の職業に起因する文化への過度の傾注に注意するにしても、モノ造りの世紀と言われた20世紀から心の時代の幕開けとされる21世紀の葛飾区を覆わせたい文化的空気のめざすべき方向として参考になりはしないか。

1201、シンフォニーヒルズ、リリオホールのあり方の再検討

会場貸しのみでなく区民利用からの使用法を検討する。

シンフォニーヒルズの交通アクセスを検討する。

京成線の空中駅を造る。青戸・立石両駅からのカラー舗装、アーケード化。
 

1202郷土と天文の博物館のあり方の再検討

交通の便について、入館料の徴収について受益者負担の原則を排除(要検討)

教育委員会との関係(一出先機関でいいのか)

          図書館(中央館)も含めて専属のプロを配置すべきである。

館員(学芸員)の区立学校での利用学校のワクを超えて「歴史教室」「考古学教室」などの恒常的な第二スクールを開講する。カルチャースクールなどのサイドビジネスも実施。

区歴史研究(あえて葛飾にこだわることはない)、民俗研究の中心機関に

(将来は我国有数の研究機関に育てる=区立大学への移行も視野に入れる。)

区の各地域にある資料館の中心館的機関に
 

1203、小中学生および青少年の国際交流支援

葛飾の一般家庭での外国人小中学生および青少年のホームスティ支援。(cf.1305)
 

1204、文化として葛飾に根付かせたいもの一覧

葛飾の風土に合った「文化」として根付かせ発展させて行きたいものを列記する。

1、薪能  水元公園の夜桜の下での「薪能」(vs.新小岩地区のサマーフェスティバル)

1205、図書館等の所蔵資料のインターネットによる検索、貸出し予約を可能にする

区立図書館、郷土と天文の博物館、区関連施設、区立小・中学校図書室等の蔵書・所蔵資料をネット上に公開し、インターネットによる検索および、貸出し予約を可能にする。
区内の企業、私立学校や近隣の自治体、企業、私立学校とも提携を呼び掛ける。

区が著作権を持つ資料、及び著作権者の了解のある資料については、徐々にネット上に取り込んで行く。(取り出して画面上で見られる他、印刷も、音声で聞くことも可能である。)

◆(00.4.22) 自宅で蔵書検索OK!図書館の蔵書を自宅のパソコンで検索できます。台東区が4つの図書館で21日、約37万冊の本の利用状況を、自宅のパソコンを使って検索できるホームページをスタートさせた。

◆図書館のHP開設 墨田区 墨田区立図書館のホームページ(http://www.library.sumida.tokyo.jp/)が開設された。5つの区立図書館と3つのコミュニティ会館にある書籍約929,000冊、雑誌約70,000冊、CD約23,000点、カセットテープ約11,000点、ビデオテープ約5,000点を対象に、検索ができる。さらに、開館日、休館日、図書の借り方、返し方、リクエスト方法などを丁寧に解説している。視覚障害者向けに、拡大写本、録音図書、点字図書の貸し出し、対面朗読サービスなどの紹介も。また、講演会、映画会、お話し会、工作会などのイベント情報もチェックできる。 (01.01.13 読売新聞)

cf.全国の公共図書館等の蔵書検索

1206、特徴を備えた図書館の設置

蔵書数の違いだけで金太郎アメのように似かよった図書館がつくられているが(それも第一次世代の図書館としては必要である)、第二次世代の図書館として、漫画図書館、雑誌図書館、週刊誌図書館、新聞図書館など特徴を備えた図書館を設置する。

また現在ある図書館の今後の蔵書充実にあたっては各館がジャンル毎に得意分野を持った収集を進める。(cf.2218)

また、入院患者、自宅療養者あるいは高齢者等、図書館に出向けない"情報弱者"のための「宅配サービス」を実施する。

開館時間についても午後6時〜午前8時などと、夜中開館の図書館を1館作る。

現行の様に全図書館が一斉休館がよいのか。地域館も含めて幾つかの図書館でブロックを形成し、その中では休館日をづらすなどの工夫をしてもよいのではあるまいか。(検討事項)

1207、ルネッサ葛飾計画

地域情操の発想〜力能のある本物の文化人の育成 (cf.1305)

創造的な人的資源の蓄積〜知的な人材に定着を求めるのでなく、流動する人材が滞留し交流できるスペース(センター=流動的な定着の場所)を作る。

「ルネッサ葛飾」計画が具体的にどのような文化活動に向けられるかは住民同士の議論を待つのであるが、どのようなプロジェクトであれ、地域への貢献という理念にとどまらず、地域からの貢献という視点を持つ者であることを求めたい。地域からの貢献という場合その貢献の及ぶ先(受け手)は、日本であり、世界であり、同時にこの時代へということになろう。

<参考記事>

『企業メセナよりまず個人支援を』            (01.03.10 読売新聞 投書)

会社員 海野 まり 29  (横浜市)

 私は、企業の文化支援担当として、様々な協賛依頼に対応しているが、芸術愛好者の一人として、芸術団体の運営者に提案したいことがある。それは、企業寄付にばかり頼るのでなく、一人一人の愛好家の寄付を取り付けられるよう、もっと努力してほしいということだ。企業のメセナ(芸術支援)活動は、経営方針に沿って決めざるを得ない。このため、担当者が応援したくても、「現時点で評価が確立されていない」などの理由で協賛できないケースも多い。だから、新しいスタイルを取り入れた現代舞踊や伝統芸能など新興の芸術団体には、個人が少額でも寄付できる「受け皿」を作ってもらいたい。私も、好みの芸術家には、できる限り支援したいと考える。

 小口支援の受け入れは、多様な文化を愛好し、自ら育てようとする風土をはぐくむことにもつながる。それが、ひいては企業レベルの支援も拡大させることになると思う。

1208、葛飾区文化賞・葛飾区民文化栄誉章の制定

葛飾区文化賞:長年にわたり広く文化の分野において、顕著な業績をあげ、区民文化の向上・発展に多大な貢献をされた方々に贈呈。 (cf.0321)

葛飾区民文化栄誉章:昨年、文化やスポーツの分野における業績が顕著であり、広く区民に敬愛され、社会に明るい希望を与え、葛飾区の名を高めた方々に贈呈。 (cf.0322)

→葛飾区○○文化賞として、それぞれの職域ないし地域で永年働いている人を発掘して顕彰する。(顕著な業績を求めるのでなく、その人の存在が当該職域ないし地域で果たしている役割に対する評価である。)


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