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動物園での憂鬱

荻野誠人

大きな金網の中に、立派なワシがいた。ワシはコンクリートか何かでできた灰色の木の枝のようなものにとまっていた。

ワシが翼を広げた。二メートル以上もあるかと思われる見事な翼である。

次の瞬間、ワシは隣の木の枝にぴょこんと跳び移った----。

私の胸を、微かな痛みが走った。私は少し眉をしかめた。だが、金網の前に立って広がっていくその痛みを見つめているわけにはいかなかった。私が連れてきていた、うろちょろする数人の小学生を見失わないよう、次の檻の方へ早足で移動しなければならなかったからだ。

* * *

動物園がマスコミに取り上げられるときは、大体明るい話題である。新しい動物がやって来た、赤ちゃんが生まれた、といったぐあいに。飼育係の献身的な愛情が視聴者の感動を呼ぶこともある。動物園は優れた教育施設と見なされ、必ず遠足の行き先に選ばれる。もちろん、動物園の好きな人も多い。

だが、私はワシの檻の前に立って以来、動物園とは人間の自然に対する思い違いの象徴ではないかと思うようになった。そもそも何の権利や必要性があって、故郷の草原や空や海を自由に動き回っていた動物を狭い檻に閉じ込めるのだろうか。そして、それを商売に使ったり、見て楽しんだりするのだろうか。そこには人間の、他の生物に対する優越感があるのではないか。人間のためなら、他の生物をいくらでも自由にしていいという思い上がりが表れているのではないか。たとえ動物がどんなに手厚く保護されていようとも、それはあくまで人の目を楽しませる存在としてに過ぎない。

確かに世界中の動物を見て、見聞を広めることはできる。自然の人智を越えた摂理を感じとることもできるかもしれない。しかし、別に珍しい動物を知らないからといって、生きていくのに差し支えがあるわけではない。どうしても見たければ、現代では写真やビデオでいくらでも見ることができる。それに、子供に自然を体験させたいのなら、本物の自然の中へ連れ出した方がよっぽどいい。動物園では自然の厳しさなどを感じることは決してできない。最近はそんな自然が少なくなったと反論が出るかもしれない。しかし、そうしたのは人間である。自分で自然を破壊しておいて、自然がなくなったからといって動物を集めてくるのは人間の身勝手で、動物にはいい迷惑である。

それにしても、なぜ動物園に対する批判の声がほとんど上がらないのか。理由の一つは、物珍しい動物や可愛らしい動物を見るのが楽しいからであろう。楽しいものに問題点が潜んでいるとは思いもよらないことである。自分が楽しければ、周囲への心配りや第三者の立場に立ってみることなどは忘れがちになるものである。

また、動物園は大規模な環境破壊を引き起こしたりはしないだろうし、医学、薬学の実験のように動物を虐待しているわけでもない。現実の問題としては小さなものなのだろう。しかし、人間が自然や他の生き物をどう見なしているかを判断する目安としては、環境破壊や動物実験に劣るものではないと思う。

動物園は優れた教育施設とのことだが、私は、動物を尊重して動物園を廃止したという事実の方がよっぽど教育的なのではないかと思う。

* * *

私はまたしばらくしたら、仕事で動物園に行くことになるだろう。別にそれがいやだというわけではない。だが、できればあの堂々たるワシがぴょこんと跳ぶところは見たくない。

(1993・9・18)


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