戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

私が悩まなくなったわけ

荻野誠人

私の旧友にKさんという男性がいる。私より二つ年上で、青春時代をある信仰の場で一緒に過ごした仲である。スポーツマンのKさんは明るく、おおらかで、愉快な人だった。別にハンサムでも、秀才でもなかったが、他人のために喜んで一肌脱ぐ、温かい人だった。私もずいぶんと世話になったものである。少々下品なところもあったが、大変な人気者で、だれとでもすぐに仲良くなった。しかも、その態度はごく自然で、努力をしている様子は少しも感じられなかった。心の底から温かさがわいてくるような人で、私はその点に強くひきつけられていた。

もう一人、同じ団体にNさんという一つ年下の女性がいた。そう目立つ人ではなかったが、自分の意見をはっきりともち、いかにも信仰をしている人らしく、清らかな心の持ち主だった。Nさんもまた皆から好かれていた。あるとき男女関係のことで話をしていて、私が「そういうことになれば、君だって嫉妬するでしょ」とNさんに聞いた。すると「ああ、わたし、そういうものないから」という答が返ってきて、私は内心びっくりした。嫉妬しない人間なんているわけがない。正直言って、今でもそのNさんのことばをそのまま信じていいのかどうか迷いがある。しかし、Nさんならそういうことは十分あり得るという気もするのである。そう感じさせるほどの人だった。

当時嫌われ者だった私は何とかもう少し成長して、KさんやNさんのような、人に好かれる人間になろうと悪戦苦闘していた。たとえば「感謝」「謙虚」などという自分に欠けているものを目標に掲げ、それを奉仕などの具体的な行動を通して身につけようとした。他人からの批判、忠告は、腹を立てながらも、何とか受け入れようと努力した。心を向上させるような本もできるだけ読んだ。幸い当時私のまわりには、Kさんたち以外にも目標となるようなすばらしい人がたくさんいて、私を叱咤激励してくれた。この人たちには今でも本当に感謝している。

努力のかいあってか、二、三年のうちには多少人柄もまともになり、ずいぶんと友達も多くなった。しかし、どうしてもKさんのような自然な温かみを身につけることはできなかった。他人に思いやりのある態度がとれるようになったといっても、それはあれこれ考えた上での行為であり、悪意を抑えて行動することや、思わず冷たさや意地の悪さが表に出てしまうことも珍しくなかった。自分の心を見詰めても、豊かな愛情などわいてきそうもなく、まして、Nさんのようなきれいな心をもつことは、論外だった。たとえば、嫉妬の感情をなくすことはまったくできなかった。嫉妬でものを言ったり、行動したりしないように自分を抑える習慣を身につけるのが精一杯だった。私は当時、いつも心のどこかで自分を軽蔑していたようだ。まわりにはどれほど成長したようにみえても、所詮それはにせものだと思っていたのである。

自分の性格を直そうという気持ちをもつ年齢に達するころには、もう性格は固定して直せなくなっている。これはある心理学者の見解だが、根本から直すことができないという意味では、まったく同感である。真面目な人にとっては悲劇的なことだが、しかたがない。親を恨むつもりはないが、Kさん、Nさんのようなごく自然な温かみや純粋さなどは、生まれたときから、ある程度恵まれた環境で、心の美しい両親に上手に育てられなければ、身につかないのかもしれない。私が悪戦苦闘しても性格が根本から変わらなかったのはしかたのないことであった。それは、子供は苦もなく自然な外国語を身につけられるのに、大人になると、どんなに努力しても発音一つまともにならないのによく似ている。

Kさんたちに会わなくなってから五年以上たつ。今ではもうあの人たちのようになれないことをさほど嘆いてはいない。苦笑いすることも少なくはないが、普段は淡々としているようになった。

その理由は色々あげられるが、一つには、それは不可能だと悟ったからである。私が自然な温かみや清らかな心を身につける可能性は幼いころにすでに失われてしまった。なくなったものにいつまでもこだわるのは自分で自分の人生を暗くするような愚かなことである。

また、私は、自分でもそうなろうと努力していたのだが、ずいぶんとものごとを明るく考えるようになった。ある可能性が失われたといっても、私にはまだ多くの可能性が残っている。自分の中に残ったものに感謝し、満足して、それを十分いかせば、それでいい。心があまり温かくないのは欠点だとしても、それに悩むのは、善悪を知り、善を目指そうとするからで、これは悪いことではない。それに、Kさんのようにはなれなかったが、私なりの進歩があったことはまちがいない。悪意にもとづくことばやおこないはずっと少なくなったし、すばらしい友人を何人ももつようになった。目標に到達しなかったと悲しむばかりで、この進歩を喜ばないのは何とももったいないことである。

そして、大切なのは、他人に何をするかであり、その行為が自然か努力の結果か、などといったことではないと思うようにもなった。たとえば、急に気分の悪くなった通りすがりの人の世話をする場合、相手にはこちらの親切が自然かそうでないかなど、どうでもいいことであり、そのようなことは知りたいとも思わないだろう。要するに、ことばとおこないが人のためになるかどうかということを中心に考えていればよく、自分の心の中のことでくよくよ悩む必要はないのである。私が悩んだのは自分の向上に執着していたからであった。

そのことに気づけば、他人と比較することの愚かさにも自然に思い至った。他人のよい点を学ぼうとするのならともかく、他人と比べてあのように嘆いたのは、自分のレベルにこだわり、心をみがく本来の目的を見失っていたからだった。別に人格形成の競争をしているのではないのだから、私はよそ見などせず、自分なりに努力していればそれでよいのである。

さて、私は同じような悩みをもつ人の役に立てば、と思ってこの文章を書き始めたが、ひょっとすると、私の悩みは少々特殊で、多くの人にはピンとこなかったかもしれない。だが、もし、ここまで読んで、自分の悩みを解決するヒントを見つけた、あるいは、多少なりとも心が晴れたという人がいたならば、同じ悩んだ人間としてこれほどうれしいことはないのである。

(1988・11・5)


戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp