慶悟沙彌の「今月の言いたい法話」

1998年10月の法話

 我が為に仏を作るなかれ。我が為に経を写すことなかれ。我が志を述べよ。(最澄「伝授一心戒文」)

 

 頭を剃って 欲を剃らず、衣を染めて、心を染めず。(空海「秘蔵宝鑰」)

 

 念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同うして、知者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。(法然「一枚起請文」)

 

 親鸞は、弟子一人も持たずさふらう。(親鸞述「歎異抄」)

 

 近年の仏教会は若い世代が活躍するようになりましたが、中には修行の足りない若い僧が「僧侶の仕事は人を導くこと!」といきがって説法するのですが、とても第一線で働く企業戦士から、社会の中で認められた文化人、一般壇心徒には説得力がなく、むしろ反感さえ抱かし、益々仏教会全体のイメージが下がっているようです。

 ところが、現在、日本の75歳以上の住職は、戦後の苦しい時代に寺のお布施だけではとても伽藍を維持することも生活もままならく、学校の先生や様々な仕事をしながら、里の寺を何とか守ってこられました。幾多の苦難を乗り越え、それ故に、安らぎと包容力を兼ね備えた高齢の住職のお話しは自然と耳を傾けたくなりますし、説得力もあります。話を聞けなくても、そこに座っておられる姿を拝見するだけで有り難いと、手を合わせる壇信徒や信者さんもおられるでしょう。

 そんな高齢な僧侶を大事にしない若い僧たちが増えたのは、経済的に寺が豊かになりすぎたのでしょう。一般社会に就職も出来ないような才能と努力の足りない若い僧侶が溢れて来ては、救いを求める信者さんにとっては大変な迷惑です。もし、そうなら、耳を傾けることは時間の無駄です。

 しかし、お釈迦様の教えは、宇宙の道理を覚り、邪悪な者に騙されない人間形成こそが即身成仏であり、佛道実践であると教えられているのです。

自らの精進によって、私たち誰もが菩薩になれることを信じることです。

もし、迷いが生じたら高齢な僧侶を探しなさい。

それが叶わぬなら、美しい大自然の中に自分を置きなさい。

都会に暮らす人で時間と余裕のない人は本物の芸術を鑑賞して心の中を洗いなさい。

家に庭がある人は木を植えなさい。

庭のない人は部屋で植木鉢の草花を育てなさい。

そうすれば仏心が我々心の中に生まれます。そうして優しい心になったその時が発菩提心なのです。

 冒頭に掲載した日本佛教の先達者たちの言葉は、佛教の原点をもう一度見直し、考えさせてくれることでしょう。

                           乱文御免 合掌

発信者*教信寺塔頭法泉院法嗣*慶悟沙彌

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