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挫折の功罪

荻野誠人

「挫折を知らない奴はだめだ。」

どういうわけか最近このような声をよく耳にする。そこでいつのまにかその意見について、あれこれと考えていた。なるほど、挫折を知らない人は、他人の苦しみなどを理解するのは苦手だろう。また、何でも自分の思い通りになると思い込みがちだし、諦めや我慢を知らない人も多いかもしれない。それに対して、挫折の経験者は他人の苦しみや悲しみもよく分かるし、思いやりのある態度もとれるだろう。確かにその意見には説得力がある。

しかし、私自身は挫折の標本のような人間だが、そのような声を聞いて、なぜか首をかしげたくなるときがある。その声のどこかに思い違いや偏見のようなものが隠れているように感じるのである。そこで自分の心の底にあったぼんやりとした疑問をはっきりさせて整理してみると次のようになった。

まず誰でも気づくことだが、ああいった声の裏には、時として、順調な人生を送っている人への嫉妬が隠れているのではないだろうか。声の主は挫折を経験しているという人たちだが、その人たちも本当は挫折など望んではいなかったはずである。たとえば、落ちることを願って試験を受ける者などいるわけがない。しかし自分は挫折してしまった。ところが一方に自分の望んだ挫折のない人生を歩んでいる者がいる。そこで挫折した者としては面白くない。その気持ちがあの声になったのではないか。そしてその声の裏にはさらに、「挫折のつらさを知っている自分は苦労人だ」と自分の体験を高く評価して、自分の存在理由にしようという気持ちもあるのではないだろうか。もちろんすべての人がそうだとは言わないが、そのような気持ちを抱いて「挫折してない奴は・・・」と言っている人は、自分で自分の値打ちを下げているようなものである。

次に、挫折を知らない人の多くは、それなりの努力をしてきているということである。努力もせずに挫折のない人生を歩めるわけがない。中には親の七光や全くの幸運で楽な人生を送ってきた人もいるだろうが、多くの人は困難を克服してきたはずである。挫折した人以上の努力や苦労をしてきた人も少なくないだろう。それなのにその人生や人柄を、挫折をしていないということのみで否定するのははたして公平な見方だろうか。

そして三つめの、最も大事だと思われることは、挫折を知らない人にも長所はあり、知っている人にも短所はあるということである。挫折を知らない人は先ほど書いたような短所をもっているだろう。しかし、挫折を知らないおかげで、明るい、楽観的、素直、のびのびしている、など十分長所になる点も沢山もっているのではないだろうか。

一方、挫折を知っている人がいい人ばかりかというととんでもない。挫折が災いして、暗い、悲観的、ひねくれている、卑屈、ぐちっぽい、恨みの念が強い、など短所になりかねない点をかかえている場合もかなりあるだろう。中には自分の挫折を勲章か何かのように見せびらかす人もいるくらいだ。

挫折は苦労につながるので、挫折をしていない人を苦労知らずのお坊ちゃんと見くびる先入観を私たちはもっているようだが、何も挫折が常によい方向に働くとは限らないのである。だから、実際じっくりつきあってからならともかく、挫折を知っているか、いないかということを知ったくらいで相手にレッテルを張ることはできないはずである。それなのに「挫折を知らない奴は・・・」という声には時として、挫折を知らないというだけで半ばその人を遠ざけ、切り捨てようとする気持ちがひそんでいるような気がするのである。

こういったことは挫折の有無といった問題だけに当てはまるのではない。波瀾万丈の人生だろうと、平凡な人生だろうと、苦しみに満ちた人生だろうと、それをどういかすかは本人の心がけしだいである。仮に二人の人間が全く同じ人生を歩んだとしても、一人が善人となり、一人が悪人となることもありうるわけだ。だから何を経験してきたか、あるいはしていないか、といった人生の表面的な部分のみに注目して、人を判断するのではなく、その人が自分の人生から何を学んでいるかを知ろうとする姿勢が、公正な判断のためには必要なのである。

(1988・3・13)


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