民主主義」のコストを考える 3

再度、議員定数の問題から、民主主義を考える

待った!議員定数削減に異議あり!

葛飾区議会議員   木下しげき


 国、自治体を問わず財政が逼迫してきて税金の使途に関する人々の目が厳しくなってきた。私はそのこと自体は正しいと思う。行政の乱費、議会の乱費が許容されてよいはずはないからである。リストラの名の下に「議員定数の削減」もその俎上にのぼってきている。

 葛飾区議会においても6月13日の第2回定例会本会議において2名減の「定数の削減条例」が可決されてしまった。民主主義下の基礎的自治体の議決機関としての議会の役割、その構成員たる議員の役割についての深い議論もすることなくである。(議員であっても全ての会合に参加できるとは限らないのである。)

 今日の不幸は経済効果追求の一元的な価値観のもとに議会や行政を「誰が議員や首長になっても変わらない」といった見方をすることである。そういう視点からすれば議会そのものが不要という結論にたち至ってしまうのではあるまいか。「議会が48名のうち2名を削減すれば同様の比率で職員数の削減を求められる。そうすれば、人件費が○億円浮く。」との主張を聞いた。自治体の職員定数というのは仕事の多寡によって決まるものであり、議員数と連動させるという発想そのものに驚きを禁じ得ない。

 リストラ(restructure=再編成)、贅肉を削ぐという意味であるならば結構であるが過度のリストラは日本の経済を縮小傾向に向かわせはしないか。ある程度の経済成長の下で生涯設計した者に対して過度の負担を強いることには繋がらないか一抹の不安を覚える。

 現下の行政の実態は行政の力(区長部局)が巨大な上、最近はさらに、やや専門的な場合は審議会方式、各地域の問題などは地区懇談会方式を導入してきている。これらの最大の問題は事務局を区長部局で取り仕切ることである。そしてこの結論は区長への答申という形をとることになる。しかしながら各委員がどのように発言しようとこの答申は区長に対し法的な拘束力を持たない(意地悪く言えば事務局案を押し通せる)のである。一方、議会に対しては専門家ないし地域有力者委員の答申という「隠れ蓑」を発揮して、議員の関与を極めて制限しようとしている。もっともこれは言い訳に過ぎない。こうした答申を土台にした区長提出案を議員の側の審議で原形をとどめぬまでに変更も可能なのである。が、しかるに現在の日本の総与党化した全ての議会では原案(与党会派の幹部への根回しを経ての上、そしてそれは当然に各会派の個別の議論は経て来ているのではあるが)を無傷のまま通してしまうのである。議会はまさに条例(法令)通過の儀式機関の様相を呈するのである。議員数の減少はこの事に拍車をかけることになり、新規参入を阻止する「議員ギルド」の形成に繋がるものである。

 本来、民主主義とは執行権を首長に、そしてその執行を監視し、住民の声を行政に反映する住民代表として議員を選出するのである。そしてこの民主主義の基いとなる参政権は多くの犠牲を伴う人類の長い闘争の結果手に入れたものである。我が国においても戦前のように選挙権が性や納税額で制限され、従って必然的に裕福な名望家のみが参与的な役割の議員になった時代を経て、今日の参政権があるのである。成熟した民主主義とは名も無い一庶民をも在任中はその生活を保証して議員にする社会である。それが私の希求する社会形態の「From Demand to Participation」(要求から参加へ)である。

 住民何人につき何人の議員が適正かを判断する資料はない。だが財政難、リストラの名のもとに地域住民の声を集約するという存在である議員の「定数削減」をすることが妥当か大きな疑念を抱かざるを得ない。現職の議員が「議員定数削減」に反対の論を張れば「我が身可愛さ」の誹りを招こう。しかし特定の個人の「現職」というのは、ほんの一時のリレー走者であるのに対し葛飾区政は永遠なのである。私は基本的に「議員定数」はある程度多い方がよいと考えている。民主主義が衆愚政治の危険を孕みながらもベターな選択として採用される以上、議員の小数精鋭はこの民主主義と背反すると考えるからである。議員は選挙で選出されるのであるから選挙における支持を前提にした活動も必須である。その選挙というハードルを高くすることが果たして地方自治にとって得策かの議論も必要である。衆議院議員の選挙方法を小選挙区にしたら本来我が国の将来を考えるべき国会の議員およびその候補者が地元利益の追求(利益誘導)を説くのである。それが日本社会の民度と言われればそれまでであるが。

 地方自治体の議会にあっては出自を様々にする議員を多く抱えて置く方が(特定の団体に属さなくとも当選できるようにしておくこと)健全な議会として作用すると思う。

資料1 「投書」 (東京新聞/1月17日付け)

21世紀へ向け 民主主義守れ         無職 佐道 昭 67

 1990年代は民主主義崩壊の時代になりつつあります。政党は公約を守らない。議員は選挙後に政党を変わる。政策的に一致しない言動の人たちが一つの政党をつくる。議員定数を滅らせばよいという政治家。他国の経済政策に口を出す国などなどです。

 戦前、戦中のファッショ・恐怖政治を知らない人、戦後民主主義を知らない人たちが増え、無理ないのかもしれません。日本人が平和ボケしている。危機管理が必要という人がいますが、とんでもない。戦後民主主義が導入されたおかげで、大戦後、世界的に戦乱の絶えない中で、日本が武器を取らずに済んだのです。

 25年前に内灘町に移り住んで、金沢では感じられなかった自分が政治にかかわっているという実感を得ました。内灘町も大きくなり、政治がだんだんと遠くなっていくのを感じます。民主主義は根本的には全員参加です。議員数は多い方がいいのです。何万という有権者の意思をどのようにして、集約できるでしょうか。戦後民主主義を経験した者として、21世紀に向けて、どのようにしたら民主主義が守れるのか考えざるを得ません。               (石川県河北郡)

資料2  「議会と首長の関係、議員定数」研究者の見解

『論・地方分権』(島根自治体学会)より

「地方分権について」 大森 弥(東京大学教授・自治体学会企画部長)

 地方議会の議員数は人口別に地方自治法で決まっているが、これがほとんど合理的根拠を欠いている。市町村レベルで見ると、人口がある幅で増えるごとに4人ずつ議員数が増え、都道府県レベルは大雑把に戦前から受け継いだものの経験で頭数を決めている。そして地方自治法の法定定数を上限として条例で削減できるようになっており、多いところでは2〜3割削減をしているが、どういう根拠で削減するかについても根拠らしいものがほとんどない。行政改革の議会版をやって住民の納得を得ようということが言われている。今のように住民人口に合わせる議員数のあり方は問題であり、私は(*)合議体として成り立つ数の方がよいと思っているので、思い切って10〜15人の規模に議員数を減らしたらどうかというのが私の改革論である。

 議会改革の話は今日はこれ以上できないが、首長も議員も両方を公選にしていることの意義を十分発揮できるような運営に改革すべきではないか.これが3点目の論点である。(同書P.110〜112

()「議員の役割」をどう見るか、によって「民主主義は根本的には全員参加、議員数は多い方がいい」あるいは「合議体として成り立つ数の方がよい」とに見解の別れるところである。いずれを採用するにせよ自治体ごとに「議員の役割」をどう見るかを議論し尽くし議員定数を決すべきであろう。


 本稿は第39号(97-1)の『「民主主義」のコストを考える2―要求から参加へ』にその後の状況をふまえ加筆訂正したものである。【資料1】類似意見の東京新聞1月17日投書「21世紀へ向け 民主主義守れ(佐道 昭)」および【資料2】反対意見の研究者の見解「議会と首長の関係、議員定数」のうち後半、はそれぞれ再掲した。

 同様の視点からの城東タイムズ社説(97-7-15)を【資料3】として掲載する。


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