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個性よりも大切なもの

荻野誠人

個性尊重、個性をいかす、個性を伸ばす授業・・・と教育関係者の間ではこのところ 「個性」の花盛りである。

しかし、一体何が個性なのだろうか。その点をつきつめないと、かつての自由のはきちがえのような失敗を繰り返すのではないだろうか。当時自由は自分勝手と解釈され、そのおかげで義務を果たしもせずに、権利ばかり主張する風潮が生まれてしまった。その後遺症は現在でも残っている。それと同じようなことが、「個性」という大義名分のもとで起こる危険がある。

たとえば、A君は勉強は嫌いで苦手だが、絵は得意だとしよう。このA君に勉強を無理強いせず、絵の才能を伸ばしてやるのは個性の尊重にあたるだろう。またB君は気が小さいが、きちょうめんでよく気のつく性格だとしよう。B君のこの性格が他の人に役立つように、つまり長所になるように助言をしたり、場を与えてやったりするのも個性の尊重にあたるだろう。

ではC君は人に迷惑をかけても平気で、自分が楽しければそれでいいという性格だとしよう。もしこの性格を「C君の個性だから」と放っておくならば、それは個性の尊重だろうか。もしそうだとすれば、「個性の尊重」というものに何らかの価値があるのだろうか。あえて極端なケースをあげてみたが、実際にそういう生徒を放置する教師はいるのである。

人は易きに流れるという。かつて自由が「自分勝手」と解釈されたのも、一つにはその方が「義務を果たす」などといっためんどうなことを教えるよりも、教師にとって楽だったからではないか。「個性」の場合も、それが何であるかをはっきりさせなければ、「勝手にやれ」「君には君の生き方しかできない」とすべて生徒まかせにしてしまう傾向が必ず出る。その方が、許される個性とそうでない個性の間に一線を画する指導よりも楽だからである。価値観の多様化した現代では一層そうなる可能性が強い。

しかし、いくら多様化した世の中だといっても、社会の一員となるためには、すべての人がどうしても身につけておかなければならぬ常識というものがあるはずだ。たとえば、他人に迷惑をかけない、弱者をいたわる、ということなどはその最も基本的なものである。こういったことをしっかりと教えもしないで個性尊重ばかりを声高に叫べば、個性を自分勝手と思い込んだ若者が続々と生まれてしまうのではないだろうか。

個性とはあくまで、常識というすべての人がもつべき人格の基礎の上にしか存在しえない。それに反するものはたとえ個性であっても認めることはできないのである。個性などは基礎の部分に比べれば大して重要なものではない。多くの人が個性こそ人間の最も大切なものと考えているようだが、そのようなものがなくても常識さえ身につけていれば、その人は立派な人なのである。「自分に忠実に生きる」という生き方を高く評価する人もいるが、それを許されるのは基礎のできた人だけであろう。基礎のない人にそのような生き方をされればどうなるかは明らかである。

個性尊重をうたうのは結構だが、それを実のあるものにするためには、個性の基礎が何であり、それをどう教えるのか、ということをまず明確にしてそれを実行していかねばならないのである。

(1988・5・5)


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