慶悟沙彌の「今月の言いたい法話」

1997年6月〜7月

 お釈迦様は、インドの旧カースト制度の身分差別に心を痛め、人は皆平等である、また、存在する全ての命の尊さを説かれました。さて、現在の社会で本当にお釈迦様の教えは生かされているでしょうか。仏道を伝えるべき日本の若い僧侶に至っては、大袈裟と言われる彩色の衣を身にまとい、法事等で高座に座らされ、壇信徒より位が高いと錯覚している僧侶が如何に多いことか。

 また、本来、人類皆平等を唱えるべき僧侶が、位を付けなければならない理由がどこにあるだろうか。もし、位を付けるならば、それは、1分でも速く生まれた先輩、人生経験豊富な両親、師匠を敬う心以外ないではないか。

即身成仏に最も近い長老や老師を尊敬し、敬うことをしない若い僧、格好だけ坊主頭にして心が伴わず、実力も社会的判断も出来ない者が第一線に出たがる。

 日本の文化、経済発展はある意味においては年功序列であったからこそ発展してきた。西欧的な合理的精神がまだ成熟していない日本に置いて、急激にリストラを取り入れても経済界の進展には、本来の人材適所にならないのではないか。欧米諸国が日本のこれまでの経済成長の源は、社会に置いては上司、先輩、目上の人、家庭においては先祖、親、兄、姉を敬う実直な日本人的心の美があったからこそ成し遂げたと分析している。

 現在社会においては、益々本来の日本人的美徳が薄れ、家庭内においても、親や兄弟さえもバラバラである。親に指図したり、先輩を批判出来るようになったことが佛教の言う平等ではない。

 せめて、仏教界だけは、急激な経済社会の変化に悩まされず、両親や先祖を敬う敬虔な人々の安らぎの最後の砦として、僧侶が自ら年功序列の正しいあり方を示してみたいものである。

 そのことに気付かぬ若い僧侶に、先祖供養などしてもらおうものなら、CDやカッセットのお経をかける方がましである。

 僧侶の修行が世間では厳しいと見られているが、人間のみならず、植物や動物、自然界の全ての生命が、生きることに精一杯精進しているのである。

 一般社会で活躍するサラリーマンも、専業主婦も、学生も、僧侶の修行と同等か、それ以上の行である。

 生活の中に、与えられた天命を全うし、価値ある人生を送ることが、釈尊の教えであり、また、少しでも精進の結果、ゆとりが出来たならば社会にお返しすることが、仏道修行者ではなかろうか。

 若い僧侶には、社会人として一般社会でサラリーマンと共に、世俗の苦しみと喜びを十分経験してもらいたい。そうする事によって、初めて説法に真実味が溢れるものである。経典は読むものではなく、仏道実践するものである。在家佛教のあり方に甘んずる若い僧侶に貴方は疑問を感じませんか?

 椅子の生活、普段着は洋服、文化の国際化、これだけ生活が西洋化した現在の日本、そもそも、日本古来の伝統と現在指すものも殆どが、当時の近隣諸国からの外来文化ではないか、また、その、近隣祖国も西欧との交易が育んだ独自の文化を作り得たのである。

 ならば、日本人の心のふるさとは、歴史が育んだ産物であり、旧摂取文化と近代摂取文化の融合であると言っても過言ではない。

21世紀に向けて、新たな歴史を刻む精進こそが仏道実践につながるのである。ただし、人間の視点で物事を観、創造する時代ではない、地球規模で、生命の共存と環境保護に人間の英知を今こそ傾ける時である。合掌

発信者*教信寺塔頭法泉院法嗣*慶悟沙彌

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