かつしか郷土史探訪 (4)


戸 と 又

応永33年 上杉憲実浄光寺別当補任状(部分)

  葛飾区には、奥戸・青戸や柴又など戸や又がつく地名があります。昭和7年(1932)の市郡併合以前には猿ヶ又という地名もありました。葛飾区が位置する東京低地(現在の葛飾・墨田・江東・足立・江戸川区と台東・中央・荒川区の一部)を見ても、亀戸(江東区)や今戸(台東区)などがあり、花畑(足立区)は花又と呼ばれていました。河川沿いに多く残るこれらの地名の戸や又には、どのような意味があるのでしょうか。

 戸については、鶴岡八幡宮所蔵の「応永33年(1426)上杉憲実浄光寺別当補任状」に「奥津左衛門五郎家定」、松戸市の本土寺に伝わる過去帳に「葛西青津」と、奥戸や青戸の戸が津と記されています。津とは、水上交通の要衝を意味しますが、関東に荘園が開発される平安時代末期ごろからこれらの地域に、年貢の輸送や連絡確保のため、津が整備されたと考えられます。

 猿ヶ又や花又の又は、河川同士が合流する三差状の所につけられています。柴又は、養老5年(721)下総国人嶋郷戸籍の嶋俣と考えられていますが、三差状のような景観を呈していたと推定されています。

 あらためてこれらの地名を見てみると、今の隅田川及び中川流域分布しており、青戸の上流である猿ヶ又には関所が設けられていました。中世において、隅田川と中川は、水上交通の重要なルートだったことが分かります。このように、戸や又は、地形的・歴史的な背景を持った低地ならではの地名なのです。

 (郷土と天文の博物館)

 

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(かつしか郷土史探訪は『広報かつしか』毎月25日号に掲載されます〉


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