葛飾区再生計画案議会


IMPERATURUS OMNIBUS ELIGI DEBET EX OMNIBUS

(我々全ての統治を託された皇帝は、我々全ての人の中から選ばれた人でなければならない)

―― ローマの格言 ――

議会内部のことは議会の自律権に属することであり首長の権限外のことであるが4年間の内部からの体験にもとづき、疑問ないし矛盾を掲げて議会側に提案するものである。

(区長部局サイドの論点も議会に関するものについては本編に記載する。)


議会に対する基本理念(思想)

 

 『行政主導の区政から政治主導の区政へ』

           を実現するための議会のあり方

 

1、間接民主政(制)、代議制の充実と

          議員個々の能力向上、議会の発言力の増大こそが近道

 『行政主導の区政から政治主導の区政へ』を実現するためには区長がひとり政治出身というだけではだめである。議員個々の能力向上と議会側の権限および発言力を強めることである。これは横車を押すというのではもちろんない。職員や区民を論理で納得させる義務を伴うのである。そのためには職員と同等以上の知識および特定分野の専門能力を要求される。将に「一剣を磨く」ことが要求されるのである。これを怠れば議員は職員からおざなりの説明に甘んじなければならないのである。(尤も、それがおざなりかどうかにすら気がつかない者もいよう。)

 これまで「政治的」というと「清濁合わせ飲む」とか「強きを助け弱きを挫く」とか、とかく寝業師的なイメージを持たれたように思う。その結果として本来リーダーとしての地位に付随した威厳、献身、廉恥は死語になってしまい大方の顰蹙を買う存在になってしまったのである。来るべき21世紀の「政治」は常に「清」でありたいではないか。行政執行の過程(妥協の産物)で結果として「清濁合わせ飲む」とか「強きを助け弱きを挫く」場合も時として起こりうるかも知れないが最初から許容することはあるまい。政治家の地位を利用した悪さを誰もがやっていることと大目にみては断じてならないのである。

2、アカウンタビリティ:説明責任

 「開かれた区政」というフレーズをよく耳にする(これは言っている人の悪意でないことは理解できる)。住民多数の取りまとめ機関であるから行政はある種の権威を必要とせざるを得ないことも否定できない。しかし、よく考えると一種の「おごり」ではなかろうか。「開いているから入って来い。」の思想が見え隠れしているように思える。国民主権あるいは住民主権とは相容れない思想であるように思う。

また「関心のない者にあえて近づくこと(情報開示)もあるまい。ただアクセスする方途さえ明らかにしておけばよかろう。」ともいう。これも正当に聞こえる。しかし本当にそうか。行政が「お上」といわれた時代の名残である。今日の行政の正統性(行政権執行の権限の拠り所)は住民意思である。つまり住民に対して執行事業の必要性、執行方法をきちんと説明しながら(アカウンタビリティ:説明責任)進めなければならないのである。当然アクセスされる前に知らせなければならないのである。しかし何も一軒一軒知らせて回れというのではない。誰もが参加しやすい場所、時間に説明する機会を設ければ足りよう。住民もまた説明を求める権利と同様に説明を聞く義務もあるのである。

3、有権者の意識が議員を変える

 次の段階こそが議員の出番である。こうした行政の説明を受けて、自らの支持者と議論することが望まれるのである。しかし一つの事柄について断定的に一定の見解を話したり書いたりすると支持者の中からも必ず批判者が現れ支持者の減少を招来することは避けられないことであろう。そのため今日ひんぱんに見られる政治家の集会はこうした行政の事業に対する検討会ではなく後援会の旅行会やお楽しみ会で、政治家をしてイベントの興業主かと見間違えるばかりである。付録の様に付け加えられる「政治的見解」も行政の仕事の結果報告か「がんばります」の類の人畜無害で無難な決意表明に過ぎない。それでも主権者たる住民の声の収集手段として一定の評価は成り立とうが間接民主制の下の選良のあるべき姿とは言い難い。もっともこのことは有権者の側に非があるのかも知れない。自分に耳障りのいいことを言う議員をよしとし、意見の違う者を排斥するからである。意見としていいのか悪いのかという分析のプロセスを飛ばし、情緒的な好き嫌いの判断のみが先行するのである。自分自身も含め日本人全体の特質かも知れないが、その者の意見と人格とを混同しているのである。よき批判者イクォールよき支持者でなければ多くの議員は言葉を失うであろう。

4、間接民主制、代議制 vs. 住民投票制

 今日、間接民主制、代議制の危機といわれている。しかし、直接民主政(制)を望ましい姿としてそちらに軸足を移すと、ヒマと金のある参加出来る者のみの直接民主政(制)になってしまう危険をはらむ。そういう意味で私は危機的状況ではあっても間接民主制、代議制に期待し、充実を望むものである。(cf.0104

今日的な問題のひとつに住民投票と代議制の関係をどう捉えるかがある。私は代議制は行政の全事業に関わるものであり、住民投票は特定の案件にのみに関するものと了解している。ならば施策(事業)を遂行するにあたってA案、B案に甲乙つけ難い場合は区長および議会は自らの意見を付さず当該両案の得喪を全て情報開示し住民の投票で決着を図る方が区長および議会にとって責任の軽減になると思う。自治体の全部の仕事を背負込む姿勢は傍目には美しいが対立の禍根を後に残すことになる。住民投票は事案の決着以上に住民全体に自らの地域のことを考えるにいい機会であると思う。

 従って私は住民投票制度を導入し、なおかつ間接民主制、代議制に期待し、充実を望んでいるのである。

5、財政的理由だけの定数削減は代議制度を破壊

 そういう私自身の期待とは逆に、最近は議員の待遇を引き下げたり、定数を減らしたり、権限を削ぐことがファッションのような傾向が支配している。確かに議員に与えられた権能を個人に与えられた特権と誤解したり、代表質問の原稿を行政側に作らせたり、会議では一言も発せずアフター・ファイブに活躍する議員ばかりであるならそれもよかろう。また財政難を強調するのであれば、議員制度そのものを廃止することも選択肢かもしれない。しかし、衆愚制と揶揄されようが民主主義の根幹は住民の意思を集約させる方策として執行者としての首長とその権限の抑制役としての議会議員の両者の存在は必須である。議会の存在に期待する私は、一地方の住民の生活を直接支える地方政府の車の両輪のうち一方の地方議会にあっては「普通の住民」の進出こそが真に望まれる議会を構成するのではなかろうかと思う。そして議会の議員定数は、議会自らの判断で最終決定することだが、判断の重要な要素は、住民に代わって行政執行を監視、主導する機能を十分果たせるか否かである。地方自治の根幹を忘れ、財政的理由を重視するだけの定数削減は代議制度を破壊するものと言わざるを得ない。また、定数削減は住民の声を行政に反映させようと、前向きに議員を目指す人の障害となっている。新人は選挙基盤が弱く、大量の得票がなければ当選できないというハードルの高さが選挙に挑戦する意欲すら失わせていることになる。

6、議会内活性化

 今日の首長と与党会派のボスとの談合政治は企業の株主総会が総会屋に仕切られ議論もなく平穏無事に終わるに似ている。議会の本来の機能強化や改革を図るためには、密室議会を演出しているボス的議員から主導権を取り戻すことである。それにはバランス感覚の備わった普通の住民の中から議員を選ぶことである。

 ある公共政策(施策)が一つの自治体で成功したからといって、それがいつでも何処でも適用出来るとは限らないが、行政にはないチャンネルからの議員の情報には得難いものがある。地に足をしっかりと据え、住んでいる地域をよくするという、素朴な目的をもち、情報獲得のアンテナをはりめぐらしているような議員が増えれば、議会は住民の意思がゆきわたり風通しもよくなり、執行部をリード出来るはずである。議会としての機能を十分果たすためにも、減らした議員定数を法定数に戻し、財源節約は役所機構の改革や事業に優先順位をつけて乗り切るべきではあるまいか。

7、地方議員の必要性

 これまで議員の存在を当然視して述べてきたが最後に「議員は何故必要か」の視点から考えてみたい。議員の種類には国会、都道府県会、市区町村会の大きく分類すると三つの議会があり議員がいる。前二者についても考慮する必要があろうがここでは市区町村会のうちの区議会に限定して考えたい。

(1)「区議会だより」によると議決機関といいながら区長提出議案のほぼ100%を通し、自らは条例案の提出はせず、意見書の提出でお茶を濁しているような議会が本当に機能しているのかの疑問も起こってこよう。もっとも実際の執行面や予算とのからみで自らの発案であっても区長側から提出させている場合もあろうし、議案の提出前の段階の審議の過程で議会側と区長側との摺り合わせが行われているのであろうし、行政側も少なくとも議員に対しては何等かの説明がつくようにしているのであろう。議員の側でそれらの説明にさらに突っ込んで行くか納得してしまうかが問題であるが、大部分の場合、仕事上の専門家の言うこととして大人の対応で納得してしまう場合が多いのである。

 はたしてこうした密室あるいは裏舞台でのデシジョンメイキング(政策決定)がなされていていいのか、の疑問は払拭できない。

(2)国政の場合、現在の議員内閣制の下においては多数党が直接政権を担うのであるから政党の意思統一は必要であろう。しかし地方政治の場合は首長、議員はそれぞれ選挙の洗礼を経て来る訳であるから厳密な意味での政党の存在理由(政権の奪取という)はない。残るのは政治観、社会観なり思考方法の温度差だけの、いわば政党的振る舞いのみであろう。地方議員が国政選挙の集票マシーンであったり、その政党の無批判なプロパガンダ役であるというのならば地方議員不要論につながってゆくであろう。

上記(1)(2)のそれぞれは議員の必要性の否定ではなくあり方の問題である。しかし、日頃何かと批判の多い議員であるが、私は議員以上に「for the かつしか」に働く人を知らない。そこにはボランティアに名を借りた傲慢さも奢りもない。私の出逢った議員達は自民党、公明党、共産党その他の諸々の党派のどの議員も手段、方法、めざす優先順位こそ異なれ「for the かつしか」を思考の第一に置いている。そういう人々(議員)を行政が「納得」せしめるだけの準備をして仕事にあたるということは目に見えぬ議会の権威とでも言えよう。そしてその「納得」させる範囲を区全体の縮図となるようにした議会構成が望ましいのである。

 従って、議員数を削減することは、とりもなおさず「納得」させる数を減少させることになる。しかも必然的に選挙のハードルが高くなることから支援組織や支持母体のしっかりした者のみが当選して来ることになり、区全体の住民構成の縮図との乖離が大きくなってしまうであろう。生活に密着すればするほど議員数はある程度必要であると考える。

行政は如何に心ある者が長であっても本能的に自己増殖するものであり、そして権力は必ず腐敗するのである。そこで個人的な価値観、社会観は異にしても「for theかつしか」の立場で行政とは別の視点でのチェックが欠かせないのである。あたかも計算に検算が不可欠のように。

8、議員は育てるべき存在

今日、議員に要請される役割は何か。単に「首長の権限の抑制役」のみでよいのであろうか。現実の執行にあたって法律や条例の隙間をうめる潤滑油としての役割もあるのではなかろうか。今日、町の中には「議員など誰にでも出来る」「誰がやっても変わらない」の声が渦巻いている。しかし、問題は「誰」ではなくその者が「何」をやるかなのである。議員は年齢に拘わらず育てるべき存在なのである。以下、この観点からの提案である。


★議員になる人には庶民感覚(常識)を持ち、なおかつ平均以上の知識と行動力を持つことが要求されます。職員も同様です。世間で言われるような「誰がなっても同じ」は、間違いだと思います。

 若い人に期待感だけで、ついつい投票してしまう。一説には、「若いというだけで、三倍票が入る」と言われています。利益誘導型の政治を批判し、若くして当選した人が、何期か当選を重ねる内に正真正銘の利益誘導型の政治家になっていく、これが現実です。いい加減、若さに対する盲目的な幻想は止めて欲しいものです。(といっても、若さ故の可能性は決して否定するものではありません)(99.6.19)

★自分が不器用なことを前提にお話申しあげますが、我々は選挙に勝たねばなりません。どんなにすばらしいプランを持っていても、如何に議会で能弁を労しても、住民に知らせ切れなければ価値がありません。(99.6.24)

⇒この意見を額面どおり受け取ると誤解を招く。この意見の主は初当選以来、全ての本会議で質問し、月曜から金曜まで駅頭や街頭で演説し市民に話しかけ、きわめてコンパクトなレポートを年4回、通算100号近く出し、ホームページも公開している。その上「現場第一主義」をもっとうにゴミの収集体験も10回近くやっている。神戸の震災時には被災者のテントに泊まり込んで行政への注文を聞いた人物である。こうした議員をして上記のように言わしめるのは有権者の側の自らの自治体への関心の欠如と言わざるを得ない。一般的な議員批判も結構だが自分の町の議員の活動にも関心を持つべきではないのか。関心を持って見回せば必ず心ある議員はいるものである。

<参考記事> 00.10.11 産経新聞 投書

   地方自治のため行動起こすとき

会社員 菊地 昇 52 (神奈川県大井町)

 介護保険制度が4月からスタート、地方分権の時代が動き出した。地方分権とは中央集権政治から地方に権限を与えるとともにその責任をも負う。

 しかし、半年たった今、市町村の困惑ぶりは想像以上のもの。長い間、国や県からのきめ細かい制度、条例、要綱に拘束され、ただそれを庶民に順守させるだけに神経を使い、その所作に自ら疑問を抱くことをよしとしない、そんな中央依存の習癖からの解放には相当時間を要するであろう。

 それを待っていたのでは、あまりにも時間がかかり過ぎ、地方分権も名ばかりでいつしか消滅してしまうであろう。

 特に今、介護給付を受けている人に関与している人々には切実な問題で今必要としている。だから、それまで待っていられない。今こそ行動を起こすべきときで、介護給付を受けている人はもちろん、その家族、支援者らは声を発するときだ。

 まず地方政治の浄化が重要。選挙では従来の地縁や血縁にとらわれず、信頼できる人に投票する。その結果責任はすべて有権者に返ってくる、すなわち自己責任の時代になったことを再認識すべきであろう。

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<参考記事 投書2題>

大統領選挙の宿題出る米国       主婦 林 由紀 41 (米コネティカット州)

 米大統領選挙の投票日が迫るにつれ、わが家の娘たちが通う現地の学校では、社会科などの授業で選挙の話題が扱われるようになり、これに関連した宿題も増えた。

 日本の中学校にあたるミドルスクールに通う二女には、ブッシュ、ゴア両候補によるテレビ討論会を30分以上見てメモをとる宿題が出され、両候補の言い分を彼女なりに理解しようと耳を傾けていたようだ。また、小学校にあたるエレメンタリースクールに通う三女は、一人の候補について様々な項目を調べるプリントを持ち帰った。その項目は、候補者の生年月日から学歴、経歴、配偶者の名前、家族構成、休日の趣味など多岐にわたり、新聞、雑誌、インターネットを通じて家族と一緒に調べることになっていた。

 米国では小学校の低学年でも、その年齢に合わせて選挙の仕組みを説明し、実際の大統領候補者名を使った模擬投票も経験させる。私も4年前の渡米間もないころには、娘たちに大統領侯補に関する話を持ち掛けられて驚いたことがあるが、日本では、このように自分の国の政治の仕組みについて実感をもって学ぶ機会は少ないのではないか。

 先日、学校で渡されたプリントには「周りの大人と話をしよう。選挙権を持たない子供でも、あなたの意見を伝えることで、大人の意見を変えることができる」という一文があった。小さいころから、きちんと下調べをし自分の意見を持って話し合うことが教えられていることを改めて知らされた。選挙権のない外国人の私も、子供たちの宿題に付き合うべく日ごろから興味を持って新聞を読む毎日だ。

(00.11.10 産経新聞)

⇒「選挙権のない外国人の私」外国籍の者への地方参政権付与に反対する“産経新聞好み”と読むのは読み過ぎか。因みにアメリカは日本人夫婦の間に生まれた子供でもアメリカで生まれればアメリカ国籍を取得できる「出生地主義」を採用している。

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能力を試験し選挙の参考に        石橋忠夫 58   (東京都文京区)

 急激な国際化に伴い、企業が社員に英語力の強化を図っているという内容のテレビ番組を見た。厳しい戦争のなかにあって、どの企業も、英語のみならず能力開発には力を入れていることと思う。

 また社会的に重要と思われる仕事に就くには、一定の能力を測るために試験がある。医者や弁護士、公認会計士、教師など、ほかにも多くある。逆に感性を特に重んじる、画家、音楽家には試験がない。ないほうがよいのは明らかである。

 ところで、われわれのリーダー的存在である議員さんには試験がない。「選挙が試験」といわれるだろうが、自動車の運転免許証の更新でも視力検査はある。今の時代の政治家には、法律、国際関係、英語、一般常識などについて、一定基準の資質を満たしてほしい。

 私が仕事でカルチャーセンターを経営しているからいうわけではないが、素朴な気持ちとして、そうした能力試験の結果を参考にして投票したい気がする。知名度だけのタレント候補なども減るのではないか。(自営業)

(00.11.10 読売新聞)


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