戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

三つの心

----『心の風景 第四集』に寄せて

向井俊博

心の語源をひもとくと、禽獣の臓物を見てコル(凝)とかココルとか言ったのが始まりとある。後に、人の内腑の通称を経て精神を表す意となったようだ。昔の人は、心の宿りどころを内臓とみたのであろうか。今では、心は脳に関係すると誰でも知っている。だが本質をとことん知っているかとなると、昔とあまり変わらないようだ。

脳をどうあばいたところで、心そのものが見えるわけではない。ということは、心は実体を指すというより働きを指すと理解した方がよさそうだ。電気の実体は誰も見たことがないが、扇風機が回るのを見てその働きがわかるといったようなものだろう。

心の実体としてその働きしか見えぬといっても、世の中でこれほど確かな存在はない。五官を通さずに直接自覚できる唯一のものだからだ。「我思う、故に我あり」とはよく言ったものだ。

このように直接自覚できる働きとしての心は、また実に多様に活動する。泣き、笑い、悩み、考える。しかし、じっくりと自分の心を観察すると、質の異なる三つの心(ここは働きというべきだが日頃慣れ親しんでいる心という言葉で以下表現したい)、並びに記憶の貯蔵庫、これらが多層構造的にあると実感される。

三つの心----つまり「感じる心」、その奥の「考える心」、そのまた奥の「心の芯」である。これら働きとしての心の他に、「感じる心」「考える心」に直結する記憶の貯蔵庫があるとみる。学問的にこれらがどう解説されているのか知らぬが、自分なりの実感から、心の全体像を三つの心と記憶貯蔵庫、このようにイメージしている。

まず「感じる心」であるが、心の窓とも言える五官(眼、耳、鼻、舌、皮膚)を通して外界を感ずる。朝露にぬれている野の花、雀のさえずり、頬づえのたなごころに伝わってくる顔のぬくもり、入れたてのコーヒーの心静まる香りとほろ苦い味、これら外の世界はすべて五官を通していわば間接的に知る。

五官は0.2秒くらいで脳に刺激を伝えるのだそうだが、伝わった瞬間に受ける外界のありさまは、五官の能力内での味も素っ気もない、きわめて物理的な姿や音などであろう。だがその一瞬を過ぎると途端に花は花らしく、雀の声はさえずりとして、「感じる心」が色づけをする。そして時には「快」、時には「不快」と感じていく。

この感じ方というのは、同じものを見たり聞いたりしても十人十色であるし、また同じ人であっても時と場合によって決して同じではない。つまり「感じる心」は時々刻々、刺激に対して多様に色づけをしているということである。色づけられたものは思い出せるか思い出せぬかは別として、瞬間瞬間に記憶庫にしまいこまれていっているようだ。

次に「考える心」であるが、「感じる心」が色づけしたサインを受けて、文字どおりいろいろに考える働きをする。時には「感じる心」を経ずに「考える心」が自ら過去の記憶を引っ張り出して考える場合もあろう。

この「考える心」がどう働くのかみてみよう。たとえばお年寄りの額のしわを見て「感じる心」が「快」の方向へ色づけをしたとすると、「考える心」はそのサインを受け、「ずいぶん苦労したのかなあ。これからも元気でしわを刻んでいって欲しいな」とか思う。一方、「感じる心」が「不快」の方向に色づけしたとすると「汚らしいしわだ。目障りだから引っ込んでいて欲しい」などと思うに違いない。

こうしてみると「感じる心」がどう色づけするかというのと、「考える心」がどう考えるかということは、心のあり方を決める大変重要なことだと思わざるを得ない。とは言っても色づけの仕方と考え方というのは、小さい時からの積み重ねによって、人それぞれに強いクセがついてしまうようだ。この心のクセが行動に反映し、あいつは冷たい奴だとか、楽天家だとか言うのもこの辺を見てのことであろう。エゴイストと呼ばれる人は、色づけも考え方も、自分の満足だけを快とする方向へクセがついている。だから鼻持ちならぬのだ。

三つあるとしたもう一つの心は、何とも名づけようがないので仮に「心の芯」とでも呼んでおきたい。年を重ねるにつれて、この「心の芯」なるものは、万物を存在せしめている本質的実在とか、またそういった働きを秘めているか或いはそういったものに感応できる大切なものではないかと思うようになってきた。しかもこのような心の芯は、ふだんは気づかぬが、誰しもの心の奥深くに眠っているような気がするのだ。

乏しい経験ではあるが、苦悩の果てや、自然の迫真的な存在感に触れたときなどに、心の琴線がピリリとして理屈抜きに身を打ち震わすときがある。こんなときは「考える心」は素通りしており、純直覚的に、霧の彼方におぼろではあるが、「心の芯」なるものをかいま見るような気がしてならない。ひょっとしてこれが宗教家の言う「内なる神」とか「内なる仏」なのかなとふと思う。よい心の風景を見るには、かの三つの心のあり方が大切だとは思うが、とりわけこの「心の芯」が目覚めると風景は一変するのではなかろうか。

さて、よき心の風景を見るために、過去、沢山の先達が見本を示されている。「感じる心」が悪い色づけをしないようにするアプローチ、「考える心」を善なる方向へ鍛えるアプローチ、そして「心の芯」に目覚めさすアプローチである。偉聖が示す道を見ると、究極は「心の芯」に気づき、それを躍動させることにあるようだ。

こう考えてみると、よい心とは「感じる心」と「考える心」が常に善なる方向へ働くクセを持った心と言えよう。最高の心はとなると、「心の芯」の目覚めたいわゆる「悟りの心」ではないだろうか。


「感じる心」に振り回されて終わるのも一生。

「心の芯」に気づかずに終わるのも一生。


心をどうとらえ、育んでいくか、これもひとえに心がけ次第ということか。

----ともあれ、荻野君の主宰するこの文集を通じて、よき心の風景を見る人の輪がさらに拡がるよう願ってやまない。

(平成5年11月11日)


戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp