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弱い心

荻野誠人

ある有名な作家が、ボランティアの会で講演をした。その作家は長い話の途中でこんなことを言った。

「人に迷惑をかけるのはよそう、人には親切にしよう、なんて皆さんの会では簡単に言うけれども、それがどうしてもできない人だっているんです。そういう人たちのことを無視して活動していると、いつか人間のとらえ方を間違ってしまうんじゃないかと思うんです。」

私は、なるほど、と思った。では「そういう人たち」に何をすればいいのか。それをぜひ聞きたいと思った。だが、残念ながら具体的な提案などはなかった。それでもこの意見は心に残った。

しばらくして、アメリカの死刑囚をテレビのニュースで見た。子供を何人も殺したその男はこう言っていた。

「俺は釈放されれば、また同じことを繰り返すに決まってる。だから、俺のような人間は死刑になった方がいいんだ。」

私は、ほう、と少し感心した。死刑囚は自分のしたことが分かっているのだ。その男のうつ向きかげんの顔を見ていると、残酷な行為を続けながらも、それをやめたいと思っていたのかもしれないという気がしてきた。だが、どうしてもやめられなかったのだ。悪癖が余りに強く身にしみついていたのか、あるいは自分に勝つだけの意志の強さがなかったのか----。いつかの作家の言葉が耳によみがえってきた。私は少し沈んだ気分になった。死刑は当然だろうが、それでも死刑囚が気の毒になった。

自分の欠点や周囲にかける迷惑に気付いていて、直したいと思っているのにどうしても直せない。あるいは直そうという強い意志が今一つ欠けている。それで悩んでいる----そういう人のために何か考えられればと思った。決して他人事ではないという気もした。

ただ、欠点とはいっても、暴力癖、盗癖、飲酒癖、賭博癖などに悩んでいる人は、これはもう病気なのだから、精神科医やカウンセラーなどの専門家に一日も早く見てもらうべきだろう。死刑囚もそうすべきだったと思う。私が思い浮かべているのは、短気、臆病、頑固、冷淡、高慢、貪欲などといったもっと「一般的」な欠点で悪戦苦闘している人たちのことである。

ところで、このような醜い自分の心に絶望し、なすすべもない思いの人たちを、他力信仰で救おうとしたのが法然や親鸞だったのかもしれない。私個人は、阿弥陀様に救っていただくという他力信仰を余り高く評価できないのだが、そういった信仰で救われた気持ちになり、安らかな人生が送れるのなら、それはそれで大変結構なことだと思う。あるいはそれが最善の道なのかもしれない。しかし、私は宗教家ではないし、現代は責任をもって推薦できる宗教団体は誠に少ない。また、神仏を信じる気にならない人も多いだろうから、ここでは、救いには程遠く、かえって人を失望させるようなものであっても自分なりの考えを書いてみたい。

もし、本当に一生懸命努力しても全然欠点が直らないのなら、あるいは意志が弱くて、どうしても一生懸命努力するところまでいかないのなら、方向を少し変えてみたらどうだろう。つまり、欠点を直そうという思いを一時忘れて、欠点とは直接関係のないよいことをしてみるのである。短所を直すのではなく、元々ある長所や長所となりそうなところを見つけて、それを行動に表すのである。たとえば、すぐにカッとする性格は直らないが、他人をほめたり、力づけたりすることならいくらでもできるという人がいるとしよう。そういう人は、怒りをおさえよう、柔和になろうなどとあがくかわりに、他人を激励する方をどんどんやってみたらどうか、ということなのである。たとえ意志が弱くて欠点を克服できない人でも、無数にあるよいことの中から自分に合ったもの一、二種類ぐらいは実行できるだろう。

たとえば私だったら、こうするだろう。私は十五年ほども体の不調で悩んでいた。また、私が昔お世話になっていた宗教は病気を治すことが大事な活動だった。そういう事情で、今の私は他人の健康にも無関心ではいられないし、普通の人よりは治療の情報も沢山もっている。だから周りの人の顔色にさりげなく注意して、病気の人には何らかの助力をするだろう。あるいは、私は早起きが得意だから、職場に朝一番にやって来て、鍵を開け、窓を開け、お湯を沸かし、コピー機のスイッチを入れておくだろう。こんな身近なことで十分である。 もちろんこれは人気取りではない。人気取りなら、人気が出なければ、直ぐやる気がなくなってしまう。これはあくまでよいことだから、やるのである。また、無理にやろうとするのもよくないと思う。それは続きはしないし、心の負担が大きくなるだけだろう。やはり自然にやる気が出るようなものを選ぶべきだろう。そのやる気は、他人に迷惑をかけていることで悩むような人だったら、必ず心のどこかにあるはずである。

こういったことをしていけば、気も晴れるだろう。理解者が何人か現れてもおかしくない。ひょっとすると、今まで手を焼いていた欠点を別の角度から見直すきっかけをつかめるかもしれない。あるいは、長所がどんどん伸びて短所を覆い隠すということもあるかもしれない。そうなれば、その人もまんざらでもないということになるのではないか。偉人といわれるような人たちでさえも、大きな欠点をかかえたままだった場合が少なくないのである。

もっとも、欠点はそのままだから、一方では当然他人に迷惑をかけ続けることになる。しかし、欠点で頭が一杯になって、にっちもさっちもいかない状態よりも、欠点はそのままでも、わずかでも他人に喜ばれることを実際にしたほうがいい。

もちろん、残酷な言い方だが、他人に多大な迷惑をかけ続けている人が、少しぐらいよいことをしたからといって、皆に認めてもらえたり、好かれたりすることはないだろう。神様がそういう人をどう思われるかは分からない。力不足を哀れみ、努力を認めてくださるかもしれない。あるいは神様はもっと厳しくて、そういう人を天国へは入れてくださらないかもしれない。しかし、もうそういうことはどうでもいいのではないか。たとえ天国行きの合格点の六十点には届かなくても、四十点よりは四十五点、二十点よりは三十点と自分の人生を少しでも向上させることが、大事なのではないだろうか。そう悟ってしまうのは相当難しいだろうが。

決して誤解してもらいたくないのは、私は妥協を勧めているのではないということである。十分欠点を克服する力のある人は、自分を甘やかすことなく、それに取り組むべきではないかと思う。短所を改めることは、長所を伸ばすことと同様、大事なことだと思う。私の提案は、何らかの事情でどうしても欠点を直せない人たちに向けたものである。

私の考えは特に優れたものだとは思っていない。特に、事実の裏付けに乏しいといわざるをえない。やはり阿弥陀様に救っていただく方がいいのかという気もする。どうかより優れた提案を読者諸賢にお願いしたい。

(1993・3・3、1993・10・13改稿)


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