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よい人間関係をつくるために

荻野誠人

新米社会人の友人A君が、カッカしながら、こういうことを話してくれた。A君の会社で、日帰り旅行に出かけることになった。自由参加ということだったので、A君は年配の上司に、行けるかどうか分からないと伝えておいた。ところが翌日掲示板に張り出された通知を見て、A君はびっくりした。そこには同僚を目的地まで乗せていく運転手として自分の名前が出ていたのである。

頭に血がのぼったA君は、すぐさま上司のところに飛んでいって、「もし行くとしてもバイクで行きます」とつっけんどんに言ってしまった。すると上司は、何という勝手な奴だ、と気分を害して、それ以来二人は冷戦状態だという。どこにでもみられそうな会社人間の上司と個人主義の新入社員との衝突である。

私はここでどちらが悪いなどというつもりはない。いいたいのは、両人とも自分のものさしで相手をはかって怒ってばかりいないで、もう少し積極的に相手の考え方を理解しようとしたらどうか、ということである。A君は、自由参加なのに、何の断りもなしに運転手にするとはけしからん、なんで休日まで上司づらして命令するんだ、といきまいていた。確かにA君が怒るのもよく分かる。だが、聞いてみると、その旅行には毎回ほぼ全員が参加するらしい。上司の方は、自由参加はたてまえで、会社の行事に社員が参加するのは当然であり、休日だろうと部下は部下、と考えていたのだろう。上司には上司なりの理屈があって通知を出したのではなかろうか。

だからA君はカッとなってたんかをきるかわりに、話し合って何とか上司の考え方を理解しようとすればよかったのだろう。そうすれば、運転手役も取り消してくれたかもしれない。そして上司の方も、A君の反抗的なことばに腹を立てるだけではなく、その原因をさぐろうとしていれば、部下が自分とは違う考え方の持ち主であることが分かったかもしれない。そうすれば、お互いに自分の考え方に基づいて動いているだけで、別に悪意をもっているわけではないことが明らかになって、妥協はできないまでも、やみくもに敵意をぶつけ合うようなことにはならなかっただろう。

さて、次の例は二つの世代ではなく、二つの文化の衝突である。ある日本人男性とアメリカ人女性の夫婦が離婚した。私はこの件を詳しく知らないが、女性に言わせると、その原因は男性の愛情表現不足のようである。断っておくが、愛情不足なのではない。つまり「アイ・ラブ・ユー」などと全然言ってくれず、誕生日を忘れたりしたので、こんな冷たい男はもうごめんだ、と思ったのである。一方男性の方は、一家の大黒柱としての責任を立派に果たしてきたのに、「その程度」のことで愛想づかしをされるとは心外だと怒っているらしい。日本人男性とアメリカ人女性のカップルが同じような理由でこわれてしまうのは珍しくないようである。

この場合もお互いを理解しようという姿勢が十分ではなかったようである。日本では相手の気持ちを察することが尊ばれるので、自分の気持ちをことばではっきり表現することは比較的少ない。だからたとえ夫婦であってもそうあからさまに愛情を表現することはない。だが、それは決して愛情のなさを意味しはしない。それに対しアメリカでは、自分の気持ちをはっきり表現することが尊ばれ、人の気持ちを察する習慣は余りないようだ。だから愛情をことばで表さないのは愛情のない証拠と受け取られ、それがきっかけで離婚となっても当たり前なのだという。

考えてみれば、日本人同士が結婚してもお互いが理解し合うまでは山あり谷ありである。それが、これほど違った文化を背景にもつ二人が結婚したのだから、最初からうまくいくはずがない。この二人はまず相手の文化をよく勉強する必要があったのだろう。そして相手の言動に不満や疑問を抱いたときは、それが抜き差しならぬ嫌悪感や敵意になってしまう前に、率直に話し合って相手を理解しようとするべきだったのだろう。そうすれば、男性が急に大げさな愛情表現をするようになったり、女性が相手の気持ちを察するようになったりすることは無理としても、お互いが自分の慣習に基づいて行動していることや、決して愛情が冷めたわけではないことが分かって、離婚という悲しい結果を招くことはなかったのではないか。二人とも相手を自分のものさしでしかはかれなかったところに離婚の原因があったのだろう。

異世代、異文化の人同士が上手に交流するためには、相手をよく理解しようという積極的な姿勢が不可欠といえよう。たとえ相手の言動の中に自分の理解できないものがあっても、それを頭から敵視したり、軽蔑したりするのは禁物だ。世界中には自分などの思いもよらない考え方で行動する人がいくらでもいるのである。そして、もちろんこの姿勢は交流する双方に必要である。片方だけが相手を理解しようとするのでは、その人の負担がたいへん重くなり、やがてはたえられなくなるからである。

だが、考えてみると、この姿勢は何も異世代、異文化間の交流にのみ必要なのではない。異世代、異文化の人というのは、自分とは違った考え方の持ち主であるが、たとえ同世代、同文化の人であろうとも、自分と全く同じ考え方の持ち主はまずいない。他人はすべて自分とは違っているのだ。ただ異世代、異文化の人は自分との違いがより大きいというだけのことである。ということは、相手をよく理解しようという積極的な姿勢は、あらゆるよい人間関係をつくるために必要だということになる。

(1986・10・11)


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