■■■「モンタージュ」を終えて■

今は2000年5月17日。

3月に公演した「モンタージュ」を、
稽古場からドキュメントとしてカメラで追ってくれていた友人がいる。

1月もまだ初めの頃、偶然その友人に会い、
「モンタージュ」の話しになった。
「それを、ドキュメントしたい」と、言葉を貰った。
こういう思いがけない申し出は、楽しむに限る。

その友人に
「モンタージュ」公演を終えてみて=芝居とは」
というテーマで、まとめとして「Tokyo劇場」に掲載してほしい」
そうリクエストされた。
出演者2人と私の3人分。
編集のプランとして、そういうのが欲しいとのこと。

ひとつの「モンタージュ」という舞台を終えて、
何が、より刻みついたのか、
新たに、何を刻んだのか。

その言葉を読みたいという。




「モンタージュ」公演案内

プレイヤー=山谷典子(ヤマヤ)/鬼頭典子(ノリ)



[ヤマヤ=「モンタージュ」をおえて]

[ノリ=私にとって芝居とは]

[演出者=舞台とは]



[ヤマヤ=「モンタージュ」をおえて]

記述日 2000年5月9日。

「モンタージュ」をおえて。
つきなみだけど、0に、真っ白に戻って、改めて、考えて、感じて、
をすることができました。
大切なこと、大切にしていきたいもの、に自信を持つことができました。

やっぱり、芝居ばかなんだ。私は。
大変なことがあっても、それ以上に芝居がすきな気持ちは、
その時の苦労より、それをのりこえるための熱が、
苦労を苦労とも思わなかったりしました。
そして、一人ではなにもできないことを、骨身に感じました。

何人もの人間が、一つのものをつくる。
これって、すごいすてきだわって。
世代も、環境も、全く違う人が、同じひとつのものをつくろうとする。

芝居って、すてきなひとに、大切に思う人に会えるから、
すきなんだなあって思いました。
その出会いで、また自分もすてきにならなくちゃ!


[ノリ=私にとって芝居とは]

記述日 2000年3月29日

私にとって芝居とは。

クサいけど、イコール、生きること、かな。
いい時も、悪い時も、等身大の私がそこに在りたい。
歳を重ねていって、しわが増えていったら、
そのしわも一緒に芝居したい。

芝居って、虚構なんだけど、虚構の形を借りた本物であって欲しい。
そして、もうひとつ思うことは、芝居って鎮魂の役割もあるかなって。

大げさかもしれないけど、生きてる人も、死んでしまった人も、
架空の人物であっても、浮遊している「魂」というか、
「思い」みたいなものがたくさんあって、
それを生きて昇華してくれる人を探してるんじゃないかなって。

だから、役者って、
ちょっと巫女さんみたいなところもあるかもしれない。
どんなに元気な明るいコメディーでも、
そういう役割ってあるような気がする。

まあ、何はともあれ、「私が私であるために必要なもの」です、芝居は。
生活と共にあります。
そして、素晴らしい出会いをもたらしてくれるものです。


[演出者=舞台とは]

記述日 2000年5月17日。
『演出者=舞台とは』

いい機会だから、振り返ってみる。
私が舞台という世界を選んだ理由というのを。

ここには、時間、空間、光り、音。全てがある。
そして、人の感情や感覚や関係と、それが織り成すドラマがある。
そのライブ空間。
劇場空間。
役者と各々のプランナー、スタッフとのコラボレーション。
私がずっと目指す漠然としたものが、ここでつくることが出来る。
「人のつくるもっともうつくしいもの」
その漠然としたものがつくりたくて、それが何なら出来るのか、
捜して捜して
そして、今ここにいる。

自分が納得出来るかどうか
舞台の上の自分の在り方を、こう言った舞台人がいる。
勇気のあることを言う人だなと、その人に興味を持ち、
劇場に足を運んだ。
それがきっかけで、
もとより好きな伝統芸能やミュージカル以外にも足を運びはじめた。

全てのことは「きっかけ」で始まり、
その「きっかけ」も時期が違えば「きっかけ」に成り得なかった。
出会いってのは、そういうのも含めた言葉なんだろう。
出会いがあって、共同作業による舞台が出来る。

才能とは、欠落した何かを埋める過剰な行為だ
という言葉がある。
自分に才能があるかどうかは知らないが、
舞台の世界にきてからこの言葉に出会った私は、
その「何か」が自分にとって何なのかを考えてみた。
「関係」かな、と思い至り、今も。

「関係」とは、人間同士だけではない。
人と「何か」だけでもない。
「光り」と「影」であったり、「音」と「色」という関係もある。
欠落した何かよりも、過剰な行為(というか、過剰な興味)だろう
「関係」に求めるのは。
関係。係わり。組合わせ。

しかし、やはり中でも「人間関係」というのは別格だ。
舞台の光りも影も、音も色も、全て人の生み出すものだから。

呪うも、祝うもそれは言葉次第。
 あなたの気持ちなど関係ない。
 たとえ発する者に嘘偽りがあろうとも、
 一度発せられた言葉は勝手に相手に届き、
 勝手に解釈されるのです。
 問題はどう表現するかではない。
 どう理解されるかです


上記の言葉に、つい最近出会った。
言葉は難しい。
まだまだだ。

一番儘ならぬのが自分自身。

こうして丁稚は修行中。
もっと精進せな。

生きている限り、人皆修行精進中である。


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