---ラテンアメリカの映画。---

〜〜〜INDEX もくじ〜〜〜

****キューバ映画****
苺とチョコレート
***ボリビア映画***
地下の民+鳥の歌
**メキシコ映画**
アントニエッタ
*ベネズエラ映画*
テラノバ

映画の感想そのほか。

もちろん、ネタバレな感想文だけど、スペイン語って短くても意味がたくさん詰まってるから、字幕をみてる私たちは三分の一ぐらいしか情報が来ないんだと思う。粗筋くらいあらかじめ知って見るとちょうどいい、はず。2回目に発見できる面白さをお手軽にどうぞ。

スプラッター度----XXX 印。げちょげちょな場面有り。

ラブシーン過激度--@@@ 印。「うれしい〜」が先行して「恥ずかしい〜」が全く無いラブシーン有り。

キューバ トマス・グティエレス・アレア監督
苺とチョコレート
Fresa y chocolate

苺とチョコレート

1993年
110分
キューバ・メキシコ・西
アップリンク
レンタルビデオ
スプラッター度---なし

ラブシーン過激度---なし


ホルヘ・ペルゴリア
(ディエゴ ゲイの写真家

ウラジーミル・クルス
(ダビ:大学生の共産主義革命家)

ミルタ・イバラ
(ナンシー:ディエゴの隣人、自殺常習者)

フランシスコ・ガットーノ
(ミゲル:ダビの学友)

マリリン・ソラヤ
(ビビアン:ダビをふって金持ちと結婚した恋人)

*  ****あらすじ****
共産主義国キューバの首都ハバナ。大学生のダビはビビアンにふられる。茫然自失の彼は、カフェでどっから見てもゲイのディエゴに声をかけられてますます当惑する。実は密かに小説を書いているダビは、署名入りの稀覯本を見せられ、自分の写真を撮って持っているというディエゴの家にいやいやついて行くことになる。ディエゴはダビに一目惚れをして、ずっと機会を伺っていたのだが。スペインのアンダルシアのヒターノの瞳をしていると誉めるディエゴにダビは嫌悪感しか抱かなかった。大学の寮に戻ったダビはミゲルにディエゴのことを話す。「イチゴのアイスクリームなんか食べるんだ。男ならチョコレートだ。」しかしミゲルは、その男は反政府の危険思想の持ち主かも知れないという。その男を見張って敵のスパイかどうか、見定めるべきだと言う。不承不承ディエゴの家に通いはじめるダビ。西側国大使館共催の美術展を彼が企画していると知り、ますますスパイかと怪しむ。外国人と共謀して反革命思想のプロパガンダを流しているなら15年の実刑だ。敵国の酒ジョニー・ウォーカーを飲んで、英国風ティーパーティーが好きなディエゴ。しかし、その酒は隣人の中年女ナンシーが闇で彼に調達している物だった。自殺をはかったナンシーをディエゴが必死で救おうとしている時に出逢ったダビは、彼が警察にマ−クされている人物だと知る。「となり組の見張り番」のナンシーに死なれては、自分の立場も危険になるのだ。自由がほしいディエゴ、「見張り番」なのに闇市をやっている自殺常習のナンシー、ダビはかれらと付合って行くうちに、少しずつ大人になって行く。
ボリビア ホルヘ・サンヒネス監督
地下の民
La Nacion Clandestina

認められていない国

1989年
125分
シネマテーク・インディオス配給
スプラッター度
なし

ラブシーン過激度
なし


レイランド・ユフラ

オルランド・ウアンカ

12日16日(土)2000年
「地下の民」「鳥の歌」ロードショー
シネマ・下北沢にて (東京)
同時開催:全作品回顧モーニングショー上映
「革命」「落盤」「ウカマウ」「コンドルの血」
「人民の勇気」「第一の敵」「ここから出ていけ!」
「ただひとつの拳のごとく」
*  ****あらすじ****
ラパスの街に銃声が響いて軍事クーデターが起きたその日、棺桶屋のセバスチャンはやっと出来上がった悪魔の仮面を受け取りにいった。これを担いで故郷のウィルカニ村へ帰り、子供の頃に一度見たことのある伝統の「死の踊り」を踊るのだ。 彼は子供時代に家族から引き離され、インディオの名を改名して内務省に職を得た。仕事は対テロ工作。容疑者を撃って死体を埋める汚い仕事だ。その後、帰郷した彼は村長に選ばれて、村民を裏切る。村に帰れば、皆から石で打ち殺される。そう宣告されての追放だった、、、、。

***感想***
(その1)
 脚本がものすごく緻密で、台詞が良いと脇役さんたちの演技力なんてまったく関係なくいきなり感動できる、という見本のような映画でした。アイマラ語をスペイン語に直してそれを日本語字幕にするという不自由をくぐり抜けてなお、粒々と飛び込んでくるセバスチャンの言葉、妻バシリアの言葉、弟ビセンテや長老タンカラの言葉は、短くて直裁。新約聖書の語り口の様です。なるほど神話的な装丁を意識しているのかも知れません。  死に行く男の道行き。ストーリーはまっすぐで、「最後の大どんでん返し」はありません。「映画の結末を誰にも話さないで下さい」みたいな、仕掛けのある映画ではありません。巡礼者のように仮面を担いで高原を歩く彼に、カメラも寄り添って歩くうちに、アンデスの山の上から天上に引き上げられるような幸福感を味わえる希有な映画です。125分、長くて同じ景色ですが、中だるみなどありません。ぐんぐん来ます。ここにキャンプを張ったつもりで見て下さい。精神的には思春期は卒業したと思っている方なら、絶対です。「映画はやっぱり色っぽい男と女」って思っている方、私もそうだけど、ムーミンのスナフキンのような、ナルニアの泥足にがえもんのような、あのセバスチャンに魅惑されて動揺しますよ。  物語をするという映画の王道を行く作品でした。


(その2)
 物質的に恵まれていない地域の生活を映画で見ると、30年前の日本の様だとか、素朴な生活の人たちだとか、誤解してしまう。電化されていないコンピュータの無い生活が、知的水準の低い生活だと愚かにも思ってしまう。セバスチャンを取り巻く高地の村の人々の、言ってみれば危機管理能力、生き方の巧みさはどうだろう。たとえば、妻のバシリア。あなたのせいで私は不幸になったとは言わない。いっしょに逃げてくれと言う夫に、従わない。夫の弁護に走り回っても、夫は間違っていると知っている。たとえば、弟ビセンテ。兄が村人から糾弾されていると知って、母親に相談しに行く。社会的地位が危ない時に、母親に相談するだろうか、愚痴を言って慰めを得ることはあっても。ここでは問題を解決するのは、警察や弁護士や医者という権威では無く、一人一人の顔のある人間たちだ。母も妻も老人も、生涯現役であって、尊厳がある。
 母は、セバスチャンはもう息子では無いと言う。では、この村の人間ではない。そうやって追放されて、街で新しい生活に幸福を見つける者もいるだろう。名前を変えて服装も変えた彼だから、きっと幸福になるに違いない。母は最も彼に合う罰を導き出している。だから彼が仮面とともに戻ってきた時、村はずれで待ち構えていた村びと全員は、石を振り上げてむしろ泣き出しそうだ。私達は殺人者になりたくない。戻れ!と。
 自分が何者であるかを知り、自分が選びとってきた人生を引き受けて生きる。
 身近にいる子供達が自分自身や見知らぬ他人を殺すまで、その心の変転に沿うことが出来ない日本の私達と、比較するまでもない。むしろ、私達は大人も子供もなんと退化してしまったのだろうと、思い到る。

 映画の始まる何日も前からラパスの住民は政治不安におののいていたに違いない。セバスチャンはずっと考えてきて、そして決心する。故郷に帰る、と。そこにはアイマラ語の国がある。他民族に利用され、クーデターに巻き込まれて犬のように死ぬよりも、自分の人生の結果として償いをして、そこで死ぬんだと。現在の軍事クーデターに結果として加担してきた彼。彼の選択は、抵抗のために鉱夫と連帯する農民の姿と対比されて更に悲劇的だ。しかし、映画が重苦しく終わるわけではない。セバスチャンが村の留守を守っていた長老に、仮面と衣装を見せて「死の踊り」の楽団の手配を頼む場面で、遠景に子供達の姿が見えているからだ。昔のセバスチャンが見たように。緑色の悪魔の仮面を自ら冠り、眼の醒めるような美しい衣装を着て幸せそうに踊る青年を子供達は生涯忘れないだろう。罪のある人が死ぬために踊っているのだと聞かされても、逃げもせずにむしろ恍惚に浸っている青年の姿を、羨ましく見るだろう。大人になったらきっと、青年の気持ちが理解できるようになるのだろうかと思いながら。死の踊りがなぜあんなに救いのあるものなのかと思いながら。


(その3)
 この題名「地下の民」に、こだわってしまいました。 映画を見ていく程に天井の民族というか、屋根の上の民というか、山と崖と青空ばかりの村が広がっていて、地下というイメージがまったく湧いてこないのです。この人たちは死んだらきっと砂になって風に散って行くに違いないと思わせる風景です。白水社の現代スペイン語辞典に当ってみました。
La Nacion Clandestina。
la nacionには1)国民 2)国 3)民族 の3つの意味があって、南米ではスペイン語系ではない外国人も意味するとあります。なるほど、インディオのアイマラ語も入るのか?そんなことはないですよね。白人、グリンゴのことを言うんでしょうきっと。
特に、2)国 については、"文化的固有性を共有する人間の一団としての国。"として、 pais --地理的、経済的領域としての国。と、estado --政治的観点からの国、政府。とは区別してありました。アメリカ合衆国のことをエスタド ウニドスと言いますからね。なるほど。日本人は民族と国と政府を区別したがらない悪い慣習がありますから、特に注意、と。 Clandestina は、秘密の、非合法の、内密の。だから素直に訳せば、「認められていない国」。
ボリビアのなかに現存として引き継がれている別の国家、民族としては眼に見えて分りやすく存在するけど、国としては幻。そういう国。
この映画は、セバスチャンの個人的な物語を語ることで、彼の心を占めて、彼を動かしてその姿を顕わしてみせた国、ボリビアの高地に住む人々の思いの集積、その国があきらかに侵略されている、という事実を見せたいのだと思います。その国民は変貌し死に絶えようとしてはいないか。で、地下活動を強いられる民族という題、地下の民。山と青空の実際の映像との落差と言葉の暗さの対比が鮮やかです。短くてインパクトのある題名だと納得しました。
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ボリビア ホルヘ・サンヒネス監督
鳥の歌
Para Recibir el Canto de los Pajaros

鳥たちの歌を迎え入れるために

1995年
100分
シネマテーク・インディオス配給
スプラッター度:なし

ラブシーン過激度:なし


ジェラルディン・チャップリン
ホルヘ・オルティス
10月14日(土)2000年”ウカマウ集団に聞く”
 アテネ・フランセ文化センターにて (東京 お茶の水)
「コンドルの血」「鳥の歌」上映
12日16日(土)2000年
「地下の民」「鳥の歌」ロードショー
シネマ・下北沢にて (東京)
同時開催:全作品回顧モーニングショー上映
「革命」「落盤」「ウカマウ」「コンドルの血」「人民の勇気」「第一の敵」「ここから出ていけ!」「ただひとつの拳のごとく」
****ストーリー***
 16世紀にやってきたスペイン人遠征隊の映画を作るために、アンデスの村にやってきた映画撮影隊は村人達の思わぬ抵抗にあい困惑する。知識人の自負を持つ彼等は、やがて自分達の中の根強い偏見と向かい合うことになる。
***感想***
 小学校に泊まりこんだ撮影隊に石が投げ込まれて、松明を持ったインディオたちに取り囲まれる。「大草原の小さな家」の家族がネイティブ・アメリカンの襲撃を受けたような光景だ。大ピンチ!大パニック!このあたりで、笑いがこみ上げてくる。
「武器を用意しよう」
「アイマラ語を話すやつは居ないのか」
「おまえがなんとかしろ」「顔が同じだ」
「俺は白人だ!」
 ステレオタイプな笑いをとって、中身は軽くない。これはもう、ボリビアの民族的状況を、笑って確認するしかない。インディオもチカーノも、「ほらみろ〜」と、笑うんだろうな。同じ撮影隊で仕事をしてきた仲間同志でこうだもの、村人との交流なんて至難の技。
 さあ誰が善人で誰が悪人か。あるいは誰が賢者で誰が愚者か。または、あなたはどちら側に立って、この映画を笑ったか。そんなことはどーでもいい。世界はどんどん混ざってくる。インディオだって孤立して生きているわけではない。こんな場面になったら、どうする?やっぱりオロオロして、失笑されるに違いない。インディオ達だって困惑してるんだと、映画でも言っているじゃないか。
 最後、村人達が撮影隊にお別れをする場面も、すごく楽しい。監督は考える。この撮影は<成功>か<失敗>か。インディオたちは知っている、一生の一時を一緒に過ごしたと。○か×か、判断を下すなんて無意味だと。さて、彼等は貧しいにもかかわらず贈り物をする。この村で死にかかったプロデューサーには一番大変な思いをしたから一番良い物を。村長と付合った監督には雌鶏を。後の皆には人数分の卵を。監督は雌鶏を抱いて困惑する。(どーすんだよ、こんなもん。しかし村人には都会人の生活を想像することは出来ない。とっても満足げだ。)そしてプロデューサーは、、、、彼はあの事故以来、神を見たように惚けて、子ヤギを抱いて離さない、、、。
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ベネズエラ カロジェロ・サルボ監督
テラノバ
Terra Nova

新天地

1991年
**分
**

**-**

スプラッター度:なし 
ラブシーン過激度:なし
マリア・ラウリト
(ロゼッタ)
マッシモ・ボネッティ
(アンヘロ)
アントニオ・バンデラス
(アントニオ)
ナタリア・マルチネス
(セリーナ)
ミミ・ラソン
(ノエミ)
パトリック・ブショー
(ミスター スタル)
1930年代、ベネズエラの西の方にある山脈の陰の村が舞台です。地図を見ると「バレンシア」や「バルセロナ」が見つかる移民の国です。でもアンヘロの家はイタリア語で話します。いつも故郷イタリアのことを考えている失業中のアンヘロは、家族の中でも浮いてます。アントニオは中学生のセリーナのボーイフレンドで、ここの生活がけっこう気に入っています。でもセリーナは村を出て都市カラカスへ、世界へ飛び出していくことを望んでいます。そんな若い世代と、夢破れて望郷の念にかられる中年と、新しい時代を自分の手で切り開いていきたい女達の群像が、ロゼッタとノエミの身分違いの友情、つまり新しい時代の友情を中心に展開していきます。
一人一人のキャラクターが面白いです。アメリカの軍需成金の愛人、飛行機でやってきてはさっさと帰っていく男、セリーナに無関心で嫌われています。アントニオの友達ミスタースタル、カリブ海に停泊中の世界中の船と無線交信している一人者、絵の上手なイギリス人、多分情報収集をしているスパイです。文通相手の女性とつい婚約してしまって逃げまどうアントニオ、都市には亡命してきた身寄りのない女達が結婚相手を求めて奔走していたのでしょう。ロゼッタだってないしょの仕事で船代を稼いで、レジスタンスの友達と別れ、やっとのことでイタリアから逃げだせたのです。母の死を知らせる電報が来ても、弟アントニオと帰ることも出来ません。イタリアではファシズムが猛威をふるい、ユダヤ系ノエミの家族にはここが新しい故郷です。ミスタースタルのイタリアの家には家族が残ったままです。彼はファシストを殺したお尋ね者です。
ロゼッタとアンヘロの和解で、都市カラカスで心機一転をはかる家族の希望に満ちた出発で、映画は終わりますが、この後、ベネズエラという国がどう現代につながったのか、勉強不足の私には想像が出来ません。時代を懐かしむ映画の様ですが、どうなんでしょう。
***あらすじ***
旱魃でキャベツに打撃を受けた農婦ロゼッタは農場主に借金返済を待ってくれるよう掛け合いに行くが、弁護士に冷たく帰される。農作業で流産してしまった彼女を助けたのは、冷たいと思っていた農場主のノエミだった。この地で新しい人生を送りたいロゼッタと父から受け継いだ農地を守りたいノエミ、しかしロゼッタにはイタリアに帰りたがっている夫がいる。ノエミも愛人からこの地を捨てるよう迫られていた。二人は親友になっていく。
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メキシコ カルロス・サウラ監督
アントニエッタ
ANTONIETA
1982年
103分
仏・西・メキシコ
レンタルビデオ

Polydor
WOOV-2022

スプラッター度: X
ラブシーン過激度:なし
イザベル・アジャーニ
(アントニエッタ)
アンナ・シグラ
(アンナ)
カルロス・ブラチョ
(ホセ・バスコンセロス:文部大臣)
イグナシオ・ロペス・タルソ
(バルガス:詩人、作家)
ゴンサロ・ベガ
(マヌエル・ロサノ:画家)
ディアナ・ブラチョ
(フアニタ)
 パリからアントニエッタについて調べに来たアンナに、ファニタが冒頭で語るメキシコ近代史が簡潔で興味深いです。たった数十分の映像と人物紹介にすぎないのですが。「50万人が革命で死にました」と言うその一言の後で、アントニエッタの人生が始まります。映画の後半は文部大臣バスコンセロスの大統領選出馬に彼女が参加していく経過を追っています。恋人を得ることが出来なかった彼女はその情熱を政治に向けていきます。不正な選挙で落選し、失意のうちに亡命先で亡くなるまでをイザベル・アジャーニが美しく!演じています。
この映画は、TV の公開自殺から始まるように、彼女がなぜ自殺したのかを丹念に追っていくドラマで、歴史はその背景にすぎないのです。でも、メキシコに興味のある方はすごく面白いと思います。

 カルロス・サウラ監督という人は「愛よりも非情」「タクシー」でも感じたのですが、フェミニストに配慮して映画を作っていてもちょっとずれてしまう所がある様です。資産家の女が資金と愛情を捧げて、不幸にも死んでいくという物語を、いったいどんな女が喜んで見るでしょう。アンナは彼女を哀れに思ったのでしょうか。しょうがないわね、と思ったのでしょうか。見終わってから元気になるような、充実した人生をアントニエッタで語ることも出来たはずなのに、残念です。
 音楽がとても心地よくて、サウンドトラックを探そうかと思います。


***あらすじ***
 20世紀の女性の自殺について調べていたアンナは、パリのノートルダム寺院内で自殺したアントニエッタ・メルカードのことを知る。20世紀元年にメキシコに生まれ、高名な建築家を父に持ち、「独立の塔」のモデルになって広く知られた資産家の彼女がなぜパリで死んだのか。アンナはメキシコへ行き、アントニエッタとともに歴史をたどっていく。
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Lastmodiffied:11/Oct/2000
CreatedBy
Etsuko