かつしか郷土史探訪 (14)


葛西と葦原(あしはら)

荒川河川敷の葦原(平井大橋付近)

 中世の葛西がどのような所だったかを知る資料に、連歌師(れんがし)の宗長(そうちょう)が著した紀行文『東路(あずまじ)のつと』があり、「此処は炭薪などまれにして、芦(あし)を折りたき豆腐をやきて一盃をすすめしは(略)市川・隅田川ふたつの中の庄也、大堤四方にめぐりて、おりしも雪ふりて、山路を行ここち侍りし也(略)」という記述が載っています。

 これは約490年前の永正6年(1509)、宗長が葛西(現在の隅田川以東)付近を旅した時のもので、要約すると「ここは炭や薪が乏しく、葦を薪にして豆腐を焼きこれをつまみに酒を勧められた。葛西は江戸川と隅田川にはさまれた所で、その川岸には大堤が築かれており、雪の降る中その堤を歩いていると、まるで山道を歩いているかのようだ」というものです。この文から当時の葛西は、豆腐が名物料理だったこと、村を守るために大きな堤があり、開発が進んでいたことが分ります。特に葦を燃料に使っていたことは、古くは古録天遺跡(柴又二丁目ほか)で発掘された古墳代後期の住居跡にある竃(かまど)の土壌調査からも分かっています。

 また平安時代後期の『更級日記』などに、葛西を含む東京低地(現在の葛飾・墨田・江東・足立・江戸川区と台東・中央・荒川区の一部)一帯は、葦が生い茂っている所と描写されています。低地は森林が発達するのに適した自然環境ではなく木材が乏しかったため、宗長も記しているとおり、葦は燃料としての必需品だったのです。

 葦は「悪し」に通じるため「よ(善)し」とも呼ばれています。葛飾で見慣れた葦原の風景も、昭和40年代以降は護岸工事などにより少なくなりましたが、最近は水を浄化する働きや、水生生物の住みかとして見直されており、今でも私たちの生活環境と深い関わりを持っているのです。

 (郷土と天文の博物館)

 

(葛飾区郷土と天文の博物館)   かつしか郷土史探訪(13)へ

かつしか郷土史探訪(15)へ

 

(かつしか郷土史探訪は『広報かつしか』毎月25日号に掲載されます〉


  • 葛飾区 土地・人・歴史の目次ページに戻る。

  • かつしかのホームページに戻る。

  • 木下しげきのホームページに戻る。