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流した涙を忘れない

ルゥ・テイ・ニュ・ハー

 私は、三歳下の妹と二人だけでベトナムから日本にやってきました。一九八九年、今から七年前、十九歳の時でした。

 父は、戦争中、私が二歳の時、すでに亡くなっていて、私たちの将来を案じた母が、親戚のいるアメリカへ行くよう船に乗せてくれました。ところが、その船が難破し、助けてくれた船が送ってくれたのが日本だったのです。二年間、千葉県小湊の難民キャンプで、アメリカへ行くチャンスを待って、不安な日を過ごしましが、 とうとうそれは、実現しませんでした。

 結局、日本で暮らすことになり、品川の国際救援センターで四カ月、日本語を習いました。それから、就職をし、夜間中学の三年に編入して一年間勉強した後、白鴎高校定時制に入学したのです。

 やっと聞き取れるようになったばかりの日本語の力で、高校の勉強についていけるかどうか、そればかりが心配でした。入学後まもなく、その心配が現実になりました。

 忘れもしません。最初の国語の時間、古文の授業でした。古文という言葉も初耳だし、先生から配られたプリントを見ても全く分かりません。今の日本語も満足に読んだり書いたりできないのに、かなづかいも違う、昔の言葉など、どんなに説明を聞いても理解できず、完全なパニック状態でした。

 その日、学校が終わってまっすぐ、中学校へ行きました。先生方に会って、私のほうからまだ何にも言わないのに、心配そうに「何かあったのか」と聞かれました。聞かれたとたん、涙があふれて何も言えず、カバンからプリントを出して渡しました。その時はもう涙が止まらなくなり、子供のように泣きじゃくり、せっかくの先生方の説明も耳に入らないほどでした。

 古文が分からなかったこと以上に、そのことを素直に先生に言って質問できなかった自分が悔しく情けなかったのです。

 とてもついていけない、いっそのこと学校をやめようかと何度も思いました。でも、そんなことをしたら、高校進学を控えている妹にまで自信をなくさせることになる、母代わりの私がしっかりしなくては、と自分を励まし、歯を食いしばって頑張りました。

 幸い、翌年からは、古文の時間に、もう一人のベトナム人の同級生と二人だけで別の先生から特別に日本語を教えてもらえるようになりました。他の教科の先生方も黒板に書いた漢字にふりがなを付けてくださったり、友だちからも、写したノートの読み方を教えてもらったり、ずいぶん親切にしてもらいました。先生方やクラスの皆とも話せるようになり、勉強も楽しくなりました。テストで満足できる成績がとれて先生からほめられた時など嬉しくて飛び上がりそうになったほどです。

 白鴎高校には沢山の行事があり、スキー教室や遠足など、皆といっぱいの思い出ができました。特に東京以外の日本を楽しく旅した修学旅行の体験は私の宝物です。

 でも、辛かったこともあります。文化祭などで友達のお母さんや家族の人が参加しているのを見ると、ベトナムに残っている別れた母のことが思い出され、寂しくてたまりませんでした。何度泣いたか知れません。離れて一層強く、母への恋しさ、また祖国への懐かしさを感じます。

 卒業を間近に控え、今は、保育専門学校を目指しています。学費に当てるため、母に会いにベトナムへ帰ることも我慢して必死に預金もしました。

 日本に来たのは偶然のことでしたが、この日本でいろんなことを体験し、自分が成長できたことを嬉しく思っています。日本で自由と平和の本当の値打ちもつくづく分かるようになりました。保母となって、ベトナムで働くこと、日本で学んだことを祖国で生かすこと、それが、今の私の夢です。

 悔しくて、また寂しくてよく一人で泣きました。嬉しくても泣きました。その流した涙を一度も忘れたことがありません。これまでに流した沢山の涙の中から、私の夢が花開くのだと固く信じています。

 未熟な私の日本語の発表を最後まで聞いてくださって、ありがとうございます。


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