かつしか郷土史探訪 (9)


葛飾を横断していた古代の東海道

明治13年の地図に古代の東海道をしるしたもの

 大化の改新以降、律令による行政機構が一段と整備され、都(みやこ)と地方との連絡は、都を起点とした七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)の交通路によって支えられていました。このような、現在の国道に相当する公の道を、官道と呼んでいます。

 古代の東海道は当初、都から相模国へ至り、三浦半島から船で上総国の富津(千葉県富津市)に渡って上総国府(千葉県市原市)経由で北上して下総国府(市川市国府台)に到達するルートでした。奈良時代になると、各役所同士の行き来も頻繁になり、それまでの海を渡るルートだけでなく、武蔵・下総間の東京低地を通る陸づたいのルートも重要視されるようになりました。

 明治13年に測量された地図を見ると、墨田(墨田区)から立石、そして小岩(江戸川区)へ通じる直線的な道があるのが分かります。古代の官道沿いには、「大道」という字名(あざな)が多く残っていますが、この道沿いにも「大道」(墨田と四つ木三丁目)や「大道下」(小岩)の字名があります。また、古代の駅もしくは官道に関係したものに「立石」という字名が残っている例もあり、木下良氏(古代交通研究会会長)は立石様(立石八丁目)を、官道の標識的なものではないか、と説いています。最近の調査では、官道が直線的に造られていることも分かってきています。

 官道に関わるいろいろな事例がみられる墨田から小岩へ抜けるこの道が、東京低地を通る古代の東海道の推定ルートの一つと考えられているのです。

 (郷土と天文の博物館)

 

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(かつしか郷土史探訪は『広報かつしか』毎月25日号に掲載されます〉


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