かつしか郷土史探訪 (17)


享徳(きょうとく)の大乱と葛西城

上杉氏時代の葛西城の堀(幅6m)

 応仁の乱(1467)が起こる13年前、関東は一足早く動乱の世を迎えます。

 享徳3年(1454)鎌倉公方(くぼう/鎌倉府の長官)に先代の足利持氏(あしかがもちうじ)の子、成氏(しげうじ)が就任しました。鎌倉公方は、以前から関東管領上杉氏と敵対し、室町幕府との関係もこじれており、このような不穏な情勢下、成氏は鎌倉に入りました。

 その年の暮れ、成氏は関東管領上杉憲忠(うえすぎのりただ)を殺害し、上杉・幕府方を相手とした対決に突入します。これが約30年間続く関東の動乱「享徳の大乱」の始まりです。

 何度かの攻防で、成氏は鎌倉から古河(茨城県)に移り、関東武士は利根川をはさみ西岸に上杉・幕府方、東岸に足利氏が対じするようになります。また動乱を契機に、関東各地では、軍事拠点となる城が多く築かれました。

 東京低地は江戸川を境に、成氏の勢力に対する上杉氏の最前線となり、隅田川西岸に太田道潅(おおたどうかん)が、東岸は武蔵守護代大石氏の一族・大石石見守(おおいしいわみのかみ)が布陣し、成氏の動きをけん制していました。

 葛西城は、寛正2年(1461)成氏が葛西城を攻めたとされる文書や、15世紀後半ころの堀跡が発掘調査により発見されたことから、この動乱前後に上杉方の軍事拠点として、青戸に築城されたと考えられています。

 葛西城の最初の城主は大石石見守です。寛正3年(1462)から文明10年(1485)ころは、上杉方の千葉実胤(ちばさねたね)が入城していたようですが、その後、天文7年(1538)北条氏により攻略されるまで、大石氏が葛西城において上杉氏の関東最南端の前線、葛西の守備に当たっていました。

 (郷土と天文の博物館)

 

(葛飾区郷土と天文の博物館)   かつしか郷土史探訪(16)へ

かつしか郷土史探訪(18)へ

 

(かつしか郷土史探訪は『広報かつしか』毎月25日号に掲載されます〉


  • 葛飾区 土地・人・歴史の目次ページに戻る。

  • かつしかのホームページに戻る。

  • 木下しげきのホームページに戻る。