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奉仕とボランティア

荻野誠人

 「ボランティア」が盛んだそうである。参加者も増え、活動も多彩になり、企業も協力的だという。結構なことだ。ただ、一昔前の「奉仕」とはずいぶん性質が違ってきているらしい。たとえば、自分探しをする、友達を見つける、というのがその目的で、自分の気に入った活動に気軽に参加して楽しくやるといった特徴があるそうだ。自分探しというのは何だかよく分からないが、自分の存在価値を感じる活動を探したり、活動を通じて自分がどんな人間なのか確認したりすることだろうか。昔の奉仕は、大げさに言えば、崇高な活動だった。自己犠牲が基本にあった。参加者も、困っている人たちのために最後までやり抜くぞ、などと相当の覚悟をして活動に入ったような記憶がある。今、そういう仰々しいのははやらないのだそうだ。

 多くの人が気軽に参加してボランティアが盛んになったのはいいことだと思う。しかし、そのおかげで昔の奉仕がすたれて、奉仕の精神をもった人がいなくなってしまったとしたら、これは問題である。

 ボランティアが、もし自分の為に楽しくやるものだとすれば、自分本位の活動である。しかし、助けを待っている人たちがわざわざ活動する側の好みに合わせて困ってくれるわけがない。本当に人を助けようとすれば、活動する側が相手に合わせなければならない。自分本位のボランティアだけでは見捨てられる人が出てしまうのだ。

 たとえば、これは新聞で読んだアメリカの話だが、美術館のボランティア・ガイドなどは大変人気があるが、ホームレスの支援、赤十字の手伝い、落ちこぼれ学生の家庭教師などといった活動には人が集まらないそうだ。これは活動する側が自分の都合や好みを優先した結果だろう。だが、本当に助けを必要とするのは美術館のお客さんではなく、ホームレスたちの方ではないか。

 やはり、自分の好みは二の次にして、義務感や使命感で他人を助けるような人もいなくてはならないのだ。自分探しの楽しいボランティアも存在意義があるし、これからも盛んになればいいとは思う。しかし、古典的な奉仕もまた必要なのだ。ボランティアを勧める人の中には、皆を気軽に参加させようとして、奉仕を時代遅れだとけなす人もいるが、それだけはやめてもらえないだろうか。自分探しや友達作りだけが盛んになって、その陰で助けが一番必要な人たちが忘れられている、といった皮肉な状況を産みだしかねないからだ。これだけボランティアが盛んになった今はむしろ奉仕の必要性や尊さを声を大にして訴えなければならない時期なのではないだろうか。

(1998・9・27)


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