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ミルクと紅茶

ロジャー・マクドナルド

人々の間に広く行き渡り、もう当たり前となっているような小さな事柄やちょっとした作法を見れば、異なる文化について多くのことが分かるように思う。歴史や政治の大がかりな分析とはちがって、日々の生活のしきたりを見ると、ごく平凡なことからでも、人々のあり方の大切な側面がはっきりしてくるのである。このような見方で、ささいなことではあるが、とりわけ私の目をひいた日常の作法を取り上げてみたい。


その作法というのは、紅茶の飲み方である。ここでは、英国式と日本で目にした飲み方とのちがいに話を限ろう。特に、この二つの文化がそれぞれミルクと紅茶を扱う順序に注目したい。それは中身のちがいだけではなく、形式の相違にも目を向けることであり、そこから両文化特有のものの考え方や感じ方が明らかになるように思われる。まず、英国式の作法について述べよう。

英国では、紅茶はたいていミルクを入れて飲む。英国人は普通、レモンティーやストレートティーよりも、ミルクティーを飲むのである。そして、ここが大切な点なのだが、英国では、まずミルクがカップに注がれ、そのあとで紅茶が注がれる。なぜそうでなければならないのか、私には分からないが、ただそれが長い間行われてきたやり方のようである。

日本では、まったくその逆である。紅茶を飲むときは、まず紅茶をカップに注ぎ、そのあとでミルクを入れる。どうしてこのようなちがいがあるのだろうか。

こうした問いに確実で決定的な答えが出せるものだとは思わないが、ただその意味を考えてみよう。紅茶の入れ方のこのようなちがいの奥にある大切な意味は、おそらく東洋の文化と西洋の文化で、美をめぐる価値観や感じ方がまったく異なるということである。

これをもっとくわしく説明しよう。日本の美の一面は、簡素と自然を好むことであるといえるだろう。それは、事物や感覚を直接経験し、それをもとに創造することでものごとをできるだけ自然のままの形でとらえようとする。こうした「わび」「さび」といった日本の美の表現は、さまざまな芸術様式の中に、たとえば俳句の簡潔さから、能や狂言の簡素さ、伝統的な日本建築の自然に近い雰囲気、コム・デ・ギャルソンや山本耀司のような現代ファッションの中にまで見られる。そして、「茶」というまさにこの文章の主題と直結する芸術様式を忘れてはならない。

ヨーロッパやインドの紅茶が日本で飲まれるときの作法は、こうした文化的背景から生まれたものだと思われる。はじめに紅茶を注げば、カップの中の紅茶を眺め、その色合いや濃さ、混じりけのない香りを確かめることができる。飲む人がミルクやレモンで薄めるかどうか決める前に、澄んだ紅茶がそのままで出されるわけである。そこに、日本の茶道のように、「形」と「間」の心が入る。飲む人は、ミルクを注ぐと決めるまで、ほんのわずかの間でもカップの中の紅茶を眺めることになるのである。

しかしながら英国では、紅茶の飲み方のもとに別の考え方がある。それはたぶん、より美味しい一杯をつくり出そうというもっと実用的なものではないだろうか。ミルクを入れておいてから紅茶を注げば、カップの中ではひとりでに二つの液体が一つになり、よく混ざり合ってすぐ口に運べるようになるだろう。澄んだ紅茶は、目にふれずにポットの中にあって、用意されたミルクの上から注がれるとき、わずかに目に入るだけである。

ここには明らかに時間への配慮があるだろう。先にミルクを、次に紅茶を注ぐ方が速くて効率がよいのである。そして、速さと効率のよさを目的とした、さらに別の要素もここにはある。より深く考えれば、おそらく英国式の作法には画一化という傾向があることに気づくだろう。ミルクをはじめに入れておくということは、だれもがミルク入りで飲むものだと決めてかかるということである。まず紅茶をそのままで出して、次にどうするか決めるのは飲む人にまかせる日本のやり方とは異なり、選択の道は限られることになる。だが、この方が効率はいいだろう。


私はこの随筆で、英国と日本の紅茶の飲み方が違う理由のうち目立つものだけを強調し、ほんのうわべを論じたにすぎない。作法はどうあっても紅茶はやはり紅茶であり、それぞれの文化がどのような飲み方を選んでも、私たちは皆同じ飲物を飲んでいるのだということは自覚しておくべきである。

(原文英語。翻訳・水野晴美)


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