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心の幼児教育

荻野誠人

二、三歳くらいまでの幼児がたいへん大きな可能性を秘めていることは、最近ではずいぶんと知られるようになった。たとえば大人が汗水流しても英語一つ満足に身につけられないのに、幼児は適切な指導さえ受ければ、三か国語でも四か国語でもぺらぺらになる。音楽やスポーツの天才をつくることも夢ではない。だが残念なことに、この可能性は成長するにつれて小さくなっていき、ついにはすっかりなくなってしまうのである。

同じことは心についてもいえるのではないかと思う。つまり人はだれしも生まれたときは高い人格をもつ可能性を秘めている。しかし人格を育てる環境に恵まれなければ、その可能性は少しずつ失われていき、成人するころには俗悪な性格がすっかり定着してしまうのである。そうなってから人格を向上させようとしても、多くの場合は不可能である。可能な場合でも、幼いころに比べれば何倍もの困難が伴うはずだ。たとえどんなに優れた教えや思想でも、いったん固まってしまった人格を変えることは難しい。

だから幼児期の人格教育は本人にとって決定的なものだということになる。といっても、それでは親が全力を傾けて生まれた時から教育すれば、すべての子が聖人君子になるかといえば、残念ながらそれは無理な話である。なぜならば、子は親の後ろ姿を見て育つからだ。親が聖人でない場合は、その子が聖人になるのはほとんど絶望的といわざるをえない。お経や聖書を持ち出してきて説教してもまずむだであろう。理屈や字が分かるようになる前に、子は親のありのままの姿を貪欲に吸収して、人格の基礎にしてしまうからだ。人格教育といっても、幼児に対しては、親は自分の日常の姿を見せること以外、何も特別なことはできないのである。だから、たとえば愛情の薄い人は、親になってもその心の冷たさが知らず知らずのうちに赤ん坊の世話にも表れてしまう。すると、たとえ親が心の温かい子に育ってほしいと願っていても、その子は親の冷たい心を受けついでしまうのである。恐ろしいことといわねばならない。

しかし、いくら親相応の子供しか育たないといっても、まったく同じレベルまでしか育たないのであれば、人類の徳性は永遠に向上しないことになってしまう。はたしてそうなのだろうか。もし親が心の教育について何の意識も熱意ももっていなければ、実際そういうことになるだろう。そういう家庭も多いと思う。しかし意識や熱意がありさえすれば、次のように、わずかではあっても着実に向上すると私は考えている。

かりに人格を数字で表せるとして、ある親の人格が百であるとしよう。だがわが子のためにと努力すれば、その人格は百五くらいにはなるだろう。すでに大きく伸びる可能性は失われていても、その程度の向上の余地は残っているはずである。現に、努力したときとしないときとでは、善行の質も量もかなり違ってくることは、多くの人が経験しているだろう。努力したときは多少なりとも心は清らかになり、向上しているのである。その向上した心のレベルを日常生活でできるだけ維持するように心がけるのである。すると子供はその親のありさまを見て、百五のレベルを自然に身につけることになる。親が努力しなければ到達できなかった百五のレベルをその子は自然に維持できる人間になるのである。するとその子が親になったとき、自分の人格を百十に向上させて教育にあたり、自分の子に百十のレベルを身につけさせることができる。これを繰り返せば、世代ごとに徐々に人格は向上するはずである。

もちろん百五のレベルは偽善であっては意味がない。偽善は必ずどこかでボロを出すものだ。すると子供はそれを吸収して偽善者に育ってしまう。また、親が無理な努力をするのもよくないだろう。子供がどこかしら不自然な人間になってしまう恐れがあるからだ。やはり百五は真面目で自然な努力の結果でなければならないだろう。

社会を変えるのが私たち一代でできることではないように、人格づくりも、少なくとも普通の人間である私たちにとっては、何代もかかる大仕事のようである。あせってもしかたがないし、投げ出せるようなことでもない。自分相応のペースで着実に進めていきたいものである。

(1987・10・5)


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