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共生という理想

清水克敏

 経済や政治や環境問題における最近の日本の混迷は、理想というものが希薄になっているところから生じているのではないか。

 理想とは、個人レベルにもあるが国家や世界のレベルにもある。そして、この二つのレベルは実は連動しているものだと、私は考えている。個人を木に、国家や世界を森にたとえると理解しやすいだろう。木の繁栄なくして森の繁栄はなく、逆もしかりであろう。

 今、個々の日本人の目指すものは何んであろうか。お金持ちになる、豪邸に住む、人の上に立つ、人のためになることをする、自然の中で暮らす、趣味に生きる、目指すものはない、等々。さまざまなものが考えられる。

 一方、今、日本という国家の目指す方向は何んであろうか。政財界人の中で、これに明確に答えられる人がいるのだろうか。しっかりと日本国のあるべき姿について真剣に考え、それを国民に語りかけている人はいるのだろうか。また、国民も、そうした理想を掲げた人を政治家として選んでいるのだろうか。

 “共生”という言葉が最近よく使われるようになってきた。自分の考え方をはっきり持った上で、相手を十分理解し、お互いに幸せになることを求めて、共に生きていくことを“共生”というなら、今、私は“共生”という理想を個人レベルにも国家のレベルにも提唱したい。

 共生とは、自分を認め相手も認めると言う点において、価値観の多様性ともつながるものである。私自身が共生と言う理想を受け入れた今、国と個人を同レベルで扱うこの考え(非常に個人的な価値観)を、他人に押しつける気持ちは毛頭ない。ただ、多くの人が共鳴してくれることを期待するのみである。

 なお、私は個人として、こんな理想を抱いている。まず始めに、物事に対する吸収力と包容力を持つ人になること。次に、他者に対する理解力や包容力を発揮することで、押しつけがましくないように競争や無理解に基づく争いを、静かに調整出来る人になること。そして、その二つを達成する努力をする過程から、自分自身に自信を持ち自分らしさを実感できる人になること。

 これを国家の理想と重ねれば、
  ・共生を旨とする理解と包容力のあるたくましい国家
  ・共生を世界に向かって押し広げていける国際調停役カウンセリング国家
  ・そして、この理想を掲げて、実行していくことに国民が誇りを持っている国家

 これが、国際社会において、今、方向を見失っている日本国が目指す理想ではないかと私は提案したい。

 日本は異国の文化や文明に対する吸収力に富んでいる。吸収力や理解力、そしてその改善能力すら持った、世界にも稀と言えるほどの、すばらしい潜在能力を持った国民であり国家であると思っている。それを、いまこそ生かしていくことが出来ないだろうか。国民一人一人は、生活の場で、日本国家は世界で。

 日本人は、個人の幸せが、競争にうち勝つことによって、他人より優位に立つことによって得られると錯覚しているのではないかと私には思われてならない。競争には限りがない。物質的な満足がそこそこ得られた今、お互いの幸せを願って“共生”の社会を築くことが、個人に幸せを持たらすと私は思う。人間の本来の姿がそこにあると思う。

 


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