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他人と自分の差

荻野誠人

嫉妬、虚栄、優越感、劣等感----こういったものがなくなれば、人の品性はよほど向上し、争いも目に見えて少なくなるだろう。これらの悪徳は一つの共通点をもっている。それは他人と自分の差にこだわるところから生じるということである。

私たちは実によく他人と自分の差にこだわる。容姿、学歴、収入、地位などさまざまな点で他人と自分を比べては一喜一憂している。だが、こだわりからは何ら建設的なものは生まれてこない。ただ自分の心を醜くし、人間関係をこわすだけである。もし「こだわる」べきことがあるとすれば、それは昨日の自分と今日の自分の差、そして今日の自分と明日の自分の差であろう。自分が進歩しているかどうか、そのための努力をしているかどうか、といったことに比べれば、他人と自分の差など無意味である。

このように百害あって一利なしのこだわりは一刻も早く私たちの心の中から追い出す必要がある。ところが、それを最も強力にやってもらいたい教育の現場では、なぜか結果的には他人と自分の差にこだわることを認めるようなまねをしてしまっている。あるいはそのような結果を招いていることにすら気づいていないのかもしれない。

その具体的な表れが、平等主義の採用である。平等主義の反対語としてよく使われるのが能力主義であるが、教育の世界で両者の違いがはっきりと表れるのはクラス分けにおいてであろう。勉強のできる子もできない子も一緒のクラスにするのが平等主義、それに対して、できる子とできない子のクラスをそれぞれつくるのが能力主義である。だからクラス分けをみる限りでは、日本の学校教育の大部分は平等主義に基づいているといってよい。

能力主義の方が、より個人の能力にあった授業ができるので、すべての生徒の能力が平等主義の場合よりも伸びることは明らかである。にもかかわらず能力別クラスが支持されない理由の一つは、下のクラスになった子が傷ついたり、馬鹿にされたりしてかわいそうだ、ということである。確かにその理由には説得力がある。子供の顔がくもるのを見たがる親や教師はまずいない。そして、現実に「どうせオレは馬鹿だよ」とふてくされて、すさんだ学校生活を送っている学生の多いことを考えると、そういう事態をますます悪くしそうな能力別クラスなどはやめておこうか、と二の足を踏みたくもなる。

しかし、考えてみればすぐに分かることだが、下のクラスになったからといって、いじけたり、上のクラスをねたんだり、上のクラスになったからといって、いばったり、下のクラスを見下したりすること自体が間違いなのである。そのような間違った反応の起こるのを恐れて能力主義を否定するのは、理にかなった行為とはいいがたい。そのような反応の起こらないように、普段から他人と自分の差にこだわることの愚かさを教え、また、現実に起こってしまったときは、できない子を励まし、できる子をたしなめるのが教育の役目であろう。

また、いくら目をそむけようとしても、個人個人の能力の差は厳然として存在する。社会へ出れば、いやおうなしにその厳しい現実に直面することになる。いや、すでに学生時代からほとんどの子供が受験戦争などを通してそれを感じとっている。ならば、学生時代のうちにその現実を認めた上で、それにこだわらない心を育てるべきではなかろうか。それを避けて、学校の中だけでしか通用しない平等主義教育を行うことは、いわば子供を温室で育てるようなものである。よかれと思って平等主義を取り入れている人もいるだろうが、その現実離れした教育が子供にはかえってあだになってしまうのである。私は何も学校が能力主義を今すぐ取り入れるべきだと主張したいのではない。ただ能力主義を否定する姿勢の中に、人間本来の成長を妨げるものを感じるので、それを問題にしているのである。運動会のかけっこで、差別につながるからという理由で順位をつけない小学校もあるということだが、まさに過保護の極みといえる。

さて、先ほど「教育の現場では」という表現を用いたが、そこにはもちろん家庭も含まれる。各家庭でどのような教育が行われているかは、学校教育ほどは分からないが、冒頭のような悪徳がはびこるのは、やはり家庭での教育も十分とはいえないからであろう。そもそも親が他人と自分の差にこだわっていれば、こだわりのない子供の育つはずがない。たとえば、親がしょっちゅうその子を兄弟やよその子と比べて、ほめたりけなしたりしていれば、その子は自然に他人よりも上か下かということばかり気にするようになる。そして人よりも上であることのみに価値や喜びを見出すだろう。このような子が能力別クラスに入れば、上の子に嫉妬し、下の子を軽蔑するのは明らかである。もしこのような子ばかりが入学してくるのなら、教師が能力別クラスに反対するのも分からないではない。

それとは逆に、「人生は自分との戦いだ」という信条をもった親に育てられれば、その子はいつの間にかその信条を身につけるはずだ。その子は自分の学力や体力などが他人と比べて勝っていようが、劣っていようが、淡々としているだろう。そのような子がそろえば、能力別クラスなどはたやすく編成できるのである。

冒頭の悪徳をなくすためには、やはり人の性格をつくる教育の現場が変わらなければならない。個人個人の差があることを勇気をもって認めた上で、その差にこだわらない心を育てようとしない限り、嫉妬や虚栄は一向になくならないだろう。

(1987・9・20、1989・1・8 改稿)


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