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嫉妬とつきあう

荻野誠人

私が大学生で、まだある宗教の信者だった頃のことである。

同じ信者で、私の友人にYさんという人がいた。Yさんは私より年下だったが、「神の子」と呼ぶ人さえいるほどの優れた人柄と才能の持ち主だった。落ち着いた、自信に満ちた物腰は大人顔負けであった。そして凡人には及びもつかないような洞察力や行動力をしばしば発揮して、周囲をうならせていた。

一方、私は当時、その宗教で売出し中の、県の学生リーダーだった。人材不足だったためか、年長のリーダーたちに期待されたり、ほめられたりして、自信満々であった。だが、その私もYさんにだけはどうしても太刀打ちできないと認めざるをえなかった。おおげさに言えば、私はこの年下の友人に畏敬の念さえもって接していたのだった。

だが、私が抱いていたのは畏敬の念だけではなかった。そこには嫉妬もひそんでいたのである。

その頃Yさんは受験勉強が忙しくなって、一時宗教活動からは遠ざかっていたが、やがてYさんの志望校が私の大学よりも上であるという噂が流れてきた。私は面白くなかった。Yさんが志望校に合格して活動を再開すれば、私の地位などはすぐに奪われてしまうと思ったのである。

私はそんな自分を信者としてひどく恥じていた。Yさんの陰口を言ったり、つらく当たったりといったことはなかったが、それでも自分を罪人のように見なして、一人で暗い気持ちに陥っていた。そこから逃れたいとは思っていたが、どうしようもなかったのである。

ちょうどその時であった。私の恩師でもあったリーダーがYさんの受験勉強を手伝ってくれないか、と言ってきたのは。私はびっくりした。ひょっとしたらこれは神様のおはからいではないかと真面目に思った。

実はYさんの家には、色々と事情があって、とても予備校などに通う余裕はなかったのである。もちろん浪人も許されなかった。皮肉なことにそんな環境もYさんの評価を高めるのに一役買っていたようだ。

私は即座にその仕事を引き受けた。嫉妬があっても、Yさんは友人であったし、信仰の先輩として世話になったこともあった。そのYさんが困っているのを助けるのは、友人として信者として当然のことと思ったし、いかにも英雄的で格好いいという気もした。また、その手助けが、罪滅ぼしになるだけではなく、自分の醜い気持ちを振り払うきっかけになるかもしれないという期待もあった。

教会や図書館の一角を借りて、Yさんと私の受験勉強が始まった。Yさんの希望で主に英語を教えることになった。私は献身的という言葉にはほど遠いが、私なりに責任をもって、多少の工夫もしながら教えていった。もちろん大学の受験勉強を教えられるほどの力はなく、ずいぶんひどい「指導」だったと思う。それでもYさんは喜んでくれたようだった。私も毎週Yさんに会うのが楽しみだった。何といっても友人であり、魅力のある人だった。

その間、私の嫉妬はどうなったのであろうか。実は教えながらも、私は密かにYさんの合格を恐れていた。私の嫉妬は少しも弱まらなかったのかもしれない。しかし、それはあくまで自分の心の奥底のことだったようだ。意外なことに、私は以前ほど嫉妬が気にならなくなっていったである。教えることにある程度集中して、気がまぎれたのであろうか。Yさんのために行動しているという意識がそれまでの後ろめたさをぬぐい去ってくれたのであろうか。自分はそれほどの悪人ではなかったのだ、と嬉しくなったのであろうか。私の心には、何か晴々としたものさえ漂っていたような覚えがある。

この経験を通して、私は一足跳びに悟りの境地のようなものに達したのではない。だがこの経験は、その後おりにふれてよみがえり、私に自信と安心感を与えてくれることになった。つまり、どんなに嫉妬を感じさせる人が現れても、もうそれほど自己嫌悪に陥らなくなったのである。なぜなら、私はその人のためにも行動することができるはずだからである。

もちろん嫉妬などはない方がいいに決まっているし、消せるものなら消した方がいい。嫉妬しない人を私は尊敬しているし、うらやましいと思わないでもない。しかし、もっと大事なことは相手のために行動できるかどうかである。それができるのなら、嫉妬があるかどうかはそれほど大きな問題ではない。私は次第にそう思うようになっていった。おまけに、行動によって嫉妬がさほど気にならなくなることさえあるのだ。

このような考え方にどれだけの価値があるのかはよく分からない。ひょっとすると今後この考えは変わっていくのかもしれない。だが、単に嫉妬に苦しんでいた時に比べれば、前進しているのではないだろうか。 このように、Yさんとの受験勉強は大変貴重な体験であった。こういう機会を与えられたことは、宗教の言葉を借りれば、「奇跡」だった。

(1993・9・24)


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