葛飾区再生計画案行政編


FATA REGUNT ORBEM ! CERTA STANT OMNIA LEGE

(不確かなことは運命の支配する領域。確かなことは法という人間の技の領域)

―― ローマの格言 ――

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第13章(教育)関連資料

<資料17−2>                        (01.01.13  産経新聞『正論』)

「教科書検定制度廃止論」の本末転倒    

内政干渉の排除は政治家の責任          東京大学教授  藤岡 信勝

近づく日本政治の試練

 「新しい歴史教科書をつくる会」が提起し、扶桑社が昨年4月に検定申請した中学校歴史教科書は、12月に示された文部省の検定意見を受けて出版社側が修正作業を行い、まもなく文部科学省に提出される。検定はこうした正規の手続きを経て進行しており、いよいよ合格決定がなされるまでの最終段階に入る。この間、この教科書を門前払いで不合格にする外務官僚グループの陰謀が昨年10月に発覚し、挫折した。その後も中国の意を受けた外務省筋から執拗に不合格工作が仕掛けられていることが伝えられている。

 日本の子どもたちが、近代における戦争はすべて日本の責任であり、中国は一方的な被害者で、日本は野蛮な侵略者・犯罪者であったから、中国に対し永久に謝罪し資金援助をし続けなければならない、という「自虐史観」を学校の歴史教科書を通して注入され続けることは、中国の国益の根幹である。だから必ず中国は日本の歴史教科書が改善されるのを阻止するために内政干渉してくるだろう。 これにどう対処するか、最終的には政治家の決断にかかっている。今日の無残な歴史教科書が出現したのは、1980年代に政権の座にあった自民党の政治家たちが中国の不当な要求に屈服したからである。いまや日本国内の世論状況は大きく変わった。今後政権の中枢にある政治家たちが再び中国の圧力に屈服し、文部科学省が積み上げてきた正規の手続きに反する不当な政治的介入をすれば、直ちに森内閣の命運にかかわるだろう。一人ひとりの政治家の言動が注目される。これは、日本がまともな国になるために日本の政治が必ず通過しなければならない試練である。

保守陣営の「検定廃止論」

 ところが、ここにきて、右の「試練」を別の手段で回避できるかのような議論が現れた。昨年12月28日付の産経新聞「正論」欄に掲載された「教科書検定制度は廃止した方がいい」と題する論説の中で勝田吉太郎氏は次のように書いている。

 ≪私は、かねて教科書の文部省検定制を廃止した方がよいと考え、例の教育改革国民会議でもそう説いてきた。もし検定を全廃し、教科書の自由発行と自由採択制に改変するなら、中国や韓国による内政干渉さながらの教科書批判や介入はその根拠を失うはずだと思うからだ。/政府の検定制が存続すればこそ、政府の出した「近隣諸国条項」に拘束され、文部省のみか外務省アジア局の一課まで教科書記述に目を光らせ、右往左往するといった情けない有様となるのではないか。≫

 しかし、検定制度がよいか自由発行・自由採択制度がよいかは、本来、どちらが教科書の質を保障し、日本の教育の水準を維持できるかという比較秤量にもとづいて論じられるべきである。外国の内政干渉を排除するために日本の教科書制度の根幹を改変しようとするのは、本末転倒の議論である。以下、3点にわたって問題点を指摘したい。

「検定廃止論」の誤解

 第一に、検定制度がある限り中国の内政干渉を防ぐ手だてがないと考えるのは、間違った敗北主義である。日本の政治家は、中国が教科書への内政干渉をするならば、対中経済援助を停止すると言えばよい。国民はこれを支持するだろう。中国政府系の英字紙チャイナ・デーリーは、昨年11月29日付で、中国の学者の声として、「日本が中国への経済援助によって歴史の改ざんを中国に受け入れさせることができると考えるならば大間違いだ」と書いた。この記事は、対中ODA(政府開発援助)削減問題と歴史教科書への内政干渉問題がリンクするのを中国側が最も恐れていることの表れである。

 第二に、「近隣諸国条項」についても根本的な誤解がある。教科書の内容の大綱を定めているのは学習指導要領であり、「近隣諸国条項」は書かれた教科書を検定する際の基準の一つにすぎない。だから、文部科学省といえども、「近隣諸国条項」を振り回して教科書の著者に、もともと書かれていないことを書かせる権限は有していないのだ。

 この点、中韓両国のみならず、これを批判する保守派言論人にも誤解している人がいる。自虐史観教科書の書き手は、かつて社会主義国を祖国と見なしていた日本国内の勢力である。「近隣諸国条項」は彼らの口実に使われ、文部科学省の検定の手を縛っているという関係にある。だから、「近隣諸国条項」はもちろん廃止すべきだが、この条項が存在しても、制度上、自虐的でない教科書でも合格させざるを得ない仕組みになっているのである。これを中韓両国にも説明すればよい。

 第三に、自由発行・自由採択制にすれば自虐的な教科書が使われなくなるだろうと考えるのは、教育界の実情に合致しない。むしろ結果はまったく逆になるだろう。「家永教科書裁判」支援グループが、32年間の運動でついに果たせなかったのが、「教科書検定制度違憲判決」、すなわち、検定制度の廃止という目標だった。彼らの野望の実現に保守陣営が手を貸すのは、状況認識を欠いた錯誤である。検定制度の維持とその適切な運用こそ、私たちが進むべき正道である。    (ふじおか のぶかつ)

 

<資料17−3>                         (01.04.13  読売新聞)

教科書検定制度 誤解生むばかりの「遺物」

同志社大学助教授(アメリカ外交) 村田 晃嗣

(前略) さて、北京滞在中の話題といえば、まず折からの米軍機と中国軍機の衝突事故であった。両者の性能や練度の差からいって、米軍機のミスによる事故とは思いにくい。米軍機乗員24人は解放されたが、米中関係が緊張含みの折だけに、冷静な話し合いによる最終解決が望まれる。この点で、中国メディアのやや断定的な報道ぶりが気にかかった。

 しかし、われわれ日本人にとって、より深刻な話題は歴史教科書問題である。このことで日中関係を悪化させてはならない。私見では、この問題の核心は、「新しい歴史教科書をつくる会」によってあのような教科書が書かれたことよりも、文部科学省によって137もの修正が要求され、教科書の執筆者たちもそれを受け入れざるをえなかった事実にある。

 ところが、やはりここで気にかかったのは、中国メデイアの報道姿勢である。件の教科書が大幅に修正されたという事実は、筆者の知る限りでは、ほとんど伝わっていなかった。しかも、問題の歴史教科書はすでに中国語に翻訳されているらしいのである。これが検定合格前の版を基にしているなら、いたずらに誤解を増幅するだけである。

 シカゴで開かれた全米アジア学会に出席してきたというシンガポール人学者の話によると、そこでも歴史教科書問題や謝罪問題のパネルがいくつも持たれ、問題の教科書の英語版が出されていたという。こちらも検定合格前のものを定本にしている可能性がある。

 そもそも、教科検定制度は誤解を受けやすい制度である。それは一方で「検閲だ」「言論統制だ」という批判を生みながら、他方では検定済みの教科書の内容が、あたかも日本政府の公式見解であるかのような誤解をも与えやすい。国定教科書を持たない国には理解しにくいし、国定教科書を持つ国には誤解されやすい制度なのである。

 教科書検定制度は、日教組が特定の政治イデオロギーに強く支配されていた時代の遺物であろう。当今の文部科学省は自由化がお好きである。ここでも思い切った自由化に踏み込んではどうか。それとも、アジア諸国合同で、近現代史に関する国際的な教科書マニュアルでも作って、相互に建設的な干渉をし合ってはどうか。

 中途半端な規制が社会のダイナミックな変化に対応できなくなっていることは、中国でも日本でも同じである。そんなことを考えながら、北京の春を離れて桜の散りはじめた京都に戻ってきた。

 

<資料20>

「開かれた学校」へ模索 地域と役割分担期待

 「閉鎖的」と批判されがちな学校の運営に、父母や地域の人の意見を反映させる学校評議員制度が全国で広がりを見せている。学校の情報公開や外部からの評価に結び付け、学校改革の決め手となることが、期待されている。ようやく始まった「開かれた学校」を目指す動き。各地の実浅を探った。(川上 修)

父母・住民が運営に参加 少ない予算でやりくり 評議員の人選も課題に 生徒らを交える方法も

 「学校評議員」制度の導入は、中央教育審議会(中教審)が98年9月に「学校に学校評議員を置くことができる」と答申して以来、具体的に動きだし、文部省(当時)も今年度から本格導入に乗り出した。学校は外に向けて情報を発信することにまだまだ慣れておらず、父母や地域住民らが学校運営にかかわるのも初めてだけに、教育現場では試行錯誤が続いている。

 評議員制度は、各都道府県と政令指定都市59団体のうち今年度当初に29団体で設置が決まっていたが、10月1日現在では41団体まで増えた。しかし、国による財政支援は無く、新たな負担となる制度にどれほどの金と人をつぎ込むのかは、学校現場や教委に任されているのが実情だ。

 県立高全68校に制度を導入した群馬県では、学校に出向くなど拘束される評議員に、年間約3,000円の図書券などが渡される程度だ。県教委は「あくまでボランティア」と位置づける。このため、「年3回の会合で具体的な討議ができるのか。かといって何度も集まってもらうのも気が引ける」(前橋女子高・飯野真幸校長)という声も現場からは出てくる。都立蔵前工業高も、予算は年間90,000円。会合ごとに各委員に交通費と謝礼の3,000円を渡すとゼロになる。

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 また、評議員の人選も課題だ。蔵前工業高では委員10人のうち、中学校長や大学教授ら「先生」が半数を占める。同高OBで建築塗装会社を営む吉野隆委員は、「もっと教育関係者ではない人もいれるべきだ」と提案する。評議員に権限は与えられていない。「あの教員をクビにしろ」といった要求が出たりすると、最終責任者である教育委員会と校長を結ぶラインを乱すことを心配しているのも一因だ。一方、国に先駆けて類似制度を97年度から始めていた高知県では、委員には教員や保護者、地域住民のほか児童・生徒の代表もいる。県教委は「学校では子どもが主人公。大人の側に一定の配慮はいるが、子どもがいるために協議に支障が出たことはない」とする。

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 父母や地域住民は、これまで地元の学校に評価を下すどころか、評価するための判断材料すら持ち合わせていなかった。「地域住民に学校の評価をたずねたアンケートで、設問に『分からない』と回答する例が多かった」と、都教育庁指導部の加藤明主任指導主事は打ち明ける。「自分たちはこんなに苦労しているんだから、親御さんたちは分かってくれているはず」。評議員制度はそんな学校の独り善がりや教師の思い込みを断ち、地域からも学校への注目を高めてもらう。その期待を、日本PTA全国協議会・教育問題委員会の三上欣也委員長は「これまでは学校が問題を抱え込み、外に情報を出さないできた。評議員がかかわることで学校と地域の役割分担ができるのではないか」と語っている。

各地の実践例

 群馬県立前橋女子高の評議員は、地元の自治会長をはじめ弁護士や臨床心理士、アナウンサーら6人。「各分野の専門家を」と、学校側が就任を要請した。昨年10月の会合は父母らに公開された。その日のテーマは、「前橋女子高生に求められるもの」。少し抽象的だったためか、論議はマナー論が主となってしまった。だが、出席した約50人の父母らの反応は、「学校外の視点が持ち込まれて話し合われている」と上々だった。飯野真幸校長は「いじめや不登校などプライバシーが絡む話題をどう話し合うべきかは今後の課題」と感じている。しかし、評議員制度の狙いには、学校での出来事や問題点をできるだけ地域に伝えていくことも含まれる。

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高齢者パソコン教室提案

 岐阜県の県立高校は、評議員会で話し合われた内容を、学校のホームページに載せることが義務付けられている。県立土岐北高校の最新のホームページには、夏休みに生徒が講師になって行った高齢者パソコン教室についての論議が紹介されていた。評議員会での提案が基になって実施された企画だった。

 長良高校のホームページで評議員会の記録をたどると、同校の英語教育の流れが分かる。バスで下車する停留所が分からず因っている外国人に高校生が知らんぷりだったと、評議員の一人が問題提起。その後、朝のリスニング・タイムの設置などの改善策がとられた。

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新入生の1泊合宿を検討

 学校への注文が出ることも多い。大阪府豊中市立第一中では昨年の評議員会で、学校週5日制が完全実施されたとき、授業時間数を確保するため、学校行事をどう見直すかを話し合った。1年男子の母親、高橋光江さん(50)が、仲間作りにと皆で大縄跳びを行った新入生歓迎行事について、「子どもは、小学校の時と代わり映えしないって言っている。1泊の合宿をした方が効果的では」と提案した。 大友庸好校長が「5月末に中間テストがあり、大きな行事は組みにくい」と況明すると、PTA役員や校区の小学校の保護者、大学教授7人の評議員で議論になった。 「入学後わずかの学習範囲のテストでは意味がないのでは」との意見が大勢を占め、「中間テストをやめて宿泊行事に切り替えれば」との声が相次いだ。さらに、家庭訪問の形骸化も指摘された。来年度の新入生歓迎行事をどうするかはまだ決まっていないが、大友校長は「同じことを繰り返しがちな我々にとって、『なるほどなあ』と気付かされる意見が随分ありました」と振り返る。

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学校指定コ一卜の見直し

 高知県では生徒の意見を聞く学校も少なくない。高知市立一宮中が生徒、保護者、教員による独自の「学校生活検討委員会」を95年度に設けたのが先駆けとなった。生徒参加の同中委員会では、学校指定のコート廃止など生徒の意見が通った例も多い。しかし、「弁当は校内どこでも食べられるようにしてほしい」など、教員や保護者が納得できる理由のないものは却下されている。「授業中に携帯でメールを打つ子がいる」。昨年12月の同中の会合では、大谷明彦教頭がそう問題提起した。保護者の意見は「持たせないようにすべきだ」「全面禁止は難しい」と割れた。生徒側は「使い方の問題」と主張した。結論は先送りとなっているが、三者による論議の場ができたことに、佐古和幸校長は「教員主導の学校運営をオープンにした意義は大きい。今後は学習内容にまで踏み込んだ議論ができるような場になれば」と考えている。(01.01.15 読売新聞はばたき)

 

<資料16−2>

「自己拘束力」どう育てる              (01.01.24 読売新聞「論点」)

教育改革国民会議委員 田村哲夫

 「21世紀に求められる教育」を議論した首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が昨年末、最終報告を行った。提案にあたり意識して話し合われたのは、「自己拘束力」を育てるためにはどうすべきか、という観点だった。新世紀の日本社会を端的に表現する言葉として「最大自由と最少不満の社会」(99年経済審議会答申)がある。ここでいう「自由」を基調とした社会とは、″自己責任、自己決定″を前提にした「人格的自律権」を根幹とする社会を意味すると考えられる。そこでは、「良い社会」を作り上げようという長期的視点に立った国民それぞれが「自己拘束」をすることが求められる。

 国民会議の発足にあたり、小渕前首相が『自由と規律』(池田潔著)という本を委員に配布したことは、この観点からも興味深いことだった。「自由」が成立するには、必然的に自己拘束を伴う。自律的意味の「規律」は不可欠だからだ。かつて私たちは、本当の自由を獲得するための個人の自律=自己拘束=をはぐくむ精神文化として、儒教的思想を背景とした″オテント(天道)様″を持っていた。だが今日、それは教育的手法として有効性を持っていない。このことはわが国の教育にとって重いテーマだ。

 情報化の進展によって、個人の持つ可能性が信じられぬほど拡大する一方、一人ひとりの持つ弱さや利己心も増幅し、人間社会のぜい弱性も露呈されてくることが予想される。そうしたなかで、「個と公の関係」を確立し、自己拘束をなす、という文化を持つことの重要性は、日本人にますます重くのしかかることになる。

 国民会議が提言し話題をよんだ、教育の場における「奉仕活動」の成否は、21世紀の日本社会にとって重要な意味を持つことになるだろう。教育の場での活動である以上、「強制」という要素が入ることはやむを得ない。しかし目標は「自己拘束力」を育てるところにあると考えて欲しい。国民会議は、「教育基本法の改正」「教育振興基本計画の策定」も21世紀の重要課題として提言した。

 基本法については、@伝統文化、国や家庭、宗教性などにかかわる教育AIT(情報技術)革命や生命科学など科学技術の進展によって必要となる教育、生涯学習B法律に策定が明示された教育振興基本計画―などの必要性から、これを改正することを提言した。

 @は、民族としてのアイデンティティーの確立、Aは新しい時代に求められる個人としての強さ、Bは、時代の要求する「開かれた教育」という要請にこたえようと示された。学校における「評議員制度」、大学における「諮問会議」の開設提言は、教育の場への市民の参画を意図したものだ。教育振興基本計画の策定が求められているのも、納税者に対し教育改革に税金がどう使われ、成果を上げたかを知らせる狙いを持つ点で、同じ趣旨と考えたい。基調として考えられているのは、社会の変化がもたらした「グローバリズム」と「アカウンタビリティー」(説明責任)だ。教育基本法の制定の中心となった田中耕太郎博士は、その制定10数年の後に「教育基本法の理論」を公表し、「教育基本法は……国際的教育や日本人を国際人たらしめる教育に関しては特に言及していない。…わが教育の国際化に大いに努力すべきである」と結んだ。日本でサミットが開かれ、グローバリズムと教育がテーマとなった年に、教育基本法の改正が呼びかけられたのは、歴史の符合としても意味があった。最終報告は、21世紀の教育の方向を示したと考えている。


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