かつしか郷土史探訪 (13) 葛西・鎌倉・平泉 葛西清重の墓(四つ木1ー23)
葛西三郎清重は、文治5年(1189)藤原氏との奥州合戦で大きな功績を立て、源頼朝から奥州惣奉行の職を任されるとともに、平泉周辺や牡鹿湊(おじかみなと/宮城県石巻市)など、奥州に多くの所領を与えられました。
建久元年(1190)清重は関東に戻りますが、その間奥州の仕事や所領の管理は、葛西氏の一族や家臣が代官としてその任に当たっています。
関東に戻った清重は、本拠地の葛西以外に、幕府が置かれていた鎌倉に屋敷を築き、頼朝・頼家・実朝の三代にわたり将軍のそばに仕え、創設期の鎌倉幕府を支えました。幕府に尽くし、葛西・鎌倉・平泉を舞台に活躍した葛西氏ですが、南北朝時代になると、葛西から奥州へ拠点を移します。
平泉の中尊寺に所蔵されている古文書に、青戸二郎重茂(あおとじろうしげもち)と二江入道承信(にのえにゅうどうじょうしん)という人が、葛西氏の代官として奥州に派遣されたことが記されています。二人は地名にある(青戸と江戸川区二之江)ように、葛西出身の武士であり、葛西氏をはじめ家臣たちが、奥州と葛西を往来するさまは、遠く離れた二つの地が緊密な関係だったことを物語ります。ほかにも、芝俣氏の流れをくむ芝股と名乗る一族も奥州に見られ、葛西氏が拠点を奥州に移すのと一緒に移住したと考えられています。
また、鎌倉には今も若宮大路から鶴岡八幡宮へ向かう途中の東側の山間に、葛西ケ谷(かさいがやつ)と呼ばれている場所があり、清重が屋敷を構えた場所といわれています。 戦国時代まで奥州に勢力を張った葛西氏も、天正18年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置で滅亡します。
(郷土と天文の博物館)
(かつしか郷土史探訪は『広報かつしか』毎月25日号に掲載されます〉 |