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一本の白線

荻野誠人

ある仏教系の学校の正門を入ると、目の前の地面に三メートルぐらいの白線が一本引かれているのが目に入る。その学校に出入りする人はその白線で立ち止まり、構内に向かって一礼することになっている。私はその礼にどんな意味があるのか、学校の人に聞いてみたことはない。勝手に、仏恩に感謝するという気持ちをこめて頭を下げることにしている。私は仏教徒ではないのだが、お釈迦様は大いに尊敬しているのである。

白線の所で礼をするというのは単なる形式で、下らないと思う人もいるだろう。だが、その形式をきっかけに私の心には感謝の念が生まれるのである。その白線がなければ、私はすたすた正門を出入りし、心の中はからっぽである。となると、形式にも大切な働きがあり、むやみに軽んじることはできないのではないか。

もちろん、そのような形式がなくても、常に仏に対する感謝の念を忘れないという人もいるだろう。そういうできた人にとっては白線など不必要なのだろう。だが、目に見えるものがなくては、ついつい心がおろそかになるという人も少なくないのではないか。形式はそういう人の心を目覚めさせるきっかけとして大事な役割を果たしていると私は思う。

もっとも、形式は決して主役ではない。主役は心である。だから、心のこもらない礼が無意味なのは言うまでもない。白線の所でろくに立ち止まらず、飛んでもない方向に顔を向けてそそくさと礼をする生徒を時々見かけるが、あれではただの首の運動である。

また、形式が一人歩きして、どんどん複雑なものや華美なものになっていくことも疑問である。もし白線のかわりに豪華な建物が建っていて、一礼のかわりに何分もかかるような面倒な礼拝をしなければならないとしたら、そのときはもはや形式が主役になっているのである。そして形式に従ううちに肝腎の心は忘れられてしまうだろう。結婚式や葬式など、様々な儀式の中にも、本来の心を失ってしまったものが数多くあると聞く。

形式は心のきっかけとなりさえすればよく、簡単なもので十分だと私は思っている。「鰯(いわし)の頭も信心から」というが、本当に鰯の頭でも、道端の石ころでも、何でもかまわないのではないか。

さて、私は宗教の信者だった頃、毎朝先祖に少量の水、米、塩をお供えしては拝んだものである。先祖がそういったものを食べられるわけではないから、その行為は無意味だと考えることもできる。だが、私の場合、そのささやかな儀式は先祖に対する感謝を呼び起こしてくれたのである。私は、その宗教から離れて無信仰になったことを後悔してはいない。だが、形式を失って、先祖に対する感謝の気持ちが薄れてしまったことはまずいと思っている。私なりの鰯の頭を見つけた方がいいのだろうかと思っている最中である。

(1993・4・25)


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