松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.15】00.5.12 朝日新聞夕刊「文化」より

罪悪感持たぬ青少年の増加 仏の思想家ルジャンドル氏に聞く

自分を組み立てられぬ若者 方向示せぬ大人世代に責任

 子供の暴力や若者の犯罪の凶悪化が世界的に深刻な問題になっている。フランスの思想家でパリ第一大学名誉教授のピエール・ルジャンドル氏は、「罪悪感なき世代の誕生は先進国に共通した現象だ」という。「背景には、人間を組み立ててきた枠組みの崩壊がある」と警告する教授に聞いた。(編集委員・清水克雄)

――日本では若者や少年の犯罪のエスカレートが社会に衝撃を与えています。社会の何か大切なものが崩れ始めているような不安感も広がっていますが。

 「日本だけではありません。フランスでも学校や子供社会の暴力が深刻になっている。罪悪感を自分のものにできない世代が、どんどん生み出されている。産業化された社会に共通の現象です」

 モンタージュの崩壊

――何が起きているのですか。

 「私は昨年まで9年間、大学の親子関係研究所の所長として、少年事件の裁判官に助言する仕事をしてきました。経験を踏まえて言うと、多くの若者や子供たちが自分自身を築きあげる方法を見失っている。人間としての自分を組み立てることができなくなった結果、自己破壊的な状況に追い込まれているのです」

――そのことを「モンタージュの崩壊」と説明しているそうですが。

 「モンタージュは映画の用語で、一つの作品を編集し、組み立てること意味します。人間は最初から完成したものとして、この世界に生まれてくるわけではない。映画と同じように、モンタージュ、つまり組み立てられて、初めて一人の人間になるのです。大切なのは、この時に尊重しなければならない規則があることです。建築の構造と同じで、正しく組みたてられないと間違ってしまう。構造が崩れた状態が、モンタージュの崩壊なのです」

 善悪の境を子に示せ

――人間が自分を組み立てられなくなった原因は何なのですか。

 「もともと、人間は自分の力だけで大人になることは出来ない。西洋には人間は自由に成長させるべきだというルソーの自然人のような考え方もあるけれど、実際には、だれかがモンタージュを手助けし、教える必要がある。夢の中では人を殺したり、消したりできるのに、なぜ現実の世界ではいけないのか。そうした規則や限界を子供だけで知るのは無理です。ところが第二次世界大戦後は、子供に対してもアメリカ流の自由主義が正しいということになってしまった。自由を抑圧するファシストと思われるのを恐れて、だれも規則や厳しい礼儀作法を口にしなくなった」

――大人が子供の自由を制限するのは悪だというわけですね。

 「本当は子供が求めているのは、何が良くて、何が悪いのか。黒か白かをだれかがはっきりさせてくれることです。最近のフランスの学校では、子供同士の恐喝事件や、時には殺し合いも起きている。大人は立ち会わずに、子供だけで自由にやらせた結果です。だれもモンタージュの規則を教えてくれない。そのために、自分を組み立てられない若者たちが、教祖がすべてを指図してくれる宗教セクトに引かれていくという現象も起きている」

――教授は最近の対談で、「若い世代がモラルをなくしているのは、彼らのせいではない。むしろ若者は破壊されているのだ」とも語っていますが(坂口ふみ氏ほか編『宗教の解体学』<岩波書店>に収録)。

 「若者が崩壊しているのは、大人が背負い切れなくなった重荷を彼らに負わせた結果です。自分のこと自分で勝手に組み立てなさいと次の世代に言う。そんなことは過去になかったことです」

――日本では、特にこのところ、罪悪感を失った若い世代による犯罪が続発しています。

 「日本の状況についてくわしくは知りませんが、おそらくは政治の問題も関係があるような気がします。政治がどうなっているかというのは、一人一人の個人のアイデンティティーを作り出す基盤だからです。政治の世界が腐敗している。あるいは手段を選ばずに金持ちになれるような野蛮な状態が放置されている。それは次の世代のモンタージュをさらに荒廃させる」

――次の世代のために、何かできることはないのですか。

 「この問題については、コンピューターも何も解決してくれません。ただ、すぐに出来ることもある。間違っていることに対して、大人がはっきり『否』と言うことです。そして子供が自分の居場所を見失っている時に、方向を示す地図を教えてやる。あるいは自分が分からなくなった若者に、自分を映す鏡を差し出してやる。それは大人の世代の責任なのです。

 解決に三世代はかかる

――その大人の側も指針を失っているようにも見えますが。

 「まさに問題はそこです。荒廃した若者たちは地獄を渡っているけれど、それはまず大人たちの問題なのです。フランスでも、少年犯罪の一方で、家庭の崩壊や児童の虐待も深刻化している。いま起きていることは30年前からあったけれど、こんな崩壊という形ではなかった」

――なぜそこまで追い詰められてしまったのですか。

 「崩壊現象を解く鍵は思想の壊滅だと考えている。だれも有効な思想を見つけられない。本や活字は毎日たくさん刷られているのだけれど。ただ、この崩壊によって、人々は考えざるをえなくっている。問題に気づくのは、いつも破滅的なことが起きてからなのです。事態はまだ悪くなるかもしれない。解決に三世代はかかるかもしれない。しかし、崩壊の中から新しい何かが生まれる。私はそう考えている」


【保管ファイルNo.16】 佼成新聞 00.5.19より

老いの風景N

南相木村の老いの達人たち 一人ひとり、物語りがある

自らの終末を委ねる「老い方の作法」

 山あいに笛と太鼓の音色が響いた。4月3日は春のお祭り。長野県小海町親沢地区の諏訪神社で行われた三番叟だ。春の訪れを祝い、秋の豊作を祈るために人形芝居を神殿に奉納する神事である。狭い境内は200人以上の村人でにぎわう。隣の川平地区の若衆による厄払いの獅子舞と一対の神事で、山村に春の訪れを告げる風物詩となっている。

 お囃子の笛を吹くのは84歳を頭にいずれも80代の老人たち。「昔はワシらより二十年若い衆がやった」という。祭りにも高齢化と後継者不足の波が押し寄せているのだろう。それでも、弟子を7年、親方を7年、おじっつぁ(おじいさん)を7年、計21年間、役を回るという習わしは続く。

 戦前は親方に絶対服従、おじっつぁの言うことは神の言葉といわれた。祭り期間中、練習場は女人禁制。封建的な祭りだが、このような祭りを通して年寄りから若衆へと村の営みが継がれてきたのだろう。舞台で若衆が舞うさまを前列でじっと見つめる92歳の女性が「汗びっしょズラねえ」とつぶやいた。隣村へ嫁いで70年。昔を懐かしんで毎年訪れるのだという。その祭りを見てから私たちは山と川を越え、隣の南相木村を訪れた。人口約1300人。65歳以上の村人が全体の33.8%を占める同村は、長らく無医村だった。

 色平哲郎医師(40)が、南牧村の野辺山へき地診療所から家族五人で赴任したのは2年前。南佐久郡と呼ばれるこの山村一帯では佐久総合病院を基幹病院として、診療所が最先端で村人の保健医療を支える。山あいの集落に住む高齢者には交通手段がないので、診療所の往診車が山道を往来する光景は日常的だ。色平医師が倉根七郎さん(78)宅の庭先に診療所専用のバンを止めた。「今日は朝から急患が多くてねえ。遅くなっちゃった。痛いところあったら教えてね」村を回り、長老たちの知恵に学ぶ日々だ、と色平医師は言う。

 倉根さんは前々村長を務めた。今は80歳の妻と二人暮らし。「結婚して53年、大変苦労させてもらいやした」と妻は笑う。94歳の母が脳梗塞になり一年間介護したこと、子や孫の成長を張り合いに生き抜いてきたことを、妻は淡々と語る。倉根さんはシベリア抑留のことが今も鮮明に残り、「1500人中、513人も死んじゃったな」と言う。昭和22年に復員したときは「畳と布団が懐かしかった」。多くの出征兵士、満州開拓団を見送った村はずれの二本松に「不戦の碑」を建てたのは、倉根さんが村長の時だった。

 養蚕、炭焼き、水田が村の主産業だった。村は貧しかった。「果たせない夢を子どもたちに託した」と倉根さんは言う。娘さん三人は村外に嫁いだが、最近大学の福祉学科に入学したばかりのお孫さんが、いずれ倉根家の跡を取るという。毎日つけている日記に太マジックで、お孫さんの住所と電話番号が刻まれていた。お孫さんが大学卒業まで四年。倉根さん夫妻は指折り数えて孫の帰りを待つ。

妙薬は仕事

 私たちが宿泊した坂上館は、隣の北相木村だった。女将さんの井川まき子さん(74)は「まき姉」と呼ばれ、村人から慕われている、村の「生き字引」だ。

「嫁をもらうなら、足がきれいで手の汚いもんをもらえ、と村の衆は昔から言っていたな。いよいよ姑になると最近は手がきれいになった。でも、手がきれいになると家族もアテにしなくなる。汚いと家族もアテにして頑張りがきく。『おばあちゃん、これやっといて』と言われると、うれしいもんだよ。そこにいいところがあるんだよ」

 長野県は長寿県として知られ、老人の医療費は全国でも最低ランク。ピン・ピン・コロリの頭文字を取って「PPKの県」とも言われる。南相木村のお年寄りたちはその典型だ。「老いの作法」を心得た高齢者ばかりである。

 中島至静さん(82)は元気老人の代表格。「まいんち手悪さだよ」と言ってワラで編まれた丈の短い足半という草履を作る仕事に精を出す。手悪さとは、好きな手仕事のことである。

 「苦労はしたな」

 戦前は大人一人働いて50銭。米一升25銭、酒一升80銭の時代だ。家族は少なくて五人、多くて十人。中島さんは八人きょうだいの長男だった。

 中島さん宅の近くに立派な馬頭観音がある。200年ほど前、文化年間の建立だという。林業の担い手は馬だった。戦時中は軍馬を育てることが主産業だった。馬が好きな中島さんは馬の種付け業をしていたことがある。蹄鉄造りの名人だった。馬に限らず家畜が病気になると、中島さんのところに連れていった。おできなどはさっと切開して膿を出してくれた。

 技を持つ者が、その技を村人のために生かす時代だった。戦争も終わり、林業もさびれ、馬からガーデントラクターや軽トラに代わっていった。

 中島さんは道路、護岸、橋梁の工事で汗を流した。70歳で仕事を退き、畑仕事と「手悪さ」を楽しむ。

 心臓、ぜん息、血圧の持病があるが、無医村だったころに比べると、「天国のようだ」と中島さんは思う。二週間に一回、散歩がてら自転車で、診療所まで通って体調を診てもらう。風邪で寝込んだときは、色平医師が駆けつけてくれる。「働いていることが一番の健康の秘けつだよ。『年寄り殺すにゃワケねえぞ、うまいもの食わせて仕事とれ』と若いもんに言うだ。この仕事場は、ワシの妙薬だわね」

 七畳半ほどの仕事場には、差し金やペンチ、刷毛が壁に掛かり、所狭しと中島さんの手悪さの所産が転がっている。足半のほかブリキのちりとり、神棚へ供える鍬や鋤、鎌などの木工品。ケズリバナというのは、堆肥の象徴のような供え物で、作物の肥料として大切だったため馬小屋に飾られたという。

 若い者寄居という風習もあった。15歳になると各家の長男は寄居に入り、道普請や祭りの旗立てなど長老から教わりながら引き継いだ。寄居に入ることが一人前のあかしであり、若者はみんな憧れた。村を守り、子孫を育む人間の知恵だった。

 「この村の衆はね、えらい苦しまんで死ぬ」と中島さんは言う。

二つの作法

 自然随順の生き方が今も辛うじて残る山村には、「老い方の作法」「死に方の作法」があるようだ、と色平医師も感じている。老人一人が一冊の本に匹敵する巨大な図書館だ。一人ひとりの物語を聞くのも往診医の重要な仕事である。

 色平医師はかつて訪れたバングラデシュの仏教徒村での風景を思い出す。臨終間近な老婆の枕べに、黄衣の僧が寄り添い、枕経をあげていた。『大般涅槃経』の一節だった。「この世に生まれたら死ぬのが定めです」。ブッダの教えの核心をぐさりと切り出す僧と、それを受容する老婆とその家族の姿は、山村の「老いの風景」にも重なるのだった。

 村の最高齢99歳になるおばあさんを、色平医師は看取った。入院先の病室では寡黙だったが、退院した家に訪れたとき、おばあさんのベッドには一枚の写真があった。米寿の祝いの時の笑顔が写っていた。孫、曾孫まで一族100人ほど。一族の長としての風格は、病院ではなく命育んだ家でこそ発揮されるのを感じるのだった。

 「都会ならただの一見さんにすぎません。大病院では生物学的に治療が進み、介護もケアされるべき老人の要介護度や状態に応じて進みます。匿名性の医療、介護ですね。でも村では一人ひとりの歴史が大切になる。背景のない、単なる患者さんではありません。患者さんの家を訪ねると、その人の全人生がにじみ出てきます。地域医療の原点を、村の人に教えられます」

 依田儀太郎さん(86)は、村の文化財審議委員長を務め、遺跡調査、石仏調査などに励んできた。シベリア抑留で九死に一生を得たが、今ははつらつと田畑の仕事を続ける。

 「デイサービスでゴムまり投げ、手をつないで遊戯……都会の体の悪い人のリハビリですよ。ワシらは畑作業がリハビリ。孫と一緒に暮らし、嫁も家を助けてくれる。この村ではみんな昔からそういう生活をしようと生きてきた」

 野菜作りを何十年もやってきたが、年によって作柄がまるで違う。「体が動かなくなるまで、今年こそ良いものをと精を出しやす」と雪解けの畑に向かう。

 菊池信義さん(81)は妻・そめえさん(76)と二人暮らし。標高1200メートルの村はずれの地区で暮らしていた。七人きょうだいの長男だった。貧しかったので口減らしのため、一時東京で子守奉公をした。父が44歳で他界。八月奉公といって、四月から十二月まで田畑の仕事を手伝い、冬場は山を越えて茅野市の寒天工場に住み込み、家計を助けた。22歳で徴兵。戦後、隣村から嫁いだそめえさんと所帯を持った。営林署へ勤め山仕事を続けたが、昭和40年に網膜の病気で失明。その後、山あいでブタやブロイラー、乳牛の仕事をしたが、全部失敗した。辛うじてキク栽培で生き返ったという。目の不自由な信義さんは勘を頼りに芽とりをした。そめえさんは電子の部品工場に勤め、夫を支えた。今は細々と年金暮らし。お子さんがいない夫妻には行く末が不安だが、いざというときは保健婦さん、診療所という連携での対応ができている。色平医師も往診の合間に様子をうかがう。信義さんはむかし楽しんだギターをつま弾く。「八十の手習いですよ。昔の世界しか楽しみがないですからねえ」。林業が盛んだったこの地区にはかつて50軒あったが、今は空き家も目立ち住んでいるのは半数の25軒ほど。しかし、「住めば都、ここから出る気にはなれません」と菊池さん夫妻は、きっばり言う。

生きざま

 「かつて村人は、隣人の誕生から死までを、自分たちの手で取り仕切ってきた。産婆さんが家に駆けつけ、赤ん坊を取り上げる。その家でまた老人が死に、遺体を清め、墓穴を掘る。その一連の流れが、人を看取るということだった」という色平医師の言葉を裏付ける家を訪れた。 猿谷真弘さんは校長を務め終えてから3年になる。猿谷家は代々神官を務め、校長も四代続いたという教育一家である。「ぼそぼそ300年になりますかねえ」と猿谷さんは新宅隣の古い民家を案内してくれた。馬屋、鶏小屋、蚕室を広い土間が仕切り、反対側に表座敷や奥座敷、台所、茶の間がある。百貫取り(約375キロ)の養蚕家でもあった。寄せ棟造りの巨大な旧家だ。板戸には宇治川の戦陣が描かれている。奥まったところに三畳ほどの小さな畳部屋があった。「産屋といってわが家の子どもはみんなそこで生まれました」

 この家を守っていた猿谷さんの叔母が四年前の春、93歳で息を引き取った場所が産屋だった。晩年は佐久市で暮らしていた叔母は、彼岸に長年暮らしたこの家で過ごしたいと言い、そのまま伏し、眠るように大往生を遂げたという。

 色平医師は言う。「死に方の作法とは、自らの終末と死を共同体の手に委ねることでした。『自分の家で死にたい』と願う村のお年寄りは、人は死ぬものだということを知っている。死を受け入れることのできる確固とした心の基盤を持っている」

 日本が日本であった時代の立ち居振る舞いの名残が、過疎といわれる山村に根づいていた。往診医療を続けながら、老人たちの生きざまから「老病死の哲学」を学ぶ色平医師の旅は続く。(文 須田 治)


【保管ファイルNo.17】       先輩にもっらた著作を25年ぶりに見つけて

「どんなことがあっても、
     真理に対しては叩頭しなければならない」

 昭和43年に大学入学のために上京したおりに当時の高校(旧制中学)同窓の国会議員、賀屋興宣さん(明治41年卒)・源田実さん(大正11年卒)、灘尾弘吉さん(大正7年卒)を表敬訪問したり、新潟の友人に誘われて田中角栄さんの目白邸、群馬の友人と中曽根康弘さんの事務所、その他、広島県選出の議員や友人の出身県選出の議員を学生の特権で品定めと昼飯にありつきに行ったが、祖父の趣味のおかげで池田勇人さん(行彦さんは女婿)、谷川和穂さん(父上が同窓)、中川俊思さん(秀直さんは女婿)と選挙のたびに会っていたこともあって決してビビルことはなかった。

 しかし、源田実さん(真珠湾作戦の、トラ・トラ・トラで知られる旧帝国海軍の軍人)には、(当時64〜5歳のはずであるが)鋭い眼光で「射すくめられる」ような怖さを感じたことを覚えている。その源田実さんに法学修士の学位を授与されたご報告に議員会館に伺ったとき記念に頂いた氏の三部作の一つ『指揮官 魅力あるリーダーとは』(善本社)の一節である。「どんなことがあっても、真理に対しては叩頭しなければならない」の横に著者自ら赤線を入れて頂いたものである。25年ぶりに見つけて再読した。

真理には頭を下げよ

 私が統率の問題について、最初にしかも極めて深刻に取り組まされたのは、海軍少佐で海軍大学校の甲種学生であった時である。

 先年なくなられた寺本少将という方が、そのころ統帥の担当教官でおられた。この教官によって、それまで漠然と考えていた軍隊における統帥の本義について完膚なきまでの斧鉞を加えられ、私の考え方のあまさを悟ると同時に、真の統帥というものが如何に困難なものであるかも知るにいたったのである。

 その講義の内容は宗教的、哲学的に深刻なものが大部分で、今でも十分に理解できないでいるが、その講義の劈頭に行われた問答に次のようなことがあった。

 「君はいままで海軍に勤務し、部下の統御をやってきたと思うか、また今後もやれる自信があるか」

 こんな質問に対して、「私は部下の統御はできません」という回答は、軍人として出せるわけがない。そこで大部分の学生は、「完全ではないが、いささか自信があります」という意味の答弁をした。すると、

「君は自信があるというが、統帥の本義はどこに求めているのか、何を根拠にして自分の部下を引っ配り得る自信があるというのか」

とたたみこんでくる。

 当時の軍隊においては、軍人に賜った勅諭が軍人の精神的基盤をなしていたので、その勅諭を根拠にして「統帥を行い得る自信がある」という旨の答えをするものがほとんど全部であった。そして多くの場合、この勅諭を引き合いに出せば、それから先の論議は行われなかったものだ。

 そのようなことは他にもあった。「聖旨はこうである」となれば、これに対する論議は終止符を打たれ、また海軍部内においては、「東郷元帥はこういわれた」ということが、兵術論議にそれ以上の展開を許さなかった。したがって心ある人は、論戦の中にこういう絶対″を導入することを避けたものである。

 ところが寺本教官は、この勅諭の絶対性に対しても検討する態度をとったのである。

「御勅諭を根拠にしているというが、御勅諭の中のどこを指すのか」

「心だに誠あれば何事もなるものぞかし、と教えられております。したがってわれわれも、誠意をもって部下を率いるならばまず統率し得ると思います」

「心だに誠あれば、必ず何事も可能か」

「そう思います」「君自身に誠はあるか」「私もいささかながら誠あるつもりであります」「然らば、君に問題を与える」寺本教官はローソクを一本、机の上に立てて、

「君に誠があるならば、そこからこのローソクが倒せるはずだ。倒してみろ!」

そんなことが学生にできるはずはない。

「それは教官、無茶であります。この誠はそういう意味のものではありません」

「では、御勅諭に仰せられている誠には限界があるのか。できもしないことを、ただ景気づけのために書いてあるのか」

「そうではありません」

「それならば、御勅諭の誠とは、一体、何だ」

この問題には、学生全部困ってしまった。

寺本教官は、この講義を始めるに当たって、「ここは海軍における最高学府である。したがって、統帥という重要問題については、なんらの仮定を許すことなく、ことことんまで突っ込まねばならない。最高学府なるが故にこんなことをするのであって、この教室を一歩外に出たならば、この問題には絶対に触れてはならない」という戒めをされた。

 この戒めの下において、それ以後、勅諭の根本をなす天祖の三大神勅にまで及び、

――豊葦原瑞穂の国は代々わが子孫の王たるべき地なり。往いて治らせ、宝祚の栄えまさんこと天壌と窮まりなかるべし――という神勅に関しても、批判のメスを入れられた。

 「宇宙の森羅万象流転しないものはない。生あるものは必ず滅び、形あるものは必ず崩る、これが宇宙の法則である。その中にただ一つ、わが皇統とわが国家だけが悠久の生命を保つということをどうして証明できるか」

 「御勅諭を統帥の本義とする以上、この神勅が真実であるという証明なしに統帥を全うすることはできないはずである。君たちは、今は学生であるから部下はいない。しかし、明日にでも学校を出れば直ちに部下を持たなければならない。その場合、この問題を明かにしないままで果たしてやってゆけるか」

「われわれのやらなければならない統帥は、世間一般の統率と違う。剣電弾雨の中における統帥である。君たちのような、いい加減なことで、この生死の間においての統帥をどうしてやっていくのか」

 こういう難問が次々に投げかけられ、学生は途方にくれたものである。何でも、発言すれば逆襲されるので、こうなれば無言にしかずとばかり拒否権を行使すれば、 「この重要問題に、何の意見も出さないような怠慢なものは相手にしない」とくる。 われわれ軍人がかつて触れようともしなかった問題に触れ、さらには進んで生死の問題に取り組まされ、私と同じ時期に在学した一人の学生は、煩悶のあまりついに自決の道を選んだのである。

 二年間にわたる海軍大学校の教程の中でこんなに困りもし、またこんなに深刻な問題に取り組んだことは他にはない。しかしこれは当時の世論として、あるいはわれわれが子供のときから教えこまれ、当然のこととして疑問を起こすことさえなかった思想に対して、その根本にメスを入れたのであって、私達の思想の浅かったことについて深く反省させられた。今でもハッキリと私の頭の中に刻みつけられている教官の言に、

「どんなことがあっても、真理に対しては叩頭しなければならない」

ということがあった。

 なるほど、これはそのとおりである。われわれが真理を把握し、真理の命ずるところによって行動するならば、それこそ絶対不動の信念によるのであるから、統率も立派にやってゆけるだろうと感じたわけである。

源田 実著『指揮官 魅力あるリーダーとは』(善本社)より

 浄土真宗の徒が歎異抄・御文章を、日蓮宗の徒が立正安国論を、クリスチャンがバイブルを、モスレムがコーランを、マルキストが資本論を、法律家が六法全書を、巨人ファンが背番号3を、それぞれ自らのポジションの拠って立つ所としようが結構だがその優越性を他に押しつけることは断固拒否する。

 鎖国の夢から醒め寝ぼけ眼でいると列強が印度、中国へと侵略の毒牙をのばしている。これに伍すべく中央集権国家の完成を急ぐ明治期に『豊葦原瑞穂の国は代々わが子孫の王たるべき地なり。往いて治らせ、宝祚の栄えまさんこと天壌と窮まりなかるべし』 豪族の王が自らを中心とした国家を作りたいとして創った統治の正当性フィクションを1,500年余の時を越えて甦らせたものである。それを西暦2000年の現下の常識で判断することは無意味である。その時代の必然性であったといわざるを得ない。

 私が源田実先輩の著述を掲載するのは、そのような時代背景下でありながらも「真理に対しては叩頭」する姿勢が存在したことへの感嘆からである。@それから先の論議を否定するような、あるいは論議に終止符を打つような″絶対性″を導入することを避ける。Aその時代の説く絶対性に対しても常に疑い検討する態度を保持することと「どんなことがあっても、真理に対しては叩頭しなければならない」は、時代を超えて忘れてはならないのであろう。


【保管ファイルNo.18】

ここが争点 総選挙と経済                (00.6.1 朝日新聞朝刊)

年齢差別の禁止必要 失業者が求める施策を

清家 篤(労働経済・慶応大学教授)

 ――4月の完全失業率は4.8%で、やや改善しましたが、依然として最悪水準に張り付いています。

 雇用はモノやサービスの生産からの派生需要なので、基本的には景気が回復しないと改善しない。その生産についていえば、鉱工業生産指数や製造業の所定外労働時間(残業)は昨報夏ごろから前年に比べてプラスに転じ、有効求人倍率もほぼ同時期に底を打ち、改善基調となっている。

 ただ、失業率は景気の現状に遅れて動く遅行指標のうえ、景気回復期には、それまで職探しをあきらめていた人が再び労働市場で職探しを再開するようになり、結果として失業者が増えることもある。このため今後一時的に上昇する事態も予感される。

 ■緊急対策

 ――雇用対策は政府の最重要の政策になっています。5月中旬には35万人の雇用・就業機会の創出を目指した緊急雇用対策を打ち出しました。

 70万人の雇用創出を目指した昨年の緊急雇用対策が必ずしも十分な効果を上げなかったため、見直しを図ったようだが、期待する結果は出るのかどうか。昨年の対策の目玉だった新規・成長分野の産業で中高年を雇った場合に助成金を支給する制度をみても、もともと成長する企業は政府の補助金がなくても人を雇うのではないか。新政策を打ち出すのは良いが、他方で効果の上がらなかった政策は打ち切るなどの柔軟な運営をするべきだ。

 ――与党は総選挙を前に、雇用改善の努力を印象づけようとしているようです。

 きめ細かい施策で効果を上げようとしている姿勢は認めるが、そろそろ骨太な政策に重点を置いた方がいい。5%前後の失業率というのは、だれでもが失業する可能性がある時代といえる。必要なのは失業者が本当に求めている対策だ。第一に安心して仕事を探せるようにセーフティーネットとしての雇用保険制度の充実、第二に中高年の就職を困難にしている年齢制限をなくすことだ。米国のような年齢差別禁止法も検討すべき時期だろう。

 ■雇用保険

 ――雇用保険は今国会で改正され、来年4月から施行されます。

 非自発的失業者の給付期間を現行の最長300日から330日に増やす一方で、自発的失業者の給付期間を減らすなどメリハリをつけたが、全体として給付期間は短い。失業期間は長期化し、1年以上の失業者が4分の1を占めており、少なくとも1年半程度は必要なのではないか。そのために必要な保険料負担は労使とも認めていくべきだ。

 ――日本の企業が採用面で年齢制限を設けているのはなぜですか。

 見直されているとはいえ、年功的な処遇や賃金制度が日本の企業の基本になっているからだ。能力主義、成果主義的な賃金が主流になり、賃金が年齢に左右されなければ、企業も中高年を受け入れる余地が出てくる。しかし、年功制賃金の適用を受けている企業の正社員にとっては賃下げになりかねない。さらに経営側には、年齢差別を禁止するなら、定年以外の理由による解雇の自由を認めるべきだという主張も根強い。

 雇用保険の充実や年齢差別禁止については与野党も総論では反対しないだろう。ただいずれも企業や雇用者の負担が増え、痛みも伴うことは避けられず、使用者側や在職者の利害を代表する労組の抵抗が予想される。それだけ政治がリーダーシップをとって実現すべき課題といえる。

 ――雇用システム自体のあり方も問われますね。

 年功貸金、終身雇用制度は日本の経済成長を支えてきたし、結婚、マイホーム、子どもの教育を支えといった人生に合ったシステムだった。それを維持できなくなったところに現在の問題はある。だからこそ終身雇用制度の外にいる業者やパートや派遣など安定雇用者に立脚した雇用政策を早急に確立する必要があるのではないか。(編集委員・中川隆生)

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00.6.3 メールのメール

前略 「働き盛りの会」の兼松です。慶応大学の清家先生へのメールをご参考までにメール致します。

清家先生 「働き盛りの会」の兼松です。

 6月1日「朝日新聞」の記事を拝読しました。全く同感です。

 「年齢制限撤廃」に真っ向から異論を唱える人は少数にもかかわらず、「年齢差別撤廃運動」が中々盛り上がらない最大の要因は、労働組合の姿勢にあるのではないでしょうか。例えば、連合本部は「年齢制限撤廃」に賛成ですが、取り組む優先順位としては3番手に置いています(労働政策担当の方に聞きました)。まず、雇用問題における当面の最重点課題は、「性差別」。次が、「年齢差別による解雇」の問題。同じ「年齢差別」でも、「年齢制限」の問題はその次だそうです。中年の女性が就職しにくいのは、「性差別」ではなく「年齢制限」にあること。「年齢制限」は、新卒から中高年まで、全ての求職者に悪影響を与えていること。「年齢制限」は、求職者だけでなく、求人企業にも大きなマイナスをもたらしていること。これらを考慮すれば、「年齢制限」の問題は、まず率先して対処しなければならない緊急課題ではないでしょうか。また、「年齢制限」に対する各産別の認識は、もっと消極的です。一部の例外を除いて、産別は「年齢制限撤廃」には、「総論賛成だが、各論は反対」が本音です。組合員の待遇に直接影響するであろう「年齢制限撤廃」には、関わりたくないからです。

 労組の組織率低下が叫ばれて久しい中で、真の労働運動とは一体何なのでしょうか。仮に労働組合が率先して、「年齢制限撤廃」運動に取り組んだとします。その甲斐があって「年齢制限禁止法」が制定され、求人企業が「年齢制限」をしなくなったら、その恩恵を受けて就職出来た求職者は、かなりの高率で組合員になるはずです。にもかかわらず、これから組合員になるであろう求職者の「人権」を無視し、今いる組合員の待遇のことしか考えない、労組のあり方として本当にそれでいいのでしょうか。同じ国民でありながら、求職者には「憲法」で保障されている「基本的人権」、「法の下の平等」、「勤労の権利」すらないのです。

 労働組合がこの調子ですから、労組を支持基盤とする政党にはあまり期待出来ません。最近では、民主党や共産党も、「年齢制限」の撤廃、「年齢差別禁止法」の制定を言い始めましたが、最大のスポンサーである労組がそれ程乗り気でなければ、それらの政党が本腰を入れて取り組めるはずがありません。

 「年齢制限撤廃」、「年齢差別禁止」を実現するには、従来までの雇用制度や慣行、様々なシガラミを抜本的に見直す気構えが必要です。「働き盛りの会」は幸か不幸かシガラミはなく、また「年齢差別」の問題に関する豊富な知識と熱い情熱を兼ね備えており、その責任は小さいながらも極めて重大です。

 「働き盛りの会」は純粋なボランティア団体であり、選挙活動は勿論、政治活動もするつもりはありませんが、働いている人、働こうとしている人、双方の人権に関心の高い政治家の方とは連携して参りたいと考えています。また、この問題に理解のある経営者、学者、弁護士、マスコミ関係者らの協力が得られるのではないかと密かに期待しています。

今後とも、宜しくお願い致します。 以上      「働き盛りの会」 かねまつ信之


【保管ファイルNo.19】(00.6.17 朝日新聞朝刊)   論壇2000年総選挙

 社会保障の総合的戦略を示せ 正村公宏 専修大学教授(経済政策)

 日本の社会保障はボロボロになっている。制度の透明性と公平性が失われ、財政基盤が崩壊しつつある。介護保険がやっと発足したが、制度は欠陥だらけである。

 日本の政治はどうしてこうも無能力で無責任なのだろう。年金・医療・介護は密接に関連しているのに、厚生省のなかでさえバラバラであり、総合化のために格闘した厚生大臣や総理大臣は一人もいない。小渕内閣は社会保障戦略の検討を開始するカツコウを示したが、首相の死去によっで宙に浮いてしまった。

 政治家は「小さな政府」を唱えつづけ、「自助」と「互助」で高齢化社会の到来に対応できるかのごとき幻想を振りまいてきた。

 消費税導入騒ぎの衝撃を受けて1989年にゴールド・プラン(高齢者保健福祉推進10カ年戦略)を策定したとき、政府は高齢者介護にどれだけかの責任を負わなければならないことをシブシブ認めたが、財源の裏付けは提示されなかった。介護保険の導入は、「小さな政府路線」を実質的に放棄し、保険料と自己負担という「なしくずし」の負担増を国民に求めるものであったが、制度の有効性と公平性を正面から問いかける姿勢は示されなかった。

 「介護保険」という名称は不当である。第一に、政府が参照したはずのドイツの介護保険は原因や年齢を問わずすべての要介護者を対象とする包括的な制度だが、日本の「介護保険」は原則として高齢要介護者に限定される。いわゆる障害者は対象外である。社会福祉の総合化が課題とされなければならない時代に、政府は細分化を選んだのである。

 第二に、保険料はそれを負担した世代のために使われるわけではない。実質は現在の要介護者のために使われる目的税である。

 第三に、保険料は介護費用の一部をまかなうことができるにすぎない。過半は中央・地方の一般会計の支出である。それを裏付ける財源は十分には検討されていない。介護保険は、すでに実質的に破産状態にある中央、地方の財政をさらに悪化させ、将来世代(いまの子どもとこれから生まれる子ども)が負担する借金(公債)を増加させる。

 第四に、「要介護度」のこまかいランクづけによって、介護事業は「こまぎれ」の「サービス」の寄せ集めに変質させられる。介護プランのために「ケアマネ」(ケアマネジヤー)の手を借りなければならないが、「ケアマネ」の大部分はサービス供給業者に所属するという奇怪な仕組みである。「ケアマネ」は、公平な立場で要介護者の状況に対応する有効な支援を考えるよりも「ツジツマあわせ」の計算に忙殺される。個々の要介護者の「可能性」を大切にするという「福祉」の精神が消え、商業主義がこの分野を支配する。

 官僚主義と形式主義の打破が改革の出発点になるだろう。過去の社会構造変動が大きかっただけに全国的な財源調整が不可欠であり、付加価値税などの一般財源を強化しつつ地域の人口構成を考慮した交付金を用意しなければならないが、福祉事業の展開については分権と自治の原則を追求する必要がある。

 日本の社会は、人間の「量」と「質」の再生産ができなくなっている。相次ぐ少年の凶悪犯罪はそのあらわれである。社会の教育力の致命的な低下の基礎にあるのは、共同性と公共性の崩壊、連帯の意識の消滅、国民的目標(国民が暗黙に共有している目標)の喪失である。安心感・公平感・連帯感のある社会を築くためにいま何をしなければならないのかを徹底的に議論する必要がある。

 先進社会の社会保障は「弱者救済」ではない。すべての人間の安心のための共同事業である。「介護保険」の抜本改革は、「高齢化対策」の範囲を越えて、日本の社会の「持続可能性」を確実にする変革に向けての突破口となる。その意味で、社会保障改革は日本の政治の最大の争点のひとつである。この問題にどう対応するのかを国民に示すことは、すべての政党の指導者の最低の責任だろう。


【保管ファイルNo.20】(00.6.19 朝日新聞『声』投書)

 投票しない者は罰金に処す

行政書士 木下茂樹(東京都葛飾区 51歳)

 最近港区長選挙が行われた。投票率29.98%、当選者の当日有権者にしめる得票率(絶対得票率)は12.27%。投票率2割台、絶対得票率1割そこそこで民意が反映された首長を選ぶ選挙といえるのであろうかの疑問を禁じえない。先のペルー大統領選挙の際の報道によるとペルーでは投票しないと月収の数ヶ月分に相当する罰金が課せられるそうだ。

 投票率が低いから買収が有効になり、特定組織の固定票が効果を生むのである。投票率が低いから候補者は票の固いとされる宗教団体に媚びるのである。政党を持つ宗教団体の票は700万票といわれる。しかし、わが国1億の有権者の1%が増えれば100万票である。その他、業界団体など特定の層の特定の政治目的を満たすことを阻止するためには、自分自身の頭で考えた投票行動で投票率を限りなく100%に近づけることである。

 国の政治に責任を負うのは国民であり、地方の政治に責任を負うのはその地域に住む住民である。自ら立候補のリスクを回避するのであれば次善の選択をすべきであり、棄権したければ投票場に行って投票用紙に「棄権」あるいは「該当者なし」と書いて来ればよいのである。法律を改正してでも「投票は国民の義務であり、ゆえなく投票しない者は5年以下の禁錮もしくは100万円以下の罰金に処す」と規定すべきである。投票は自らの国に、地域に責任を負うことであり、そのくらい重いのである。    (cf.松五郎のつぶやき32)


【保管ファイルNo.21】 2000.4.1 

「いのしし」というのは団塊の世代で政治を考えようとする『プロジェクト猪』の会報である。私自身も設立以来の会員である。

NEWS LETTER いのしし 投書

 わが子の「登校拒否」から学んだこと

野村俊幸(会員)

 わが娘たちの体験から

 長女の場合は、中学2年から登校拒否を始め、親は学校に戻したい一心で無理矢理車に乗せてつれて行くなどしたことが長女を追いつめ、心身ともにズタズタの状態にしてしまった。親が進学を含めて学校へのこだわりをやめることで彼女との信頼関係を取り戻し、その後、アルバイトなどをしながら通信制高校を卒業、社会人となり結婚。26歳の今、2児の母として元気に暮らしている。

 ことし16歳になる次女は、小学4年生から登校拒否となったが、学校に行かないことが次女の個性かも知れないと受けとめ登校の働きかけは一切せず、通学しないまま中学を卒業して通信制高校に進学、函館ダンスアカデミーのメンバーとして大会やイベントなどであちこち元気に飛び回っている。

 結果的に、通常の学校ルートを通らず二人とも成長し、むしろ、学校へのこだわりを捨てることで、より生き生きした生活を送ることができたように思う。

親たちの不安について

 「親の会」の例会などで話される親たちの不安の多くは、次のようなものである。学力が遅れ進学できない。学校に行かないと社会性や適応力が身につかない。学校ぐらい我慢できないと世の中に通用しない。何もしないでゴロゴロしていると無気力人間になる。学校に行かないのなら、せめて○○をしてほしい。学校とどのようにかかわったらいいのだろうか…。

 これについて、私は次のように考えている。大切なのは「生きる知恵・力」であり、それは今の学校以外にも獲得するさまざまなルートがある。学校だけが社会性を身につけるところではないし、学校以外で自分らしさを発揮できる子どももいる。「がまん」の内容が問題で、子どもにとってそれがどんな意味があるのかを検証することが大切である。登校拒否は「無気力」なのではなく、ものすごいエネルギーを使って「学校に行かないことをしている」のだと理解してほしい。その子供に対し「学校に行かないのなら、その代りに何かを」と言うのは無理な話で、「どこそこへ行けば出席日数にカウントされるから」などという理由で行かせようというのは、ますます子どもを追いつめる。子どもにとって、まず家庭が「安心して自分が認められる居場所」となるよう親自身が努め、親と子どもの気持ちをはっきり学校に伝えることが大切である。

学校や教育行政に望むこと

 学校復帰が必ずその子のためになるとは限らないので、学校に行かないことも「ひとつの選択肢」という柔軟な発想を持ち、まず子どもが家庭で「安心して休める」環境作りをサポートしてほしい。「学校ができること、できないこと」を父母と議論し、学校が過重な役割を背負い込むのを避けてほしい。過剰な背負い込みが管理強化につながり、子どもたちをさらに追いつめている。「不登校対策」という発想を転換し、問われているのは学校システム・大人社会そのものという視点を持ってほしい。

「どこかの高校に入れる」ことを第一とする進路指導ではなく、本人・父母とともに進路は学校ではなく自分たちの責任で決めるという意識改革の取り組みを進めてほしい。

まとめ 〜 登校拒否は「問題行動」か

 家庭・学校・地域などその子どもの周囲が、登校拒否を「問題行動」であると考え、克服や治療・矯正などの対象としてかかわると、子どもはその理不尽な抑圧に対し、それを自分自身へと転化させれば「ひきこもり」や「自傷行為」などの、外へ向かえば「家庭内暴力」や「校内暴力」などの、本物の「問題行動」へと追い込まれる事例が多い。しかし、問題行動ではなく、その子はともかく一休みしたい状態であり、場合によっては学校という場を通らずに成長することが、その子らしい生き方なのかも知れないと考えて、丸ごとその子を受けとめることから出発すれば問題行動には至らず、元気に生活できるケースが大半であるように思われる。
 また、わが家の娘たちの場合も、登校拒否の一因には中学時代のひどい「いじめ」があった。「いじめ」が原因で登校できなくなった場合は、その原因を除去して登校できるようにすることがその子の権利を守ることであるというのは正論であるが、解決に時間のかかる場合もあろう。まず大切なのは、いじめを受けている子どもを守ることであり、命を削ってまでも学校に行く必要はない。事故や危険があった場合は、その原因が明らかにされ安全が確認されるまで、その施設や用具を使わない、現場に立ち入らないというのは事故防止の鉄則であり、学校も同様ではなかろうか。「いじめられない」ことの確証が得られないあいだは堂々と学校を休んでもよいと頭を切り替えること、そのためにも、もっと気軽に学校を休める環境(意識・制度)づくりが求められているように思われる。


【保管ファイルNo.22】  2000.8.14 受信メール

西村眞悟  『 ″衰亡の風″に立ち向かうために』

(「正論」産経新聞社 2000年9月号)より

″ただの人″のときに何を志し、何をしたか

 議員にとって、選挙とは当落が決まる場である。私は、小選挙区で落ち、比例区で当選した。議席は維持できたが、地上の戦いに敗れた。現在に至るまで、この選挙から実に多くを学びつつある。この学習の途上で、本誌においてこの選挙を述べる機会を与えられた。そこで、どこの選挙区でもある錯綜した特殊事情下の人間劇を述べるよりも、この選挙の我が国の政治史における位置づけを試みたい。

 猿は木から落ちても猿であるが、政治家はただの人、という物言いがある。しかし、政治とはただの人が担うものである。むしろ、ただの人の時に何を志し、何をしたのかが重要なのだと思う。

 イギリスのチャーチルは、たびたび落選した。その落選中、イギリス史を研究して政治家としての背骨を作り、晩年の落選では『第二次世界大戦回顧録』の執筆を始めた。フランスのドゴールも、ただの人の時に『大戦回顧録』第一巻を世に出している。さらに、アメリカのデビー・クロケットは、落選してサンアントニオのアラモの砦に行ってそこで戦い死んだ。そして英雄になった。またニクソンは、知事選にも落ちて誰もが政治生命を失ったと思ったときから大統領選に照準を定める。そして、他の競争相手が「大統領になるため」に猛烈に活動しているときに、六ヶ月間それに目もくれず「大統領として何をするか」を研究した。彼はこの六ヶ月の研究を自分の人生のなかでの最大の政治的決断と評価している。

 ただの人の時に何もできないような政治家が、また何の志も持たないような政治家が議員になって突然何かができるようになるとは思えない。したがって、あの物言いは、議員心理を言い当ててはいるが、選ぶ方の国民とは無縁である。国民は何もしない議員に猿を続けさせるために、議員心理につきあわされる必要はない。選挙とは文字通り選ぶのであるから、国民は理念的にはその候補者が何を志し、何をなさんとしているかを見定めたうえで、それに納得すれば選べばよい。当然、候補者の責務は、国民が選ぶ対象を明示することに尽きる。(抜粋)

(20年近く前に「新自由クラブ都連」の政策委員会のメンバーの一人であった知人からの激励のメールに引用されていた。当時、都連政策委員会では今日、自民党が言っているような都市プロパーな問題を議論していた。)


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