かつしか郷土史探訪 (16)


菊地氏と青戸

本土寺(松戸市)過去帳

 葛西三郎清重以来、葛西の領主として鎌倉幕府に仕えていた葛西氏も、南北朝時代のころになると本拠地の葛西を去り、所領のある奥州へ移住してしまいます。

 当時、領主は必ず本拠地に居住し所領を治めていたとは限らず、葛西氏の後に葛西を治めた鎌倉府(室町幕府の東国統治の出先機関)の重臣上杉氏も、葛西の地にはいませんでした。

 このころの葛西の支配関係は、応永33年(1426)鎌倉府の長官足利持氏が伊勢神宮から葛西の年貢が納められていないと訴えられる「年貢抑留事件」で知ることができます。訴えを受けた足利氏は上杉氏に年貢を集める命令を下し、上杉氏はそれを家臣大石隼人佐(おおいしはやとのすけ)へ、大石氏から葛西で統治に当たっていた代官の代理菊地三郎左衛門人道に伝えられました。

 菊地(池)氏については本土寺(松戸市)過去帳に、長享2年(1488)葛西青津(青戸)で亡くなっていることが記されています。

 青戸は、鎌倉時代平泉に派遣された葛西氏の代官、青戸重茂(あおとしげもち)の本拠地でしたが、『鶴岡事書日記(つるがおかことがきにっき)』に応永5年(1398)重茂の末えいと考えられる青戸人道という人の記録を最後に、青戸氏の消息は途絶え、その後、菊地氏が青戸に入ったと思われます。さらに青戸には政所(まんどころ/葛西を統治する役所)が置かれていたことが遺跡など考古学的な資料からも裏付けられています。

 政所があったとされる葛西の中心地青戸に居(い)を構え、ここでの任に当たっていた菊地氏が、年貢の収納など遠く離れた上杉氏の命令を幾人かの人を介し伝え受け、葛西の地でさい配をふるっていたのです。

 (郷土と天文の博物館)

 

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(かつしか郷土史探訪は『広報かつしか』毎月25日号に掲載されます〉


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