我輩の人間社会観察日記である。お腹立ちの内容もありましょうが「犬の言うことだから」と笑って許して下さい。
31、(4月27日) 五輪選手選考から「選考委員」を無くしちゃえ!
何回か前のオリンピックの男子マラソン代表の瀬古選手の強引なねじ込み、銭をもらって代表の座を売った馬術競技。そして何回もの「選考レース」を冠した(放映権料稼ぎ?)大会をやって「条件が違うから」といって成績順の選考をしない。そしてその集大成が今回の水泳の競泳代表の選考。連盟の役員連中は「説明しない」と言っているが、派遣費には税金も入っているんだぜ。「五輪決勝で強豪と戦えるという選考基準からはずれた」と言う。ならば、あなた方が選考した他の代表が「五輪決勝で強豪と戦えなかった」ときは不明を恥じて職を辞する覚悟はできているんだろうな。何やら、政党の「公認」選考に似ている。
オリンピックの代表選考に「勝てそうだ」「勝てそうにない」なんぞの外野の思惑なんぞ不用である。 代表選考は「より速く、より高く、より遠く」の記録だけでよいのではなかろうか。
◆ (00.5.5)千葉選手が抗議文 水連会長に「五輪選考不透明」
シドニー五輪の競泳日本代表から漏れた千葉すず選手の代理人橋廻邦昭氏は4日までに、選考過程が明らかにされないことなどを不服として、日本水泳連盟の古橋広之進氏あてに抗議文を送った。同連盟に対しても質問書を出した。回答内容によっては、国際水泳連盟への抗議や、スポーツ調停裁判所への提訴も検討するという。千葉選手は日本選手権後、自宅のあるカナダに帰ったが「後輩のためにも選考基準をきっちりとさせたい」と抗議文を送ることを決めたという。」 (00.5.5 朝日新聞朝刊)
→@五輪参加記録をクリア、A選考会で第1位――以外にB連盟の覚えめでたいこと(上智大の猪口邦子さん風にいうと"上に立つ年寄りに覚えめでたい人"、00.4.28 の投書子風にいうと"日本陸連や水連という組織は、選手選考に幹部の自由裁量権を残しておくことによって、自らの権威づけを行っている")、なんぞの条件を出すからぐちゃぐちゃするのよ。誰がみても公正・公平にさらっと行こうぜ。
32、(6月11日) 打率1割2分の首長では肩身せまくないかい (cf.松五郎の玉手箱20)
投票率2割台、絶対得票率1割2分そこそこで民意が反映された首長を選ぶ選挙といえるのであろうかの疑問を禁じえない。先のペルー大統領選挙の際に聞いたところによるとペルーでは投票しないと月収の数ヶ月分に相当する罰金を課せられるそうだ。 投票率が低いから買収が有効であり、特定組織の固定票が効果を生むのである。棄権したければ投票場に行って投票用紙に「棄権」あるいは「該当者なし」と書いてくればよいのである。もし憲法が改正されるようなことがあれば第一に規定されるべきである。 <首長選挙>
(施行日) |
平成5年葛飾区 (93.12.19) |
平成9年葛飾区 (97.11.9) |
平成12年港区 (00.6.11) |
当日有権者数 |
335,126 |
339,220 |
128,789 |
投票者数 |
72,817 |
148,625 |
38,610 |
投票率 |
21.73% |
46.17% |
29.98% |
当選者の得票数 |
40,275 |
106,705 |
15,803 |
落選者の得票数 |
A 16,153 B 11,135 C 2,721 D 750 |
A 37,724 B 4,196
|
A 8,905 B 6,779 C 6,239 |
投票者数に占める 当選者の得票数の割合 |
56.68% |
71.79% |
40.93% |
当日有権者数に占める 当選者の得票数の割合 |
12.02% |
31.46% |
12.27% |
33、(7月18日)「予算での見せしめを検討」⇒「やれるものならやってみろ」
朝日新聞 7.15 南部敏明さんの投書「選挙貢献度で予算配分とは」を読んでパパさんが三沢の知己の市議さんと電話で話していた。「予算での見せしめを検討している」「市長が反自民を明らかにして得票に結果が出ると、自民党として何らかの対抗措置をとりたいという話が耳に入っていた。程度の問題はあるが、この世界の常識」……こんな言葉を選挙後よく聞くが、単なる負け惜しみか自民党の願望に過ぎない。その選挙区の自治体には自民党籍の地方議員もいる。これらの地方議員は一国会議員の当落よりも自分の選挙に直結する当該自治体(あるいは、もっと細かい自分の選挙地盤)の発展にこそ最大の関心があるのである。国会議員が自分の当落や得票の多寡で「予算での見せしめ」をしようものなら、こうした地方議員の反発を買い次の選挙の更なる敗北を決定づけるものであろう。「やれるものならやってみろ」である。綱領政党や宗教政党のように幹部のタクト一振りでは動かない「自民党=自分党」の妙なるハーモニーである。
朝日新聞 投書 00.7.15
選挙貢献度で予算配分とは
無職 南部敏明 (埼玉県 64歳)
あっせん利得法案は、どうなるのだろうか。野党四党が法案を国会に提案したのをはじめ、政府・与党が共同提案を目指すという。本来の政治家の使命はそっちのけで、一部の人の利益のために奔走し私腹を肥やすとすれば、国民全体の奉仕者としての責務に反することは明らかではないか。
衆院選青森二区の三沢市で自民党の前職が大敗したことで、自民党の国会議員が、同市議会の陳情を巡り「予算での見せしめを検討している」という趣旨の発言をしたという。また、同党の国会議員は「市長が反自民を明らかにして得票に結果が出ると、自民党として何らかの対抗措置をとりたいという話が耳に入っていた。程度の問題はあるが、この世界の常識」と話している。
自民党への投票が少なかった市町へ予算配分を減らすというのは、政治の私物化以外の何物でもない。このようなことが一般的に行われているとすれば、民主政治の破壊であり、とても認めることは出来ない。先日の本紙夕刊で読んだこの記事は、ほかにニュースがあった関係か、報道されなかった地域もあるようだ。民主政治の根幹にかかわる問題にマスコミはもっと力を入れてほしい。
@日本(パパさん一家)はサルより劣る。A我輩(松五郎)はパパさん一家に負ける。
∴@Aより、我輩(松五郎)はサルより劣る。
むっ!なんで我輩がキンキラの衣装を着せられて反省ばかりしているバカザルに劣るんだ。
サルにも劣る日本の安保
“
檻”の中の戦後 自衛本能は? 牛場昭彦(産経新聞論説委員) 今年の夏は、兵庫県西宮市のゴルフ場や大阪府内など数ヵ所で体長1mほどのクマが目撃され、ちょっとした話題になりましたが、昨年の夏にはサルが東京の麻布で大活躍を演じ、一躍テレビの人気スターになったものでした。
あのサルは結局捕まり、東京・高尾山の山頂にある「さる園」に送り込まれたというところまでは聞いていましたが、せんだっての本紙には「さる園」におけるアザミ(という名前だそうです)のその後の暮らしが紹介されていました。
それによると、アザミは「ペットとして飼われていたことが災いしたのか」、いまだに群れに入れてもらえず、「寂しい日々を送っている」とかで、見出しには「アザミ7歳 孤立無猿」とありました。そして、「群れのルールを知らない。サル同士の付き合いも知らない。このままでは群れに放すことは難しい」という係の人の話が出ていましたが、これを読んで暗澹(あんたん)とした気持ちになりました。
なにもサルの境涯に同情したからだけではありません。この50年間、アメリカの
“ペット”に甘んじてきたわが国の来し方と、サルの履歴がそっくり重なって見え、必然的に行く末もまた見えてきたような気がしたからです。“
生け捕り”にした日本を調教するために、アメリカがしつらえたのが「日本国憲法」という“檻(おり)”でした。このなかで「渡る世間に鬼はない」、「坊や良い子だ、ねんねしな」と教え込み、“暴れん坊”のスジ骨を抜いてしまおうというのが、あちらさんの魂胆だったことは改めて言うまでもありません。その点、麻布のサルは、どんな飼われ方をしていたのかは知りませんが、とにもかくにもペットの身分を振り捨てて飛び出してきたのですから、わが国民よりよっぽど「志(こころざし)」を持っていたことになります。聞くところによると「サルは人間より毛が3本足りない」そうですが、なかなかどうして。こんな生活をいつまでもしているようだと、日本人の方がサルより3本毛が足りないなどといわれかねません。
さて、
“檻”の中に50年も安住していると、どういうことがおきてくるでしょうか。「葦(よし)の髄(ずい)から天井をのぞく」ようなことばかりやっていると自分の狭い料簡だけで広い世間のことについて勝手な判断をしがちになるといわれています。”檻”の中から裟婆(しゃば)をのぞいていると、同じようなゆがみが出てきます。そのひとつが、世の中は良い人ばかりで、その人たちがみんなで生存の保証人になってくれているのだという手前勝手な判断です。そう思い込んでしまえば、生物としての一番の基本である自衛本能が決定的に退化してしまいますから、自国の安全保障など、さほどの関心事ではなくなってしまいます。 わが身のことさえこの程度なのですから、ましてや
“群れ”全体のために危険を分かち合うなどという発想が出てくるはずがありません。なにかあったら、金をばらまくという“芸”を見せれば、受けるだろう…と考えるのが精々です。“ひとのフンドシで相撲を取る”という例えがありますが、こっちはひとにフンドシ代をやって相撲を取らせようというのですから虫のいい話の横綱格です。大相撲のタニマチならこれで大いに喜ばれますが、国際社会では嫌われます。現に、湾岸戦争の時には
“手”が要るというのに“オアシ”を差し出し、散々ばかにされました。この次の時も、またその次の時も同じことを繰り返すなら、もう軽蔑されるだけではすまなくなります。そうした危険を、わずかに残っている生存本能が察知したのでしょうか。「湾岸の屈辱」をきっかけに、「これでいいのだろうか」と反省の声があがり、憲法改正を論議することがタブーでなくなったのは、かすかな希望かもしれません。もっとも、最近の日本語は変わり、「論議する」は「なんにもしない」と同じ意味にも使われていますから楽観は禁物です。そういえば、「反省だけならサルでもする」というはやり言葉がありました(チト古いか)。
【パパさんの補充】
塩野七生著『ローマ人の物語T ローマは一日にして成らず』はローマ共和制時代(BC.4世紀頃)の「ローマ市民権」について述べている。
「これは、市民のもう一つの義務である納税の代わりでもある。間接税がもっぱらであった古代の税制では、直接税は軍役で払うのが普通だった。それゆえに軍務は、別名「血の税」と呼ばれた。
金を払って軍務をまぬがれるやり方は、法によって許されなかったというよりも、不名誉なことと考えられていた。経済的な代替行為は、市民権をもたないために軍務につく義務のない非市民か、ローマ人の中でも、裕福で子のない女にのみ課された税であった。
同盟国でも属州でも、年貢金という形での直接税を払うよりも、兵力提供に応ずるほうが、名誉ある協力のしかたと思われていた。ローマ人もそのあたりの事情は心得ており、征服した地方も追い追いローマに同化しようと思えば、資金協力よりも兵力提供のほうを課したのである。」(塩野七生著『ローマ人の物語T ローマは一日にして成らず』新潮社、1992;p.221)
ローマ、ギリシャの思想を受け継ぐ欧米の国民からみればこれが地球市民の「市民権」なのであろう。それは良いとか悪いとかの次元ではなく自らの血肉に溶け込んだものであろう。