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善、悪、本能

荻野誠人

古来、多くの哲人、賢者が善とは何かという問いに答えようとしてきた。その結果生み出された定義はまさに千差万別である。たとえば、善は「幸福である」「徳である」「心の平安である」「快楽である」「神である」「人間本来の内心の欲求を満足させるものである」などなど、そのほかとてもここで要約することのできない定義も少なくない。だが、どれ一つとして決定的なものではないようである。

一方、これまで私の書いてきたものはすべて、善とは何かという問題と深く関わっているのだが、それにもかかわらず、私はこれまで自分なりの善の定義をしてこなかった。これでは地図もなしに友だちを山に連れていくようなものであり、無責任であろう。そこで今回この小論で私なりの善の定義を述べ、無責任のそしりをまぬがれようと思う。

ただ、言い訳がましいが、この作品は決定稿ではない。今後ともこのテーマに取り組んで、書き直したいと思っているので、この作品に対しては特に読者のご批判を仰ぎたいと思う。

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原始時代、人間が本能に従って、動物と変わらない生活をしていたときには善も悪もなかった。善悪は人間が知性を得て、本能の枠を踏み越えるまで現れることはなかった。

本能は大昔から、人間一人一人の生存と人類という種の存続をはかってきた。生物を観察していると、本能の働きが実にみごとであることがよく分かる。たとえば、多くの生物が生まれながらに身を守るすべや餌をとるすべを知っている。哺乳類や鳥類なら、共同して外敵に当たり、親になれば、我身を犠牲にしてでも子を守ろうとする。私たちの遠い先祖も、このような本能に助けられて生き抜いてきたのである。

だが一方で、本能はしょせん本能に過ぎないと思わせる点も少なくない。たとえば、動植物は環境の変化には弱い。人間ならあれこれ工夫してそれを乗り切るところなのに、他の生物はあっさり滅んでしまったりする。本能には、積極的に環境を変えるほどの力はないのである。また本能は種の存続のため、私たち人間の間では一応否定されている弱肉強食や適者生存を認めている。力の強いものがよい食べ物を多く取り、配偶者を得て子孫を残すのである。強者は弱者には冷たい。私たちの先祖の中にも悲惨な一生を送った弱者が数え切れぬほどいたはずである。

このように本能は、現在の私たちの価値観をもとにしていえば、幸福をもたらす面だけでなく、不幸をもたらす面をも備えているといえよう。

しかしながら、本能に支配された人類は全体として一応の調和を保っていたとはいえるだろう。つまり、犠牲が出ても、それは決して無意味なものではなく、人類の存続のためやむをえないものだった。また、各自の欲望は生命を保つのに必要な範囲内におさえられていて、際限のない争いは起こらなかった。環境を破壊したり、他の生物を不必要に虐待したりすることもなかった。人類は他の生物と共存していた。つまり他の生物とも調和を保っていたのである。

一方、人類の脳は極めて長い時間をかけて発達を続け、ついに知性を獲得するまでに至った。知性は、人間に本能の枠を踏み越える力を与えた。知性は人間を環境の従順な召使の立場から解放した。人間はしだいに環境の大きな変化にも耐えられるようになり、とうとう環境を自分のために利用し、改良するほどになった。農業はその一例である。これは他の生物には絶対まねのできないことであった。

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知性は、人間を環境から解放すると同時に、善と悪という二つの可能性を人間に与えた。いったん知性を手に入れてしまった人間は、もはや本能のみの生活にとどまることはできず、常に行動の選択を迫られることになった。それまで本能が自動的にやってくれたことを自分で決めなければならなくなったのである。

知性が本能よりもはるかに力をもっているため、善を選べば、本能のもたらす以上の幸福を享受することができた。つまり、人類は争いをなくし、犠牲を出さずに存続する可能性をもつようになったのである。しかし、悪を選べば、本能のもたらす以上の不幸に見舞われることになった。

悪とは、調和を破壊する行動のことである。

この場合の調和とは、一人一人が互いに助けあい、補いあって全体を支えている状態のことである。

悪は一方では、自己の快楽を際限なく追求しようとする。その結果、その欲望の犠牲となる者が出、争いが引き起こされ、調和は破壊される。人間が純粋に動物であったときは、本能がこのような欲望を一定のところでおさえていた。だが、知性を得て本能の枠が取り払われた結果、欲望を自動的におさえるものもなくなり、ここに悪の生まれる素地ができてしまったのである。

悪は他方では、極力不快を避けようとする。自分を守ることを優先し、苦労を嫌い、義務を忘れ、他に依存しようとする。これでは一部の人々の負担が重くなり、全体の調和は保てなくなってしまう。本能が働いていたときは、たとえ不快なことでも必要であれば、人々は無意識に行なっていたのである。

これらの悪は決して全体のことを考えない。自分一人、あるいは自分の属している家族、企業、宗教、民族、国家、時代といった特定の集団のことのみを考える。悪は自分と他者を切り離し、他者を排斥するのである。本能は個の保存だけではなく、種の存続もはかろうとするのだが、悪はこの基本的な機能とも無縁である。悪が極端になれば、戦争や革命のように自己の欲求のため、平然として多くの生命を奪う。たとえ悪が他人のことや社会全体のことを考えるようにみえたとしても、それは結局自分が快楽をえるためか、不快を避けるための手段としてに過ぎない。

また、本能は環境には従順だが、それは決して環境を破壊しないというよい面ももっている。しかし、悪は自分の生存基盤である環境を破壊することさえ躊躇しない。人間が快楽や利潤の追求のため、自然を破壊したり、生物を絶滅させたりすることは周知の事実である。

また、悪の別名のような弱肉強食も、本能はそれをあくまで種の存続のために行なうのである。しかも、決して際限のないものではない。動物は仲間同士で食べ物や異性をめぐって争いはするが、むやみに相手の息の根をとめたりはしない。だが、悪は一個人の欲望を満たすためだけに無制限の弱肉強食を行なうこともある。歴史上の数多くの独裁者がいい例であろう。本能というた がのはずれた欲望には限りがないのである。

さて、以上の悪とはかなり性格の違うようにみえる悪もある。それは善意や無意識の行動なのだが、判断の誤りや不注意などで調和を破壊する結果を招いてしまうという悪である。悪は調和を破壊する「行動」である、と定義する以上、内心がどうあれ、こういった行動も悪と見なすことになる。善悪の判定はあくまで結果による。たとえば、かつて共産主義革命を支持した民衆の中には善意の人も数多くいたのだろう。しかし、その恐ろしい結果を見れば、いかに善意であったとはいえ、その行為を善と評価することができないのは明らかである。

* * *

人間が本能のみで生きていた時代には、個人の生存と人類の存続はしばしば衝突した。人類を 存続させるために、力の弱い者は大なり小なり犠牲になった。もちろん弱者にも強者と同じように、生きたいという欲求はあったのだが、それは無視されたのだった。本能の力に限界があったので、それはやむをえないことだった。人類はまだ多くの者の欲求をかなえるだけの実力をもってはいなかった。たとえば、弱者も子孫をたくさん残したとすれば、人類全体の力の平均値は落ち、環境の変化や外敵のために滅亡したかもしれないのである。

しかし、やがて人間は知性を得て、文明を発達させ、環境の変化や外敵にたいしてより強くなり、全員の欲求をかなえるだけの余裕をもつようになった。人間は、ときには他人を犠牲にすることもあった本能から遠ざかり、常に他人を尊重する心をもてるようになっていた。ここに、善の現れる素地ができあがったのである。

実際には、おそらく非常に長い年月をかけて、多くの賢者が人間の様々な行動の結果を観察したり比較したりして、どうすれば人間が繁栄していけるか、どうすれば争いを避け、犠牲を出さずに済むかを少しずつ考えていったのであろう。それがやがて善と呼ばれるようになったのであろう・・・・。

善とは、調和を生み出す行動である。

この場合の調和とは、先ほど述べたように一人一人が互いに助けあい、補いあって全体を支えている状態である。この調和が発展するにつれ、争いも犠牲も少なくなり、ついには世界中の人が世界中の人を思いやる一種のユートピアとなる。こういった状態を生み出そうとする行動が善なのだ。本能のみではこの高度な調和に到達することはできない。

本能が、どうしても多くの弱者の犠牲を伴うのに対し、善は、知性によって、犠牲をより少なくし、各自の希望を尊重し、各自の素質を生かしつつ、高度な調和を達成しようとする。善は、もはや弱肉強食が人間には必要ないこと、いや、いったん知性を身につけた以上は、それがかえってとめどもない闘争を引き起こすことを知っている。また、善は知性によって、本能よりもはるかに広範囲に渡って効果的に仲間を助け、外敵や環境の変化に対応しようともする。たとえば、地球上のどこかで大きな災害が起こった場合、人類は科学の力でいち早くそれを知り、大規模な援助に乗り出すことができる。

ここで定義された善の中には、常識で善と考えられている行動の多くが含まれるだろう。たとえば、地球上には多くの困っている人や弱い人が援助を待っている。善はそのような人たちを支えることによって、調和を生み出していこうとするのである。

ここで付け加えておきたいのは、そういった行ないは本人が調和を生むだけでなく、相手にも将来調和に貢献する可能性を与えるものだということである。別の表現を使えば、善は相手を生かす行動なのである。逆に相手を調和の破壊に導いてしまうような行動は、たとえ一見善に見えても善ではない。

たとえば、困っている人を助ければ、今度はその人が、感謝を忘れない限り、どこかで別の人を助けるだろう。子供を厳しく鍛えれば、子供が将来幸福に生きられるようになるだけでなく、その子も将来周囲に貢献するようになるだろう。

ところが、親が子供を甘やかしたり、政治家やマスコミが民衆に過度の福祉や娯楽を提供したりすれば、どうなるだろうか。それは、その場では喜ばれるだろう、善に見えるだろう。しかし、その結果、子供も民衆も自立心を失い、欲望に際限がなくなって、全体の調和を破壊してしまう。とすれば、親や政治家やマスコミの行動は善ではなかったのである。

また善は、調和を実現するために、それを破壊しようとする悪と戦う。悪を傍観することは、調和の破壊を黙認することになり、これまた悪となるのである。戦うだけではなく、悪を善に変える努力も必要だろう。しかし、そのような穏健な態度がかえって悪を増長させ、全体の調和を危機に陥れるならば、それもまた悪となってしまう。そのような場合には、善はやはり悪に対して厳しい態度で臨むのである。もっとも、悪と戦うなどといっても、実際には自分の心の中の悪を行なおうとする衝動と戦うことの方が、他人の悪行と戦うことよりもはるかに多いだろうが。

また善は強く賢明である。そうでなければ、他を助けることも悪と戦うこともできない。だから全体を支える一構成員としての自分を鍛えることや、充分に休養をとることなども立派な善といえるだろう。自分の勉強を放り出して、友人の勉強を見てやるといった極端な自己犠牲などは、一見すばらしいことのように見えるが、自分の成長を止めてしまいかねない。むやみにそのようなことをするのは問題だろう。

こういった善の行為は、めんどうな場合も多い。しかも、全体の調和に必要ではあっても、善を行なった者がその場で具体的な見返りを得られるわけでもない。善悪の入り混じった現実世界では、かえって損をすることさえある。そういったことが善の敬遠される理由の一つである。

ところで、善は、快楽を追求して人生を楽しむことを否定したりはしない。善は決して、人の健康を損ないかねない禁欲主義の味方ではない。だが、地球の資源は有限であり、欲望の無制限の追求は闘争と破壊しかまねかない。そこで善は調和を破壊しないように、自己と他者の欲望を適度なところにとどめようとする。場合によっては自分の欲望を完全におさえて、他者や全体の欲望を優先させることもある。こういった行為は自己犠牲とも呼ばれる。その一方では、調和を破る他人の欲望をおさえることもある。これは悪との戦いと同じことである。さらに善は人類全体の欲望も地球全体の環境と調和させようとする。善は積極的に他を助けようとする面だけでなく、このような、欲望に対する抑止力、調整力といった面も兼ね備えている。前者をアクセルと すれば、後者はブレーキであろうか。

このブレーキは、本能のブレーキのような生まれながらの完全なものではない。一人一人が幼いころから絶えざる努力を通じて身につけなければならない。おまけにブレーキは欲望をおさえるものであるから、当人に苦痛をもたらすことも多い。だから人間は善をなかなか身につけられないのである。一方、悪にはブレーキはない。ひたすら快楽を得ることと不快を避けることに知性を使っていればそれでいい。しかも悪がうまくいけば、その場で快楽が味わえたり、不快を避けられたりすることが多い。だから悪に染まるのはたやすいのである。

善は「行動である」と定義したが、この行動は、何が善であるかを選ぶ判断力と、善を行なおうとする意志の融合した結果である。どちらが欠けても善は現れない。判断力を欠けば、その行為は時として悪となり、意志を欠けば、すべては頭の中にとどまってしまい、周囲に何の影響も与えない。このような人は両方とも善人なのだろうが、奇妙なことにこの善人は決して善を行なえないのである。

善を選ぶ判断力は、知識や経験に支えられている。従って、知識、経験が豊かになればなるほど、判断もすばやく的確に大局的になる。この小論では単純に善悪を分けているが、実際には善悪の判断はそんなに簡単なものではない。一つの行動が善悪二つの側面をもっていることもあれば、同じ行動が場合によって善にも悪にもなることもある。善だとばかり思っていた行動が実は悪であったことが、時間がたつにつれて明らかになるような場合もあれば、一時的に悪を認めた方が結局善になるような場合もある。おまけに自分自身の判断基準さえもそのときどきの状況によって揺れてしまう。どうしても優れた判断力が必要とされるのである。

一方、善を行なおうとする意志を支えるものは何かと問えば、即座に愛や慈悲という答えが返ってくることだろう。それはその通りであろう。愛や慈悲には、自分と他者は一つのものだという、悪とは対照的な考え方がある。これは自分と他者を、同じ生命をもち、同じ生きようとする願望をもったものとして尊重しようとする姿勢である。なお、ここでは、「他者」とは、人間以外のあらゆる生き物も含む言葉として用いている。人類の利益だけを目標とした行動は、結局、自分の属する集団のことだけを考える悪とつながっていく。いずれは、地球の生き物のことのみを考える行動も悪となる日が来るだろう。

* * *

人間は本能のみで暮らしていたときの方が幸せだったという意見もある。だが、いったん知性を手にした人間はもうそのような生活に戻ることはできなくなった。人間は否応なく善悪の選択を迫られるようになった。

現在、人間の社会は善の方が強いのであろうか、それとも悪の方が強いのであろうか。あるいは善の方向に向かっているのであろうか、それとも悪の方向に向かっているのであろうか・・・・。私にはそれは分からない。またあえて知りたいとも思わない。いずれにせよ、最低限のするべきことは決まっている。それは現在の調和を維持することである。つまり、私たちには、この世を今以上に悪くしないで子孫に渡す義務がある。ちょうど図書館の本を、次の利用者のために丁寧に扱うようなものである。この世はいわば図書館の本のような借り物で、私たちのものではない。そのことに気づかず、この世を今以上に悪くして、苦しみに満ちた、生まれてくる価値のないものとしてしまったら、何も知らない子孫や巻き添えになる生き物に顔向けができないではないか。私は個人の自由は大いに尊重する主義だが、この世の様々なものを消費して生きている以上、この義務からは誰一人逃れられないと思っている。

それでは、私たちにはこの世を今以上に良くする義務があるのだろうか。もっと積極的に善を行なう義務があるのだろうか・・・・。私は今のところ、その義務はないと思っている。すべては、一人一人がどれだけ他人や他の生き物たちに愛情をもっているかにかかっているのだろう。すべては、その人に任されているのだろう。


参考文献
村井実『「善さ」の構造』講談社学術文庫。昭和63年。
西田幾多郎『善の研究』岩波文庫。1991年。
小牧治『解明 新倫理』文英堂。1991年。
金子武蔵編『新倫理学事典』弘文堂。昭和45年。
イリン『人間の歴史』角川文庫。昭和55年。

(1989・5・5、1993・10・10 最終改稿)


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