べっ甲の櫛家治綾子 長崎の平和祈念像の前に、さっきからじっとたたずんでいる老女がいた。 半ば眼を閉じて、彫像を見上げる顔に、粉雪が舞い散っては消えていく。胸の上でしっかり両手を握り合わせて、何か祈りを捧げているかのようであった。 やがて、肩にかけたショールを頭からすっぽりかぶり、ゆっくりとした足どりで、平和公園を離れて、市街電車の走る通りに出た。 そこでちょっと立ちどまり、あちこち見渡し、手さげ袋から地図を出して広げる。喜寿を迎えたその女性の名は三枝といった。年よりうんと若く見えるが老眼には勝てない。眼鏡をかけ、ルーペで細かな場所の名前をじっと見つめている。 「どこへ行きたかとですか。おせつけまっせ。」 気のよさそうな、エプロン掛けのおばさんが近づいてきて、声をかけた。 「三菱造船所が見えるとこまで行ってみたいと思ってんですが・・・。」 「そんげんなら、この電車に乗るとよかとですよ。」 三枝は、同じような年恰好のその人に礼を言い、昔懐かしい石畳の上を走る電車に乗り込んだ。ガタゴト進んでいく電車の動きに身をまかせながら、移りゆく景色にじっと眼をこらしている。 と、出島湾の向こうに、ぼんやりと、三菱造船所が見える。 着物の襟にちょっと手をかけ、裾の乱れを整えて、電車を降りたった。 造船所の鉄塔が、なだらかな山の稜線の端に、どっしり姿を現している。まるで墨絵のようだ。 足早に歩く三枝は、灰色がかった空気の中に吸い込まれるように、湾につき出た突堤の先端まで行き、ブロックに腰をおろした。 テトラポットに激しく打ちつける波がしぶきをあげ、鉛色の海に雪片が混じり合う。三枝のやせた背中が一層小さくなり、こきざみにふるえていた。 (よっちゃん、姉さんはやっとあなたが働いていたという造船所を見に来ることができたわ。) 頬につたう涙をぬぐおうともせず、思い出をたぐり寄せるように、幼い日のよっちゃんに語りかけた。 (ずいぶん長い歳月が経ってしまったけれど、とうとうここまでこられたわ・・・。あなたに会いに・・・。寂しかったでしょうね。辛かったでしょう。ひとりぽっちで・・・。あなたはお国のために働いて、死んでいったのね。) 百年続いた家具商に嫁ぎ、舅や姑に仕え、大勢の丁稚奉公人や女中たちに采配をふるう毎日で、三枝には、身内のために涙を流したり、見舞ったり出来る自由のない歳月が、長く続いていたのだった。 いつの間にか、雪は止んでいたが、日が暮れて、気温がぐっと下がっている。山の麓でぽつぽつと灯がともり始めた。 三枝はちょっと身をこごめたが、立ち去る様子もない。 (よっちゃん、父さんが死に、母さんが再婚して、親戚に預けられた私たちは、小さくなって過ごしてきたけれど、よっちゃん、あなた、少しは幸せだったかしら・・・。) 昭和十九年十二月、よっちゃんが、京都大学の研究所から長崎の軍需工場へと、単身赴任していった日も、大阪はしきりに雪が降っていた。 「姉さん、いつか僕の造った船に乗せてあげるね。長い間苦労をかけてきたけれど、ちょっとの辛抱だ。清子も達者でいてくれ、銃後の守りを頼んだぞ。」 新妻から手渡されたリュックサックを背負い、国から支給された国防色の国民服に身をつつんだよっちゃんは、二人に笑顔を見せ、靴音高く、出かけていった。 東西に長く続く道のかなたに消えていくよっちゃんの後姿に、姉と妻は、いつまでも日の丸の小旗を振り続けた。 それが永遠の別れであった。
(長崎に原爆が投下された日にね、あなたの子供が生まれたのよ。とっても色の白い子でね、光子って名づけられた。その二日あとに被爆したあなたは天国に旅立ってしまったのね。 翌日、冬の空はからりと晴れ上がっていた。三枝は時の流れを惜しむかのように、長崎の街をたずね歩いた。 爆心地に近い所にそびえたつ、赤レンガにマリアの像やイエス・キリストの使徒たちの像が配された浦上の天主堂、朝日を受けて、薄い青色に見えたり、ほんのり赤味をおびて見えたりする石畳のオランダ坂、思案橋の欄干だけが残っている繁華街。 三枝は、ふと目についた老舗の前で足を止めて、ガラス戸越しに中を覗いた。べっ甲細工が品よく並べられている。うなじの美しい和服姿の女主人が、三枝を招き入れた。 創業四百年を誇るその店には、非売品の古い物も展示されている。 「このブローチのデザインなんかは新しくてお値段もお手ごろでございますよ。」 女主人は陳列ケースの上に、三枝に似合いそうなものを、二、三個並べて見せた。 「どれも、なかなかモダンですね。でも大正頃にはやった櫛などあれば見せてくださいな。」 「少々お待ち下さいませ。」 女主人はそう言葉を残して、のれんの向こうに入っていった。 (よっちゃん、あなたなら、姉さんにどんな櫛を選んでくれたかしらね。) いつも人の良さそうな笑みを浮かべていたよっちゃんの顔を思い出しながら、三枝はひとりごとをいった。女主人は、黒いビロードを敷いた台の上に櫛をのせて、大事そうにささげ持って出てきた。三枝はそれらの櫛に視線を落とし、暫く無言でいた。 ----姉さん、僕の学資のために消えた指輪やかんざし、生活に少しゆとりができたら、きっとお送りします。---- そんな手紙をよっちゃんから受けとったことがあったのを三枝は思い出していた。 (姉さん、少しじみだけれど、姉さんには、これが一番似合うよ。) そういってくれそうな櫛の一つを求めて三枝は薄くなった髪にさした。 (よっちゃん、あなたは、姉さんのお嫁入り道具が、一つ二つと減っていくことや、そのことで、お姑さんといさかいがあることなど、とても気にしていたけれど、姉さんは満足していたのよ。まだまだあなたにしてあげられることがあるってね。この次、長崎へいつこられるか分からないけれど、姉さんの仕事、これで全部片づいたのかしらね・・・。) 三枝は、よっちゃんに問いかけるように、ちょっと小首をかしげてから、高く晴れ渡った冬の空を見上げた。 |